The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
第1話:掃く順番
忘れられた谷に、日は差さない。
明るいのは氷のほうだ。谷を埋めている氷の、そのずっと下で何かが光っていて、その光が厚みを通ってくるあいだに冷たくなり、冷たくなったものが上へ出てくる。だから谷は明るいのに、暖かくない。
太陽の社には、音が一つあった。
板を置く音だった。
ギレボルは、まだ並べている。壁から外した金属の板を、床の決まった位置へ、一枚ずつ。並べ終わっていない。数時間か、それとも数日か、そのくらい前から並べているはずだった。
彼は数えなかった。
数える必要が無い。この谷で数える価値があるものは雪の回数だけで、それは四十七で止まっている。
最後の一枚を置いた。
置いてから、少し離れて見た。それから戻って、その一枚を指の幅ほど動かした。
動かして、また離れて見る。
「……よし」
老人は、自分の手に向かって言った。
社の奥へ歩いていく。歩幅は変わらない。膝が上がりきっていないのは、昨日からのことではなかった。
石の台の前で、彼は膝をついた。
台の縁に、溝が刻まれている。何本もある。彼は、そのうちの一本の上へ両手を置いた。毎朝なぞってきた一本だ。どれが一本目なのかは、掃く順番と同じように、手のほうが覚えている。
目を閉じた。
四千年ぶんが、そこにあった。
守るために貯めたのではない。貯めるつもりも無かった。ただ、使う相手が来なかったので、減らずにいたというだけだ。掃いても掃いても誰も歩かない床と、同じことだった。
老人は、押した。
音は、しなかった。
社の床の板が、順に明るくなっていく。並べた順にだ。一枚目から、二枚目、三枚目。決まりの見えない順序で、光が床を渡っていく。
渡りきったところで、床が抜けた。
抜けたように見えただけだった。光が、石の下へ入っていったのだ。
氷の中の何かが、一度だけ強く光った。
強く光って、そのまま南へ動いた。
ギレボルは、目を開けなかった。
「……細いな」
言って、もう一度押した。
◇
ブルーマとコロールを繋ぐ街道の上では、まだ人が死に続けている。
空は割れたままだ。割れ目は増えている。日の光は、その割れ目のせいなのか煙のせいなのか、地上まで届く量が減っていた。誰もそれを喜ばなかったが、一人だけ、少しだけ動きやすくなった者がいた。
女は、街道の北側の土手の上にいた。
高いところではない。人の背の一つ半ほど。そこに立って、弓を引いている。
引き方に、力みが無かった。
弦を頬の下まで引き、指を離す。離した直後には、次の矢がもう指にある。矢筒から抜くのではない。左手の三本の指のあいだに、あらかじめ三本を挟んで持っている。減ったら足す。足すときだけ、少し遅くなる。
矢は、遠くまで飛ばさない。
飛ばす必要が無いからだ。彼女が狙っているのは、この土手を登ってこようとしている者たちだった。二十歩から、三十歩。当たる場所は、たいてい喉か、目のあたり。
土手の下には、もう積もっている。
「そこの女!」
下から声が飛んだ。
「右だ、右から回ってる!」
「存じておりますわ」
言い終わる前に、彼女は右を向いていた。
弓は引かない。左手を開いて、その先の空気を掴むように握る。
音が、鳴った。
右手側の斜面を登りかけていた四つが、まとめて後ろへ倒れた。倒れたのではない。押されて、飛んで、それから倒れた。斜面の土が、その四つの分だけ抉れて後ろへ流れていく。
彼女は、また弓を構えた。
構えながら、口の端で少し息を吐いた。
疲れている。人のようには疲れないが、疲れないわけではない。人のように疲れないぶん、どこがどう減っているのかが、自分でもわかりにくい。
朝から数えて、何本射たのかは覚えていない。
覚えているのは、右の指の腹が、そろそろ言うことを聞かなくなってきていることだけだ。
◇
シグヴァルドが土手を上がってきたのは、そのあとだった。
上がってきたというより、途中まで駆け上がって、残りは斧の柄を杖にして這い上がってきた。兜は無い。どこかで失くしたか、捨てたかしたらしい。額から顎まで、血が一本の線になって乾いていた。
彼は上がりきると、まず膝に手をついて、二度大きく息をした。
それから、下を見た。
土手の下に積み上がっているものを、目で数えている。数えて、途中でやめたのがわかった。
「アンタ、相当な使い手だな」
「大したことありませんわ」
彼女は下を見ずに答えた。
「大したことある奴の言い方だ、それは」
「……そう聞こえますかしら」
シグヴァルドは、笑った。
血のついた顔で笑うと、歯だけが白く見える。この男は、朝からずっとこうだった。誰かが死ぬたびに一度黙り、黙ったあとで必ず何か言う。言う内容はどうでもよく、言うこと自体に用があるらしい。
「ルーデウス!」
土手の下へ向かって、彼は吠えた。
「左の列、前へ出しすぎだ。半歩下げろ。硝子の上に足を置くな、滑る!」
返事は聞こえなかった。聞こえないところで動いた気配だけがあった。
シグヴァルドは、また前へ向き直る。
「アンタ、あの空の男の連れだと聞いたが」
「連れというほど立派なものではありませんけれど」
「そうか」
彼は斧を持ち直した。
「なら、なぜここにいる」
女の指が、弦から少し離れた。
離れて、また戻る。
「……頼まれましたので」
「そりゃ、答えになってねぇな」
「あら」
彼女は、そこで初めて彼のほうを見た。
「あなたのお国では、頼まれて来た者に理由まで訊きますの」
シグヴァルドは、少しのあいだ黙った。
黙ってから、大声で笑った。笑い声は土手の下まで転がっていって、下にいた何人かが、何事かと上を見た。
「訊かねぇな。悪かった」
「よろしくてよ」
女は前へ向き直った。
向き直りながら、片手を上げる。
上げた手の先で、空気が鳴った。
斜面の中腹に、赤いものが二つ、湧いたばかりだった。歪んだ空気ごと、そこにあるものが白く裂ける。裂けたところへ、続けて別の音が落ちた。低い。落ちた場所の土が持ち上がり、持ち上がったまま黒くなって、それから崩れた。
崩れたあとには、何も残っていない。
シグヴァルドは、口を開けたまま見ていた。
「……おい」
「なんですの」
「今のを、朝からずっとやれたんじゃないのか」
「やれましたわね」
彼女は矢を一本抜いた。
「ですが、やってしまうと、あとが続きませんの。……取っておかねばならないものがございますので」
「何のために」
「一発ぶん」
それだけ言って、彼女は空を見上げた。
割れた空の、東の端のあたり。何かが、雲の下へ降りてこようとしている。まだ形にはなっていない。ただ、雲の腹の色が、そこだけ違っていた。
シグヴァルドも、そちらを見た。
見て、斧を握り直した。
「……なるほどな」
◇
光は、地の下を進んでいた。
進んでいた、と言えるのかはわからない。押されているだけだったのかもしれない。
道は細く、途中で幾度もさらに細くなった。細くなるたびに、後ろのほうから同じだけの量が押し込まれてくる。押し込む側には、押し込む以外の手が無かった。
その日、スカイリムのいくつかの場所で、地面が明るくなった。
雪の下からだ。積もった雪が下から照らされて、その一帯だけが、夜でもないのに青く見えた。見た者は少ない。多くの土地では、見る者がすでにいなかった。
ファルクリースでは、誰も見なかった。
人が一人も残っていない。焼け落ちた家の骨組みと、焼けなかった畑の畝だけが、そのまま置き去りにされている。その下を光が通っていったとき、井戸の水が一度だけ底から明るくなり、明るくなったことを誰にも告げないまま、また暗くなった。
山の低い切れ目を、光は下から潜った。
そこは、東から来た者たちが降りてきた道だ。踏み固められた土の上に、まだ蹄と車輪の跡が残っている。跡の隙間から、細い線が幾筋か浮かび上がって、消えた。
同じ道を、逆の向きに、別のものが通ったことになる。
そのことに意味があったかどうかは、わからない。大地の骨というものは、上を歩く者の都合で引かれてはいないのだろう。
◇
土手が、明るくなった。
下から、だった。
女の足元の土に、細い線が走った。走って、枝を出す。空に走っているものと形は似ていたが、色が逆だった。空のそれは、あるべきものが無い場所だ。地面のそれは、無いはずのものが在った。
線は、彼女の立っている場所へ向かって集まってくる。
「な——」
シグヴァルドが、後ろへ一歩下がった。
下がってから、下がったことを恥じたように、また半歩戻った。
土が割れたわけではない。土はそのままで、その隙間という隙間から光が出てきていた。草の根のあいだ。石の縁。踏み固められた道の、車輪の跡の底。
光は、彼女の足の下まで来て、そこで上へ向いた。
白銀が、鳴った。
弦ではない。弓そのものが鳴っていた。彼女の左手の中で、上下に反った金属が、握りのところから先へ向かって順に熱を持っていく。熱いのではない。熱ではないものが、熱の速さで通っていく。
女は、握りを持ち替えた。
一度だけ。
持ち替えた指のあたりが、光の中で少し色を変えていた。彼女はそれを見なかった。見る必要も、たぶん無かった。
弓は、まだ鳴っている。
彼女は弦を引いた。矢はつがえていない。頬の下まで引いて、そこで止めて、指を戻した。
音がした。
ただの音では、なかった。
「……流石ですわね」
誰に言ったのかは、その場では誰にもわからなかった。
シグヴァルドが、口を開いた。
「今のは、何だ」
「北からですわ」
「北って、どこの北だ」
「ずっと北ですの」
彼女は弓を下ろし、右手の指を一度握って開いた。指の腹は、まださっきのままだ。それでも、握りは前より深く入った。
「掃除の行き届いた場所から、届きましたわ」
シグヴァルドには、その意味がわからなかった。
わからなかったが、訊かなかった。この女に理由を訊くのは、さっき一度やってやめたところだ。
彼は土手の縁まで歩いて、下を見た。
「ルーデウス! 前を維持しろ、下がるな! 光ったのは味方だ!」
――たぶんな、と続けたのは、下まで届かない声だった。
その日、あの谷で誰かが最後に何を並べ終えたのかを、南にいた者たちは知らない。届いたものは、届いた側にとってはただの光であり、送った側にとっては、四千年ぶんの掃く順番だった。