The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
北──ウィンターホールド近郊
北の空は、低い。
スカイリムの北端では雲が地面のすぐ上を流れる。海から上がった湿気がそのまま凍り、細かい氷の粒が絶えず舞っていた。晴れる日もある。晴れたところで日は低く、伸びるのは影ばかりだった。
痕跡を追う前に、寄るところがあった。
ダーネヴィールが高度を落とす。町からは離れた斜面で、崖の縁に近いあたり。骨の翼が雪煙を巻き上げ、それが収まるのを待ってから、ドヴァキンは背を降りた。
布の衣一枚だった。ソヴンガルデで着ていたものだ。北風はその繊維の隙間を素通りしていく。
家は、雪に半分埋まっていた。
屋根の稜線だけが白の中に一本、黒く走っている。壁の板は反り、隙間が開いていたが、倒れてはいない。踏み跡は無い。獣のものも、人のものも。
扉には、彼が自分でかけた錠がそのままかかっていた。
錠を落とす。蝶番が鳴いて、扉は思ったより素直に開いた。
中は、暗い。
冷たい空気が押し出されてきて、そこに埃の匂いが混じっている。窓から入る光が床に細長く落ち、その帯の中を、開いた扉に押されて舞い上がった粒が、ゆっくりと上がっていく。
床には埃が積もっていた。均一に、厚く。誰も踏んでいない厚さだ。
炉は冷たい。灰がそのまま残っている。卓の上に木の器が一つ伏せてあり、その底に埃が溜まっていた。椅子は引かれた形のまま止まっている。出て行った日、そのままだ。戻るつもりだったのかどうかは、椅子の向きからは出てこない。
ドヴァキンは中を見回さなかった。
まっすぐ奥の壁へ歩く。積もった埃に、初めての足跡が付いていく。
壁の板の、下から三枚目。左端から数えて四枚目。指を当てて、下へ押し込みながら右へ滑らせる。考えてはいない。手が先に動いていた。
板の向こうで、木の栓が抜ける音がした。
壁の一部が、内側へ倒れる。
狭い。人ひとりが立てるだけの空間だった。差し込んだ光が届かず、目が慣れるまで少しかかる。慣れると、輪郭が浮かんできた。
鎧は、革帯が固くなっていた。油を塗ったまま何十年も置いたので、表面が固まって、爪を立てても跡が残らない。指で押すと、爪の跡だけが残った。
その隣。
二本の受けに、それは横たえてあった。
ウースラドは、抜けば重い。
刃の縁に、まだ研ぎの筋が残っている。柄を握って持ち上げると、その重さが肩から背中を通って踵まで落ちていった。斧が重いのではない。重さを支えるものが、こちらにあるだけだ。
一度、素振りをした。
風を切る音が、狭い部屋の中でやけに大きく鳴る。埃が渦を巻いて舞い上がり、光の帯の中を横切っていった。
鎧を身に着ける。固くなった革帯は、通すたびに小さく音を立てて折れ、通してしまえばそれで用は足りた。留め具の位置は変わっていない。
最後に、下の棚へ手を伸ばす。
指が、何にも触れなかった。
見た。
棚板の上には、埃が積もっている。それだけだ。
そこには二つ、置いてあったはずだった。青緑の刃を持つ短剣と、片手の籠手。どちらもずいぶん前に手に入れて、結局一度も使わなかった。使い道が無かったから奥へ置いた。それだけの物だった。
ドヴァキンは指で棚板を擦った。
指の腹に灰色が付く。板の上には、その跡がまっすぐ一本残った。
擦った跡の左右を見る。同じだった。厚みも、色も、どこも同じ。何かがそこにあって持ち去られたのなら、下だけ薄いはずだ。輪郭が出るはずだ。
出ていない。
戻って、扉を見た。錠は今しがた自分で落としたものだ。壁の栓も、押し込むまで抜けていなかった。床の埃には、彼の足跡だけが付いている。
しばらく、そこに立っていた。
「……まあいい」
そう言って、出た。
外は白かった。目が痛む。ダーネヴィールが首を巡らせ、眼窩の青が斧の上で止まる。
『その斧か』
「ああ」
『他には』
「二つ足りん」
『探すのか』
「いや」
それだけだった。竜も、それ以上は訊かない。この男が「いや」と言ったものについて重ねて訊いて、何かが出てきたためしが無い。
ドヴァキンは骨の背へ跨り、南を向いた。
翼が雪を叩き、巨躯が持ち上がる。斜面の家は、白の中の黒い一本に戻り、やがてそれも見えなくなった。扉は開いたままだったかもしれないし、閉めたのかもしれない。どちらだったかを、後で誰かが確かめに来ることはなかった。
◇
スカイリムとモロウウィンドの境あたりは、その季節、朝も夜も霧だった。
濃さは日によって違う。その日は、伸ばした手の先が白く霞む程度には濃かった。道があるのかどうかも判然としない。それでも男は歩調を変えない。方角を間違えたところで、いずれ海か山に突き当たる。突き当たってから考えればいい。急ぐ理由も、間違えて困る理由も、彼には無かった。
軽装の鎧は、留め具のいくつかが失われている。革の縁は擦り切れ、腹のあたりに一箇所、刃の通った裂け目が残っていた。裂け目の下の肉はとうに塞がっている。鎧だけが、刺されたことを覚えていた。
腹は減っていた。減っているという感覚がまだ残っていることに、ときどき驚く。
前方の霧が、薄く色を持ち始めた。
紫とも橙ともつかない。夕暮れのいちばん短い時間にだけ現れる色だ。霧の粒のひとつひとつが内側から光り、男の足元に長い影が伸びる。
男は立ち止まった。
驚いたからではない。光の中をそのまま歩けば、しばらく目が眩む。それが面倒だっただけだ。
「久しいな、ネレヴァリン」
声は、耳から入ってこなかった。
「……アズラか」
男は光の方を見ない。霧の向こうで星の輝きが一つ、また一つと数を増していったが、そのどれにも視線をやらなかった。
「何をしに来た。私にはもう用は無いはずだが」
「あなたにはまだ果たすべき運命がある」
囁きだった。慈しみのようにも聞こえるし、ただ事実を置いただけのようにも聞こえる。神の声にはたいてい両方が混ざっていて、どちらの割合が多いのかを確かめる方法は、定命の側には無い。
男は少し黙った。
「まだあるのか」
答えは無い。
「何を果たせば終わるのかを、そちらは言わない。前もそうだった」
霧の色は変わらない。星の数も減らない。
「なら、こちらで勝手にする」
歩き出す。光は追ってきた。伸びた影の長さが変わっただけだった。
「私が私でなくなればいいだけのことだ」
背中に何か言われたのかもしれない。男は聞き返さなかった。聞き返せば答えが返るかもしれず、返ってきた答えにまた縛られるのは、もうたくさんだった。
霧が、その輪郭を順に飲んでいく。光はしばらく残っていたが、やがて夕闇に紛れて、あとには何も無かった。あるいは、最初から何も無かったのかもしれない。それを確かめた者は、その場にいなかった。
◇
その西。夜が来ても、空の一方だけが薄く赤い。
リフテンは焼けていた。
木の街だったから、燃えるのは道理だ。だが焼け方が道理ではなかった。運河の水は干上がり、底の泥が焼き締まって亀の甲羅のように割れている。石垣の表面は飴のように垂れて固まり、垂れた形のまま冷えていた。火事なら燃え残りが出る。湿ったもの、厚いもの、水に近いもの。そういうものが、この街には一つも残っていない。
桟橋だったものの上に、女が一人立っている。
黒衣の裾が焦げた板を擦った。それ以外に音は無い。夜の生き物の声も、鼠の足音もしない。生き物が戻ってくるにはまだ早すぎるらしかった。
セラーナは屈んで、地面に手を伸ばす。
灰があった。塊ではなく、薄く広がった層として。その広がりには輪郭があり、輪郭には形があった。片腕を伸ばした形。もう一つは、小さく丸まった形。
指先で触れる。冷たい。とうに冷えきっている。それでも街のどこかは、まだ細く煙を上げていた。表面を舐めた火ではこうならない。深いところまで、芯まで通った熱だ。
「……ただ燃えたのとは、違いますわね」
聞く者はいない。
◇
焼ける前のことも、街は少しだけ残していた。
宿の扉が、内側へ倒れている。蝶番ごと。押した力は、外から来ていた。
二階の梁に、爪の痕が四本。地面から届く高さではない。
通りに、細い溝が幾筋も走っていた。這った跡だ。足跡が、混じっていない。
門は、内側へ折れている。閂は無事だった。閂ごと、壁が抜けている。
セラーナは、そのどれにも名前をつけなかった。
つけたところで、確かめる相手がいない。
◇
立ち上がって、西を見る。
空の縁が赤い。ただ赤いのではなく、幅がある。長く伸びた帯のような赤で、あれが一つの村や街の火だとは思えなかった。通り道が燃えている。燃えたまま、まだ冷めていない。
足元に目を落とすと、街道の土が異様に硬い。踏み固められたというより、押し潰されている。轍でも蹄でもない、幅の広い何かが通った跡だ。その跡は、東から来て、街を抜け、西へ向かっていた。
背の麻袋に手を触れる。布越しでも、中の冷たさは伝わってきた。この弓はいつもそうだ。太陽のものでありながら、握れば骨まで冷える。どれだけ年月が経っても、その一点だけは変わらなかった。
あれは、幾日か前のことだった。それ以上細かくは、彼女の中で分かれていない。
北の海に建つ城の窓硝子が、突然鳴った。硝子だけではない。石も、水も、彼女の体の内側にある何かも、同じ拍で震えた。言葉ではなかった。言葉ではないのに、意味だけが通り抜けていった。
手にしていた本を取り落とした。落としたことに、しばらく気づかなかった。
聞き覚えのある種類の声だった。人の喉から出て、竜の骨に届く声。あれを最後に聞いたのは何十年前だったか、数えようとして、数えるのをやめた。
東の空が明るすぎることには、その前から気づいていた。夜の暗さの量が合わない。何かが東で燃え続けている。それだけなら、彼女はまだ城にいたかもしれない。
だが、声を聞いた。
あの男なら東へ向かうだろう、と思った。それだけのことだ。理由を誰かに説明したわけではないし、説明する相手もいない。彼女は扉を閉め、南へ歩き出した。
焦げた板の上で、セラーナは動かなかった。
熱が去ったあとの街は、ひどく静かだった。この静けさは、遠からず破られる。破りに来るのが西へ抜けたものなのか、それとも別の何かなのか、この時点では誰にも判じられなかっただろう。悠久を生きた目にも、初めて見るものはある。あるいは、初めてかどうかすら、生きすぎた者にはもう判じかねるのかもしれない。
彼女は袋の紐を締め直し、西の赤い帯を見ていた。