The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
溝は、もう後ろにあった。
掘ったのは自分たちだ。南側の路肩を掘り返し、掘り上げた土を北へ積み、削った丸太を敵の来る側へ斜めに突き出させた。越えられたのが四日前だったか、五日前だったか。数えていた者はいたのだろうが、その者ももういない。
越えられてから、線は回った。
土塁は北へ向けて積んである。その土塁が、いまは列の左手にあった。切れ目から下りてきた連中は、越えたあと東の端へ回り込み、そこから街道に沿って押してきている。だから盾は、東を向いていた。積んだ土のほうを向いていない。
自分たちが向きを変えたのではない。向かされただけだ。
線は、街道の上を西へずれていく。
ずれ方には癖があった。押されて下がるのではない。前のほうが薄くなって、薄くなったぶんだけ後ろが前になる。気がつくと、朝に踏んでいた石が足の後ろにある。それを一日に何度か繰り返して、一日ぶんだけ西へ来る。
ベテランは、まだ三列目に立っていた。
三列目のまま、間の二列が三度入れ替わっている。
匂いは、変わった。
濡れた土と、油を塗った革と、汗。あれは初日の匂いだ。今そこにあるのは、焼けたものと、腐りはじめたものと、甘く焦げた香。香のほうは、向こうの連中の身に着けているものらしい。近くで嗅ぐと、焚いた匂いではなく、擦り込んだ匂いだとわかる。
近くで嗅ぐ機会は、あった。
前の列が薄くなるたび、足元に残されていくものがある。切り落とされた腕当ての一枚。柄だけになった何か。兜と呼ぶには目のあたりが横に開きすぎている鉄。彼はそれらを、拾い上げては置いた。作りは悪くない。悪くないという以外のことは、拾ってもわからなかった。
顔は、まだ見ていない。
足元まで来るころには、どれも踏まれて形が変わっている。兜は、外れない。留め方が、こちらのものとは違うらしかった。
見た者から順に、前の列が薄くなっていく。
◇
伝達が、列を後ろへ伝わってきた。
「穂先を下げろ。腹ではない、膝だ」
言った者の顔は見えなかった。前のほうから、同じ言葉が肩越しに次へ渡されていく。ベテランは受けて、後ろへ渡した。
低く来る、ということらしい。
槍の穂先を人の腹の高さに揃えるのは、十数年、どの隊でも同じだった。そう並べておけば、向かってくるものは自分の重さで刺さる。それを膝の高さに下げろというのは、向こうがそこまで身を低くして入ってくるという意味になる。
低く入って、それから起きるのだろう。起きたときには、もう穂先の内側にいる。
初日の負傷者が口の中で繰り返していた言葉と、それが同じことを言っているのかどうかは、わからなかった。訊く相手は、あのとき通り過ぎていった。
ベテランは、自分の槍を持っていない。三列目には、槍が回ってこない。
膝の高さ、と口の中で一度だけ言った。
覚えておく分にはなる。
◇
伝令が、列の間を縫って来た。
前線の後ろで、旗の下に将校が一人、地図を広げている。将校の名は知らない。三日で三人目だ。
ベテランは、地図の読み方を知らない。
読んでいる者の顔の読み方は知っている。
将校は、炭で引かれた線の上を指で押さえたまま、その指を動かさなかった。動かさないでいる時間が長い。やがて指を上げ、線より少し左のところに新しく点を打った。
線より左。西だ。
昨日打った点も、まだ紙の上に残っている。今日の点は、そこから紙の目一つぶん左にある。
読めなくても、そのくらいはわかった。
「隣の隊は」
将校が訊いた。
「隊長は昨日でございます」伝令が答える。「代わりに入られた方も、先ほど」
「先ほど、というのは」
「……四半刻ほど前かと」
将校は、点をもう一つ打った。今度は線の上ではなく、線から離れた場所に。何を意味する点なのかは、打った本人にしかわからない。
◇
隣で、乾いた音がした。
若い兵が、また沓をいじっている。
右のつま先の割れ目に、あの蝋引きの麻紐が通っていた。四つの穴に、不器用に。ただ、結び目が三つになっている。緩むたびに足したのだろう。三つ目は爪先のずいぶん先のほうで、そこまで来ると、もう縫っているのか縛っているのかわからない。
ベテランは、それを一度だけ見た。
見て、目を戻した。
この新兵が、なぜまだ生きているのかを、彼は考えないようにしている。考えれば、生きている理由の代わりに、死んでいった者の理由を数えることになる。あれは数えるものではない。
「あの」
若い兵が口を開いた。
「持ちますかね、ここ」
「持たん」
「……そうですか」
嘘をつく理由が思いつかなかった。持たないものを持つと言えば、持たなかったときに、言った側が余分に恨まれる。それだけの話だ。
若い兵は、それきり黙った。しばらくして、盾の縁を持ち直す。持ち直した位置は、正しかった。
◇
音は、北から来た。
耳が、先に思い出した。
低い。腹に来る太さで、揺れがある。同じ高さでは伸びない。伸ばしている途中で細くなり、また太くなって、太くなるところで幾つかが揃わない。一本が途中で切れ、少し置いて、また入ってくる。
息を継いだのだ。
東の管の音とは、まるで違っていた。向こうのものは平らに長く、節も盛り上がりも無く、何十本かが同じ高さで鳴り続ける。あれを何日も聞いていると、耳のどこかが、あれを音として数えなくなる。
北のそれは、人が吹いていた。
ベテランは、その音を知っていた。
十数年前に聞いている。あのころは、こちらへ向けて鳴らされていた音だ。あれが鳴ると、その後に来るものが決まっていた。決まっていたので、覚えている。
「……角笛だ」
彼が言うより先に、前のほうで誰かが同じことを言っていた。次の言葉が、すぐ後から来た。
「スカイリムです」
伝令の声が裏返りかけていた。
「北の斜面、山の切れ目のあたり。旗が、いくつも」
「数は」
「わかりません。……多い、と」
将校は、地図から顔を上げなかった。上げないまま、紙の上の何も書かれていないあたりを、指で二度叩いた。北のことは、あの紙に何も書いていないらしかった。
「こちらへ来るのか」
誰が言ったのかは、わからなかった。ベテランかもしれない。
◇
命令は、来た。
「後ろ、向け」
列が動いた。動きが汚い。三列目が半分だけ回り、残りが回らず、盾の合わせ目が二か所で開いた。
ベテランは、回った。
回るということは、東に背を向けるということだ。
十数年、彼はそれをしないために生きてきた。背を向けるのは、逃げるときだけだ。逃げるときですら、最後の一人は向けない。
背中に、東の音が当たっている。剣戟。悲鳴。それが、見えないところで続いていた。
見えないと、音は倍になった。
若い兵も回っていた。盾を北へ向け、膝を落として、正しく構えている。構えたまま、体が細かく震えていた。震えているのを隠す余裕はもう無いらしく、隠そうとする様子も無かった。
北の斜面から、黒いものが下りてくる。
◇
帯だった。
列でもなく、隊でもない。山の低い切れ目から溢れたものが、そのまま斜面を落ちてくるように見えた。
向こうの連中が入ってきたのと、同じ切れ目だ。
近づくにつれて、ばらけていく。整うのではなく、ばらける。足の速い者が先に出て、遅い者が後ろに残り、その差をだれも埋めようとしない。旗が何本か、まるで違う高さで揺れている。同じ隊のものかどうかも、見分けがつかなかった。
盾を持っている者が、半分もいない。
ベテランは、それを見ていた。
見ながら、体のどこかが冷えていくのを感じた。あれは、受ける形をしていない。受ける形をしていないものは、受ける気が無い。
先頭が、街道まで来る。
◇
折れなかった。
こちらへ向かってきていた帯が、街道の手前で角度を変えず、そのまま横切っていった。
一人も止まらない。
並び直す者もいない。誰かが号令をかけた気配もなかった。前が走っているから後ろも走っている、というだけの走り方で、帯は帝国の列を斜めに突き抜けて、東へ流れていく。埃のほうへ。
すり抜けざま、一人が近くを通った。
大きい。ベテランよりも頭一つ半。革の下から出ている腕が、彼の腿ほどある。毛皮の縁に霜が残っていて、走る揺れで白いものが落ちた。息が白い。この気温で、あれだけ白くなるほどの息をしていた。
その男は、両手斧を肩の上に担いだまま走っていた。
通り際、斧の腹が、ベテランの盾を叩いた。
強くはない。強くはなかったが、肘から先の感覚が一度飛んだ。何かを言われたのだと思う。言葉ではなかった。音でもなかったかもしれない。
男は、そのまま行った。
一度も振り返らなかった。
◇
当たる音が、して。
そこから先は、音しかなかった。
鉄と鉄。それは知っている音だ。だが、その間に挟まっているものが違った。悲鳴の前に、笑い声のようなものが混じる。振り下ろす者が、振り下ろす前に声を出している。当たってから声を出すのが人の順序だと、彼はそう思っていた。
前を、というより北を、というより後ろを——ベテランは向き直った。
もう一度回るのに、命令は要らなかった。周りも回っている。
東の埃の中で、黒い塊が動いている。
そこに、こちらの側の並びは無い。並びを作る前に当たっているのだから、作れるはずもなかった。落ちた者を、後ろから来た者が踏み越えていく。踏み越えるのに、速さを落とさない。
ベテランは、十数年、その反対を教えられてきた。
線を作れ。合わせろ。受けろ。踏ん張れ。一人が抜ければ二人が死ぬ。それを守れなかった者が、どういう形で戻ってきたかを、彼は数えないようにしている。
あれは、線ではなかった。
線ではないものが、東へ押していた。
◇
風が、変わる。
それまで、風は東から来ていた。だから埃も匂いもこちらへ流れてきて、目を開けているのが仕事の半分だった。
その風が、止んだ。
止んだあと、逆から来た。
北から、街道を斜めに舐めるようにして。強い。列のあちこちで旗が跳ね、跳ねたあとに、初めて正しい向きへ張った。溝に残っていた水の面が一斉に立ち、露が飛ぶ。誰かの兜が転がって、拾う者がいなかった。
ベテランは、口を開けていた。
開けたつもりはない。風が入ってきたので、開いていたことに気づいた。喉の奥まで冷たいものが通っていって、そこで胸のどこかが、勝手に持ち上がる。
ただの風だったのかもしれない。
この土地で、北の風が強く吹く日は、年に何度かある。彼はそれを知っている。知っているのに、そのとき彼の体が何をしたのかは、後で思い出してもうまく説明がつかなかった。
埃の壁が、東へ押し戻されていく。
押し戻されて、初めて、その向こうにあるものの輪郭が見えた。
見えたところで、彼は目を細めた。細めて、それ以上は見なかった。前の列が薄くなる理由を、自分で作りに行く必要は無い。
◇
声が、名を呼んでいた。
一つではない。
ベテランは、その名を知っていた。この十数年、口の中でも一度も出していない名だ。神官が八柱を数えるとき、そこに無い一つ。二列前の誰かが小さく足したものを、彼が聞かなかったことにした、あの一つ。
それが、山ほどの数で、平気で鳴っている。
何十年も昔、その名のために、あの連中とこちらは殺し合った。名を取り戻した側と、名を捨てさせられた側で。取り戻した側が、いま同じ名を吠えながら、こちらの前を東へ走っている。
咎める者はいなかった。
咎める側は、こちらにいる。この列にいる。将校も、伝令も、彼も。誰も何も言わなかった。言えば、言った者が最初に自分の言葉に困る。
若い兵が、こちらを見た。
見て、口を半分開けた。
息を吸う形だった。吸って、出すつもりだったのだろう。
ベテランは、目を逸らした。
前を向いて、盾の縁を隣の男の盾に合わせ直す。合わせ直しながら、後ろのほうで誰かが咳をするような音を立てたが、それが咳だったのかどうかも確かめなかった。
そういう目の使い方だけは、この十数年でずいぶん上手くなった。
若い兵は、何も言わない。
吸った息を、そのまま吐いた。吐いてから、また盾を持ち直した。
◇
前が、動く。
下がっていたものが、下がらなくなる。
薄くなっていた二列目に、後ろから人が入ってくる。入ってきた者が、そのまま前へ出ていく。誰の命令でもない。指揮官は、まだ地図を見ている。
ベテランは、半足分前に出た。
出てから、なぜ出たのかを考えた。答えは出なかった。周りが出たので出たのだろうし、周りも同じ理由だったのだろう。
誰かが笑った。
笑うところではない。何も勝っていない。線は昨日より西にあり、隣の隊には隊長が二人分足りず、前の列は今日も薄くなる。増えたのは数だけだ。
数だけだ、と彼は思った。
思ったのに、息が深く入っていた。
◇
将校の手が、動いた。
地図を、握っている。
広げていたはずのものが、拳の中で潰れている。角のあたりから紙が裂けて、炭の線が指の腹に移り、それが手の甲まで来ていた。将校は、それに気づいていないようだった。気づいてから開いたところで、あの紙にもう線は残っていない。
伝令が、何かを訊いた。
将校は答えず、東を見ていた。
やがて、握ったままの紙を持ち上げて、それで前のほうを指した。指すのに紙を使う必要は無かったが、他に持っているものが無かった。
◇
もう一人、伝令が来た。
その伝令は、東から来ていない。
将校は紙を開いて、二度読んだ。二度読んでから、何か訊いた。伝令は首を振る。訊かれたことを否定する振り方ではない。答えを持っていないという振り方だった。
将校は、北を見た。
この十数日、この指揮所で北を見た者はいない。北には何も無い。何も無いほうを、将校はしばらく見ていた。
将校は、紙を胴当ての内側へ入れる。
入れてから、もう一度出した。出して、また入れた。
伝令は、それが済むまで待っている。
待って、命令が出ないまま、来たほうへ戻っていった。
ベテランは、それを三列目から見ていた。何が来たのかは、聞こえない。聞こえないまま、彼は列へ戻った。
◇
日が傾く。
傾いたことは、影の向きで知れた。この場所の影は、まだ向きを変える。
風は、日暮れまで北から吹いていた。
いつからそう吹いていたのかを、あとで訊かれた者はいない。訊く相手が、この列には残っていなかったし、残っていた者は、そのころにはもう別のことを数えていた。
ベテランは、三列目に立っている。
まだ三列目だった。
隣に、若い兵がいる。
沓の紐は、まだ切れていない。