The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
裂け目から出した足が、水を踏んだ。
くるぶしまで沈んだ。冷たい。冷たいと感じられることが、しばらく無かったような気がする。
カイラスは膝をついた。ついてから、そこが湖の際だと気づいた。
そして、戻ってきた。
指の先から肩へ向かって、薄い膜が張り直されていく。剥がれたときと逆の向きで、剥がれたときと同じ速さだった。骨の内側で立っていた炎が、その膜の向こうへ順に押し込められていく。串が抜けるのではない。串は刺さったままで、刺さっている腕ごと、どこか遠くへ運ばれていくような。
痛みが、無くなった。
右手が、いつもの場所へ伸びる。左の肘。
触っても、他人の腕だった。
手を下ろすまでに、少し時間がかかった。
◇
立ち上がって、彼は前を見た。
湖が広がっている。向こう岸は無い。あるのは島だった。水から石の壁が立ち上がり、その上に屋根と塔が幾重にも重なって、いちばん高いところに白いものが一本。
帝都だ。
右手のほうから、石の橋がその島へ伸びていた。西の大橋。袂の関所の小屋は、屋根が落ちている。落ちた材木は、片づけられていなかった。
轍が、幾重にも重なっていた。
荷車の轍だ。どれも西へ向かって出ていく向きに付いている。跡は乾ききって、縁のところが崩れかけていた。一度雨が来て、そのあとに日が何日も当たった跡だった。
カイラスは、それを見た。
あの島にいたのは、一日か、二日か。玉座の間で膝をついていた時間と、回廊を歩いた時間を足しても、そのくらいのはずだ。痛みも、数日ぶんが来ただけだった。
轍は、それより長い。
合わない。
合わないままにして、彼は橋のほうへ足を向けた。あの島で起きたことのうち、勘定に合ったものは一つも無かった。これも同じことだろうと思うことにした。
そのとき、水に映っているものが目に入る。
黒い線だった。
顔を上げる。
天のあちこちに、細い黒が走っていた。雲ではない。雲は雲として、その下を流れている。線は雲より上にあり、雲が動いても位置を変えない。端から端まで伸びて、途中で枝を出し、枝がまた枝を出している。
音は、しない。
カイラスは、しばらくそれを見上げていた。見上げていることに意味は無かったが、目を戻す理由も、すぐには見つからなかった。
◇
岸から少し離れたところで、景色が二重になった。
石と、水と、その向こうの島。それらがもう一枚重なり、重なったほうが薄くなって、薄いほうから人が出てきた。
「——おお」
ローブの裾が水を吸った。老魔術師は自分の足元を見て、それから顔を上げた。
「戻られましたか」
「アルセリウス様」
言ってから、カイラスは自分の声が枯れていることに気づいた。あの島で、最後に水を飲んだのがいつだったのかは、思い出せない。
「どれほど、経ちましたでしょうか」
「日で申しても、あなたの役には立ちますまい」
老魔術師は袖から布を出し、杖の柄を拭いた。拭くほどの汚れは、そこに無い。
「何が、起きているのでございましょう」
答えは、返ってこなかった。かわりに杖の先が上がって、北を指した。
カイラスは、そちらを向いた。
湖の向こう、遠くにブルーマの山塊がある。険しい灰色が、地平から立ち上がって空を切っていた。その裾のあたりに、低い帯がかかっている。
雲ではない。色が違う。土の色をしていて、下が濃く、上へいくほど薄れて空に溶けている。煙なら、風で流れる。風は西から吹いていた。それなのに帯は、そこから動かなかった。
湧く量と、流れていく量が、釣り合っているのだろう。
あれだけの砂を立て続けるには、何が要るのか。カイラスは考えかけて、途中でやめた。数のことを考えると、腹の底が冷えた。
「北でございます」
杖が、少しだけ西へ回った。ほんの少しだ。
そちらは、静かだった。
静かすぎた。森が見える。木の連なりというものは、遠くから見れば縁が毛羽立っているものだ。それが、糸を張ったようにまっすぐだった。まっすぐな縁が、日を一様に返している。木が光るはずはない。
コロールの方角だ。あの森を、彼は歩いたことがある。葉の一枚ずつが六角の粒に置き換わり、倒れた馬車が種類ごとに分けられていた。
「北西でございます」
杖は、二つの帯を順に指したきりだった。
カイラスは、その二つを見比べた。
地平の上で、土の帯と、まっすぐな縁は、端が触れそうなほど近くにある。近づいたあたりに、どちらの色でもないものが見えた。何色なのかは、この距離ではわからない。色が定まっていないもののように見えた。
「あの、あいだは」
「あいだでございます」
老魔術師は、それしか言わなかった。
杖が下りかけて、途中で止まり、今度は南東へ動いた。
そちらに、赤いものがあった。
火ではない。火は上へ立ちのぼる。あれは湧いて、途中で潰れて、また湧いていた。潰れるたびに、周りの空気が歪んで見える。
カイラスは、それを知っていた。
見たことがあるのではない。絵で見た。帝都の市場の壁に、古い絵が描いてある。誰も塗り直さないので端のほうから剥げていて、何を描いたものなのかは、子供でも知っていた。二、三百年前の絵だ。
あの絵の中では、赤いものは一つだった。
いま、三つあった。
「あれは」
「ご存じの通りでございます」
カイラスは、北と、北西と、南東を順に見た。順に見て、最後に足元の水を見た。
三方から来ていた。どれも、この島のほうへ向かっている。
帝都はその真ん中にあって、真ん中にあるという以外に、何の理由も持っていない。
「……間に合いますでしょうか」
「杭は、八つでございました」
「杭、と申しますと」
「白金の塔の根に打たれるべきものが、八つ。……あの日、議場の高みにいた長衣を、覚えておいでですか」
「……はい」
黒に、金の刺繍。欄干に手をかけて、下を見ていた。カイラスのほうは見ていなかった。
「七つ、入りました」
風が、湖の面を渡っていく。渡っていって、途中で止まった。止まった先の水面は、風が来ているのに動かない。一区画だけ、板を置いたように平らだった。
カイラスは、そちらを見ないようにした。見ないようにできる程度には、あの日から学んでいた。
「なぜ、そんなに早く」
「混沌が増えるほど、あの者らの手は速くなります。境が緩みますゆえ」老魔術師は杖を持ち直した。「本来、八つ打つには年月が要ります。大地の骨は太い。太いものを細工するのは、細いものを壊すよりも手間でございます」
「なぜ、八つなのでございましょう」
「八柱ぶんでございます」
カイラスは、数えた。数えるまでもなかった。子供の頃に順を覚えさせられて、覚えたきり、一度も疑ったことのない並びだ。
八まで数えて、一つ余った。
「九つ目は」
「椅子でございます」老魔術師は湖の面を見ていた。「長らく、空いておりました。空いていて当然のものとして、空いておりました」
「そこへ」
「人が、座りました」
カイラスは、その名を口には出さなかった。出せば咎めを受ける名だと、この頃は誰もが知っている。彼の生まれた村にも、かつては小さな祠があった。今は、土台の石だけが残っている。
「あの者らが許せぬのは、人が神になったことではございませぬ」
老魔術師は、そこで初めてカイラスのほうを見た。
「座れる椅子が在った、ということのほうでございます」
風が来た。
「では、九つ目には」
「はい」
それだけだった。老魔術師は、それ以上を言わなかった。カイラスも、それ以上を訊かなかった。訊いたところで、答えは椅子の話のままだろう。
カイラスは、右手で空を指した。
「あれは、何でございましょう」
老魔術師は上を見た。
見て、黙っていた。杖を持ち直し、もう一度見上げ、それから目を落とした。
「あれは、私どもの止めるものではございませぬ」
「では、何を——」
「……いつ、とだけは存じませぬ」
この人がそう言うのを、カイラスは初めて聞いた。
◇
橋の上は、風の通りが良かった。
良すぎた。人が一人もいない橋というものを、彼はこれまで見たことがない。荷車も、物売りも、通行料を取る兵も。誰もいない石の帯が、まっすぐ島へ続いている。
門をくぐった。
くぐった先で、二つの匂いが同時に来た。
焦げた匂い。それと、匂いの無いほう。
通りの右側は燃えていた。屋根が抜け、梁が落ち、その隙間から人の声が上がっている。悲鳴も、号令も、混じったまま。
通りの左側は、静かだった。
石畳の目地が、どれも同じ幅に揃っていた。並んでいた家の壁が、壁というより面になっている。角が立ちすぎている。窓の桟が、透き通った六角の粒に置き換わり、その粒が隙間なく積み上げられていた。
境目は、一本の道だった。
道の真ん中で、灰色が黒と噛み合っていた。
灰色は、背が高い。人より頭一つぶん高く、全身を覆う面に継ぎ目が無い。手にした剣は、六角の粒を積み上げて作られている。黒のほうは角が生えていた。赤黒い皮膚に、黒い甲。
灰色の剣が、角の生えたものの脇を通った。通ったところから、赤黒いものが崩れて、崩れた粒が石畳の上で並びはじめる。角の生えたものの仲間が、横から灰色を打った。灰色の肩の面に線が入り、線に沿って砕けた。
どちらも、声を出さない。
帝国の防衛隊は、そのどちらとも別のところで戦っていた。三人一組で角の生えたものを囲み、押し込んで、また下がる。灰色のほうへは、誰も近寄らない。
近寄らないほうが良い、と誰かが決めたのではない。近寄った者が、もういないだけだ。
「こちらへ」
老魔術師が、燃えている側を選んだ。
◇
四つ目の角で、老魔術師が足を止めた。
「道を、見ます」
懐から出した掌の上で、それは瞬いた。
瞬いて、消えた。もう一度瞬く。三度目までの間隔が、揃っていない。カイラスは、あの日議場で見たものを覚えていた。あのときは、脈のように一定だった。
「……おかしい」
「見えませぬか」
「見えぬのではありませぬ。……いや、見えぬのです。見えぬのですが、それは——」
老魔術師の口が、そこから速くなった。
「西に静止、東に破壊、そこへ狂気まで出てきております。北では偽りの龍と、真なる竜が本気で噛み合っておる。理が、片端から形を失っておるのです。映すという働きは、映される側が形をしていて初めて成り立ちます。いま、この世界は——映されるための形をしておりませぬ」
「では、この珠は」
「壊れておりません」老魔術師は掌を見た。「壊れていないほうが、厄介でございます」
見せていないのか、見えていないのか。
カイラスには、その二つの違いがわからなかった。わからないまま、掌の上のものを見ていた。
だから、来るほうを見ていなかった。
音は、湿った布を強く振ったときのそれに近い。
横から光が来て、老魔術師の体が半歩ぶん浮いた。浮いたまま、横へ飛ぶ。ローブが石畳を擦り、擦った先で止まる。
通りの向こうで、角の生えたものが手を下ろしていた。下ろして、もうこちらを見ていない。次の相手を探している。狙ったのではなく、そこにいたから撃った、という手の下ろし方だった。
掌から、珠が離れていた。
石の上で、硬い音を二度立てる。それから転がりはじめた。目地に沿って、傾いているほうへ。段を一つ落ちて、跳ねて、また転がる。
カイラスは、そちらへ行かなかった。
膝をついたのは、老魔術師の側だ。
「アルセリウス様」
ローブの右の腿が、無かった。布が焼け落ち、その下のものが黒く縮んで、縮んだ縁から赤いものが覗いている。老魔術師の口が動いた。
「私はよい」
「しかし」
「珠を」
カイラスは振り返った。
珠は、まだ転がっていた。
転がって、止まった。
止まったのは、平らな場所ではない。掌の中だった。
黒に、金の刺繍。
「オンカノ」
老魔術師の声は低かった。低かったが、この距離でも届いた。
ハイエルフは、掌の中のものを見ていた。指で一度転がし、それから目の高さへ持ち上げて、光にかざす。
「揃った」
言い方は、静かだった。
「長く探しました。……いや、探すほどのことでもございませんでしたな。こういうものは、いつも転がってくる。誰の手からか、勝手に」
カイラスは、右手で剣の柄を握った。
握ったところで、相手はもう彼を見ていた。見ていて、笑った。
笑い声が、燃えている側の音を超えて上がっていく。喉から出しているというより、喉の奥にずっと溜めてあったものが、いま初めて外へ出たような笑い方だった。
指が上がる。
白いものが走った。
石畳が持ち上がり、目の前で光が横に広がる。老魔術師の左手が、地面についたまま前へ出ていた。倒れたままで、指だけが形を作っている。
光が消えたとき、黒と金の長衣は、もうそこに無かった。
◇
「追ってください」
老魔術師は、右手を自分の腿へ当てていた。指の隙間から白いものが漏れている。漏れた白は、焼けて縮んだ縁のところまで来て、そこで止まっていた。
「あの者は、白金の塔の地下へ参ります。八つ目は、もう打たれておりましょう」
「アルセリウス様は」
「繋いでから、参ります」
老魔術師は、自分の手元を見たまま言った。
「歩ける形にするだけでございます。繋ぐのと治すのは、別のことでして。……それでも、少々」
白いものが、また縁のところで止まった。老魔術師の指が、位置を変える。
「その少々を、待ってはいただけませぬ」
「私が」
言いかけて、カイラスは止まった。
止まって、言い直した。
「しかし、私だけでは」
「神話に縛られない者にしか出来ない事もあります」
老魔術師は、それだけ言った。理由の説明はしなかった。この人が説明をしないのは、説明できないときか、説明しても意味が無いときのどちらかだ。カイラスには、どちらなのかがわからない。
彼は、剣の鞘を右手で腰に押し込もうとした。
うまく入らない。左が使えないので、押し込む手と支える手が同じ一本になる。二度やり直して、三度目に入った。
立ち上がる。
近くの角で、防衛隊の兵が盾を並べて下がってきていた。三人。カイラスは、そちらへ声を出した。
三人は、彼の袖を見なかった。垂れた左腕を見て、それから顔を見る。誰も、何も訊かなかった。
一人が言った。
「地下へは、こちらです」
道を知っている者がその場にいたことは、その日のうちで、いちばん小さくて、いちばん役に立った幸運だった。
塔の影に入ると、空の線は見えなくなった。
見えなくなっただけで、無くなったわけではない。そのことを、あのとき塔の下へ降りていった者たちのうち幾人が考えていたのかは、誰にもわからない。