ようこそ不死鳥の舞う教室へ 作:Gemini&指示出す人間
豪奢なダイニングホールでのディナーは、坂柳有栖にとってこれまでの人生で最も知的好奇心を刺激される時間となっていた。
極上のフルコースを口に運びながら、リアヴェルはグラスを片手に、彼が属する「裏側の世界」の情勢について淡々と語って聞かせた。
「現在、我々悪魔は天使、そして堕天使との間に不可侵条約を結び、かりそめの平和を享受している。かつての『三つ巴の大戦』で多くの純血の悪魔が失われたからな。今の冥界を統治しているのは、実力主義で選ばれた新たな魔王たちと、旧来の血統を重んじる貴族たちだ。その中で我がフェニックス家は、不死の特性と、特権的なビジネス——『レーティングゲーム』の運営や『フェニックスの涙』という万能薬の販売により、絶対的な地位を確立している」
「なるほど。武力による直接的な支配ではなく、経済と娯楽、そして医療インフラを握ることで権力を盤石にしているのですね。非常に合理的です」
坂柳は感心したように頷いた。
リアヴェルの語る悪魔の社会構造は、人間のそれと驚くほど似通っており、それでいてスケールが桁違いだった。寿命という概念がほぼ存在しない彼らの政治闘争や派閥争いは、人間の数十年単位のそれとは比べ物にならないほど深く、そして緻密なのだろう。
「他種族とのパワーバランス、そして悪魔内部での実力主義と血統主義の対立。……リアヴェルくん。あなたが人間界の、この小さな学校でご自身の派閥を作ろうとしている理由が、少し分かった気がします。あなたは将来、冥界そのものの覇権を握るおつもりなのですね」
「はははっ! さすがは私の見込んだクイーンだ、察しがいい。既存の悪魔たちで構成された派閥など退屈でね。私は私の手で、一から最高の盤面(チーム)を作り上げたいのだ」
リアヴェルは機嫌良く笑い、最後の一口のワインを飲み干した。
その様子を見つめながら、坂柳の心はすでに決まっていた。これほどまでに広大で、残酷で、魅力的な世界があるというのに、病弱な人間の身としてこの小さな島で生涯を終えるなど、彼女の矜持が許すはずもなかった。
「……リアヴェルくん」
坂柳はナイフとフォークを静かに置き、居住まいを正した。
「今すぐ、お時間をいただけますか。私の父……この学校の理事長に、面会の約束を取り付けます。鉄は熱いうちに打て、と言いますから」
「ほう。明日ではなく、今夜のうちにか?」
「ええ。これほど素晴らしいお話を前にして、明日まで待つような忍耐力は、あいにく持ち合わせておりませんので」
彼女の決断の早さと、勝利と未知に対する貪欲な姿勢に、リアヴェルは目を細めて満足げな笑みを浮かべた。
「いいだろう。君のその前のめりな姿勢、嫌いじゃない。案内したまえ」
坂柳が手元の端末から半ば強引に父との緊急面会を取り付けると、リアヴェルは再び転移魔法を展開した。
一瞬の眩暈の後、二人が立っていたのは、夜の闇に包まれた高度育成高等学校の敷地内——学生寮の近くの木陰だった。
夜風が冷たく頬を撫でる。つい先ほどまでヨーロッパの宮殿のような屋敷にいたという事実が、魔法という超常の力によって現実であったことを実感させる。
「理事長室は、職員室の隣です。案内します」
坂柳は杖をつきながら、ゆっくりと歩みを進めた。
彼女の歩幅に合わせて歩くリアヴェルは、静まり返った夜の校舎を見上げながら楽しげに口笛を吹く。
「監視カメラの死角を通っているとはいえ、夜間外出禁止のルールを初日から破るとはな。優等生のAクラスとしては問題行動ではないのか?」
「ルールの枠内でしか動けないようでは、本物の天才とは呼べません。それに、私がルールそのものを司る側に回れば、何の問題もありません」
軽口を叩き合いながら校舎に潜入し、二人はエレベーターで最上階へと向かった。
重厚な理事長室の扉の前に立つと、坂柳は一つ深呼吸をしてから、ノックの音を響かせた。
「有栖です。入ってもよろしいですか、お父様」
「ああ、入りなさい」
扉を開けると、そこには初老に差し掛かった温和な顔立ちの男性——坂柳理事長が、執務机の奥で静かに微笑んでいた。しかし、彼の視線は娘の有栖に向けられた直後、その背後に立つ圧倒的な存在感を放つ金髪の少年へと吸い寄せられ、微かに目を見開いた。
「有栖。……それに、そちらは1年Aクラスの不士鳥リアヴェルくんだね。こんな夜更けに、しかも二人で揃ってどうしたというんだい? 入学初日から、何か学校でトラブルでもあったかな」
理事長は表面上は穏やかに問いかけたが、その声色には僅かな警戒が混じっていた。リアヴェルから放たれる、人間離れした威圧感を本能で感じ取っていたのだろう。
「夜分遅くに申し訳ありません、お父様。ですが、どうしても今日中にお話ししておかなければならないことがあり、参りました」
坂柳は杖をつきながら前へ進み出ると、リアヴェルの隣で真っ直ぐに父を見据えた。
「単刀直入に申し上げます。——私、悪魔に転生します」
「……は?」
普段は冷静沈着な理事長も、娘の口から飛び出したあまりにも突拍子もない言葉に、思わず間の抜けた声を漏らした。
坂柳は一切の動揺を見せず、先ほどリアヴェルから聞いた世界の真実、魔法の存在、そして目の前にいる少年が冥界の貴族・フェニックス家の御曹司であることを、理路整然と、かつ簡潔に説明した。
当然、信じがたい話である。しかし、坂柳有栖という娘が、精神的な錯乱からそのような作り話をでっち上げるような性格ではないことを、父親である彼は誰よりも理解していた。
「……にわかには信じがたい話だが。君が不士鳥財閥の御曹司であるというのは、世を忍ぶ仮の姿であり、本当は人外の存在……悪魔、だと言うのかね?」
理事長の問いに、リアヴェルは一歩前へ出ると、優雅に一礼した。
「いかにも。私が指を鳴らせば、この部屋を跡形もなく吹き飛ばすことも、あるいは理事長殿の首を魔法で刎ねることも造作もない。だが、安心してもらいたい。私は有栖の類まれなる頭脳を高く評価し、私の眷属——『女王(クイーン)』として迎え入れたいと願っている。未来の義父を傷つけるような野蛮な真似はしないよ」
「悪魔の眷属……。有栖、きみは本当にそれでいいのかい?」
理事長は鋭い視線を娘に向けた。
坂柳は杖を強く握り締め、小さく、だが力強く頷いた。
「ええ。リアヴェルくんの眷属となれば、私のこの心疾患も完全に治癒すると伺いました。私は……この不完全な肉体の限界を打ち破り、さらなる高みへ至るための『力』が欲しいのです」
しかし、坂柳はそこで一度言葉を切り、少しだけ悲しげな、人間としての顔を覗かせた。
「ですが……それには代償が伴います。私が悪魔になれば、人間としての生を捨てることになります。お父様たちよりも遥かに長く生き、いずれは別れなければならない。親からいただいたこの身体を別のものに作り替えること、そして人間の道を外れることを……どうかお許しください」
彼女は深く頭を下げた。
「そして、もし、もしもお父様がどうしても反対されるのであれば……私は、このお話を辞退する覚悟でここへ参りました」
自らの覇道を何よりも優先する彼女が、唯一見せた家族への情愛。静まり返った理事長室で、ただ時計の針の音だけが響く。
やがて——理事長はゆっくりと立ち上がり、机を回り込んで娘の前に立つと、その細い肩を優しく抱き寄せた。
「有栖。……謝る必要など、どこにあるというんだ」
「お父様……?」
「親が子に望むことなど、たった一つしかない。お前が健康な身体で、一日でも長く、幸せに生きてくれること。……それだけだよ」
理事長の声は微かに震えていた。
生まれつき心臓に重い疾患を抱え、杖なしでは歩くこともままならず、激しい運動もできない娘。彼女がどれほど自らの知能を誇ろうとも、その心臓がいつ止まるか分からないという恐怖は、父親の心に常に暗い影を落としていたのだ。
「それに……悪魔や、そういった人外の存在がいることは、私も全くの無知というわけではないのだよ」
「え……?」
「私はこの学校の設立にあたり、日本政府の暗部や、さまざまな巨大組織と関わってきた。その中には、魔術師の結社や、神道系の異能者機関に関する報告書も存在した。直接見たことはなかったが……この世界には、我々一般人のあずかり知らぬ『裏側』があることには感づいていたのだよ」
理事長はリアヴェルに向き直り、深く、深く頭を下げた。
「不士鳥リアヴェルくん。いや……リアヴェル様。娘の決断を、私は全面的に尊重します。どうか、有栖に……娘に、健康な身体と、無限の未来を与えてやってください。親として、これ以上嬉しいことはありません」
それは、人間の親から悪魔への、心からの懇願だった。
リアヴェルは傲岸不遜な笑みを崩さず、しかしどこか優しげな光を碧眼に宿して頷いた。
「承知した。フェニックスの名にかけて、有栖は私が永遠の庇護のもとに置こう」
リアヴェルが右手を虚空に翳すと、そこに真紅の魔法陣が浮かび上がり、掌に一つのチェスの駒が出現した。
深い紅玉のような輝きを放つ、美しい『女王(クイーン)』のイビルピース。
「有栖、前へ」
リアヴェルの声に、坂柳は父から離れ、彼の前へと進み出た。
「我が名はリアヴェル・フェニックス。冥界の理と、不滅の炎の名において命ずる。坂柳有栖よ、人間の脆弱なる殻を脱ぎ捨て、我が眷属たる『女王』として新生せよ!」
リアヴェルがクイーンの駒を坂柳の胸元へと押し当てると、駒は水面に落ちるように彼女の肉体へと溶け込んでいった。
瞬間、坂柳の身体が眩い真紅の光に包まれる。
「……あっ、あああ……ッ!」
坂柳の口から、熱を帯びた吐息が漏れた。
体内を駆け巡る膨大な魔力。細胞の一つ一つが歓喜の声を上げ、爆発的な速度で作り替えられていく。そして何より——彼女の胸の奥で、弱々しかったはずの鼓動が、力強く、力強く打ち鳴らされ始めたのだ。
トクン、トクン、と。
まるで新しいエンジンに火が入ったかのような、生命力に満ち溢れた力強い鼓動。光が収まったとき、カラン……と、乾いた音が理事長室に響いた。
坂柳の手に握られていた杖が、床に転がり落ちた音だった。
「……有栖?」
息を呑む父の声に、坂柳はゆっくりと目を開けた。
杖に頼ることなく、自身の両足で、完璧なバランスで大地を踏みしめて立っている。胸の奥にあった圧迫感も、息苦しさも、嘘のように消え去っていた。
代わりに彼女の身体を満たしていたのは、万能感にも似た圧倒的な力と、世界を容易く見渡せるような研ぎ澄まされた感覚。
「お父様。……私、治りました。もう、どこも苦しくありません」
坂柳は自身の胸に手を当て、この上なく美しく、そして魔性の輝きを帯びた笑みを浮かべた。
その姿は、病弱な人間の少女から、紛れもない『悪魔の女王』へと昇華された瞬間だった。
「気分はどうだ、私のクイーン?」
リアヴェルが楽しげに問いかけると、坂柳は彼に向かって優雅に膝を折り、忠誠を示すように深々と頭を下げた。
「最高です、私の主。この知略のすべて、そして新たに得たこの命のすべてを懸けて、あなたの覇道を盤石なものにしてみせましょう」
夜の理事長室。
父の祝福を受け、不死鳥の眷属として生まれ変わった天才少女は、主である金髪の悪魔と共に、既存の世界を蹂躙するための絶対的な一歩を踏み出したのだった。