ようこそ不死鳥の舞う教室へ 作:Gemini&指示出す人間
放課後の1年Aクラス。夕陽が差し込む教室は、本来ならば生徒たちが足早に立ち去り、閑散としているはずの時間帯である。しかし今日に限っては、教室内は異様な熱気と静寂に包まれていた。
教室の中央、机を寄せ合わせて作られた特設の舞台。その上に置かれているのは、不士鳥リアヴェルが自ら持ち込んだ、黒檀と象牙で設えられた最高級のチェス盤である。
盤を挟んで向かい合うのは、金髪碧眼の美男子であるリアヴェルと、銀髪の小柄な美少女、坂柳有栖。二人の周囲にはAクラスの生徒たちが人垣をつくっていた。誰もが固唾を呑んで、二人の盤上の戦いを見守っている。
「ほう。シシリアン・ディフェンスか。黒番でありながら、主導権を奪いに来る。君の好戦的な性格がよく表れている」
リアヴェルが優雅な手つきで白のナイトを進めると、坂柳は小さく微笑んだ。
「防戦一方では退屈でしょう? 私は攻めるのが好きですから。リアヴェルくんこそ、随分と攻撃的なオープニングを選びましたね。ご自身の絶対的な力を誇示したい、という表れでしょうか」
「事実として絶対的だからね。虚勢を張る必要がないだけさ」
駒が盤を叩く硬質な音が響く。一手一手の間隔が異常なまでに短い。双方ともに、数十手先までを瞬時に読み切り、最適解を叩き出している証拠だった。
しかし、周囲の生徒たちを真に混乱させていたのは、常人離れしたチェスの進行速度だけではなかった。盤上の攻防と並行して行われている、二人の「会話の応酬」である。
「この学校のシステムは、ゲーム理論における『非協力ゲーム』の最たる例だ。各クラスが自己の利益を最大化しようと動けば、結果としてナッシュ均衡に陥り、全体の利益は損なわれる。……君なら、この盤面をどう動かす?」
リアヴェルがビショップを滑らせながら問うと、坂柳は即座にポーンを突き出しながら応じた。
「古典的な経済学の観点ですね。ですが、人間は常に合理的な選択をするとは限りません。行動経済学における『プロスペクト理論』が示す通り、人間は利益を得る場面ではリスクを回避し、損失を被る場面ではリスクを好む傾向があります。この学校がポイントという目先の『損失』と『報酬』をちらつかせている以上、他者を出し抜こうとする不合理なノイズは必ず発生します」
「なるほど。
「簡単です。ノイズの発生源を心理的に誘導し、自滅させるだけです。マキャヴェリズム的なアプローチを用いるまでもなく、人間の認知バイアスを突けば、彼らは勝手に私の思い描いた通りに動いてくれますから」
二人の会話は、高校一年生のものとは到底思えない高次元な領域へと突入していた。
経済学、心理学、ゲーム理論。専門用語と高度な論理的推論が、チェスの駒の動きと連動するように次々と飛び交う。
見物していたクラスメイトたちは、完全に置いてけぼりを食らっていた。
「……おい、今のどういう意味だ?」
「さあ……とりあえず、すごいことだけは分かる」
葛城康平でさえ腕を組みながら険しい表情で盤面と二人の顔を交互に視ることしかできない。彼にはチェスの戦況は理解できても、そこに付随する高度な情報戦のメタファーまでは処理しきれていなかったのだ。
(素晴らしい。本当に見事な頭脳だ)
リアヴェルは内心で惜しみない称賛を送っていた。
超越者たる自身の思考速度に、人間の身でありながらここまで食らいついてくる。彼女の脳内では、論理の構築と破壊が常人には計り知れない速度で行われているのだろう。
だが、リアヴェルが本当に求めているのは、単なる「賢い人間」ではない。
「……坂柳。君の知能の高さはよく分かった。では、ここから先は君の『王としての在り方』を試させてもらおうか」
リアヴェルがそう宣言すると、彼から発せられる空気が一段階、冷たく研ぎ澄まされたものに変わった。坂柳もまた、ふっと目を細めてリアヴェルを見据える。
「君は今、分岐する線路の前に立っている。片方の線路には見知らぬ五人の人間が、もう片方には君の『最も優秀な身内』が一人縛り付けられている。そこへブレーキの壊れたトロッコが突っ込んできた。君の手元には、進路を切り替えるレバーがある」
有名な思考実験「トロッコ問題」の派生。
リアヴェルの問いかけに、周囲の生徒たちは息を呑んだ。倫理観を問うその質問に、坂柳がどう答えるのか。
「君はどちらを見捨てる? 多数派か、それとも優秀な身内か。……道徳的な正解など求めていない。私が知りたいのは君が究極の選択を迫られたとき、どこまで『残酷な決断』を下せるかだ」
リアヴェルはクイーンを動かし、坂柳のキングを追い詰める。盤上でも、心理戦でも、彼は容赦なく退路を断ちに行った。坂柳は盤面から目を離さず、しかし一切の躊躇なく口を開いた。
「前提として、私はそのような状況に陥る前にすべてを盤面でコントロールします。ですが、あえてその劣悪な状況を仮定して答えるのであれば——私は迷わず、見知らぬ五人を轢き殺します」
周囲から「ヒッ」と小さな悲鳴が上がる。彼女の声色には、一切の罪悪感も迷いも含まれていなかった。
「功利主義的な観点から言えば、五人を救うべきでしょう。しかし、私の価値基準において『数の多さ』は単なるデータに過ぎません。私の最も優秀な身内——つまり私の手足となる駒が、有象無象の五人よりも今後の私の勝利において高い『価値』を持つのであれば、その他大勢を切り捨てることに何の躊躇いもありません」
「ほう。では、もう一つ問おう」
リアヴェルはさらなる追撃をかける。
「もし、その五人を犠牲にして身内を救った直後、その身内が君を裏切り、君の首を狙ってきたらどうする? 君の残酷な決断は、結果として自身の破滅を招いたことになるが?」
坂柳は初めて、盤上からリアヴェルへと視線を移した。
その瞳の奥には、氷のように冷たく、それでいて業火のように激しい、攻撃的な光が宿っていた。
「その時は、その身内ごと、私が自らの手で徹底的に叩き潰すだけです」
坂柳の唇が、凶悪なまでの弧を描く。
「裏切りを許した私の采配ミス。それは認めましょう。ですが、私を出し抜けると思ったその驕りは、決して許しません。私が残酷な決断を下すのは、ひとえに『最終的な勝利』をこの手で掴み取るため。私の道に不要な障害であれば、それがかつての味方であろうと、私がこの手で物理的にも精神的にも排除します。……勝利に対する執着心において、私は誰にも譲るつもりはありませんから」
静寂。
圧倒的なまでのエゴイズム。倫理や道徳を嘲笑い、ただ己の勝利と支配のみを是とする覇者の論理。それは、普通の女子高生が持つべき精神性からは到底かけ離れた、悪魔的とすら言える思考回路だった。
「…………くっ、はははははっ!」
不意に、リアヴェルは天を仰いで高らかに笑い声を上げた。
教室中に響き渡る美しくも威圧的な笑い声に、周囲の生徒たちは何事かと肩を震わせる。
「素晴らしい! 素晴らしいぞ、坂柳有栖! まさか人間界の、それもこんな矮小な箱庭に、これほど極上の『魂』が眠っていたとはな!」
リアヴェルは歓喜に顔を歪ませながら、盤上の自らのキングを指で弾いた。
同時に、彼はルークを前進させる。
その瞬間、坂柳は目を見開いた。
「……」
チェックメイト。
どれほど高度な理論を戦わせようと、どれほど冷酷な精神性を持ち合わせていようと、純粋な「個の絶対的な力」の前では無意味。リアヴェルの指し手は、坂柳の数十手先まで見通した思考の、さらにその先の次元から振り下ろされた神の一撃だった。
逃げ場はない。完全なる、そして圧倒的な敗北。誰にも負けたことがないという坂柳のプライドが、音を立てて砕け散った瞬間だった。
「ふぅ。私の負けですね」
坂柳は小さく息を吐き、自らのキングをゆっくりと倒した。その表情には悔しさが滲んでいたが、同時に今まで出会ったことのない「本物」に対するゾクゾクするような歓喜も入り交じっていた。
「ああ、君の負けだ。だが、恥じることはない。この私を相手にここまで盤面を持たせただけでも、君の知能は人間の中では間違いなくトップクラスだ。何より——」
リアヴェルは席から立ち上がり、机越しに身を乗り出して、坂柳の顎に手を添えた。
周囲の生徒たちが息を呑む中、彼はその美しい顔を限界まで坂柳へと近づける。
「——君のその、勝利に飢えた攻撃的な精神性。冷酷なまでの合理主義。私はひどく気に入ったよ。君は私の盤上で、最も美しく輝く駒になれる素質がある」
「……それは、私をあなたの手駒にする、という意味ですか?」
至近距離で見つめ合いながら、坂柳は不敵に微笑み返す。普通の少女であればその美貌とカリスマに呑まれ気絶していてもおかしくない距離感だが、彼女の瞳は決して屈していなかった。
「そうだ。私は君を、私の『眷属』として迎え入れると決めた。不士鳥……
「ふふっ。光栄な提案ですね。ですが、私は誰かの下につくというガラではありません。もし私を飼い慣らしたいのなら……その圧倒的な力で、私が二度と逆らえないほどに、徹底的に私を支配し続けてみせてください。リアヴェルくん」
「望むところだ。私の支配から逃れられると思うなよ、坂柳有栖」
夕陽に照らされた教室で、不死鳥の御曹司と天才少女の間に、異質にして強固な契約の兆しが結ばれた。
周囲でそれを唖然と見つめるクラスメイトたちは、まだ気づいていなかった。この二人の結びつきが、高度育成高等学校のパワーバランスを根底から破壊し、すべてを蹂躙する絶対的な嵐の始まりであることを。