The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
第1話:返ってきた刃
音は、一つに減っていた。
足音が消えたのは、地面のほうの都合だった。透き通った六角の粒が路面を埋め尽くし、その面は踏まれても音を返さない。返すという働きが、もうそこに残されていない。踵を下ろす。何も鳴らない。
残っているのは呼吸だけだった。
石柱の間隔は、間隔と呼べるものではなくなっている。腕を伸ばせば次の柱に触れる。触れたところで冷えるのは指のほうだ。柱の隙間から向こうを覗くと、同じ隙間が幾重にも重なって、その果てには何も無い。
空は、上にあるということ以上を、何も示さなくなっていた。
ネレヴァリンは歩いている。
足音まで無くなれば、方角を決める手立てが一つ減る。音の少ないほうへ、という決め方は、もう使えない。使えなくなったので、彼はただ前を向いた。前がどちらなのかは、さっきまで前だったほうだ、ということにした。
◇
音が、二つになった。
足音ではない。
乾いたものが擦れる音だった。固く締まった雪を踏み固めるのに似ていて、似ているだけで、湿りが無い。それが規則正しい間隔で、前方から近づいてくる。
柱の列の向こうに、影が立った。
一つではなかった。
灰色だった。
背は高い。人の背丈より頭一つぶん高く、肩の幅がそれに釣り合っている。全身を覆っているものを鎧と呼ぶには、繋ぎ目が無さすぎた。胸から腹、腹から腿へと、面が角を作りながら続いている。その面に刻まれた紋様は、そこに立つ石柱の表面と同じ線だった。
面と面の隙間から覗いているものが、無い。
隙間そのものが無い。中に入っているものが有るのか無いのかを、外から言う手立ては見つからなかった。
手には、剣。
刃も柄も、透き通った六角の粒を積み上げて作られている。積み上げ方が全部同じだった。並んで歩く十数体の、どれの剣も、長さと角度が寸分違わない。
歩幅も同じだ。
肩の高さも同じ。列の間隔も同じ。それらが同じであることに気づくのは、揃っているものを見たときではなく、一つだけ揃っていないものを見つけたときだった。
列の後ろのほう。
一体だけ、背が低い。
他と同じ間隔で、同じ歩幅で、同じ剣を持って歩いている。ただ、背だけが低かった。人の子供と大人の差くらいには。
ネレヴァリンは、それを見た。
見て、それ以上は考えなかった。考えることが、この土地で何かの役に立ったことがない。
列は近づいてくる。
彼が来たほうへ向かっていた。
ネレヴァリンは道の中央に立っている。
右手を、剣の柄にかけた。
かけたまま、抜かなかった。抜くには、まず相手がこちらを見る必要がある。それを待った。
先頭が、彼の五歩手前まで来る。
三歩。
一歩。
列の間隔は、変わらなかった。
歩幅も変わらない。首も回らない。剣の角度も、腕の振りも、何一つ動かされていない。先頭の一体は、彼の立っている場所へ向かって、そのまま足を出した。
肩が、当たった。
固い。石に当たったのと変わらない感触が、肩から鎖骨へ抜ける。ネレヴァリンの体が半歩ぶん押され、踏み替えた足がよろけた。
列は、乱れなかった。
当たった一体も止まらない。速さも、向きも変えず、彼の横をすり抜けて過ぎていく。次が来る。次も来る。ネレヴァリンは道の端へ退いた。退かなければ、順に全部が同じことをしただろう。
擦れる音が、彼の脇を通っていく。
近い。腕を伸ばせば届く距離を、十数体が、揃った間隔で。
背の低い一体も、通り過ぎた。
音が遠ざかっていく。柱の列の向こうへ、来たときと同じ規則で、同じ速さで。
やがて音は一つに戻った。
ネレヴァリンは、柄にかけたままの手を見下ろした。
掌が汗ばんでいる。
いつからかは、わからない。手を離す。指を開いて、閉じて、また開いた。
外側にある、と彼は思う。
死ねないものは、この理の外側にある。だから数えられなかったのだろう。数えられないものは、除けもしない。
そう考えると、辻褄が合った。
合ったので、彼はそれ以上を考えなかった。
◇
変化は、足元から来る。
緑だった。
この土地に、無い色だ。灰と、抜けた青と、透き通った六角。それだけで出来ていた景色の底から、濡れた緑が滲み出してくる。
触手だった。
一本ではない。石畳の継ぎ目——継ぎ目であったはずの線から、無数に。太いものは腕ほど、細いものは糸ほど。這い、絡まり、また解ける。動いている。
さっきの列は、動いていた。だが、あれは規則の内側で動いていた。
これは違う。
緑の間に、眼が開いた。
大小の別なく、瞼の形も揃わないまま、次々に。それらは瞬く。この土地で瞬いているものは、他に一つも無い。
触手の先が、六角の粒に触れた。
触れた部わから色が抜けていく。緑が灰になり、灰が透ける。輪郭が固まって、そこで止まる。石になった先端は後ろから押し出されて割れ、砕けた粉が音も立てずに落ちていった。
落ちた場所へ、次が来る。
固まる。割れる。次が来る。固まる。
止まらなかった。この土地に開いた傷が、塞がるより速く開き直されている。
「静かなことだ」
声が、どこから出ているのかはわからなかった。眼のどれかが喋ったのかもしれないし、緑の全部が同時に喋ったのかもしれない。
「静かで、清潔で、そして何も生まれん」
匂いが来た。
濡れた紙。古い墨。そこへ、甘く腐ったものが混じっている。喉の奥が勝手に締まり、唾が溜まった。ネレヴァリンは、それを飲んだ。
腕の毛が立っている。
立つのだな、と思う。
触手の一本が、手の甲を舐めるようにして通り過ぎていった。冷たくはない。生温い。手を引く。引いた指先に、震えが少し残った。
震えは、すぐに収まった。
ハルメアス・モラ。
名だけは知っている。海を渡る前——まだこちらにいたころに、どこかで聞いた。
「そなたは、ここへ何をしに来た」
「壊しに」
「何を」
「これを」
ネレヴァリンは、石柱のほうへ顎を向けもしなかった。指も差さない。示す必要のあるものが、ここには何も無い。
「壊せぬ」
声には、勝ち誇る色も、憐れむ色も乗っていなかった。棚の高さを言うような調子だった。
「そなたの持ち物に、これを壊せるものは一つも無い。剣も、術も、その死なぬ体も。そこにあるものを傷つけるには、そこに無い理を要る」
「有るのか」
「有る」
眼が、いくつか同時に瞬いた。
「失われた理は、失われたぶんだけ我のところへ来る。神を殺す理も、その内にあった。無いほうが、よほど不自然であろう」
眼のいくつかが、石柱のほうへ回った。
「あれが通れば、以後、書き足すものが出てこぬ」
「……」
「棚は、埋まったところで終いだ」
◇
「値を言え」
「せくな」
触手が幾本か持ち上がり、彼の周りで輪の形を作りはじめた。作りかけて崩れ、また作りかける。
「先に、要らぬものを言う。記憶は要らぬ。あの山の熱がどれほどであったか、誰が何と言って死んだか、そういうものはそのまま置いていく。事実は事実として、そなたの内に残る」
「では、何を」
「重さだ」
輪が、閉じた。
「インドリル・ネレヴァルという者と、そなたを繋いでいる一本を引き抜く。抜いたあと、その名は、そなたにとって暦の隅に書かれた誰かと同じ重さになる。並べれば読める。読んでも何も起きぬ」
ネレヴァリンは、少しのあいだ黙っていた。
黙っていたのは、迷ったからではない。何を確かめておくべきかを、順に探していただけかもしれない。
「それで、私は私でなくなるか」
「そなたが何になるかは、我の勘定にない」
「……そうか」
「不足か」
「いや」
彼は言った。
「私が私でなくなればいい。それだけのことだ」
眼が、一斉に彼を向いた。
「そなたは、いま一つも考えなかった」
「考えることが無かった」
「そういうことにしておこう」
声には、それを書き留めておくような響きがあった。書き留めた先で何に使うのかは、言わない。
「先に一つ、言うておく」触手が、輪をほどきながら続けた。「我は貸す。譲らぬ」
「構わない」
「構わぬのだな」
「持っていたい物が、無い」
◇
触手が、胸に触れた。
刺さらなかった。押しただけだ。押されただけなのに、内側から何かが引かれ始める。開いていない穴を通って、引き出されていく。
レッドマウンテンの熱気が来た。
来たので、彼はそれを見た。溶けた岩が肌を焼く距離。汗が出るより先に乾いていく空気。あの熱がどれほどであったかを、彼は今も正確に言える。言えるまま、それは温度を持たない。
ダゴス・ウルの最後の言葉が来た。
一語も落ちていない。並びも、間も、あのときの声の高さまで残っている。残っているものを彼は端から端まで確かめて、確かめ終わっても、何も起きなかった。
顔が来た。
何人分か。名も、どこで別れたかも出てくる。出てくるだけだ。
痛みは、遅れて来た。
最初は背骨の内側。次に後頭部の付け根。それから全部が一つになって、どこが痛いのかを言うための言葉が無くなる。
膝が落ちる。
手が地面を掴み、六角の縁が掌へ食い込んだ。皮が切れて、血が出る。
出た血は広がらなかった。落ちた形のまま、乾きもせず、そこに在る。
ネレヴァリンは、それを見ていた。見ていたというより、目がそこを向いたまま動かなくなっていた。
どれだけ続いたのかは、測る手立てが無い。日は動かない。影も動かない。数えていたはずの呼吸も、途中でわからなくなった。
声は出さなかった。
出さないと決めたのではない。出すための息が、引かれていく側に混ざっていた。
◇
引かれるものが、無くなった。
無くなったことは、痛みが止んだことでわかる。触手が離れていく。胸に穴は無い。押された跡さえ残っていなかった。
ネレヴァリンは立った。
立つのに、思っていたほど手間がかからない。肩の位置が、少し上にあるように思えた。
「済んだ」
触手が二つ、差し出された。
一つには、短剣が横たえてある。刃が石だった。青みの差した緑で、割れた面の集まりで出来ている。割れ方に、法則が無い。根元には鈍い金色の板が鋲で留めてあり、その縁から細い棘が外へ向かって出ていた。柄は赤い。血の色をした石で、黒い筋が中を走っている。柄の端は鉤になっていた。細い月を横に倒したような形だ。
もう一つには、片手の籠手。
素手では持てない。
それだけは覚えていた。覚えていたので、彼は先に籠手を左手へはめた。留め具の位置に指が迷わない。数百年前と同じ場所にある。
その手で、短剣を取る。
柄が掌に収まった。収まる形が、記憶にあるものと違わない。彼はこれを握ったことがある。赤い山の底で、裂くべきものをこれで裂いた。その事実は、頁をめくるようにして出てくる。
腕の毛は、立たなかった。
喉も締まらない。掌に汗も出ない。さっき、触手が手の甲を通ったときには、その全部が起きた。灰色の列とすれ違ったときにも、掌は濡れていた。
短剣は、何も返さなかった。
ネレヴァリンは、刃を目の高さまで上げ、それから下ろした。確かめるべきものは、もう無い。
「行け」
声は、もう遠かった。「そなたが何をするかは、我の勘定にない」
緑が退いていく。
継ぎ目であったはずの線へ、来た順の逆をたどって沈んでいく。眼は一つずつ閉じ、閉じきる前に消えた。
最後の一本が沈んだあと、そこに残ったのは、固まって砕けた粉だけだった。
粉は、まだ落ちきっていない。落ちる途中の形のまま、宙に止まっている。
◇
遥か東。モロウウィンドの内海に、一本の塔が立っている。
テル・ファーの一室で、四千年を数えた男が、水の張った鉢を覗いていた。
鉢の面は静かだ。映っているものが、この部屋の天井ではない。
男は、最後まで見た。
見終わってから、鉢の水を捨てた。水は床の溝を流れ、塔の外へ落ちていく。落ちた先に何があるのかを、この男は久しく見ていない。
卓には、革の表紙が厚みで反った帳が積んである。四千年ぶん、というわけではない。捨てた分のほうが、はるかに多い。
いちばん上の一冊を開き、いちばん新しい頁を出す。
見出しの一語を、彼は消した。
書き直しはしない。空いたところは空いたままにして、次の行から書きはじめる。書いた中身は、彼以外の誰にも読めない字だった。
書き終えて、帳を閉じる。
「……手間の多い連中だ」
誰に言うでもなく、そう言った。言ってから、卓の端の杯へ手を伸ばし、中身が空だったので、そのまま置いた。
窓の外では、灰が降っている。
いつからかは知らない。この塔から見える範囲では、それはずっと降っていた。
◇
ネレヴァリンは歩いている。
短剣は腰に下げなかった。下げるための鞘が無い。籠手をはめた左手に握ったまま、彼は前へ足を出している。
音は、呼吸だけに戻っていた。
戻ったのではない。減ったところから、何も増えなかっただけだ。
中心は、まだ見えない。
見えないが、そちらから来るものは、もう何も無かった。音も、匂いも、寒気も。何も来ないほうへ向かって歩くというのが、この土地での正しい歩き方だった。
灰色の列は、彼が来たほうへ行った。
あれが着く先に、まだ何が残っているのかを、彼は考えなかった。
歩いていく後ろで、砕けた粉が、落ちる途中の形のまま止まっている。
落ちきるのがいつになるのかは、誰にもわからない。