ようこそ不死鳥の舞う教室へ 作:Gemini&指示出す人間
チェスの公開勝負がリアヴェルの圧倒的な勝利で幕を閉じた後、Aクラスの教室内には心地よい疲労感と、得体の知れない熱狂の余韻が漂っていた。
周囲を取り囲んでいた生徒たちが三々五々に散っていく中、リアヴェルは盤上の駒を片付けることもせず、優雅に立ち上がって目の前の少女を見下ろした。
「素晴らしい手合わせだったよ、坂柳。少し話し足りないな。もし良ければ、この後私の部屋で夕食でもどうかな? 君にはもう少し、私の『世界』について教えておきたいことがあってね」
唐突なディナーの誘い。しかし、坂柳有栖はその提案を拒まなかった。
彼女の鋭敏な知能は、チェスの最中に行われた会話の端々に散りばめられていた奇妙な違和感を、決して見逃してはいなかったからだ。
「ええ、喜んでお受けします。私も、リアヴェルくんにいくつかお聞きしたいことがありましたから」
(『人間界の』『人間の中では』……彼は会話の中で、幾度となく自分自身がまるで『人間ではない別の何か』であるかのような言い回しをしていました。単なる傲慢さからくる比喩表現なのか、それとも……)
坂柳は杖を手にゆっくりと立ち上がり、彼と並んで教室を後にした。
夕暮れ時の廊下を歩きながら、二人は他愛のない会話を交わす。しかし坂柳の頭の中では、隣を歩くこの規格外の少年に対するプロファイリングが猛スピードで進められていた。
不士鳥財閥という巨大なバックボーン。常識を凌駕する美貌と威圧感。そして、何よりあのチェスで見せた、人間の限界を超えたような思考の深度と速度……。
やがて二人は、1年生用の学生寮へと到着した。
リアヴェルに割り当てられているのは、当然ながら他の生徒と同じ標準的な個室であるはずだった。彼がカードキーを取り出し、電子音と共にドアのロックを解除する。
「さあ、入るといい。歓迎しよう」
「失礼します」
坂柳が一歩、部屋の中に足を踏み入れた瞬間——世界が、反転した。
「……え?」
彼女の口から、珍しく間の抜けた声が漏れた。
本来あるべきワンルームの景色はそこにはなかった。足元に突如として展開されたのは、真紅の炎と黄金の光を放つ幾何学的な紋様——魔法陣。次の瞬間、視界が強烈な光に包まれ、三半規管がぐにゃりと歪むような奇妙な浮遊感に襲われた。空間そのものが切り取られ、別の場所へと強制的に接続される感覚。光が収まったとき、坂柳は自分が全く見知らぬ場所に立っていることに気づいた。
「ここは……?」
見上げれば、クリスタルが煌めく巨大なシャンデリア。足元には毛足の長いペルシャ絨毯が敷き詰められ、壁には歴史的美術品と見紛うような絵画が飾られている。
どう見ても、学生寮の一室ではない。それどころか、高度育成高等学校の敷地内にこんなヨーロッパの宮殿のような場所が存在するはずがなかった。
「ようこそ、私の私邸へ。驚かせてしまったかな?」
背後から聞こえた声に振り返ると、リアヴェルが楽しげに微笑んでいた。
わけがわからず呆然とする坂柳のもとへ、メイド服に身を包んだ美しい女性が音もなく近づき、恭しく頭を下げる。
「リアヴェル様、お帰りなさいませ。お連れ様の案内はお任せください」
「ああ、頼む。私は少し着替えてからダイニングへ向かう。彼女に粗相のないようにな」
「かしこまりました。……さあ、お嬢様。こちらへどうぞ」
メイドに促されるまま、坂柳は杖をつきながら豪華絢爛な廊下を歩き出した。
(……催眠術やVRの類では、ありませんね。空気の匂い、温度、絨毯の感触、すべてが現実です。つまり彼は今、一切の物理法則を無視して、私をここへ移動……転移、させた……?)
自らの頭脳と論理で世界を測ってきた天才少女にとって、それは初めて直面する「理解不能なバグ」だった。しかし、彼女はパニックを起こすことはなかった。むしろその瞳には、未知なるものへの強烈な知的好奇心が燃え上がり始めていた。
案内されたダイニングホールには、長大なテーブルが置かれ、最高級のフルコースがすでに用意されていた。
席に着いた坂柳の正面には、制服から仕立ての良い漆黒のスーツへと着替えたリアヴェルが座っている。
「さあ、遠慮せずに食べてくれ。我が家の専属シェフが腕によりをかけた逸品だ。毒などは入っていないよ」
「……いただきます」
坂柳は一口だけ料理を口に運び、フォークを置いた。極上の味だったが、今の彼女には料理の味を堪能する余裕などない。
「リアヴェルくん。単刀直入に伺います。ここはどこですか? そして……先ほどドアを潜った瞬間に起きた現象は、一体何なのですか」
静かな、しかし確かな緊張感を孕んだ坂柳の問い。
リアヴェルはワイングラスを揺らしながら、くすりと笑った。
「ここは人間界における私個人の屋敷だ。立地としては……そうだな、あの学校が浮かぶ人工島からは、数百キロは離れた場所にあるとだけ言っておこう。そして先ほどの現象は、君たち人間の言葉で最も分かりやすく表現するなら——『魔法』だよ」
「魔法……ですか」
「信じられないという顔だな。無理もない。君たち人間は、世界の本当の姿を知らないまま、この狭い三次元の物理法則の中だけで生きているのだから」
リアヴェルはグラスを置き、両手を組んで坂柳を見据えた。
「坂柳有栖。君にこの世界の『真実』を教えよう」
その瞬間、ダイニングホールの空気が重く、冷たく沈み込んだ。
リアヴェルの碧眼が、人間には決して持ち得ない、深淵を覗き込むような魔の光を帯びる。
「君たちが生きるこの人間界の裏側には、広大な別次元の世界が存在する。神々が住まう天界、そして我々が支配する『冥界』だ。この世界は長らく、三つの強大な勢力によって均衡が保たれてきた。光を司る『天使』。神に背き堕ちた『堕天使』。そして、闇と欲望を力に変える『悪魔』。神話や御伽噺だと思っているそれらの超常存在は、すべて実在し、長きにわたる血みどろの戦争を経て、現在はかりそめの平和を維持している」
突拍子もないスケールの話。精神病院の患者が語るような妄言。だが、先ほどの「転移魔法」を身をもって体験させられた坂柳は、彼の言葉を単なる冗談として切り捨てることはできなかった。彼の放つ圧倒的なプレッシャーが、それが紛れもない真実であることを本能に叩き込んでくる。
「では……不士鳥財閥というのは」
「ご推察の通り。人間界の経済や政治に干渉し、我々にとって都合の良い環境を整えるために作られたダミーの組織に過ぎない。私の本当の家名は『フェニックス』。冥界においても指折りの名家であり、強大な力を持つ純血の悪魔の家系だ」
リアヴェルは席からゆっくりと立ち上がった。
「自己紹介のときに言ったな。私の特技は『敗北を知らないこと』だと」
彼が背中に意識を集中させると、空間が爆発的に熱を帯びた。
ゴォォォォォォッ!!
凄まじい業火がリアヴェルの背中から噴き出し、それは瞬く間に巨大で美しい『炎の翼』へと形を変えた。シャンデリアの光を掻き消すほどの強烈な黄金の輝き。ダイニングホールの温度が急激に上昇するが、不思議と坂柳の肌を焼くことはなく、ただ心地よい熱だけが伝わってくる。それは彼が、この圧倒的なエネルギーを完璧に制御しきっている証拠だった。
「私は悪魔の中でも特異な能力を持つフェニックスの血を引いている。どんな傷を負おうと一瞬で再生する『不死』の力。それが私の絶対的な力の根源であり、私が王として君臨する理由だ」
炎の翼を広げ、傲然と見下ろしてくる金髪碧眼の悪魔。
その姿は、あまりにも美しく、そして神々しいまでの暴力性に満ちていた。
坂柳は、言葉を失っていた。
自身の並外れた頭脳で計算できる範疇を、完全に超越した存在。彼女がこれまで見下してきた「人間」という枠組みすらも過去の遺物にしてしまう、本物の怪物。
(ああ……ですが、なんて、なんて美しいのでしょうか)
恐怖よりも先に、彼女の心を満たしたのは、強烈な歓喜と畏敬の念だった。
論理が崩壊し、新たな真実が構築されていく快感。自分が今までどれほど小さな箱庭で、ちっぽけな王様ゲームに興じていたのかを思い知らされる、極上の敗北感。
炎の翼がゆっくりと収束し、リアヴェルの背中へと吸い込まれて消える。
部屋の温度が元に戻っても、坂柳の胸の奥で灯った熱は消えなかった。
彼女は深く息を吸い込み、乱れた呼吸を整えると、真っ直ぐにリアヴェルを見つめ返した。
「……信じられない話ですが、これだけの証拠を見せつけられては、認めざるを得ませんね。神も悪魔も実在し、あなたがその悪魔……フェニックスの御曹司であるという事実を」
「理解が早くて助かるよ。流石は私が見込んだ天才だ」
「ですが、一つだけ疑問が残ります」
坂柳は杖の柄を両手で包み込むように握り締め、鋭い視線でリアヴェルを射抜いた。
「なぜ、それを『私』に明かしたのですか? あなたがその気になれば、正体を隠したまま、私を含む学校の生徒全員を裏から操ることなど造作もないはずです。わざわざ魔法を見せ、自らの正体を暴露するリスクを冒してまで、私に真実を伝えた理由……それをお聞かせいただけますか?」
核心を突く問い。
リアヴェルは満足げに目を細め、彼女の元へと歩み寄った。そして、チェスのときと同じように彼女の顎にそっと手を添え、至近距離でその瞳を覗き込む。
「簡単なことだ。無知な駒を盤上で踊らせるだけなら、真実を教える必要はない。だが……共に盤面を支配する『女王(クイーン)』には、世界の本当の広さを知っておいてもらわねば困るからな」
リアヴェルの声は、甘く、そして抗いがたい呪縛のように坂柳の耳に響いた。
「私は君の知能と、その冷酷なまでの攻撃性を高く評価している。君には、いずれ人間の枠を超え、悪魔としての生を与え……真の意味で私の『眷属』になってもらうつもりだ。これはそのための、ちょっとした情報の前払いに過ぎない」
「私を……悪魔に?」
「そうだ。人間としての寿命や限界に縛られることなく、永遠に近い時間を私の隣で過ごし、共に世界を支配する。悪くない話だろう?」
リアヴェルはそう言うと、坂柳の顎からゆっくりと手を離し、彼女の傍らに立てかけられた一本の杖へと視線を落とした。彼の碧眼は彼女の細胞の隅々までを見透かすような鋭さを帯びる。
「それに——私の眷属となれば、君を縛り付けているその『不完全な肉体』も、造作なく作り替えてやることができる」
「……ッ!」
その言葉に、坂柳の肩が微かに跳ねた。常に余裕の笑みを浮かべていた彼女の顔から、初めて明確な動揺が顔を出す。
「先天性の心疾患。どれほど君の頭脳が優れていようと、人間界の現代医療では完治に至らない厄介な代物だ。歩行すら杖に頼らざるを得ないその心臓の欠陥は、君の人生において唯一にして最大の足枷となっているはずだ。……違うかな?」
「…………」
坂柳は両手を握りしめた。
自身の身体の弱さは、彼女自身が誰よりも理解している絶対的な「限界」である。どれほど知略を巡らせようと、必ず肉体の脆弱さが彼女の行動を制限する。それは天才である彼女にとって、受け入れるしかない不条理であった。
しかし、目の前の悪魔は、いとも容易くその不条理を覆すと言ってのけたのだ。
「我々悪魔は、『
リアヴェルは甘く、そして抗いがたい誘惑の言葉を紡ぎ続ける。
「天才的な頭脳を持ちながら、それを十全に振るう器を持たないというのは、実にもどかしいだろう?だから私は君に、万全の肉体を与えよう。……だが、それだけではない」
彼はパチン、と指を鳴らした。
すると、虚空に無数の光の粒子が集い、剣や盾、魔導書など、様々な武具の幻影が現れては消えていく。
「君をより確実で、より完璧な私の駒にするために、もう一つ極上のプレゼントを用意してやろう。『
「神器、ですか……。神話に登場するような、伝説の武具のことでしょうか」
「似たようなものだ。かつて神が人間だけに与えた、規格外の異能を引き出すシステム。それが『神器』だ。本来は生まれつき宿すものだが、私の——フェニックス家の権力と技術をもってすれば、まだ覚醒していない持ち主から摘出したり、あるいは君の望む能力に近いものを探し出し、後天的に移植することも不可能ではない」
リアヴェルは両手を広げ、まるで世界のすべてを差し出すかのような傲慢な笑みを浮かべた。
「君のその類まれなる知能、そして支配を好む苛烈な精神性。それに最も相応しい、盤面を支配するための特別な力、神器を私が見繕ってやろう。……完全なる健康と永遠に等しい寿命。そして超常の力。どうだ? 私の眷属となる見返りとしては、十分すぎる待遇だろう」
静まり返るダイニングホール。
坂柳有栖は、目の前に提示されたあまりにも巨大な「報酬」の前に、深い沈黙へと落ちていた。
健康な身体。それは、彼女がどれほど望んでも、どれほど財力を注ぎ込んでも決して手に入らなかったものだ。そして、未知なる「神器」という力。天才である彼女の知的好奇心を、これほどまでに刺激し、満たしてくれる誘いは他にない。
チェスで味わった完全なる敗北。そして、自らを遥かに凌駕する上位存在からの、この上なく甘い勧誘。
(……ああ。これが、悪魔の囁きというものなのですね)
彼女は理性が、甘美な毒に侵されていくのを感じる。
今すぐ「はい」と頷いてしまいたい。この男の手に口付けし、その圧倒的な力の下で永遠に盤上を支配し続けたい。そんな強烈な欲求が、彼女の胸の奥で渦巻き始めていた。
しかし——彼女は高度育成高等学校の理事長の娘である。彼女の人格形成において、父の存在は決して小さくない。そして何より、これほど世界の理から外れた決断を、一時の感情だけで下すのは彼女の理に反していた。
ふう、と。坂柳は長く、細い息を吐き出すと、乱れていた感情を完璧に律し、真っ直ぐにリアヴェルの碧眼を見つめ返した。
「……リアヴェルくん。あなたの提示する条件は、あまりにも魅力的で、そして……あまりにも恐ろしいものです。心疾患の完治、そして超常の力。私がこれまで生きてきた世界観のすべてを破壊するのに、十分すぎる内容です」
「だろうな。で、返答は?」
「申し訳ありません。私一人の一存で、今すぐ『はい』と頷くには、少々話が大きすぎます」
坂柳は居住まいを正し、丁寧に頭を下げた。
「私には、理事長を務める父がおります。私があの学校に入学したのも、父の意向があってのこと。……リアヴェルくん。私があなたの眷属となるというこの決断、一度父に相談してもよろしいでしょうか?」
悪魔の秘密を、人間の親に明かす。
通常であれば即座に却下されてもおかしくない要求だ。しかし、リアヴェルは機嫌を損ねるどころか、ひどく愉快そうに笑い声を上げた。
「はははっ! いいだろう。この箱庭を作り上げた張本人、理事長か。構わない、存分に相談してくるがいい。君の優秀な父親なら、不士鳥の、そして
「寛大な処置に感謝します」
「焦る必要はない。君が完全に納得し、自ら私の前に跪くその日を、私はのんびりと待つとしよう。……さあ、冷める前に食事を再開しようか。これからの君の、人間としての短い余生に乾杯しようじゃないか」
リアヴェルが再びワイングラスを掲げる。
坂柳もまた、微かに震える手で自身のグラスを手に取った。
不死鳥の悪魔と天才少女。二人の間を繋ぐ見えない糸は、すでに切れることのないほど強固に結ばれ始めていた。