The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
廊下は、思っていたよりも静かだった。
灰色の上衣の男は振り返らない。歩幅も変えない。それでもカイラスがよろめいて壁に手をつくたび、男との距離はちょうど追いつける分だけしか開いていなかった。速さを変えた様子は無い。
「……あなたは」
「ハスキル、と申します」
「あの方に、お仕えを」
「長く」
それだけだった。
扉が開く。
最初に耳へ入ったのは、湿った音だった。
跳んでいるのは五人。縄は彼ら自身の腹から引き出されたもので、跳ぶたびに濡れた音を立てる。誰も痛がってはいない。五人とも、同じ顔をしていた。
カイラスは、その光景から目を逸らせなかった。逸らすという動作を、体のほうが思いつかなかったのかもしれない。
「おお!」
声は、天井のあたりから降ってきた。
「来たか! 来たな! よく来た! 三度言えば本当になる!」
玉座から降りてくる。ステップを踏んでいる。片手にチーズ、片手に杖。杖を持つほうの手でも器用に拍子を取っていた。陽気だ。陽気さというものを、この神は一度も休まずに続けている。
「顔を上げよ、カイウス」
「……カイラス、と申します」
「そう言った」
シェオゴラスは、彼の正面で止まった。
近い。
そこで初めて、カイラスは自分の膝が笑っていることに気づいた。怖いと思ったからではない。怖いと思う前に、体のほうが先に済ませていた。目の裏が押される。舌の付け根が、勝手に乾いていく。この距離にいる物が何であるかを、頭より下の部分が正確に測っていた。
指一本で足りるだろう、とカイラスは思う。
思っただけで、続きは考えなかった。考えたら終わる気がした。
「腕が焼けておるな」
「……はい」
「痛いか」
「痛いです」
「よい返事だ!」
シェオゴラスが手を叩く。チーズが床に落ちた。拾わない。
「して、お前は何をしに来た」
「申し上げます。私は帝国の伝令兵で——」
「知っておる」
「……は」
「焼け跡で頷いたであろう。老いぼれに二度頼まれて、二度目で頷いた」
カイラスの喉から、音が出なくなった。
「あれをな。儂は決断とは呼ばん」
片脚を上げ、くるりと回る。
「お前は頷いたのではない。首を横に振れなかっただけだ。違うか?」
違わなかった。
「東の海でもそうだ。逃げたのではない。走る馬の上に乗っていただけであろうが」
「……」
「お前は生まれてこのかた、一度たりとも、何かを選んだことが無い」
言い終えると、シェオゴラスは実に嬉しそうに笑った。
「だからな。楽にしてやろう」
杖の先が、カイラスの胸に触れた。
「委ねよ」
その瞬間、痛みが引いた。
引き潮のようだった。骨の内側の炎が小さくなり、指に通されていた串が一本ずつ抜けていく。膝の震えが止まる。息が、深く入った。
視界の色が、増えた。
縄跳びの五人が、急におかしくなった。おかしくてたまらない。あんな音を立てて跳んでいるのに、誰も痛がっていないのだ。滑稽ではないか。笑える。笑ってしまえば、たぶんもう、何も痛くない。
口の端が、上がりかけた。
上がりかけたことに、彼は気づいた。
右手が動く。
伸びた先は、いつもの肘ではなかった。焼けただれた肉そのものを、カイラスは掴んだ。
戻ってきた。
全部、戻ってきた。
膝が石を打つ。息が詰まる。増えたばかりの色が一度に抜け落ちて、あとに残ったのは灰色と、掌の中の赤だけになった。
「……お断り、します」
掠れていた。掠れていたが、声にはなった。
「ほう」
「私は、たいした者ではありません」
息が上がっている。「英雄でも、神話でもありません。ここへ来たのも、仰る通りです。断る言葉が、見つからなかっただけです」
「では、何が不服だ」
焼け跡で、竜の血を引く男に言われたことがあった。思ったことを口にしろ、と。
「……理由もなく死んでたまるか、と」
言ってから、彼は反射で頭を下げた。
「失礼しました。そう、思っただけです」
縄跳びの音が、止まっていた。
五人が、五人とも同じ方向を見ている。
シェオゴラスは動かない。さっきまで止まらなかった足が止まり、杖の先も拍子を取っていなかった。顔から陽気さが消えたわけではない。陽気なままで、目だけが動かない。
長い。
「……ハスキル」
「はい」
「今のを聞いたか」
「聞きました」
「なんと言った」
「『失礼しました』と」
「そこではない」
哄笑が、天井を叩いた。
◇
「大公。お願いが、ございます」
カイラスは膝をついたままだった。「シロディールに、秩序が——」
「ジャガラグであろう」
即答だった。「知っておる」
「……ご存じでしたか」
「あれのおかげでチーズが熟れんのだ」
心底うんざりした声だった。
「腐るから旨いのだろうが。熟れるまで待つ物であるから待つのだろうが。待つ楽しみを取り上げて、あとに何が残る」
「では——」
「では、とは何だ」
シェオゴラスは指を一本立てた。
「儂が困っておるからといって、お前を助ける理由になるか?」
カイラスは答えられなかった。
「ならんな」
懐へ手を入れる。
出てきたのは、一枚の金貨だった。
縁の丸い、古いものだ。横顔の鼻先が平らに潰れているのは、親指の腹がいつもそこに当たるからだった。
「これで決める」
「……決める、とは」
「表が出れば、お前たちに手を貸してやる。裏なら」
にっこりと笑った。
「お前をチーズにして、この話は終わりだ」
金貨が放られる。
カイラスは右手を出した。掌に落ちた金貨は、思っていたよりもずっと軽く、そして温かかった。誰かが長いあいだ握っていた物の温度だ。
「弾け」
「……私が、ですか」
「儂がやったら、儂が決めたことになるであろうが」
片手で硬貨を弾くのは、思っているより難しい。左手は使えない。カイラスは右の親指の爪を縁に当て、指の腹で押さえ込むようにして構えた。
震えている。
震えたまま、彼は弾いた。
金貨が上がる。
回る。回りながら、天井から落ちてくる光を短く何度も撥ね返す。
落ちる。
石の床で二度跳ね、三度目に転がって、倒れた。
覗き込むまでもなかった。
裏だった。
カイラスは、床の一点を見ている。
不思議と、何も浮かんではこなかった。怖いとも、終わったとも思わない。ただ、膝の下の石が冷たいということだけが、やけにはっきりとわかった。
シェオゴラスが屈み込む。
長い指が伸びて、金貨に触れた。
くるり、と。
「ハッ!」
哄笑が、もう一度天井を叩く。「今日は表の気分だ! 良かったな凡人よ!」
「……よろしいのですか」
「何がだ」
「今のは、その」
「表であろうが」
シェオゴラスは金貨を拾い上げ、縁の埃を吹いて懐へしまった。しまい方だけが、妙に丁寧だった。
「言ったであろう。今日は表の気分だと」
それが気まぐれなのか、最初から決まっていたのか。決まっていたとして、いつ、誰が決めたのか。カイラスにはわからなかったし、この島の中で答えを持っている者がいるとすれば、それはたった一人だけだ。
「あやつのところへは、儂が行く」
「大公が、直接——」
「他に誰が行く」
シェオゴラスは玉座のほうへ歩き出した。「理屈はな、理屈で殴っても倒れんのだ。中から腐らせるに限る」
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。気持ち悪い」
杖が振られる。
「話は済んだ。帰れ」
カイラスは立ち上がろうとして、二度失敗した。三度目に立つ。
シェオゴラスは、玉座に片脚をかけたところで思い出したように振り返った。
「土産だ。持って行け」
何かが飛んできた。
反射で右手が出る。掴んだ。
剣だった。鞘に納まったまま。飾りは古いが、朽ちてはいない。柄に巻かれた革は擦り切れていたが、その擦り切れ方が、握られてきた形をしていた。
「え? あっ。はい」
「『なんとかかんとか』とか言う名のある騎士が使っていたとか、なんとか」
「……なんとか、と申しますと」
「なんとかだ。細かい男だな」
杖が二度振られると、カイラスの正面の空気が縦に裂けた。今度は紫でも黄色でもない。向こう側に灰色が見える。焼けた匂いのする、見慣れた灰色だった。
「ほれ。いつまでそこにいる。さっさと帰れ」
カイラスは剣を抱え、一度だけ振り返った。
シェオゴラスはもう彼を見ていない。ハスキルに向かって何かを喋りながら、床に落ちたままのチーズを爪先で転がしている。五人の狂王は、また跳びはじめていた。
この島では、自分が何をしても、誰かの話の途中でしかないらしい。
裂け目に足を入れる。
その日、玉座の主が本当は何を決めていたのかを、確かめた者はいない。金貨がどちらを向いて落ちたのかを見ていた者なら、あの部屋に何人かはいた。だが、それを覚えていられる造りをした者は、たぶん一人しかいなかった。