The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
雲の腹が、下がってきた。
下がったのではない。何かがその中で動いていて、動いたぶんだけ雲が押し下げられていた。腹の色が、円を描いて濁っていく。円は広がりながら南へ流れ、流れきる前に、また新しい濁りがその内側にできる。
戦場の音が、順に減っていった。
前のほうから減る。斧が止まり、剣が止まり、悲鳴が止まる。止めた者たちは、みな同じ方向を見上げていた。
シグヴァルドは、斧の柄を握ったまま動かなかった。
「……ルーデウス」
「は」
「弓は、まだ何束ある」
側近は答えなかった。答えられる数え方を、この場ではもう誰も持っていなかったからだ。
雲が、裂けた。
裂け目から出てきたものは、長かった。
翼で空を打つ形ではない。細く、長く、体そのものをうねらせて空を進んでくる。頭のあたりから左右へ、髭とも角ともつかないものが後ろへ流れていた。鱗が一枚ごとに違う角度で光を返し、返した光が地上まで届いて、兵たちの顔を順に照らしていく。
美しかった。
美しいと思った者が何人かいて、そう思ったことを、そのあと恥じた。
『――遅い』
声が、来た。
音として来たのではない。地面から来た。踏んでいる土が震え、震えが足首を上がってきて、膝の裏で言葉になった。
『時は、我が腹の中にある』
長いものは、戦場の上でとぐろを巻いた。巻いて、止まった。止まったところで、風が止んだ。
『竜と名乗るものが、この世に幾つあった。喰らった。喰らって、腹に納めた。納めたものは、我のものとなる』
シグヴァルドの隣で、若い兵が膝を折った。折ってから、自分で立ち上がった。
『時の流れも同じことだ。誰かが流していたものを、我が流す。それだけのことに、なぜ名が要る』
長いものの頭が、ゆっくりと下を向いた。
見下ろされた者たちは、見下ろされたことに気づかなかった。あまりに大きいものが上にあると、それが自分を見ているのかどうかは、下からはわからない。
『新たな理を、我が敷く。古きものは、これより我の腹の中で、我の時を流すがよい』
そして、空気を切る音がした。
骨の翼だった。
雲の下を横から抜けてきたそれは、長いものの頭のずっと上を、大きな弧を描いて過ぎていく。
上に、男が乗っていた。
「傲慢だな」
それだけ言った。
◇
最初に鳴ったのは、男のほうだった。
『Yol- Toor- Shul』
言葉が、形を持った。
橙の帯が、空を横に走る。走った先で長いものの首に当たり、当たったところで散った。散った火の粉が下へ落ちていき、地上に届く前に消える。
首は、そのままだった。
焦げてもいない。
『――ほう』
長いものが、首をもたげた。
『声で語るか。懐かしいことをする』
顎が開く。
開いた奥に、赤が溜まっていた。
『焚- 天- 灰』
音が、違った。
男のそれは、喉から出て前へ飛んでいくものだった。長いもののそれは、出た瞬間には空の全部を占めていた。前も後ろもない。ただ、そこが赤くなった。
骨の竜は、右の翼を落として横へ滑る。
滑りきる前に、赤が来た。
熱ではなかった。熱はそのあとに来た。先に来たのは、空気そのものが押し固められて板になったような、殴られる感触だ。骨の翼が軋み、肋の間で風が鳴る。
『クァーナーリン!』
「掴んでる」
男は首の骨に片手をかけたまま、上体だけを風の下へ入れていた。
赤が過ぎた。
過ぎたあとの空には、雲が無い。あった場所の空気が、上下に分かれて、まだ揺れていた。
「――あれは、竜の吐き方じゃないな」
『違う』
骨の竜の声が、低く割れていた。
『あれは、空を焼いておるのではない。空を潰しておる』
◇
地上では、誰も動けなかった。
赤が空を渡ったとき、その真下にいた者たちは、耳が詰まった。詰まって、抜けて、抜けたあとにしばらく何も聞こえない。開いた口の形だけが、そこらじゅうにあった。
「伏せろ!」
シグヴァルドが吠えた。声は出ていたが、届いた者は少なかった。
彼は、自分が吠えたことも半分わからないまま、土手の上を振り返った。
女は、伏せていない。
立ったまま、上を見ている。
弓は下ろしていた。矢もつがえていない。ただ、顔を上げて、一点を見ていた。瞬きを、あまりしていない。
◇
空では、二度目が始まっていた。
骨の竜は上を取ろうとしていた。取れない。長いものには翼が無く、翼が無いぶん、上も下も同じ速さで動ける。骨の竜が高度を得るのに一度の旋回が要るところを、長いものは体をうねらせるだけで済んだ。
『上が、取れぬ』
「わかってる」
『ならば』
「潜れ」
竜は迷わなかった。翼を畳み、真下へ落ちる。
落ちながら、男は息を吸った。吸った空気が胸で冷えるのが、自分でもわかった。
『Fo- Krah- Diin』
白が、下から上へ噴き上がった。
長いものの腹に、それが当たる。
当たった。
腹の鱗が、白く曇った。曇りは端から広がり、鱗と鱗のあいだで薄い膜になって張り、張ったところから細かく割れていく。
長いものの動きが、そこで初めて一拍遅れた。
「入った」
『浅い』
骨の竜が言った通りだった。
曇りは、すぐに引いた。引いたのではない。内側から溶かされていた。腹の下に赤い筋が走り、その筋に沿って氷が水になり、水が湯気になって後ろへ流れていく。
『――冷やしたか』
長いものの体が、うねった。
『よい。冷えれば、また熱くなるだけのこと』
うねりが、鞭のように後ろまで抜けた。
抜けた先に、尾がある。
骨の竜は避けきれなかった。左の翼の先が、尾の側面に触れる。触れただけだったが、骨が三本、まとめて後ろへ折れた。
竜の体が、横倒しになった。
男は落ちなかった。首の骨のあいだへ右腕を差し込み、そのまま体を預けている。折れた側とは逆へ体重を移して、竜が姿勢を戻すのを助けた。
『済まぬ』
「謝るな」
男は前を見ていた。
「あと二本ある」
『二本しか無いのだが』
「十分だ」
◇
三度目は、男が先に仕掛けた。
顎の下から回り込みながら、彼は両手を離した。膝だけで竜の首を挟み、上体を起こす。
空へ向けて、吠えた。
『Strun- Bah- Qo』
天が、応えた。
割れた空の、割れていない部分が黒くなる。黒くなった端から低く垂れ下がり、垂れた先が渦を巻きはじめる。
地上の風向きが、いっぺんに変わった。
雨は降らなかった。降る前に、上と下が繋がった。
白い柱が、一本。
二本。
七本。
長いものの体に、雷が次々と刺さっていく。刺さるたびに、その一区画だけ鱗が反り返り、反り返ったところが黒く焦げる。
戦場から、声が上がった。
歓声ではない。もっと形の定まらない、喉から勝手に出ているだけの音だ。何千という喉が、一斉にそれを出した。
長いものの高さが、落ちた。
うねりの速さが乱れ、体の後ろ半分が下がる。下がった尾が雲の底を切って、切ったところから雲が崩れた。
「今だ!」
シグヴァルドが立ち上がった。
「弓! 全員だ! 届く届かんは考えるな! 撃て!」
◇
矢は、届いた。
届いたが、それだけだった。
数千本が同時に空へ上がる音は、それだけを聞けば見事なものだった。上がりきったところで、束が長いものの体に触れる。
触れて、落ちた。
刺さらない。折れもしない。鱗に当たった矢は、当たった角度のまま横へ滑り、滑って、そのまま下へ落ちていく。
長いものは、何もしない。
避けなかった。身を捩りもしなかった。矢が体を洗っていくあいだ、うねりの速さすら変えなかった。
「……くそ」
シグヴァルドは、それでも次を叫ぼうとした。
叫ぶ前に、横から声が来た。
「いま」
土手の上からだった。
「いま、一箇所だけ、答えましたわ」
◇
女は、矢を見ていなかった。
矢が刺さるかどうかは、最初の三十本でわかる。わかったあとの数千本は、彼女にとってはもう情報ではない。
彼女が見ていたのは、長いものの動きのほうだった。
何も避けない体だ。
避ける必要が無いのだから、避けない。それが正しい。数千本のうち一本も、その体に何かをしていない。
だから、動いたら、おかしい。
胸の下のあたりだった。
前肢の付け根から少し下がった、体の中心線の上。そこへ向かって上がっていった数十本の束が、届く手前で横へ流れた。
風だ。
風が、そこにだけ起きた。
長いものの体の、その一区画の周りだけ、空気が下から巻き上がって、矢を外側へ払ったのだ。
一度ではない。
二度目の束のときも、同じ場所に、同じものが起きた。
女は、そこを見た。
鱗が、一枚ある。
周りより小さい。色が違う。周りの鱗はどれも根元から先へ向かって流れているのに、その一枚だけが、逆を向いていた。
矢が当たっていない。
一本も当たっていないのは、そこだけだった。
「……あら」
彼女は、少し笑った。
笑って、弓の握りを持ち替える。
握りは、まだ温かい。北から来たものが、まだ抜けていない。
「シグヴァルド殿」
「なんだ」
「少し集中します。周りの事は、お願いしますわ」
シグヴァルドは、彼女の顔を見た。
見て、それから彼女の見ている先を、目で追った。追ったが、彼には何も見えなかった。空にいる長いものは、さっきと同じように、何も避けずに漂っている。
彼は、訊かなかった。
「ルーデウス!」
土手の下へ、吠える。
「この近くにいる手練れを集めろ! 生きてる奴なら誰でもいい、走れるやつから順に上げろ!」
返事は、今度は聞こえた。
土手の斜面を、鎧が上がってくる。
一人。三人。十人。
先頭は、狼の意匠を打った円盾を背負った女だった。片方の肩当てが無い。無いほうの腕には、他人のものらしい布が幾重にも巻いてある。上がりきると、彼女は誰にも何も言わずに、女の右前へ立った。
続いて上がってきた二人は、揃いの外套を着ていた。裾はもう外套の形をしていない。腰の得物が、この土地の造りではなかった。刃は片側だけで、先が緩く反っている。砂の国のものだ。二人は互いに何か短く言い合い、笑って、左側へ回った。
熊の毛皮を肩から掛けた大男が、四つん這いで斜面を上がってきた。立てなかったのではない。そのほうが速いと判断したらしい。上がりきると立ち上がり、自分の背丈で塞げるだけの空を塞いだ。
軍団の胸当てが、二枚。片方の兜には、まだ羽根飾りが残っていた。もう片方には、羽根の付いていた穴だけが残っていた。
緑の肌が、一つ。両手斧を持っている。刃はほとんど無い。柄さえ残っていればそれで足りると思っている顔をしていた。
誰も名乗らなかった。
名乗る場面ではなかったし、名乗ったところで、この面子の中では珍しくもなかったのだろう。
シグヴァルドは、それを見て、笑った。
腹の底からの笑い方だった。
「ずいぶんと生き残っているでは無いか」
誰も答えなかった。答える息が残っている者が、そこには一人もいなかった。
上がってきた者たちは、言われる前に、女を囲む形に立った。外を向いて、盾を並べる。
そのうちの一人が、右の足に何も履いていなかった。
足首のところに、蝋を引いた麻の紐だけが、まだ残っていた。
その前に立った男が、一列目の位置に入る。
女は、弓を上げた。