The Elder Scrolls : Dawn of Order   作:蛾の司祭

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第2話:腹の中(後半)

「シグヴァルド殿」

 

「なんだ」

 

「もう一度、撃っていただけますかしら」

 

シグヴァルドは、彼女を見た。

 

「同じことをやれと」

 

「同じことですわ」

 

「刺さらんぞ」

 

「刺さらなくてよろしいのです」

 

女は弓を上げていた。上げたまま、まだ引いていない。矢は一本だけ、右手の指に挟んである。

 

「一度、手を使わせていただきます」

 

シグヴァルドには、何のことかわからなかった。

 

わからないまま、彼は土手の下へ吠えた。

 

「弓! もう一度だ! 同じ高さ、同じ角度! 撃てぇ!」

 

                 ◇

 

数千本が、また上がった。

 

さっきと同じだ。上がりきり、束になって長いものの体へ触れ、触れたところから滑り落ちていく。

 

胸の下のあたりで、風が起きた。

 

一区画だけ。空気が下から巻き上がり、そこへ向かっていた矢を外側へ払う。払いきると、風はすぐに消えた。

 

役目が終われば、消える。

 

女は、そこで引いた。

 

引くのは速かった。頬の下まで、一息だ。狙いをつける動作は無い。すでにつけてあったからだ。

 

指を、離す。

 

矢は、束のずっと後ろを飛んだ。

 

一本だけだ。数千本が落ちきったあとの空を、遅れて、まっすぐに。

 

風は、もう無い。

 

そして、その一本は白くなかった。

 

青い。

 

積もった雪を下から照らしたときの、あの青だった。夜でもないのに青く見える色。矢羽の後ろに、その色が細く尾を引いて、空へ一本の線を残していく。

 

線は、消えない。

 

                 ◇

 

空では、男がそれを見ていた。

 

数千本が上がるのを見て、落ちるのを見て、そのあとに一本だけ残ったものを見た。

 

見て、すぐにわかった。

 

説明を受けたわけではない。あの女が朝から何をしていて、いま何をしなかったのかを、彼は知っている。

 

「――遅い」

 

男は、息を吸った。

 

『Su- Grah- Dun』

 

言葉は、長いものへ向かわなかった。

 

下へ落ちた。落ちて、青い線の後ろへ追いついた。

 

線が、伸びる。

 

矢羽の後ろの尾が、いっぺんに細く長くなる。空気を割る音が、そこで初めて鳴った。鳴ったときには、もう届いていた。

 

                 ◇

 

音は、しない。

 

刺さる音が地上まで届くには、遠すぎた。

 

わかったのは、長いものの動きのほうだ。

 

それまで一度も乱れなかったうねりが、途中で折れた。折れて、体の前半分と後ろ半分が別々の方向へ行こうとし、行きかけて、ぶつかった。

 

そして、鳴いた。

 

戦場にいた全員が、耳を押さえる。押さえても意味が無かった。その音は耳から入っていなかったからだ。歯の根と、胸骨の裏と、腹の底から同時に鳴った。

 

何人かが、そのまま倒れた。

 

シグヴァルドは膝をついていた。ついたまま、上を見ている。

 

長いものの体が、空でのたうっている。うねりではない。制御の無い、痛みだけの動きだった。長い体が雲を撹き回し、撹き回されたところから雲が千切れて散っていく。

 

胸の下に、一本。

 

たった一本の細いものが、そこに立っていた。

 

「……嘘だろ」

 

シグヴァルドは、そう言ったつもりだった。声は出ていなかった。

 

土手の上で、女は弓を下ろしていた。

 

下ろして、右手の指を見ている。

 

指の腹が、裂けていた。

 

「……あら。やっぱり」

 

彼女は、その手を握り込んだ。

 

                 ◇

 

のたうちが、止まった。

 

空の上で、長い体が一度だけ、大きく畳まれた。

 

畳まれて、頭がこちらを向いた。

 

数千本を無視した体だ。無視しなかったものが、一本だけあった。それが、どこから来たのかを、その体は間違えなかった。

 

土手の上を、見ていた。

 

「――伏せろ!」

 

シグヴァルドの声は、彼自身にも聞こえなかった。

 

長いものが、落ちてきた。

 

                 ◇

 

空では、骨の竜がまだ回りきっていなかった。

 

男が下へ言葉を落としたぶんだけ、体は逸れている。逸らした軌道を戻すのに、翼が一枚では足りなかった。折れた左が風の下でわななき、旋回は半分のところで粘っている。

 

その半分を過ぎたところで、男は下を見た。

 

いない。

 

上にいるはずのものが、上にいなかった。

 

『クァーナーリン!』

 

「――くそ」

 

男は、旋回を捨てた。

 

竜が体をひねる。ひねりきる前に、彼は息を吸っていた。吸う時間が足りていない。足りていないまま、吠えた。

 

『Faas- Ru- Maar』

 

届いた。

 

届いたことは、わかった。

 

何も、起きない。

 

長い体は、速さも角度も変えずに落ちていった。恐れというものが、その体のどこに置いてあるのか。あるいは、置いてあった場所を、さきほど一本の細いものが通り抜けてしまったのか。空にいた者にも、地上にいた者にも、確かめる手立ては無かった。

 

                 ◇

 

当たったのは、街道だった。

 

長い体は、防衛線の東の端から入って、西へ抜けていった。

 

抜けていったというのが正しい。止まらなかったからだ。

 

硝子になった帯が、根こそぎ捲れ上がった。捲れた帯の下から出てきた土が、そのまま壁になって前へ押し出されていく。壁の中に、旗があった。盾があった。人がいた。人であったものが、壁が崩れるときに一緒に崩れる。

 

音は、無かった。

 

正しくは、音が多すぎて、耳が一つも拾わなかった。

 

長い体は西へ抜けきると、そこで頭を返す。

 

返して、また東へ来る。

 

今度は、少しだけ高い。土手の高さに、頭が合っていた。

 

                 ◇

 

土手の上には、まだ二十人ほどが立っていた。

 

弓を構えた者はいない。構えたところで、とわかる速さで来ていた。

 

女は、矢に手をかけていた。

 

かけて、途中で止めた。

 

引けない。

 

引くまでの間が無いのと、右手の指が、もう一度ぶんの弦を握れないのと、両方だった。彼女は矢から手を離し、代わりに左手を前へ出した。出したところで、それが何の役にも立たないことは、自分でもわかっていた。

 

横から、腕が来る。

 

首の後ろと、腰の帯を掴まれた。

 

体が、宙に浮く。

 

浮いて、土手の裏側へ投げられた。

 

「――シグ、」

 

言い終わらなかった。斜面を転がり落ちる音が、そのあとの全部を潰した。

 

土手の上で、シグヴァルドは投げた形のまま立っていた。

 

戻す気は、無かったらしい。

 

彼は前を向いて、斧の柄を両手で握り直す。

 

囲んでいた者たちは、誰も下がらなかった。下がる先が、そもそも無かった。盾が並び直される音が、二十枚ぶん、順に鳴った。

 

長いものの顎が、開く。

 

『焚――』

 

                 ◇

 

白が、横から来た。

 

その前に、音が一つあった。

 

『Wuld- Nah- Kest』

 

骨の竜の首の上から、それは落ちた。

 

竜の体が、前へ跳んだ。羽ばたきではない。空を掻いた形跡が無いまま、いま在った場所から百歩ぶん先へ、体ごと移っている。

 

移った先が、長いものの顔の横だった。

 

角度は、無茶だった。旋回を捨てた分の高さを、真下へ落ちて稼いでいる。折れた左の翼はもう風を掴んでおらず、右だけで軌道を捻じ曲げていた。

 

その顎から、氷が噴き出す。

 

まっすぐ、長いものの顔へ。

 

両の目が、目の周りごと白く塗り込められた。睫毛の一本ずつまで凍り、凍って、瞬きの動きに合わせて割れる。割れた隙間から、また凍った。

 

『焚』の続きは、出てこなかった。

 

出せなかったのではない。出す方向が、わからなくなったのだ。

 

そして、骨の竜は起こせなかった。

 

翼が一枚では、あの角度からは戻らない。竜は土手の東側の斜面へ、腹から突っ込んだ。

 

土が、跳ねた。

 

首の上にいた男が、投げ出される。

 

                 ◇

 

三度、跳ねた。

 

四度目で、止まった。

 

男は仰向けになっていた。空が見える。割れている。割れ目の枝が、また一本増えたように見えたが、それが本当かどうかを考える余裕は無かった。

 

息が、入ってこない。

 

胸のどこかで、要らない音がした。

 

彼は右へ転がり、肘をついて、それから膝を立てた。

 

左の膝が、立たない。

 

もう一度やった。立たない。三度目に、立った。立ったが、体重を乗せた瞬間に、そこから上へ何かが走った。

 

「……上等だ」

 

彼は歩き出した。

 

歩き方が、片方だけ違っている。

 

                 ◇

 

長いものは、まだ暴れていた。

 

見えていない。

 

見えていないまま、頭を左右に振っている。振るたびに、その先にあったものが無くなった。土手の東の斜面が、上から三分の一ほど削られて消えた。街道の残りが捲れ、捲れたものが人の頭の上を越えて飛んでいく。

 

尾が、後ろで勝手に暴れている。頭とは別のものが、そこにいるようだった。

 

盾を並べていた者たちは、まだ並んでいた。

 

並んでいたが、二十枚は無かった。

 

シグヴァルドは、まだ立っている。額の血が、今度は乾いていない。

 

「……ルーデウス」

 

呼んだ相手は、そこにいなかった。

 

彼は、それ以上呼ばなかった。

 

                 ◇

 

男は、土手の下まで来ていた。

 

見上げる。

 

長い体が、空を背にして暴れている。目は白い。口はまだ開いたり閉じたりしていて、そのたびに喉の奥で赤が溜まっては、行き先を見つけられずに引いていく。

 

男は、息を吸った。

 

今度は、足りた。

 

『Faas- Ru- Maar』

 

言葉が、届いた。

 

火でも氷でもない。空を渡っていくものは、何も見えなかった。ただ、通ったあとの空気が、少しだけ薄くなった気がした。

 

長いものの動きが、止まった。

 

痛みは消えていない。目も、見えていない。消えていないのに、体のほうが別の用事を思い出したように、動きを変えた。

 

首が、上を向いた。

 

雲のほうへ。

 

『――遁- 雲- 隠』

 

声は、震えていた。

 

さっきまで地面から膝の裏へ届いていた声だ。それが、今度は空気の中を、ただの音として通ってきた。

 

体が、上へ伸びる。

 

うねりが速くなる。目は見えていない。見えていなくても、上がどちらかはわかる。

 

雲の底へ、その頭が入りかけた。

 

「――逃がすかよ」

 

男は、立っていた。

 

左の膝は、まだ言うことを聞いていない。聞いていないほうへ、彼は体重をかけた。かけて、地面を踏んだ。

 

そして、吠えた。

 

『Joor- Zah- Frul』

 

三つの言葉は、これまでのどれとも違っていた。

 

熱くない。冷たくない。押しもしない。

 

それは、ただ届いた。

 

長いものの体が、雲の底で止まった。

 

止まったのは、当たったからではない。

 

聞いたからだ。

 

そのとき、あの長い体の中で何が起きたのかを、地上から見上げていた者たちは知らない。空にいた二つも、たぶん知らない。ただ、雲の底で止まったものは、しばらくのあいだ、何も言わなかった。

 

それから、落ちた。

 

うねりが無い。

 

体が、まっすぐ落ちた。

 

長いものが落ちるのを、戦場の全員が見ている。誰も逃げなかった。逃げるべき方向を考えられる者が、そのときは一人もいなかった。

 

地面に、当たる。

 

音は、遅れて来た。

 

土手が下から突き上げられ、その上に立っていた者たちが一斉に浮く。浮いて、落ちた。硝子になった帯が、端から粉になって舞い上がる。

 

                 ◇

 

砂埃が引いていくのに、しばらくかかった。

 

引いた先に、それは横たわっていた。

 

長い。長すぎて、端が見えない。頭のあたりだけが、辛うじて人の目に収まる大きさをしていた。凍った顔は、まだ白い。胸の下の一本は、まだそこに立っていた。

 

男は、歩いていた。

 

砂埃の中を、頭のほうへ向かって。片方の足だけが、地面を長く擦っている。擦った跡が、後ろへ一本だけ続いていた。

 

途中で一度、止まった。

 

止まって、右手を胸に当てる。当てて、そのまま二つ数えるほど動かなかった。

 

それから、また歩き出した。

 

頭の手前まで来ると、彼は背の留め具に手をかけた。

 

外して、下ろす。

 

両手斧だった。刃は二枚。刃と刃のあいだの造りが、いま作られる斧のそれとは違っている。柄には巻きがほとんど無く、擦り減った木がそのまま握りになっていた。

 

長いものの頭が、動いた。

 

まだ生きている。

 

『……我を』

 

声が、割れていた。

 

『我を、殺すのか。竜の血を持つ者よ』

 

「ああ」

 

『我は神ぞ』

 

男は、斧を持ち直した。

 

「神ってのは、ただ『在る』ものだ」

 

一歩、前へ出る。

 

「『成る』もんじゃない」

 

そして、彼は息を吸った。

 

吸って、地を踏み、吠えた。

 

『Mul- Qah- Diiv』

 

男の周りの空気が、形を持った。

 

肩から、背から、腕の外側から。淡く光るものが立ち上がり、立ち上がったところで鱗の形に並んでいく。背の後ろでは、二枚。翼の形をしているが、翼ではない。風を掴む造りをしていなかった。

 

光は、彼の体を覆いきらなかった。

 

覆いきらないまま、そこに在る。

 

男は、斧を振り上げた。

 

上げきったところで、一拍だけ止まる。

 

止まった理由は、誰にもわからない。

 

そして、振り下ろした。

 

                 ◇

 

音は、一つ。

 

刃が、頭蓋の中心線に入った。入って、止まらなかった。

 

長いものの目から、光が消えていく。

 

消えきる直前に、その口が動いた。

 

『……それこそ』

 

男は、聞いていた。

 

『それこそ、傲慢では、ないか……』

 

男は、斧の柄から手を離さなかった。

 

そのまま、上を見た。

 

空は、割れている。割れ目は、朝より増えていた。この距離からでも、枝が枝を出しているのがわかる。

 

「……かもな」

 

そう言った。

 

聞いていた者は、いなかったことになっている。

 

                 ◇

 

長いものは、砕けはじめた。

 

崩れる、というのとは違った。表面から順に、細かくなっていく。細かくなったものは砂に近く、砂よりも軽かった。風が来ると、そこから先へ持っていかれる。

 

胸の下に立っていた一本が、支えを失って倒れた。

 

倒れて、それも埋もれた。

 

長い体が、端のほうから見えなくなっていく。見えなくなっていく速さは一定で、急ぐ様子も、惜しむ様子も無い。

 

後ろで、骨が鳴った。

 

竜は、斜面から自力で出てきていた。首と右の翼だけで土を掻き、体を引きずって、砂の縁まで来ている。左の翼は、もう畳まれてもいなかった。

 

『クァーナーリン』

 

「起きたか」

 

『……起きたくはなかったが』

 

竜は、砂のほうへ首を向けた。

 

『魂は、いらぬのか』

 

男は、斧を肩へ戻した。

 

「いや。そうじゃない」

 

『では何故』

 

「こいつには『それ』が無いだけだ」

 

竜は、それきり黙った。

 

砂は、なお細かくなっていく。

 

やがて、頭のあった場所も無くなった。

 

そのあとに、残ったものがあった。

 

                 ◇

 

虎だった。

 

人の形をしている。だが、人の体で、あの太さの腕がつくものではない。肩から先の造りが、支えるべき重さを間違えている。首の後ろの筋が束になって盛り上がり、その盛り上がりのせいで、頭が本来の位置より前へ出ていた。

 

毛並みは、いいものだった。

 

顔は、穏やかだった。

 

目は閉じている。閉じた顔だけを見れば、寝ているのと変わらない。

 

砂の中に、それだけが残されていた。

 

骨の竜が、首を伸ばした。

 

伸ばして、しばらく見ていた。

 

『フン』

 

鼻を鳴らす音を、骨でどうやって出しているのかは、誰にもわからない。

 

『やはり偽者か』

 

竜の顎から、火が出た。

 

小さかった。さっき目を凍らせたときの半分も無い。ちょうど、その体を覆うだけの大きさで、それ以上は広がらなかった。

 

虎は、燃えた。

 

燃えているあいだ、誰も何も言わなかった。

 

やがて灰になり、灰は上へ昇っていく。

 

昇っていく先には、割れた空がある。灰は割れ目のところまでは届かず、途中で風に混ざって、見えなくなった。

 

                 ◇

 

崩れたのは、東の側からだった。

 

最初に、一頭が向きを変えた。虎の顔をした兵だ。武器は持ったままだった。持ったまま、東へ走った。

 

二頭目までに、間は無い。

 

隊列というものが、そこから消えた。消え方が速い。列を保っていたものが崩れたのではなく、列を保つ理由のほうが先に無くなったという消え方だった。旗が倒れる。倒れた旗を、後ろから来た者が踏んでいく。踏んだ者が、その旗が何の旗だったのかを見もしない。

 

雪の国のものたちは、もっと速かった。白い体が、地面すれすれを東へ流れていく。何かを叫んでいたが、それは号令ではなかった。号令であれば、誰かが立ち止まるはずだった。

 

追う者は、多くはなかった。

 

追える体力の残っている者が、多くなかったからだ。何人かは追いかけ、何十歩かで足を止め、止めた場所で膝をついた。

 

東へ逃げていく背中を、防衛線の生き残りたちは、ただ見ている。

 

                 ◇

 

蛇の顔をした一団だけが、逃げなかった。

 

彼らは、動きもしなかった。

 

しばらく、そのまま立っていた。何千という数が、砂になったものの跡地のほうを向いて、槍を立てたまま立っている。

 

やがて、その中の一つが槍を下ろした。

 

石突きを地面に置き、手を離す。槍は倒れる。倒れる音は、そこだけの小さな音だった。

 

次が、下ろした。

 

次が、下ろした。

 

音は、順に増えていく。増えていくうちに、順序がわからなくなった。何千本という柄が地面に落ちる音が、地鳴りに近いものになり、それから止んだ。

 

止んだあと、彼らは歩き出した。

 

速くない。列も組まない。走らない。ただ、みな同じ方向へ、同じ速さで歩いていく。

 

向かう先には、片足を引きずった男が一人、立っていた。

 

男は、動かなかった。

 

蛇の顔をしたものたちは、届く手前で止まり、そこで頭を垂れた。前の列から順に。後ろのほうまで届くのに、しばらくかかった。

 

男は、しばらくそれを見ていた。

 

「……重いんだよ」

 

誰にも聞こえない大きさで、そう言った。

 

                 ◇

 

戦場は、静かだ。

 

声が上がるまでに、少し間があった。

 

上がりはじめると、あとは止まらなかった。斧を掲げる者。膝をついたまま動かない者。名前を叫んでいる者。誰の名前なのかは、叫んでいる本人にしかわからない。

 

シグヴァルドは、まだ土手の上にいた。

 

彼は、周りを見た。

 

倒れている。あちこちに、いくつも。数えかけて、数え方を変えた。

 

倒れているもののうち、いくつかが動いていた。

 

一つが、肘をつく。一つが、膝を立てる。一つが、隣にいるものの襟を掴んで、掴んだまま二人で起き上がる。起き上がる速さは、どれも同じくらい遅かった。遅いが、順に増えていく。

 

「……おい」

 

シグヴァルドは、一歩前へ出た。

 

「起きろ。起きたやつから、そのへんの生きてるやつを起こせ」

 

盾の一枚の下から、腕が出た。

 

盾がずれて、下から男が這い出てくる。兜は無い。左の肩から下が、血で色が変わっていた。彼は座った姿勢まで来ると、そこで一度、大きく息を吐いた。

 

「……死にそびれました」

 

「ルーデウス」

 

「はい」

 

「二度言うな」

 

「はい」

 

側近は笑った。笑って、それから咳をした。咳をしながら、まだ笑っている。

 

シグヴァルドは、その横に立ったまま、しばらく何も言わなかった。

 

言わずに、斧を地面へ突き立てた。

 

突き立てて、両手をその柄の頭に置いた。

 

置いた手が、少し震えている。

 

震えている指の下に、割れた木の感触があった。

 

目を落とす。握りのすぐ上だ。浅く、斜めに入っている。切り口が、まだ白い。

 

いつ入ったのかは、わからなかった。

 

彼は、そこを親指の腹で一度だけ撫でた。撫でてから、手を戻した。

 

                 ◇

 

土手の上では、盾が下ろされていた。

 

削られずに残った側に、まだ何枚か立っている。数えられる枚数だった。並んでいた者たちは、並んでいたときの間隔のまま、そこにいた。抜けたところは、抜けたままにしてある。詰め直そうとした者はいなかった。

 

一人が、そのまま座り込んだ。

 

裸のままの右足が、土の上に投げ出されている。足首の麻紐は、まだそこにあった。

 

隣に立っていた男は、座らなかった。

 

立ったまま、東の空を見ている。

 

そちらには、もう何もいない。

 

                 ◇

 

女が土手の裏から上がってきたとき、シグヴァルドはまだ同じ場所に立っていた。

 

上ってくる途中で、彼女は一度足を止めている。

 

止めた場所に、何があったのかはわからない。

 

「……投げましたわね」

 

「投げた」

 

「一言くらい、あってもよろしくてよ」

 

「言ってたら間に合ってねぇ」

 

女は、それには答えなかった。

 

「終わったか」

 

「終わりましたわね」

 

「その手は」

 

「あら」

 

彼女は握りを開いた。開いてから、開かなければよかったという顔をした。

 

「……少し、無理をいたしました」

 

「見せてみろ」

 

「よろしくてよ」

 

シグヴァルドは、それ以上言わなかった。

 

女は、土手の縁まで歩いた。

 

歩いて、下を見た。

 

                 ◇

 

蛇の顔をしたものたちは、まだ頭を垂れている。

 

その真ん中で、男は立ったまま動いていない。斧は肩に戻したままだ。左足に体重が乗っていないのが、上からでもよくわかった。

 

女は、斜面を降りた。

 

降りきるまでに、蛇の顔をしたものたちが道を空けた。誰かが命じたわけではない。前の列が半歩ずつ横へずれて、それが後ろまで伝わっていっただけだ。

 

「立っていられますの」

 

「立ってる」

 

「そう見えませんけれど」

 

「じゃあ座る」

 

男は座らなかった。

 

女は、その横に並んだ。並んで、彼と同じ方向を見た。頭を垂れたものの並びが、そこから先も、しばらく続いている。

 

「……で。どうなさいますの、これ」

 

「知るか」

 

「またブレイズでも作ります?」

 

男は答えなかった。

 

答えないのを、女は少し待った。

 

「守るものがないだろ」

 

「あら」

 

彼女は、少し笑った。

 

「では、あなたの親衛隊にしたらどうです」

 

「……何の話だ」

 

「立派なものですわ。何千といらっしゃる」

 

「どこに住まわせるんだよ」

 

女は答えなかった。

 

「ヴォルキハル城で集合だな」

 

言ったのは、男のほうだった。

 

女は、一拍おいた。

 

「やめてくださいませ」

 

「広いだろ」

 

「広さの問題ではございません」

 

「客間はある」

 

「客が違いますでしょう」

 

男は、そこで初めて笑った。

 

声はほとんど出ていない。肩が一度だけ上下して、そのあと胸のどこかで嫌な音がして、彼は顔をしかめた。

 

「……笑わせるな」

 

「わたくしのせいですの」

 

女は、右手を後ろへ回した。

 

回した手を、彼に見せなかった。見せなかったが、彼はそちらを見ていた。

 

二人とも、しばらく何も言わない。

 

言わなくてよかったのは、その日、あの場所が初めてだった。

 

                 ◇

 

先に上を見たのは、男のほうだった。

 

女が何か言いかけて、途中でやめた。

 

彼が答えないからではない。彼が、答えるのをやめたからだ。

 

空は、割れている。

 

朝より、増えていた。減ってはいない。長いものが落ちたときも、砂になったときも、灰が昇っていったときも、あれは一度も動かなかった。枝が枝を出したまま、天の端から端まで、そのまま在る。

 

「……消えないな」

 

「ええ」

 

「あれは、俺のじゃない」

 

女は、彼を見た。

 

「では、どなたの」

 

男は答えなかった。

 

答えなかったのは、知っていたからかもしれないし、知らなかったからかもしれない。そのときの彼の顔を、まともに見ていた者は一人しかおらず、その一人は、それについて何も言い残していない。

 

見上げていたのは、二人だけではなかった。

 

土手の上でも、下でも、捲れ返った街道の上でも。斧を掲げていた者が掲げたまま、名前を叫んでいた者が叫び終わったところで、次々と顔を上げていく。

 

上げて、そのまま黙った。

 

歓声は、そこから先へは続かなかった。

 

その日、あの戦場で殺されたものが何であったのかを、そこにいた者たちは知っていた。殺されなかったものが何であるのかは、まだ誰も知らない。空に走っているそれは、彼らのために走っていたのではないのだろう。もっとずっと前から、そこへ向かって割れ続けていただけのものだ。

 

一つ、止めた。

 

止まらなかったものの数を、数えた者はいなかった。

 

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