The Elder Scrolls : Dawn of Order   作:蛾の司祭

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第6章「息を継ぐ音」
第1話:返ってきた刃


音は、一つに減っていた。

 

足音が消えたのは、地面のほうの都合だった。透き通った六角の粒が路面を埋め尽くし、その面は踏まれても音を返さない。返すという働きが、もうそこに残されていない。踵を下ろす。何も鳴らない。

 

残っているのは呼吸だけだった。

 

石柱の間隔は、間隔と呼べるものではなくなっている。腕を伸ばせば次の柱に触れる。触れたところで冷えるのは指のほうだ。柱の隙間から向こうを覗くと、同じ隙間が幾重にも重なって、その果てには何も無い。

 

空は、上にあるということ以上を、何も示さなくなっていた。

 

ネレヴァリンは歩いている。

 

足音まで無くなれば、方角を決める手立てが一つ減る。音の少ないほうへ、という決め方は、もう使えない。使えなくなったので、彼はただ前を向いた。前がどちらなのかは、さっきまで前だったほうだ、ということにした。

 

                 ◇

 

音が、二つになった。

 

足音ではない。

 

乾いたものが擦れる音だった。固く締まった雪を踏み固めるのに似ていて、似ているだけで、湿りが無い。それが規則正しい間隔で、前方から近づいてくる。

 

柱の列の向こうに、影が立った。

 

一つではなかった。

 

灰色だった。

 

背は高い。人の背丈より頭一つぶん高く、肩の幅がそれに釣り合っている。全身を覆っているものを鎧と呼ぶには、繋ぎ目が無さすぎた。胸から腹、腹から腿へと、面が角を作りながら続いている。その面に刻まれた紋様は、そこに立つ石柱の表面と同じ線だった。

 

面と面の隙間から覗いているものが、無い。

 

隙間そのものが無い。中に入っているものが有るのか無いのかを、外から言う手立ては見つからなかった。

 

手には、剣。

 

刃も柄も、透き通った六角の粒を積み上げて作られている。積み上げ方が全部同じだった。並んで歩く十数体の、どれの剣も、長さと角度が寸分違わない。

 

歩幅も同じだ。

 

肩の高さも同じ。列の間隔も同じ。それらが同じであることに気づくのは、揃っているものを見たときではなく、一つだけ揃っていないものを見つけたときだった。

 

列の後ろのほう。

 

一体だけ、背が低い。

 

他と同じ間隔で、同じ歩幅で、同じ剣を持って歩いている。ただ、背だけが低かった。人の子供と大人の差くらいには。

 

ネレヴァリンは、それを見た。

 

見て、それ以上は考えなかった。考えることが、この土地で何かの役に立ったことがない。

 

列は近づいてくる。

 

彼が来たほうへ向かっていた。

 

ネレヴァリンは道の中央に立っている。

 

右手を、剣の柄にかけた。

 

かけたまま、抜かなかった。抜くには、まず相手がこちらを見る必要がある。それを待った。

 

先頭が、彼の五歩手前まで来る。

 

三歩。

 

一歩。

 

列の間隔は、変わらなかった。

 

歩幅も変わらない。首も回らない。剣の角度も、腕の振りも、何一つ動かされていない。先頭の一体は、彼の立っている場所へ向かって、そのまま足を出した。

 

肩が、当たった。

 

固い。石に当たったのと変わらない感触が、肩から鎖骨へ抜ける。ネレヴァリンの体が半歩ぶん押され、踏み替えた足がよろけた。

 

列は、乱れなかった。

 

当たった一体も止まらない。速さも、向きも変えず、彼の横をすり抜けて過ぎていく。次が来る。次も来る。ネレヴァリンは道の端へ退いた。退かなければ、順に全部が同じことをしただろう。

 

擦れる音が、彼の脇を通っていく。

 

近い。腕を伸ばせば届く距離を、十数体が、揃った間隔で。

 

背の低い一体も、通り過ぎた。

 

音が遠ざかっていく。柱の列の向こうへ、来たときと同じ規則で、同じ速さで。

 

やがて音は一つに戻った。

 

ネレヴァリンは、柄にかけたままの手を見下ろした。

 

掌が汗ばんでいる。

 

いつからかは、わからない。手を離す。指を開いて、閉じて、また開いた。

 

外側にある、と彼は思う。

 

死ねないものは、この理の外側にある。だから数えられなかったのだろう。数えられないものは、除けもしない。

 

そう考えると、辻褄が合った。

 

合ったので、彼はそれ以上を考えなかった。

 

                 ◇

 

変化は、足元から来る。

 

緑だった。

 

この土地に、無い色だ。灰と、抜けた青と、透き通った六角。それだけで出来ていた景色の底から、濡れた緑が滲み出してくる。

 

触手だった。

 

一本ではない。石畳の継ぎ目——継ぎ目であったはずの線から、無数に。太いものは腕ほど、細いものは糸ほど。這い、絡まり、また解ける。動いている。

 

さっきの列は、動いていた。だが、あれは規則の内側で動いていた。

 

これは違う。

 

緑の間に、眼が開いた。

 

大小の別なく、瞼の形も揃わないまま、次々に。それらは瞬く。この土地で瞬いているものは、他に一つも無い。

 

触手の先が、六角の粒に触れた。

 

触れた部わから色が抜けていく。緑が灰になり、灰が透ける。輪郭が固まって、そこで止まる。石になった先端は後ろから押し出されて割れ、砕けた粉が音も立てずに落ちていった。

 

落ちた場所へ、次が来る。

 

固まる。割れる。次が来る。固まる。

 

止まらなかった。この土地に開いた傷が、塞がるより速く開き直されている。

 

「静かなことだ」

 

声が、どこから出ているのかはわからなかった。眼のどれかが喋ったのかもしれないし、緑の全部が同時に喋ったのかもしれない。

 

「静かで、清潔で、そして何も生まれん」

 

匂いが来た。

 

濡れた紙。古い墨。そこへ、甘く腐ったものが混じっている。喉の奥が勝手に締まり、唾が溜まった。ネレヴァリンは、それを飲んだ。

 

腕の毛が立っている。

 

立つのだな、と思う。

 

触手の一本が、手の甲を舐めるようにして通り過ぎていった。冷たくはない。生温い。手を引く。引いた指先に、震えが少し残った。

 

震えは、すぐに収まった。

 

ハルメアス・モラ。

 

名だけは知っている。海を渡る前——まだこちらにいたころに、どこかで聞いた。

 

「そなたは、ここへ何をしに来た」

 

「壊しに」

 

「何を」

 

「これを」

 

ネレヴァリンは、石柱のほうへ顎を向けもしなかった。指も差さない。示す必要のあるものが、ここには何も無い。

 

「壊せぬ」

 

声には、勝ち誇る色も、憐れむ色も乗っていなかった。棚の高さを言うような調子だった。

 

「そなたの持ち物に、これを壊せるものは一つも無い。剣も、術も、その死なぬ体も。そこにあるものを傷つけるには、そこに無い理を要る」

 

「有るのか」

 

「有る」

 

眼が、いくつか同時に瞬いた。

 

「失われた理は、失われたぶんだけ我のところへ来る。神を殺す理も、その内にあった。無いほうが、よほど不自然であろう」

 

眼のいくつかが、石柱のほうへ回った。

 

「あれが通れば、以後、書き足すものが出てこぬ」

 

「……」

 

「棚は、埋まったところで終いだ」

 

                 ◇

 

「値を言え」

 

「せくな」

 

触手が幾本か持ち上がり、彼の周りで輪の形を作りはじめた。作りかけて崩れ、また作りかける。

 

「先に、要らぬものを言う。記憶は要らぬ。あの山の熱がどれほどであったか、誰が何と言って死んだか、そういうものはそのまま置いていく。事実は事実として、そなたの内に残る」

 

「では、何を」

 

「重さだ」

 

輪が、閉じた。

 

「インドリル・ネレヴァルという者と、そなたを繋いでいる一本を引き抜く。抜いたあと、その名は、そなたにとって暦の隅に書かれた誰かと同じ重さになる。並べれば読める。読んでも何も起きぬ」

 

ネレヴァリンは、少しのあいだ黙っていた。

 

黙っていたのは、迷ったからではない。何を確かめておくべきかを、順に探していただけかもしれない。

 

「それで、私は私でなくなるか」

 

「そなたが何になるかは、我の勘定にない」

 

「……そうか」

 

「不足か」

 

「いや」

 

彼は言った。

 

「私が私でなくなればいい。それだけのことだ」

 

眼が、一斉に彼を向いた。

 

「そなたは、いま一つも考えなかった」

 

「考えることが無かった」

 

「そういうことにしておこう」

 

声には、それを書き留めておくような響きがあった。書き留めた先で何に使うのかは、言わない。

 

「先に一つ、言うておく」触手が、輪をほどきながら続けた。「我は貸す。譲らぬ」

 

「構わない」

 

「構わぬのだな」

 

「持っていたい物が、無い」

 

                 ◇

 

触手が、胸に触れた。

 

刺さらなかった。押しただけだ。押されただけなのに、内側から何かが引かれ始める。開いていない穴を通って、引き出されていく。

 

レッドマウンテンの熱気が来た。

 

来たので、彼はそれを見た。溶けた岩が肌を焼く距離。汗が出るより先に乾いていく空気。あの熱がどれほどであったかを、彼は今も正確に言える。言えるまま、それは温度を持たない。

 

ダゴス・ウルの最後の言葉が来た。

 

一語も落ちていない。並びも、間も、あのときの声の高さまで残っている。残っているものを彼は端から端まで確かめて、確かめ終わっても、何も起きなかった。

 

顔が来た。

 

何人分か。名も、どこで別れたかも出てくる。出てくるだけだ。

 

痛みは、遅れて来た。

 

最初は背骨の内側。次に後頭部の付け根。それから全部が一つになって、どこが痛いのかを言うための言葉が無くなる。

 

膝が落ちる。

 

手が地面を掴み、六角の縁が掌へ食い込んだ。皮が切れて、血が出る。

 

出た血は広がらなかった。落ちた形のまま、乾きもせず、そこに在る。

 

ネレヴァリンは、それを見ていた。見ていたというより、目がそこを向いたまま動かなくなっていた。

 

どれだけ続いたのかは、測る手立てが無い。日は動かない。影も動かない。数えていたはずの呼吸も、途中でわからなくなった。

 

声は出さなかった。

 

出さないと決めたのではない。出すための息が、引かれていく側に混ざっていた。

 

                 ◇

 

引かれるものが、無くなった。

 

無くなったことは、痛みが止んだことでわかる。触手が離れていく。胸に穴は無い。押された跡さえ残っていなかった。

 

ネレヴァリンは立った。

 

立つのに、思っていたほど手間がかからない。肩の位置が、少し上にあるように思えた。

 

「済んだ」

 

触手が二つ、差し出された。

 

一つには、短剣が横たえてある。刃が石だった。青みの差した緑で、割れた面の集まりで出来ている。割れ方に、法則が無い。根元には鈍い金色の板が鋲で留めてあり、その縁から細い棘が外へ向かって出ていた。柄は赤い。血の色をした石で、黒い筋が中を走っている。柄の端は鉤になっていた。細い月を横に倒したような形だ。

 

もう一つには、片手の籠手。

 

素手では持てない。

 

それだけは覚えていた。覚えていたので、彼は先に籠手を左手へはめた。留め具の位置に指が迷わない。数百年前と同じ場所にある。

 

その手で、短剣を取る。

 

柄が掌に収まった。収まる形が、記憶にあるものと違わない。彼はこれを握ったことがある。赤い山の底で、裂くべきものをこれで裂いた。その事実は、頁をめくるようにして出てくる。

 

腕の毛は、立たなかった。

 

喉も締まらない。掌に汗も出ない。さっき、触手が手の甲を通ったときには、その全部が起きた。灰色の列とすれ違ったときにも、掌は濡れていた。

 

短剣は、何も返さなかった。

 

ネレヴァリンは、刃を目の高さまで上げ、それから下ろした。確かめるべきものは、もう無い。

 

「行け」

 

声は、もう遠かった。「そなたが何をするかは、我の勘定にない」

 

緑が退いていく。

 

継ぎ目であったはずの線へ、来た順の逆をたどって沈んでいく。眼は一つずつ閉じ、閉じきる前に消えた。

 

最後の一本が沈んだあと、そこに残ったのは、固まって砕けた粉だけだった。

 

粉は、まだ落ちきっていない。落ちる途中の形のまま、宙に止まっている。

 

                 ◇

 

遥か東。モロウウィンドの内海に、一本の塔が立っている。

 

テル・ファーの一室で、四千年を数えた男が、水の張った鉢を覗いていた。

 

鉢の面は静かだ。映っているものが、この部屋の天井ではない。

 

男は、最後まで見た。

 

見終わってから、鉢の水を捨てた。水は床の溝を流れ、塔の外へ落ちていく。落ちた先に何があるのかを、この男は久しく見ていない。

 

卓には、革の表紙が厚みで反った帳が積んである。四千年ぶん、というわけではない。捨てた分のほうが、はるかに多い。

 

いちばん上の一冊を開き、いちばん新しい頁を出す。

 

見出しの一語を、彼は消した。

 

書き直しはしない。空いたところは空いたままにして、次の行から書きはじめる。書いた中身は、彼以外の誰にも読めない字だった。

 

書き終えて、帳を閉じる。

 

「……手間の多い連中だ」

 

誰に言うでもなく、そう言った。言ってから、卓の端の杯へ手を伸ばし、中身が空だったので、そのまま置いた。

 

窓の外では、灰が降っている。

 

いつからかは知らない。この塔から見える範囲では、それはずっと降っていた。

 

                 ◇

 

ネレヴァリンは歩いている。

 

短剣は腰に下げなかった。下げるための鞘が無い。籠手をはめた左手に握ったまま、彼は前へ足を出している。

 

音は、呼吸だけに戻っていた。

 

戻ったのではない。減ったところから、何も増えなかっただけだ。

 

中心は、まだ見えない。

 

見えないが、そちらから来るものは、もう何も無かった。音も、匂いも、寒気も。何も来ないほうへ向かって歩くというのが、この土地での正しい歩き方だった。

 

灰色の列は、彼が来たほうへ行った。

 

あれが着く先に、まだ何が残っているのかを、彼は考えなかった。

 

歩いていく後ろで、砕けた粉が、落ちる途中の形のまま止まっている。

 

落ちきるのがいつになるのかは、誰にもわからない。

 

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