The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
雨は、夜明け前に上がっていた。
上がったところで、足元はどうにもならない。ブルーマとコロールを繋ぐ街道は、山塊の麓を東西にまっすぐ貫いている。その南側の路肩を掘り返して溝を作り、掘り上げた土を北へ積み、削った丸太を敵の来る側へ斜めに突き出させて、帝国軍はそこに一本の線を引いていた。
線と呼べるかどうかは、見る者による。
杭の並びは所々で歯抜けになっている。溝の深さも、掘った隊によってまちまちだった。深く掘った隊の前だけ律儀に水が溜まり、浅い隊の前は雨で崩れて、もう溝ですらない。丸太の先を尖らせる余裕は無かったらしく、切り口はどれも斧で割ったままの平らな面をしていた。
ベテランは、その線の三列目に立っている。
朝から二度、肩の留め具を締め直した。三度目は締めずに、指で位置だけ確かめて手を下ろす。締めすぎれば腕が上がらなくなる。緩ければ外れる。ちょうどいいところは、その日の腕の張り具合で変わるものだから、結局は何度も触るしかない。
水は、一口だけ飲んだ。
胃に入れたものも、干した肉を親指の先ほど。腹に物を詰めた者が腹を刺されると、傷口から中身が出る。出てくるものを見た兵は、たいてい自分の傷より先にそちらで参ってしまう。理屈としてどこまで正しいのかを、この男は考えたことがない。ただ、そうしてきた者のほうが多く戻ってきた。それだけだ。
匂いは、朝からずっと同じだった。
濡れた土。油を塗った革。汗。列を離れられない者が、その場で済ませた匂い。少し離れたところから、誰かが吐いた匂いも流れてくる。それが恐怖からなのか、昨夜の粥が古かったからなのかは、吐いた本人にもわからない。
前列に、逆茂木を組み終えた工兵たちが引き上げてくる。泥で膝から下が別の色になっていた。すれ違うとき、誰も何も言わない。言うことが無いというより、口を開けば余計なものまで出てくる。それを知っている顔だった。
隣で、乾いた音がした。
若い兵が、また沓をいじっている。
右のつま先が口を開けたままの、あの支給品だ。今朝はその割れ目に紐が通してあった。細い麻紐で、蝋を引いてある。爪先の革を左右から寄せて、四つ穴を開け、不器用に通して結んであった。結び目は二つ。ひとつは締まっているが、もうひとつは緩い。歩いているうちに緩んだ。
ベテランは、それを一度だけ見た。
見て、目を戻した。何も言わない。あの紐が沓を直すのかどうかは知らない。ただ、直そうとした跡があるというだけで、この列の中では上等な部類に入る。
「あの」
若い兵が口を開いた。
「今日、来ますかね」
「来る」
「……そうですか」
若い兵は、それきり黙った。しばらくして、また沓を触りはじめる。
なぜこの新兵が、入隊してからずっと自分の隊に組まれているのかを、ベテランは知らない。誰かが決めたことで、決めた者にも大した理由は無かったはずだ。名も訊いていない。訊けば、たぶん向こうは喜んで名乗る。喜んで名乗った者の顔は、あとで思い出しやすくなる。
思い出しやすい顔は、増やさないほうがいい。
陣の後ろのほうで、従軍の神官が何かを唱えはじめた。
八柱の名だ。順に、丁寧に、ひとつずつ。祈りというより、点呼に近い節回しだった。列のあちこちで兵が印を切る。ベテランも切った。切りながら、二列前で誰かが小さく、九つ目を口の中で足したのが聞こえた。
聞こえなかったことにする。
そういう耳の使い方だけは、この十数年でずいぶん上手くなった。
◇
音は、北から来た。
最初は、音だと思わなかった。
山の切れ目の向こうで、何か大きなものがゆっくり息を吸っているような、そういう震え方をしていた。管の音だ。それも、一本ではない。何十本かが同じ高さで長く伸ばされていて、その底のほうを、牛の鳴き声を引き伸ばしたような太いものが支えている。
聞いたことのない楽器だった。
節も無い。盛り上がりも無い。ただ長く、平らに、山の裾いっぱいに引き伸ばされていく。行進のための拍を取るでもなく、味方を鼓舞するでもない。あれで何かを伝えているのだとすれば、伝える相手は、こちらではない。
やがて、下から来た。
地面が、揺れた。
足の裏から、脛へ。脛から、膝の裏へ。溝に溜まった雨水の面に、細かい皺が一斉に立った。皺は消えない。消えないまま、震え続けている。積み上げた土の縁から、小石がぱらぱらと転がり落ちた。
隣で、唾を飲み込む音がした。
やけにはっきり聞こえた。喉が動く音まで聞こえるほど、周りが静かだったのだと、そこで初めて気づく。誰も喋っていない。咳をする者すらいない。
管の音は、大きくなっていく。
大きくなるというより、近くなる。近づいてくる速さから逆算すれば、この揺れを作っている足の数がどれほどのものなのか、おおよその見当はついた。見当をつけたところで、どうにもならない。
ベテランは、盾の握りを持ち替えた。
どれほどそうしていたのかは、あとで思い出せなかった。
日はいくらか高くなっている。それだけが手がかりで、そのあいだ自分が何を考えていたのかが思い出せない。考えていなかったのかもしれない。音と震えを、ただ受け取り続ける時間というものがあって、そこには長さというものが無いのだと、この男は前にも一度、どこかで思った覚えがあった。
◇
止まった。
管も、太鼓も、地面も。
まるで、誰かが手のひらで蓋をしたようだった。
静寂が、来る。
その静寂の中に、音が二つ、三つと戻ってきた。風だ。旗が湿って重くなり、はためきもせずに垂れている、その布の縁を撫でていく風の音。それから、鎧の擦れる音。誰かが身じろぎしただけの、革と鉄が触れ合う、ごく小さな音。
それがやけに耳についた。
自分の心臓の音も混ざっていたはずだが、そちらは数えなかった。
「——来るぞ!」
前のほうで、誰かが叫んだ。
叫んだ本人が誰なのかは、たぶん誰も見ていない。ただ、その一声で列全体が一段沈んだ。膝が曲がり、腰が落ち、盾が上がる。
足音が、聞こえはじめた。
管の音とは違う。もっと乾いて、もっと細かく、数えられないほど重なっている。山裾の際に、砂埃が立ちはじめた。
雨上がりの朝に、砂埃。
ベテランは、そのことに一度だけ引っかかった。濡れた土は舞わない。舞うほどの土が、あの数に踏まれて、乾かされて、砕かれているということだ。
埃の壁は、みるみる高くなっていく。
その中に影があった。輪郭が定まらない。人の背丈より高い何かが、四つ足のような動き方で埃を割って進んでいるようにも見えたが、次に目を凝らしたときにはもう別の形になっていた。旗——旗だろうか。細長い布が、竿の先で縦に垂れて揺れている。帝国の旗の垂れ方とは、揺れ方が違った。
「第一陣、突撃ッ!」
指揮官の声が飛んだ。
前列の隊が、槍を下ろす。喊声が上がった。上がったというより、絞り出された。それでも二百か三百の喉が同時に出せば、音は音になる。溝の縁を越え、逆茂木の隙間を抜けて、彼らは前へ出ていった。
泥を蹴る音。
続いて、頭上を、何かが渡っていく音。
矢だった。両側から、同時に。味方の弓が放った分と、向こうから来た分が、高いところですれ違っている。すれ違いながら、どちらも数が多すぎて、影が空にまだらな模様を作った。
魔法も混じった。
後方のブレトンの魔道兵たちが、詠唱を切り上げて撃ちはじめている。青白い光が幾筋も低く飛び、埃の壁の中で弾けた。弾けた場所だけが白くなり、白の中に影の形が一瞬だけ浮かんで、また埃に呑まれる。
向こうからも来た。
赤い。帝国のどの学派とも違う色の光が、弧を描いて落ちてくる。落ちた先で土が跳ね、人が跳ね、跳ねたものが二度と立たない。
「防御陣形!」
指示が、後ろから飛んできた。
列が動く。盾が上がり、隣の盾と縁を合わせ、二列目が斜めに差し掛ける。訓練でさんざんやった形だ。やった回数だけで言えば、この隊は悪くない。
若い兵が、動かなかった。
盾は胸の高さに構えている。膝も曲がっている。形は出来ていた。ただ、そこから先が無い。目は開いたまま、前を見ているようで、たぶん何も見ていない。呼吸だけがひどく速く、浅い。指が盾の握りに食い込んで、白くなっていた。
ベテランは、左手を伸ばした。
肩を掴む。掴んで、引く。
若い兵の体は、驚くほど軽く動いた。動いた先で、隣の男の盾に縁がぶつかり、音がして、そこでようやく若い兵は瞬きをした。
「前だ」
それだけ言った。
「前の男の背中を見てろ。それ以外は見るな」
若い兵は、何か言おうとした。口が開いて、閉じた。それから、こくこくと二度頷いた。頷き方まで、まだ何もわかっていない者の頷き方だった。
初陣は、たいていこうなる。
腕が立つか立たないかは関係が無い。訓練で百回できたことが、一回目の本番で出ない。出ないのが普通で、出る奴のほうが少しおかしい。しかも今日は相手が悪かった。海の向こうから来たという、名前しか知らない連中だ。何を持ち、何を着て、どう戦うのかを、この陣で知っている者は一人もいない。
知らないものと戦うというのは、そういうことだった。
◇
前のほうから、音が変わった。
剣戟の音だ。鉄が鉄を打つ、あの高い音。それが一つや二つではなく、無数に、重なって、途切れずに続いている。雨が屋根を叩くのに似ていた。似ているだけで、混ざっているものが違う。
雄叫び。
悲鳴。
どちらも人の声だが、そのうちどちらがどちらの側のものなのかは、聞き分けられなかった。痛がる声というのは、たぶん、言葉より先にある。
負傷者が、戻りはじめた。
戻れた者だけが戻ってくる。肩を貸されている者。腕を押さえている者。押さえるものが無くなって、押さえていない者。誰かが担架を呼び、誰かが呼ばれずに置いていかれる。列の間を縫って後方へ運ばれていく荷車の車輪が、泥に取られて何度も止まった。
一人が、ベテランの横を通り過ぎた。
顔は知らない。若い。目だけがやたらと動いていて、口が何かを繰り返している。聞き取れたのは「四つ足」という言葉だけだった。それが何を指しているのかを、彼は訊かなかった。
若い兵が、そちらを見ていた。
見て、それから、また前を向いた。前を向いたのは、言われたからだ。言われたことを守れているうちは、まだ大丈夫だ。
風向きが変わった。
埃と一緒に、匂いが来る。血の匂い。それに混じって、嗅いだことのない香の匂いがした。甘いような、焦げたような。向こうの連中が焚いているのか、それとも身に着けているものの匂いなのか。
ベテランは、口の中で舌を動かして、乾いた頬の内側を湿らせた。
盾の縁を、隣の男の盾に合わせ直す。
足の位置を、半足分だけ後ろへ引いた。押し込まれたときに、そこから踏ん張れる位置だ。
前線が、少しずつ下がってきている。
「……まずは、初戦を生き残れるかだな」
誰に言うでもなく、彼はつぶやいた。
隣の若い兵が聞いていたのかどうかは、わからない。埃はもう、そこまで来ていた。