The Elder Scrolls : Dawn of Order   作:蛾の司祭

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第8章「空のひび割れ」
第1話:底から来る音


血の匂いが、いちばん濃くなった頃だった。

 

東西に伸びた街道の上では、まだ人が人を殺している。硝子になった帯を踏んで前へ出る者。その上で倒れる者。倒れた者を踏んで、さらに前へ出る者。埃と、熱と、鉄の錆びた匂い。地上のことは、地上で足りていた。

 

だから、空のほうを見た者は少なかったろう。

 

見た者は、はじめそれを雲だと思った。

 

雲ではない。

 

天のどこかに、細い線が入っていた。黒い。黒いというのは色の名だが、そこに色は無かった。あるべきものが無い場所が、線の形をして走っているだけだ。線は端から端へ伸び、途中で枝を出し、枝がまた枝を出す。古いものが乾いて割れるときの形をしていた。

 

音は、しない。

 

破れているのに、音がしない。

 

それが、その日の空だった。

 

                 ◇

 

ハイ・フロスガーの頂は、雲の上にある。

 

ここから見る空には、遮るものが何も無い。線は、下から見るよりずっとはっきりと走っていた。天の端から端まで。数えるつもりで見れば数えられるほどには、太かった。

 

石畳の上に、老いた竜が翼を畳んでいる。

 

パーサーナックスは動かない。首も上げていない。上げる必要が無いのだろう。頂の風が鱗のあわいに積もった雪を少しずつ削っていくのを、彼はもう幾百年か、そうして受けている。

 

——来た。

 

音ではなかった。

 

鱗の下だった。首の付け根から背へ抜けていくあたり、いちばん古い鱗が重なっているところ。そこへ、何かが通った。厚い皮を、向こう側から、ゆっくりと裂いていく。急ぐ手つきではない。急ぐ理由の無い手つきだった。

 

裂け目は、繰り返し来る。同じ間隔で。

 

羽ばたきの間隔で。

 

老竜は、目を閉じた。

 

一度だけ、これを受けたことがある。

 

受けたと言うのが正しいのかは、彼にもわからない。あのとき世界には、まだ聞くという働きが揃っていなかった。ただ翼が打たれ、打たれるたびに、終わりというものが世界へ一つずつ書き込まれていった。書き込む役を負って生まれたものが、いま、その役を思い出しかけている。

 

風が、頂を渡った。

 

『……ふむ』

 

低く、それだけ。

 

老竜は南を見た。雲の下だ。何が見えるはずもない。それでも、しばらくそちらへ首を向けたまま動かなかった。

 

『時が、無いようだぞ。ドヴァーキン』

 

声は、頂の風に乗った。乗って、斜面のどこかで消えた。

 

届く距離ではない。

 

                 ◇

 

雲の腹を下から突き上げるようにして、骨の翼が出た。

 

灰色を抜けると、そこはもう線の走る空だった。

 

前方の雲間に、長いものが入っていくところだ。

 

翼で空を打つ形ではない。蛇が水を行くように体をうねらせ、雲を分けて上がっていく。鱗が一枚ごとに日を返した。返した光の色が、竜のそれではない。

 

「追うぞ」

 

男が言った。

 

骸の竜は答えず、首を傾ける。傾けた側の翼を落とし、体をひねって高度を上げていく。上がる途中で、必要のない旋回を一つ入れた。骨の翼で風を掴む感触を、この竜はいちいち味わっているらしい。

 

ドヴァキンは何も言わない。魂の墓場から引きずり出してやった礼が、こういう形で払われることに、もう慣れていた。

 

雲を抜ける。

 

冷たい。息を吐けば白くなり、白いものは肩の後ろへ流れて消える。骨の隙間を風が抜けていく。抜けていく音のほうが、翼の音よりも大きかった。

 

その翼が、止まった。

 

打ちかけたところで止まったので、体が一度沈んだ。ドヴァキンは首の骨を掴んで踏み止まる。

 

『クァーナーリン』

 

「ああ」

 

『この気配は……』

 

言い終わらなかった。

 

男の側にも、来ていた。

 

耳ではない。喉だ。声を出すときに使う場所の、そのいちばん奥。そこへ何かが触れて、触れたまま、同じ間隔で押してくる。押されるたびに、腹の底の温いものが少しずつ後ろへ退がった。退がる先は、たぶん無い。

 

見上げる。

 

線は、近づいたぶん太くなっている。枝の分かれ目の一つが、ちょうど真上にあった。

 

『まさか口になどしておらんだろうな』

 

骸の竜の声には、笑いに近いものが混じっていた。恐れていないのではない。恐れるという働きを、この竜はソウル・ケルンで擦り減らしてきた。

 

「言った」

 

『止められたはずだ。あの老いたのに』

 

「戻ったばかりだってのに、説教された」

 

男は短く笑った。喉の奥のものは、押すのをやめていない。

 

それだけ言って、前へ目を戻す。

 

雲間には、まだ長いものの尾が残っている。

 

龍は、何も気づいていなかった。

 

上の線も、下から来るものも、あの体には触れていない。触れる場所が無い。うねりの速さは変わらず、退がる背は退がる速さのまま、雲の奥へ入っていく。

 

ドヴァキンは、一度だけ下を見た。

 

雲の切れ目の、遥か下。埃の色をした帯の中で、白銀が一度光った。

 

「……まずは、アイツだな」

 

『よいのか』

 

「どっちも来てるんだろ。順番はこっちで決める」

 

骸の竜が、喉の奥で骨を鳴らした。笑ったのだと思う。

 

翼が、雲を掻いた。

 

その日、あの高さには三つのものがいた。追う骨と、追われる長いものと、その両方の上をまだどちらにも触れずにいる何か。

 

上のものが来ていることを、追われるほうは知らなかった。

 

知っていたのは、追うほうと、その背に乗っている男だけだった。

 

知っていて、二人は別のことをした。骨は上を見た。男は、下を見た。

 

                 ◇

 

音は、一つだった。

 

石柱の根が地面に入るところを、ネレヴァリンは歩いている。根と呼べるのかはわからない。柱の下のあたりが少し広がって、その広がりが地面と繋がっているだけだ。

 

以前は、一本ずつ立っていた。

 

いまは、根のところで隣と繋がりはじめている。粒が下から上がってきて、隙間を順に埋めていく。埋まった面は、どこも同じ角度をしていた。

 

上のほうは、まだ伸びている。伸びる音は、しない。

 

音が、二つになった。

 

低い。低くて、間隔がある。土の下から来るのでも、空から来るのでもない。この土地の底のあたりから、規則正しく届いてくる。

 

ネレヴァリンは足を止めた。

 

空を見る。

 

空は、上にあるということ以上を、何も示していない。線も、色も、無い。

 

彼は前へ足を出した。

 

二つ目は、続いていた。

 

彼はそれを数えなかった。音が二つあることは、歩くうえで何の役にも立たない。

 

そのまま歩いていって、それがいつ止んだのかは、誰にもわからない。

 

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