The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
第1話:四度
火は、明け方までに落ちていた。
薪を足す者がいなかったからだ。燃やすものならこの街にいくらでも残っていたが、灰のほうが先に諦めたらしい。白い煙が一筋、風の無い空へまっすぐ立ちのぼっている。
「そろそろ、参りましょうか」
アルセリウスが腰を上げた。杖の先が炭を掻いて、乾いた音を立てる。
カイラスは返事をしようとした。喉が動く。音にはならなかった。老人はそれを咎めもせず、崩れた石段の上まで登っていく。
「このあたりでよろしいでしょう。開けたところが良い」
老人の掌の上に、珠があった。
昨夜と同じ物のはずだ。だが今朝のそれは光っていない。光る代わりに、その周りの空気のほうが、少しずつ薄くなっていくように見えた。
アルセリウスが短く何かを唱える。言葉では、あった。カイラスの耳には、遠くで石臼が回るような音としてしか届かなかった。
空が、裂けた。
灰色の朝の真ん中に、縦の線が一本走る。線の縁から紫と黄色が滲み出してくる。二つの色は混ざらない。混ざらないまま、互いを押しのけ合うようにして、裂け目を人ひとり分の幅まで押し広げていった。
向こうから、風が来る。
暖かい。焼けた街の匂いではなかった。甘い。花でも果実でもない、もっと近いところで熟れているものの匂いだ。
「……戻り方は、どうすれば」
「あの方が飽きれば、戻されます」
即答だった。「飽きるまでは、何をなさっても戻れませぬ」
カイラスは頷いた。頷くしかない答え方をされている。
アルセリウスは、何か言いかけたようにも見えた。杖を持ち直す。それだけで、言葉のほうは出てこなかった。
その朝、この老人が何を知っていて何を知らずにいたのかを、確かめた者はいない。
「ご武運を」
カイラスは裂け目を見た。それから、自分の左腕へ目を落とす。垂れている。いつもと同じだ。
息を吸って、止めた。
一歩。
◇
境を越えた瞬間に、それは剥がれた。
焼けた肉と彼とのあいだに張られていた薄い膜が、肩から指先へ向かって、乾いた紙のように一息に剥がれ落ちる。
そこから先は、順序が無い。
骨の内側で炎が立つ。指の一本ずつに焼き串を通され、その串を誰かが同時に回している。肘の裏の皮膚が、いま、ゆっくりと裂けていく音がした。ネクロムの崖の上で一度だけ聞いた音だ。あの音が、止まらない。
数日ぶんが、まとめて来た。
膝が抜けて、彼は倒れる。倒れた先が土なのか石なのか、確かめる余裕は無い。
右手が、いつもの場所へ伸びていた。左の肘。頭の中が焼けていても、癖というものは最後まで残るものらしい。
これまで、そこからは「無い」が返ってきた。
今度は、有る。
叫んだ。
自分の声を、彼は聞いていない。
聞こえたのは、同じ叫びが四方から返ってくる音だった。頭上を、極彩色の羽がいくつも横切っていく。蝶だ。蝶が、人の断末魔の声で鳴き交わしている。彼の悲鳴を覚え、その形のまま、嬉しそうに繰り返している。
やがて羽の群れは散っていき、島は元の音に戻った。
◇
顔を上げる。
滝があった。崖の下から崖の上へ向かって、水が落ちている。
その向こうに街。建物は歪んだキノコの傘と、透き通った結晶とで出来ていた。傘の下に窓がある。窓には灯りが点いている。誰かが住んでいるらしい。
空は紫。雲は黄色。二つの色は、ここでも混ざらない。
美しい、とカイラスは思った。思ってしまってから、口の中を強く噛んだ。
立ち上がるのに、しばらくかかった。
草に手をつく。草は、触れると笑った。小さな、子供のような声で。
信じられるものが、この島には一つも無い。上へ落ちる水も、人の声で鳴く蝶も、笑う草も。目に映るもののどれ一つとして、彼の側についてはいなかった。
腕だけが、痛い。
痛いということは、そこに腕があるということだ。腕があるということは、その腕を提げている者がどこかにいるということになる。
カイラスは、その一点だけを握った。ほかに握れるものが無かった。
◇
道はあった。曲がりくねって、上ったり下ったりしながら、それでも一つの方向を指している。遠くに高い影が見える。宮殿だろう、と思うことにした。
橋の上に、二人いた。
金の鎧。背は彼より高い。兜の下から覗く肌にも金が差していて、生き物というより、よく磨かれた物のように見える。
「通していただけませんか」
言ってから、自分の声がひどく掠れていることに気づいた。
「通す」と一人が言う。「代わりに、何を置く」
「……何も、持っておりません」
「持っておるではないか」
もう一人が、彼の喉を指した。「さっきから、漏れておる」
言われて、初めて気づく。息を吐くたび、喉の奥で細い音が鳴り続けていた。腕が焼けはじめてから、ずっとだ。
「それを置いていけ」
金の指が伸びた。
喉に触れられた覚えは無い。ただ、次に息を吐いたとき、音は出なかった。
二人は満足そうに何かを笑い合い、道を空ける。片方が掌の中を覗き込んでは、また笑っている。何が入っているのかは、カイラスには見えなかった。
橋を渡りきるまで、彼は一度も振り返らない。
街には、人がいた。
すれ違う者が、みな彼を見る。見て、笑う。笑ったと思うと次の瞬間には泣いている。泣きながら歩いてきて、肩がぶつかるころにはもう笑っている。一秒ごとに、顔が別のものへ入れ替わっていく。
一人の女が、彼の前で足を止めた。
女は、カイラスの顔を真似た。歯を食いしばり、眉を寄せ、脂汗の浮いた男の顔を、驚くほど正確に。それから泣いた。それから笑った。周りの者が同じ顔をして、同じ順番でそれを繰り返す。
道の端から端まで、彼の顔が並んだ。
声が出せないのは、このときばかりは助かったのかもしれない。
街の外れで、彼は三度目に倒れた。
黒い鎧の女が、道端の石に腰かけていた。金の聖人たちとは違い、この女は静かだった。倒れた男を、眺めているだけで手も出さない。
声は、いつのまにか戻っていた。返してもらった覚えは無い。
「その腕」
女が言う。「要らぬのだろう」
「……要ります」
「何故だ」
カイラスは答えられなかった。
理由なら、あるはずだった。焼けて、腐りかけて、握ることも庇うことも出来ない腕だ。無くしたところで、失うものは何一つ無い。数え上げれば、置いていく理由のほうがずっと多い。
それでも、要ると言った。
女はしばらく彼を眺めていた。それから興味を失ったように座り直し、二度と目を向けなかった。
◇
玉座の間では、縄跳びが続いていた。
数える声はもう無い。跳んでいる三人は、数えるということを昨日のうちにどこかへ置いてきたらしい。
シェオゴラスは、齧りかけのチーズを持ったまま黙っていた。
「よく歩きます」
背後でハスキルが言う。
「ふん」
「四度倒れて、四度立ちました。玩具としては、いささか丈夫かと」
「玩具は壊れるから玩具なのだ。壊れぬものは家具だ」
シェオゴラスはチーズを齧った。今度は、歯が入る。青い筋の走った断面が崩れて、指を汚した。
「……迎えてやれ」
「かしこまりました」
灰色の上衣が消えたあとも、狂気の神はしばらく玉座に座っていた。
何を見ていたのかを、この島の者は誰も尋ねない。尋ねたところで、返ってくる答えが本当かどうかを確かめる手立ては、どこにも無い。
◇
宮殿は、継ぎ目の上に建っていた。
片側の壁からは蜜のような光が漏れ、もう片側の壁からは湿った甘い臭いが吹き出している。
門へ歩くあいだ、右の頬が温かく、左の頬が湿った。
門の前で、カイラスは足を止めた。
止めたというより、そこで足が終わった。ここまでに何度倒れたのかも、どれだけ歩いたのかも覚えていない。この島の日は暮れも明けもしなかったので、測る手立てそのものが無かった。
左腕は、まだ焼けている。焼け続けている。
彼は、まだ立っていた。
「お待ちしておりました」
いつからそこにいたのか。灰色の上衣を着た男が、門の内側に立っている。表情というものが、その顔にはほとんど無かった。
「ご案内いたします」
「……あの」
声が掠れる。「私が来ることを、ご存じだったのですか」
「さて」
男は答えず、背を向けて歩き出した。
カイラスは、その後ろについた。そうする以外に、思いつくことが無かったからだ。