The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
第1話:効かない薬
これは、星霜の書に書かれたかもしれない、ひとつの可能性である。
*
封は、昨夜のうちに確かめてある。
革袋の口を二度折って、紐を通し、結び目を袋の内側へ入れた。雨が来たときのやり方だ。今日は降らない。降らないが、手のほうが先に動く。
ネクロムの外れ、塩の匂いのする岩棚。帝国軍伝令兵カイラスの役目は、月に一度、この東の詰所から帝都へ定期の便りを運ぶこと。それだけだった。
以前は月に三度だった。海沿いの詰所も四つあった。いまは二つで、そのうち一つには人が置かれていない。手当の額は、彼が配属された年から動いていない。
書くことは、たいてい無い。無いということを書いて、運ぶ。
パドメイック海。灰色のうねりが寄せては返す。カモメが一羽、風に流されていく。
出るまでに、まだ間があった。彼は崖の縁に腰を下ろしかける。
——水平線が、動いた。
最初は雲の影かと思った。影は動かない。動いているのはその手前、海のほうだ。黒い点が、二つ、三つ、十、百。
数えかけて、やめた。
数えるのに使う単位を、彼は持っていなかった。
船。船。船。水平線そのものが、黒く塗り潰されていく。
カイラスは立ち上がる。腰の書簡が地に落ちた。拾わなかった。
そして、海が白く沸いた。
船団の進む先で、うねりが押し潰され、海面から白い柱が幾本も立ちのぼる。塩の焦げる匂いが、風より先に崖の上まで届いた。鳥の声が引いていく。代わりに、腹の底を揺らす低い音が、海の彼方から這い上がってきた。
咆哮、だった。
雲が裂ける。裂け目から、何か長いものが、うねりながら滑り出てくる。翼を打って空を裂く、絵本で見慣れた竜の姿とは違う。もっと細く、もっと長い。蛇のように空を這うそれは、竜のようでいて竜ではない。
カイラスの喉の奥で、言葉が名前になりきれずに凍りついた。
そいつが、口を開けた。
光がこぼれる。太陽とは違う、赤黒い光。それが海へ降りた瞬間、船団の周りの海が一斉に爆ぜ、白い噴煙となって空へ突き上がる。
熱は、音より速かった。
崖を、灼熱の風が薙いだ。
咄嗟に顔を庇おうと左腕を上げる。次の瞬間、空気そのものが炎に変じたような一撃が、その腕を正面から叩いた。革の籠手が縮れ、下の皮膚が音を立てて弾ける。肉の裂ける音を、彼は聞いた。自分の腕から。
叫んだかどうかも、わからない。
崖の少し先で、同じ道を行くはずだったダンマーが、立ったまま燃えていた。悲鳴は無い。ただ、黒い。炭のようになった輪郭が風に一度だけ揺れ、それから、足元から崩れた。あとには焦げた鎧の残骸と、風に散る灰が残った。
熱波が過ぎたあと、世界はやけに静かだった。
◇
焼けた左腕を抱えて、震える足で岩陰へ回る。
繋いでいた二頭のうち、一頭は柵ごと吹き飛ばされて動かない。もう一頭は、生きていた。目を剥き、口から泡を噴き、後ろ脚で立っては手綱を引きちぎろうと暴れている。
「落ち着け……落ち着いてくれ、頼む」
右手だけを差し伸べた。手のひらが震えている。
馬の鼻先が、その震えに触れた。
荒い鼻息のまま、暴れる脚が地に降りる。
鞍の脇に、回復の霊薬が一瓶ぶら下がっていた。歯で栓を抜く。震える指で、それを傷へ振りかけた。
数えた。十まで。
塞がらない。
瓶の残りを、全部かけた。
十まで数えた。
塞がらない。
これまで、この一瓶で足りなかったことは無い。深い切り傷でも、肉が寄って、痛みが引いた。値段も、そういう値段だった。
腕の奥で、熱だけが居座っている。
カイラスは瓶を取り落とした。
◇
海のほうを、もう一度だけ振り返る。
黒い船団は、白く沸く海を割りながら、陸へ近づいてくる。あの長いものの姿は、もう雲の中に無い。
雲は、動いていなかった。
使い物にならない左腕を懐へ押し込み、右手だけで鞍に這い上がる。
「……行くぞ」
馬が地を蹴った。
帝都まで、いつもなら十一日。
この腕と、この馬で、何日かかるのかは、走ってみなければわからない。
同じ報せを運べる者がこの海岸に何人残っているかを、彼は数えなかった。
◇
一つ目の詰所には、日の落ちる前に着いた。
石の小屋と、囲いと、旗竿。旗は上がっていない。
戸は閉まっていた。閂が、外からかかっている。外からかける閂は、中に誰もいないときのものだ。
去年からここに人が置かれていないことを、彼は知っていた。それを報せる書簡を運んだのが、彼だったからだ。
厩の桶に、水はあった。張ったままで、藻が浮いている。
馬に飲ませて、自分も飲んだ。
腕は、まだ熱い。
火は熾さなかった。熾したところで、暖まるのは右半分だけだ。
彼はまた鞍に上がった。
次の詰所には、人がいる。いるはずだ。