The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
第1話:底から来る音
血の匂いが、いちばん濃くなった頃だった。
東西に伸びた街道の上では、まだ人が人を殺している。硝子になった帯を踏んで前へ出る者。その上で倒れる者。倒れた者を踏んで、さらに前へ出る者。埃と、熱と、鉄の錆びた匂い。地上のことは、地上で足りていた。
だから、空のほうを見た者は少なかったろう。
見た者は、はじめそれを雲だと思った。
雲ではない。
天のどこかに、細い線が入っていた。黒い。黒いというのは色の名だが、そこに色は無かった。あるべきものが無い場所が、線の形をして走っているだけだ。線は端から端へ伸び、途中で枝を出し、枝がまた枝を出す。古いものが乾いて割れるときの形をしていた。
音は、しない。
破れているのに、音がしない。
それが、その日の空だった。
◇
ハイ・フロスガーの頂は、雲の上にある。
ここから見る空には、遮るものが何も無い。線は、下から見るよりずっとはっきりと走っていた。天の端から端まで。数えるつもりで見れば数えられるほどには、太かった。
石畳の上に、老いた竜が翼を畳んでいる。
パーサーナックスは動かない。首も上げていない。上げる必要が無いのだろう。頂の風が鱗のあわいに積もった雪を少しずつ削っていくのを、彼はもう幾百年か、そうして受けている。
——来た。
音ではなかった。
鱗の下だった。首の付け根から背へ抜けていくあたり、いちばん古い鱗が重なっているところ。そこへ、何かが通った。厚い皮を、向こう側から、ゆっくりと裂いていく。急ぐ手つきではない。急ぐ理由の無い手つきだった。
裂け目は、繰り返し来る。同じ間隔で。
羽ばたきの間隔で。
老竜は、目を閉じた。
一度だけ、これを受けたことがある。
受けたと言うのが正しいのかは、彼にもわからない。あのとき世界には、まだ聞くという働きが揃っていなかった。ただ翼が打たれ、打たれるたびに、終わりというものが世界へ一つずつ書き込まれていった。書き込む役を負って生まれたものが、いま、その役を思い出しかけている。
風が、頂を渡った。
『……ふむ』
低く、それだけ。
老竜は南を見た。雲の下だ。何が見えるはずもない。それでも、しばらくそちらへ首を向けたまま動かなかった。
『時が、無いようだぞ。ドヴァーキン』
声は、頂の風に乗った。乗って、斜面のどこかで消えた。
届く距離ではない。
◇
雲の腹を下から突き上げるようにして、骨の翼が出た。
灰色を抜けると、そこはもう線の走る空だった。
前方の雲間に、長いものが入っていくところだ。
翼で空を打つ形ではない。蛇が水を行くように体をうねらせ、雲を分けて上がっていく。鱗が一枚ごとに日を返した。返した光の色が、竜のそれではない。
「追うぞ」
男が言った。
骸の竜は答えず、首を傾ける。傾けた側の翼を落とし、体をひねって高度を上げていく。上がる途中で、必要のない旋回を一つ入れた。骨の翼で風を掴む感触を、この竜はいちいち味わっているらしい。
ドヴァキンは何も言わない。魂の墓場から引きずり出してやった礼が、こういう形で払われることに、もう慣れていた。
雲を抜ける。
冷たい。息を吐けば白くなり、白いものは肩の後ろへ流れて消える。骨の隙間を風が抜けていく。抜けていく音のほうが、翼の音よりも大きかった。
その翼が、止まった。
打ちかけたところで止まったので、体が一度沈んだ。ドヴァキンは首の骨を掴んで踏み止まる。
『クァーナーリン』
「ああ」
『この気配は……』
言い終わらなかった。
男の側にも、来ていた。
耳ではない。喉だ。声を出すときに使う場所の、そのいちばん奥。そこへ何かが触れて、触れたまま、同じ間隔で押してくる。押されるたびに、腹の底の温いものが少しずつ後ろへ退がった。退がる先は、たぶん無い。
見上げる。
線は、近づいたぶん太くなっている。枝の分かれ目の一つが、ちょうど真上にあった。
『まさか口になどしておらんだろうな』
骸の竜の声には、笑いに近いものが混じっていた。恐れていないのではない。恐れるという働きを、この竜はソウル・ケルンで擦り減らしてきた。
「言った」
『止められたはずだ。あの老いたのに』
「戻ったばかりだってのに、説教された」
男は短く笑った。喉の奥のものは、押すのをやめていない。
それだけ言って、前へ目を戻す。
雲間には、まだ長いものの尾が残っている。
龍は、何も気づいていなかった。
上の線も、下から来るものも、あの体には触れていない。触れる場所が無い。うねりの速さは変わらず、退がる背は退がる速さのまま、雲の奥へ入っていく。
ドヴァキンは、一度だけ下を見た。
雲の切れ目の、遥か下。埃の色をした帯の中で、白銀が一度光った。
「……まずは、アイツだな」
『よいのか』
「どっちも来てるんだろ。順番はこっちで決める」
骸の竜が、喉の奥で骨を鳴らした。笑ったのだと思う。
翼が、雲を掻いた。
その日、あの高さには三つのものがいた。追う骨と、追われる長いものと、その両方の上をまだどちらにも触れずにいる何か。
上のものが来ていることを、追われるほうは知らなかった。
知っていたのは、追うほうと、その背に乗っている男だけだった。
知っていて、二人は別のことをした。骨は上を見た。男は、下を見た。
◇
音は、一つだった。
石柱の根が地面に入るところを、ネレヴァリンは歩いている。根と呼べるのかはわからない。柱の下のあたりが少し広がって、その広がりが地面と繋がっているだけだ。
以前は、一本ずつ立っていた。
いまは、根のところで隣と繋がりはじめている。粒が下から上がってきて、隙間を順に埋めていく。埋まった面は、どこも同じ角度をしていた。
上のほうは、まだ伸びている。伸びる音は、しない。
音が、二つになった。
低い。低くて、間隔がある。土の下から来るのでも、空から来るのでもない。この土地の底のあたりから、規則正しく届いてくる。
ネレヴァリンは足を止めた。
空を見る。
空は、上にあるということ以上を、何も示していない。線も、色も、無い。
彼は前へ足を出した。
二つ目は、続いていた。
彼はそれを数えなかった。音が二つあることは、歩くうえで何の役にも立たない。
そのまま歩いていって、それがいつ止んだのかは、誰にもわからない。