The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
高いところの風は、下の天気を知らない。
雲より上へ出てしまえば、そこにあるのは光だけだった。下でどれだけ焼けていようと、上には煙も匂いも届かない。届かないぶん、そこは静かだった。
骨の竜は、その静かなところを西へ飛んでいる。
リフテンの焼け跡を発ってから、山が三つぶん過ぎた。眼下では、湖が凍りかけては溶け、川が向きを変え、また凍りかけている。人の作った線——道や畑の境や、石を積んだ垣——は、この高さから見ると、どれも似たような細さになった。
『クァーナーリン』
翼の音の合間に、骸の竜が言った。
『まだ、呼ばれん』
「ああ」
『前に言うたときからだ。あれから、幾日になる』
「数えてない」
『我は数えた』
ダーネヴィールの声には、喜んでいるとも、不安がっているとも取れる響きがあった。あの領域に縛られた魂が、こうも長く外に出ていられたことは、四千年のあいだ一度も無かった。
「檻の錠が緩んでいる、ということですわね」
セラーナが背の上で身を起こした。風が髪を後ろへ流していく。彼女はそれを片手で押さえもしない。
「錠が緩んでいるのは、たいてい、家のほうが傾いているときですわ」
『……そういう言い方をされると、喜びにくくなる』
「では喜んでいらして。わたくしは考えるほうを引き受けますから」
竜が、喉の奥で笑った。
◇
しばらく、翼の音だけが続いた。
「ねえ」
セラーナが言った。
「ソヴンガルデは、どんなところでしたの」
ドヴァキンは、すぐには答えなかった。
竜の首の付け根に片膝を立て、行く先の山並みを見ている。その姿勢を崩さないまま、やがて口を開いた。
「広い」
「広い」
「飯がある。歌ってる」
「……それだけですの」
「それだけだ。ずっとな」
セラーナは、その「ずっとな」のところで少し黙った。
「賑やかで、平和で」
男は続けた。
「……だからどこか、虚しかったな」
風の音が、その言葉のあとをすぐに埋めていく。彼はそれ以上を言わなかったし、言うつもりも無かったらしい。言い足りていないのか、言い過ぎたのか、どちらでもないのかを、外から測る手立ては無い。
「戻ってこれてよかったですわね」
「また、そのうち死ぬがな」
「今度こそ吸血鬼になりますか?」
「それも退屈だろ」
「……相変わらず失礼ですわね」
『贅沢な悩みだ』
ダーネヴィールが割り込んだ。
『こちらは死ぬことも老いることも許されておらぬというのに、生き死にを選り好みしておる。二人とも、我の前でやる話ではないな』
「アンタが笑ってるからだろ」
『笑ってはおらん』
「尾が動いてる」
骨の尾は、確かに一度、風の中で振られていた。竜はそれについて何も言わず、少しだけ高度を上げた。
◇
「俺が死んでからは、何をしてたんだ」
不意に、ドヴァキンが訊いた。
セラーナは、すぐには答えなかった。
「変わりありませんわ。城で一人ですから」
「そうか」
「本を読んで、実験をして、うまくいかなくて、また読んで。……何年も、同じことを」
『ソウル・ケルンと変わらんな』
「まあ、ひどい」
セラーナは笑った。笑ってから、少しだけ声の調子を落とす。
「それでも、棺にいたころを思えば、ずいぶんとマシですわ」
誰も、そこに何かを足さなかった。
翼が四度ほど打たれるあいだ、三人とも黙っていた。眼下で、白いものが増えていく。木が減り、岩が減り、雪だけが残っていく高さに入りつつあった。
「なんだか懐かしいな」
ドヴァキンが言った。
「そうですわね」
セラーナが答えた。
骨の尾が、また一度動いた。今度は誰も指摘しなかった。
◇
谷は、山の裏側にある。
裏側という言い方が正しいのかどうかは、上から見ている者にしかわからない。山の稜線がそこで一度途切れ、途切れた先に、地図に無いものが横たわっている。
ダーネヴィールが翼をたたんだ。
落ちるように高度が下がる。岩壁が両側から迫り、稜線の影を抜けた瞬間、風がやんだ。
やんだのではない。この谷には、そもそも吹いていない。
白い。
底に湖がある。凍っている。凍っているのに、氷の下から光が来ていた。上の空よりも、下の氷のほうが明るい。人の影が、足元ではなく顔のほうへ伸びる。
湖の縁に沿って、石の柱が並んでいた。倒れたものもある。倒れたものの上にも雪が積もり、その積もり方まで整っていた。ここでは何十年かに一度しか風が吹かないのかもしれない。
そして、社。
氷の壁を背に、石の建物が一つ。屋根の反りが、タムリエルのどの様式とも違っている。古いのではなく、繋がっていないのだ。この様式が育った先が、どこにも残っていない。
竜が湖の上へ降りた。
氷が鳴る。骨の爪が乗った場所から細い線が走り、走ってすぐに止まった。この厚さなら割れない。割れないことを、竜のほうが先に知っていたらしい。
◇
社の前に、老人が立っていた。
いつから立っていたのかは、わからない。降りる音を聞いてから出てきたにしては早すぎたし、待っていたにしては、身なりが整いすぎていた。
背が高く、痩せている。肌は雪より少しだけ青い。耳は長く、その先が下へ向いている。目のあたりの造作は、この世界のどのエルフとも似ていなかった。
老人は、喉を一度鳴らした。
「……客か」
最初の一言だけ、声がかすれた。二言目からは、そうでもなかった。
「久しいな、セラーナ殿」
「ご無沙汰しております、ギレボル殿」
「その連れは」
ギレボルの目が、ドヴァキンへ向いた。
向いて、そこで止まった。
止まったまま、老人は動かなかった。ずいぶん長いあいだ、彼はその顔を見ている。やがて、片手を持ち上げ、自分の顎のあたりで何かを測るような仕草をする。それから手を下ろした。
「……幾年、経った」
「知らん」
ドヴァキンが答える。
「数えたことがない」
「私は数えた」ギレボルは言った。「あなたがここを発ってから、この谷では雪が四十七度、湖の縁まで届いている」
「そりゃあ長いな」
「長い。人の一生よりは長い」
老人は、もう一歩近づいた。
「あなたは、老いておられぬ」
「一度死んだ」
ドヴァキンは、天気の話でもするような調子で言った。
「戻された。竜の親父の都合でな」
「では、この先は」
男は答えなかった。
ギレボルも、それ以上は訊かなかった。黙って、氷の上のどこでもないところを見ている。四千年ぶんの何かを、頭の中で並べ直しているようにも見えたし、ただ立っているだけのようにも見えた。
「……そうか」
やがて、そう言った。
「アーリエルの啓示は、そういう事だったか」
「何のことだ」
「わからぬ言葉を、長く抱えていた」
老人は、それ以上を説明しなかった。説明しないと決めたのか、説明できる形にならなかったのかは、聞いている側にはわからない。
◇
「なにやら、大地の骨が乱れている」
ギレボルは、社のほうへ歩き出しながら言った。
「数日前からだ。ここは世界の端だ。端まで来る揺れは、たいてい、真ん中で起きたものの残りかすでしかない。だが、これは残りかすの量ではない」
「トシュ・ラカと言われる者と、ジャガラグが、シロディールに現れていますわ」
セラーナが答えた。
老人の足が、半歩ぶん止まった。
「……ジャガラグ」
「ご存じで」
「名は。……名だけは」
ギレボルは、また歩き出した。
「なるほど。それでか」
「それで、とは」
「大地の骨の乱れ方だ。乱れるだけなら、戦でも起きる。だがこの数日間、乱れたところが、乱れたまま固まっている。動いていた水が、動かないままそこに在る。ああいう止まり方は、私の知る限り、生きているものはせぬ」
彼は社の階を上がった。上がってから、振り返る。
「もう一方は」
「東から来ていますわ。アカヴィリの軍勢を率いて。……自らを竜だと名乗っている者ですけれど、竜ではありません」
「では、何だ」
「わかりませんわ」セラーナは正直に言った。「ですが、竜ではないということだけは、この場の全員が同意しております」
『あれは竜ではない』
ダーネヴィールが、湖の上から低く言った。声には、はっきりと怒りがあった。
『我はあの名を口にしたくない』
ギレボルは、骨の竜のほうを見た。
「なるほど」
それだけを言って、社の中へ入っていった。
◇
社の奥は、思っていたより狭かった。
天井は高い。だが、人の使う床の面積が少ない。石の台が一つ。水の湧く口が一つ。壁に、金属の板が幾枚か掛かっている。その板の文字を読める者は、この場に一人しかいなかった。
埃が、無い。
四千年ぶんの一人分の暮らしにしては、無さすぎた。掃いているのだろう。掃く相手が来ないところを、毎日。
「弓を」
ギレボルが言った。
セラーナは、背の麻袋を下ろした。
紐をほどく。布が擦れる音が、この谷では大きく響いた。中から出てきた白銀が、氷の照り返しを受けて、初めて明るいところに立つ。
弦は、まだ張られていない。
上下に反った白銀が、途中で途切れたまま、老人の前に差し出された。
ギレボルは、受け取らなかった。
「張りなさい」
「……よろしいので?」
「私が張るものではない。私はこれを射たことがない」
セラーナは、少しのあいだ弓を見ていた。
それから、片方の端を右の足の甲に掛けた。上の腕を腿の外へ回し、体重を前へ倒しながら、ゆっくりと押していく。白銀がしなる。しなり方が、木のそれとは違っていた。反発が遅れて返ってくる。押した力が、いったんどこか別の場所へ行って、それから戻ってくるような。
「重いですわ」
「そのはずだ」
弦の輪が、上の弭に近づく。あと指一本。半分。
掛かった。
セラーナは体重を戻した。白銀が、張られた形で止まる。
弦を指で弾いてみた。
音がした。ただの音だった。
もう一度、今度は矢をつがえずに引いてみる。頬の下まで引いて、そこで止め、指をゆっくり戻した。
まだ何も起きない。
「……こんなものですの」
「こんなものだ」ギレボルは頷いた。「そこまでが、手でやることだ。あとは、こちらの仕事になる」
◇
「そこいらの武器じゃ届かん」
ドヴァキンが言った。
社の入り口の柱に肩を預けたまま、彼はさっきからずっとそこにいる。
「あのダンマーが言ってた。俺は見てない。見てないが、あいつが届かんと言うなら、届かんのだろう」
「では、なぜ弓を」
ギレボルが訊いた。
「アーリエルってのは、アカトシュのことか」
「……呼び名が違う」老人は言った。「同じとは言わぬ。だが、他人でもない」
「なら都合がいい」
ドヴァキンは肩を柱から離した。
「竜を騙る奴に、竜の光を当てる」
「乱暴な言い方ですけれど」
セラーナが引き取った。
「そういうことですわ。ただの矢で届かないのなら、ただの矢でなくすほかありません。……お願いできますかしら、ギレボル殿」
「当てる場所は」
ギレボルが訊いた。
「弾かない場所が、どこかにある」
ドヴァキンは言った。
「無い生き物は、見たことがない」
老人は、しばらく答えなかった。
石の台の縁に手を置き、そこにある溝の一本を、指の腹でゆっくりとなぞっている。何百年か、何千年か、同じところをなぞってきた者の触り方だった。
「私が最後だ」
やがて、そう言った。
「私の後に、この社を継ぐ者はいない。だから、残っているものを惜しむ理由が、もともと無い」
「……全部を、ということですの」
「全部だ」
言い方に、悲壮なところは無かった。棚から古い物を出してくるような調子で言われたので、聞いている側のほうが一拍遅れた。
「大地の骨は、この谷から南へ通っている」
ギレボルは続けた。
「途中で幾度も細くなるが、切れてはおらぬ。切れていれば、シロディールの揺れがここまで届くはずもない。届いているということは、道はある」
「その道に、光を流すと」
「流す。細い道に太いものを通すのだから、時間がかかる。押し込む前に、道のほうを整えねばならん。整えている最中に、道が向こうから塞がってくるかもしれぬ。……やってみねばわからぬことが多すぎる」
「何とかなりそうか」
ドヴァキンが訊いた。
ギレボルは、初めて少しだけ笑ったように見えた。頬のあたりが動いただけかもしれない。
「時間はかかると思うが」
そう言って、老人は台のほうへ向き直った。
「なんとか、届けよう」
◇
準備は、その場で始まった。
ギレボルは、壁の金属板を一枚ずつ外して床へ並べていく。並べる順に決まりがあるらしく、彼は一度置いたものを二度動かした。動かしてから、少しのあいだ立って見て、また動かす。
セラーナが手伝おうとすると、老人は首を横に振った。
「順番は、掃く順番と同じだ」
「掃く」
「毎朝、そこから、そこ、そこと掃く。順を変えたことがない。変えれば、どこまで掃いたかわからなくなる」
老人は、また一枚を置いた。
「板も同じだ。手が覚えている。手に訊きながらやっているのでな、脇から言われると止まる」
「……止まると、どうなりますの」
「初めからだ」
セラーナは、下がった。
下がって、床に並んでいく板の順を目で追った。追ったが、規則は見つからなかった。見つからないものを毎朝繰り返してきた者が、この谷には一人だけいる。
ドヴァキンは、外へ出た。
湖の上で、ダーネヴィールが首を低くしている。骨の眼窩の青が、社の入り口のほうへ向いていた。
『あの者は、死ぬのか』
「さあな」
『訊かぬのか』
「訊いて何になる」
竜は、それきり黙った。
氷の下の光が、二人の下で、ゆっくりと明るくなったり暗くなったりしている。何がそうさせているのかは、上に立っている者には見えなかった。
◇
谷を出たのは、日が回ったころだった。
回ったころ、というのは、この谷では日の位置が見えないからだ。氷の明るさが少し変わったのを、セラーナが見て取った。
「南へ」
彼女が言うと、ダーネヴィールは翼を広げた。
稜線を越えた瞬間、風が戻ってきた。谷の中に無かったものが、外には全部ある。
『追い風だ』
竜が言った。
『北から来ておる。……ずいぶん強い』
「都合がいいですわね」
『都合が良すぎる』
竜は、それについてそれ以上言わなかった。ドヴァキンも何も言わない。彼が風について何か思ったのかどうかは、後ろに乗っている者からは見えなかった。
◇
山を越える切れ目は、南東に一つしかない。
峰の連なりが、そこで一段だけ低くなっている。シロディールへ入るには、そこを抜けるほかない。抜けるほかないから、東から来た軍もそこを通ったし、北から下りた軍も、そこを通った。
その手前に、ファルクリースがある。
上から見ると、まず気づくのは煙だった。
無い。
一本も上がっていない。焼けた町から煙の上がらないのは、焼けてから、それだけの日が経ったということだ。
家は、焼け落ちていた。
屋根が抜け、梁が黒い骨のように残っている。石の土台だけが元の並びを保っていて、上から見ると、町の形そのものは、まだそこにあった。
囲いの柵も焼けている。焼け残った杭は、開いた形のまま並んでいた。中に何もいない。家畜を追い出してから出ていった。連れていけない数だったのか、連れていける道が無かったのか。
畑の畝は、まっすぐのままだった。畝は焼けない。
灰は、平らに積もっている。
積もったところに、形は一つも浮いていなかった。片腕を伸ばした形も、小さく丸まった形も。白いものも、無い。
セラーナは、しばらくそれを見ていた。
「……リフテンとは、違いますわね」
道に、荷車の轍が幾筋も残っている。轍はどれも西を向いている。西と、それから北。誰も東へは向いていない。
「年寄りと、子供から順にだそうですわ」
セラーナが言った。「上級王が出したのだと、聞きましたけれど」
「どんな奴だ」
「お会いしたことはありませんわ。若いという噂だけ」
「そうか」
「興味がおありでして?」
「……いや」
風が、少しのあいだ会話を切った。
「だが、民を逃がす王なんだな」
セラーナは、それについて何も訊かなかった。
訊けば、彼が誰と比べているのかを言わせることになる。言わせたところで、たぶん一言で終わる。
彼が生きていた時代、この大地には旗が二つあった。旗の数だけ人が死に、逃がす話は、どちらの側でも後回しにされた。焼けた村を、彼は幾つも通っている。通ったときに何を思ったのかを、書き残した者はいない。
いま思い出したのかどうかも、後ろに乗っている者からは見えなかった。
◇
領の南のほうへ来て、それが見えた。
黒い帯が、東から入っている。
森を舐め、畑を横切り、村を一つ潰し、その先で南へ折れていた。折れたあたりが、あの切れ目だ。
幅は、ここからでも道の何十倍かある。踏み固められたところは草が無く、周りとは色が違う。焼けた跡もあるが、焼けているのは端のほうだけだった。真ん中は、ただ潰れている。潰れたまま、乾いて、そこに残っていた。
セラーナは、しばらくそれを見ていた。
「炭で引いた線みたいですわね」
『線ではない』
ダーネヴィールが言った。
『通った者が、そこにいたというだけのことだ』
ドヴァキンは、何も言わなかった。
彼はその帯を、端から端まで目で追っていた。追い終えると、視線を先へ——帯の折れた先、山の切れ目の向こうへ移す。
そこはもう、この土地ではない。
「行くぞ」
それだけを言った。
◇
竜が、高度を上げた。
切れ目の上を抜けると、下の色が変わる。雪が減り、岩が赤みを帯び、木の並びが縦に細くなっていく。シロディールの山地だった。
遥か南に、埃が上がっている。
一本ではない。何本かが、地平に沿って横に長く連なっていた。連なった上のあたりだけ、空の色が濁っている。
風は、まだ後ろから来ていた。
ダーネヴィールの翼は、その風に押されて、打つ回数を減らしていく。打たないまま滑る時間のほうが長くなり、やがて、翼の音よりも風の音のほうが大きくなった。
三人とも、何も言わなかった。
言うことが無かったのか、言えば風に持っていかれるとわかっていたのかは、乗っていた者たちにしかわからない。
骨の竜は、埃のほうへ向かっている。
着くのがいつになるのかを、そのとき数えていた者はいない。