The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
「シグヴァルド殿」
「なんだ」
「もう一度、撃っていただけますかしら」
シグヴァルドは、彼女を見た。
「同じことをやれと」
「同じことですわ」
「刺さらんぞ」
「刺さらなくてよろしいのです」
女は弓を上げていた。上げたまま、まだ引いていない。矢は一本だけ、右手の指に挟んである。
「一度、手を使わせていただきます」
シグヴァルドには、何のことかわからなかった。
わからないまま、彼は土手の下へ吠えた。
「弓! もう一度だ! 同じ高さ、同じ角度! 撃てぇ!」
◇
数千本が、また上がった。
さっきと同じだ。上がりきり、束になって長いものの体へ触れ、触れたところから滑り落ちていく。
胸の下のあたりで、風が起きた。
一区画だけ。空気が下から巻き上がり、そこへ向かっていた矢を外側へ払う。払いきると、風はすぐに消えた。
役目が終われば、消える。
女は、そこで引いた。
引くのは速かった。頬の下まで、一息だ。狙いをつける動作は無い。すでにつけてあったからだ。
指を、離す。
矢は、束のずっと後ろを飛んだ。
一本だけだ。数千本が落ちきったあとの空を、遅れて、まっすぐに。
風は、もう無い。
そして、その一本は白くなかった。
青い。
積もった雪を下から照らしたときの、あの青だった。夜でもないのに青く見える色。矢羽の後ろに、その色が細く尾を引いて、空へ一本の線を残していく。
線は、消えない。
◇
空では、男がそれを見ていた。
数千本が上がるのを見て、落ちるのを見て、そのあとに一本だけ残ったものを見た。
見て、すぐにわかった。
説明を受けたわけではない。あの女が朝から何をしていて、いま何をしなかったのかを、彼は知っている。
「――遅い」
男は、息を吸った。
『Su- Grah- Dun』
言葉は、長いものへ向かわなかった。
下へ落ちた。落ちて、青い線の後ろへ追いついた。
線が、伸びる。
矢羽の後ろの尾が、いっぺんに細く長くなる。空気を割る音が、そこで初めて鳴った。鳴ったときには、もう届いていた。
◇
音は、しない。
刺さる音が地上まで届くには、遠すぎた。
わかったのは、長いものの動きのほうだ。
それまで一度も乱れなかったうねりが、途中で折れた。折れて、体の前半分と後ろ半分が別々の方向へ行こうとし、行きかけて、ぶつかった。
そして、鳴いた。
戦場にいた全員が、耳を押さえる。押さえても意味が無かった。その音は耳から入っていなかったからだ。歯の根と、胸骨の裏と、腹の底から同時に鳴った。
何人かが、そのまま倒れた。
シグヴァルドは膝をついていた。ついたまま、上を見ている。
長いものの体が、空でのたうっている。うねりではない。制御の無い、痛みだけの動きだった。長い体が雲を撹き回し、撹き回されたところから雲が千切れて散っていく。
胸の下に、一本。
たった一本の細いものが、そこに立っていた。
「……嘘だろ」
シグヴァルドは、そう言ったつもりだった。声は出ていなかった。
土手の上で、女は弓を下ろしていた。
下ろして、右手の指を見ている。
指の腹が、裂けていた。
「……あら。やっぱり」
彼女は、その手を握り込んだ。
◇
のたうちが、止まった。
空の上で、長い体が一度だけ、大きく畳まれた。
畳まれて、頭がこちらを向いた。
数千本を無視した体だ。無視しなかったものが、一本だけあった。それが、どこから来たのかを、その体は間違えなかった。
土手の上を、見ていた。
「――伏せろ!」
シグヴァルドの声は、彼自身にも聞こえなかった。
長いものが、落ちてきた。
◇
空では、骨の竜がまだ回りきっていなかった。
男が下へ言葉を落としたぶんだけ、体は逸れている。逸らした軌道を戻すのに、翼が一枚では足りなかった。折れた左が風の下でわななき、旋回は半分のところで粘っている。
その半分を過ぎたところで、男は下を見た。
いない。
上にいるはずのものが、上にいなかった。
『クァーナーリン!』
「――くそ」
男は、旋回を捨てた。
竜が体をひねる。ひねりきる前に、彼は息を吸っていた。吸う時間が足りていない。足りていないまま、吠えた。
『Faas- Ru- Maar』
届いた。
届いたことは、わかった。
何も、起きない。
長い体は、速さも角度も変えずに落ちていった。恐れというものが、その体のどこに置いてあるのか。あるいは、置いてあった場所を、さきほど一本の細いものが通り抜けてしまったのか。空にいた者にも、地上にいた者にも、確かめる手立ては無かった。
◇
当たったのは、街道だった。
長い体は、防衛線の東の端から入って、西へ抜けていった。
抜けていったというのが正しい。止まらなかったからだ。
硝子になった帯が、根こそぎ捲れ上がった。捲れた帯の下から出てきた土が、そのまま壁になって前へ押し出されていく。壁の中に、旗があった。盾があった。人がいた。人であったものが、壁が崩れるときに一緒に崩れる。
音は、無かった。
正しくは、音が多すぎて、耳が一つも拾わなかった。
長い体は西へ抜けきると、そこで頭を返す。
返して、また東へ来る。
今度は、少しだけ高い。土手の高さに、頭が合っていた。
◇
土手の上には、まだ二十人ほどが立っていた。
弓を構えた者はいない。構えたところで、とわかる速さで来ていた。
女は、矢に手をかけていた。
かけて、途中で止めた。
引けない。
引くまでの間が無いのと、右手の指が、もう一度ぶんの弦を握れないのと、両方だった。彼女は矢から手を離し、代わりに左手を前へ出した。出したところで、それが何の役にも立たないことは、自分でもわかっていた。
横から、腕が来る。
首の後ろと、腰の帯を掴まれた。
体が、宙に浮く。
浮いて、土手の裏側へ投げられた。
「――シグ、」
言い終わらなかった。斜面を転がり落ちる音が、そのあとの全部を潰した。
土手の上で、シグヴァルドは投げた形のまま立っていた。
戻す気は、無かったらしい。
彼は前を向いて、斧の柄を両手で握り直す。
囲んでいた者たちは、誰も下がらなかった。下がる先が、そもそも無かった。盾が並び直される音が、二十枚ぶん、順に鳴った。
長いものの顎が、開く。
『焚――』
◇
白が、横から来た。
その前に、音が一つあった。
『Wuld- Nah- Kest』
骨の竜の首の上から、それは落ちた。
竜の体が、前へ跳んだ。羽ばたきではない。空を掻いた形跡が無いまま、いま在った場所から百歩ぶん先へ、体ごと移っている。
移った先が、長いものの顔の横だった。
角度は、無茶だった。旋回を捨てた分の高さを、真下へ落ちて稼いでいる。折れた左の翼はもう風を掴んでおらず、右だけで軌道を捻じ曲げていた。
その顎から、氷が噴き出す。
まっすぐ、長いものの顔へ。
両の目が、目の周りごと白く塗り込められた。睫毛の一本ずつまで凍り、凍って、瞬きの動きに合わせて割れる。割れた隙間から、また凍った。
『焚』の続きは、出てこなかった。
出せなかったのではない。出す方向が、わからなくなったのだ。
そして、骨の竜は起こせなかった。
翼が一枚では、あの角度からは戻らない。竜は土手の東側の斜面へ、腹から突っ込んだ。
土が、跳ねた。
首の上にいた男が、投げ出される。
◇
三度、跳ねた。
四度目で、止まった。
男は仰向けになっていた。空が見える。割れている。割れ目の枝が、また一本増えたように見えたが、それが本当かどうかを考える余裕は無かった。
息が、入ってこない。
胸のどこかで、要らない音がした。
彼は右へ転がり、肘をついて、それから膝を立てた。
左の膝が、立たない。
もう一度やった。立たない。三度目に、立った。立ったが、体重を乗せた瞬間に、そこから上へ何かが走った。
「……上等だ」
彼は歩き出した。
歩き方が、片方だけ違っている。
◇
長いものは、まだ暴れていた。
見えていない。
見えていないまま、頭を左右に振っている。振るたびに、その先にあったものが無くなった。土手の東の斜面が、上から三分の一ほど削られて消えた。街道の残りが捲れ、捲れたものが人の頭の上を越えて飛んでいく。
尾が、後ろで勝手に暴れている。頭とは別のものが、そこにいるようだった。
盾を並べていた者たちは、まだ並んでいた。
並んでいたが、二十枚は無かった。
シグヴァルドは、まだ立っている。額の血が、今度は乾いていない。
「……ルーデウス」
呼んだ相手は、そこにいなかった。
彼は、それ以上呼ばなかった。
◇
男は、土手の下まで来ていた。
見上げる。
長い体が、空を背にして暴れている。目は白い。口はまだ開いたり閉じたりしていて、そのたびに喉の奥で赤が溜まっては、行き先を見つけられずに引いていく。
男は、息を吸った。
今度は、足りた。
『Faas- Ru- Maar』
言葉が、届いた。
火でも氷でもない。空を渡っていくものは、何も見えなかった。ただ、通ったあとの空気が、少しだけ薄くなった気がした。
長いものの動きが、止まった。
痛みは消えていない。目も、見えていない。消えていないのに、体のほうが別の用事を思い出したように、動きを変えた。
首が、上を向いた。
雲のほうへ。
『――遁- 雲- 隠』
声は、震えていた。
さっきまで地面から膝の裏へ届いていた声だ。それが、今度は空気の中を、ただの音として通ってきた。
体が、上へ伸びる。
うねりが速くなる。目は見えていない。見えていなくても、上がどちらかはわかる。
雲の底へ、その頭が入りかけた。
「――逃がすかよ」
男は、立っていた。
左の膝は、まだ言うことを聞いていない。聞いていないほうへ、彼は体重をかけた。かけて、地面を踏んだ。
そして、吠えた。
『Joor- Zah- Frul』
三つの言葉は、これまでのどれとも違っていた。
熱くない。冷たくない。押しもしない。
それは、ただ届いた。
長いものの体が、雲の底で止まった。
止まったのは、当たったからではない。
聞いたからだ。
そのとき、あの長い体の中で何が起きたのかを、地上から見上げていた者たちは知らない。空にいた二つも、たぶん知らない。ただ、雲の底で止まったものは、しばらくのあいだ、何も言わなかった。
それから、落ちた。
うねりが無い。
体が、まっすぐ落ちた。
長いものが落ちるのを、戦場の全員が見ている。誰も逃げなかった。逃げるべき方向を考えられる者が、そのときは一人もいなかった。
地面に、当たる。
音は、遅れて来た。
土手が下から突き上げられ、その上に立っていた者たちが一斉に浮く。浮いて、落ちた。硝子になった帯が、端から粉になって舞い上がる。
◇
砂埃が引いていくのに、しばらくかかった。
引いた先に、それは横たわっていた。
長い。長すぎて、端が見えない。頭のあたりだけが、辛うじて人の目に収まる大きさをしていた。凍った顔は、まだ白い。胸の下の一本は、まだそこに立っていた。
男は、歩いていた。
砂埃の中を、頭のほうへ向かって。片方の足だけが、地面を長く擦っている。擦った跡が、後ろへ一本だけ続いていた。
途中で一度、止まった。
止まって、右手を胸に当てる。当てて、そのまま二つ数えるほど動かなかった。
それから、また歩き出した。
頭の手前まで来ると、彼は背の留め具に手をかけた。
外して、下ろす。
両手斧だった。刃は二枚。刃と刃のあいだの造りが、いま作られる斧のそれとは違っている。柄には巻きがほとんど無く、擦り減った木がそのまま握りになっていた。
長いものの頭が、動いた。
まだ生きている。
『……我を』
声が、割れていた。
『我を、殺すのか。竜の血を持つ者よ』
「ああ」
『我は神ぞ』
男は、斧を持ち直した。
「神ってのは、ただ『在る』ものだ」
一歩、前へ出る。
「『成る』もんじゃない」
そして、彼は息を吸った。
吸って、地を踏み、吠えた。
『Mul- Qah- Diiv』
男の周りの空気が、形を持った。
肩から、背から、腕の外側から。淡く光るものが立ち上がり、立ち上がったところで鱗の形に並んでいく。背の後ろでは、二枚。翼の形をしているが、翼ではない。風を掴む造りをしていなかった。
光は、彼の体を覆いきらなかった。
覆いきらないまま、そこに在る。
男は、斧を振り上げた。
上げきったところで、一拍だけ止まる。
止まった理由は、誰にもわからない。
そして、振り下ろした。
◇
音は、一つ。
刃が、頭蓋の中心線に入った。入って、止まらなかった。
長いものの目から、光が消えていく。
消えきる直前に、その口が動いた。
『……それこそ』
男は、聞いていた。
『それこそ、傲慢では、ないか……』
男は、斧の柄から手を離さなかった。
そのまま、上を見た。
空は、割れている。割れ目は、朝より増えていた。この距離からでも、枝が枝を出しているのがわかる。
「……かもな」
そう言った。
聞いていた者は、いなかったことになっている。
◇
長いものは、砕けはじめた。
崩れる、というのとは違った。表面から順に、細かくなっていく。細かくなったものは砂に近く、砂よりも軽かった。風が来ると、そこから先へ持っていかれる。
胸の下に立っていた一本が、支えを失って倒れた。
倒れて、それも埋もれた。
長い体が、端のほうから見えなくなっていく。見えなくなっていく速さは一定で、急ぐ様子も、惜しむ様子も無い。
後ろで、骨が鳴った。
竜は、斜面から自力で出てきていた。首と右の翼だけで土を掻き、体を引きずって、砂の縁まで来ている。左の翼は、もう畳まれてもいなかった。
『クァーナーリン』
「起きたか」
『……起きたくはなかったが』
竜は、砂のほうへ首を向けた。
『魂は、いらぬのか』
男は、斧を肩へ戻した。
「いや。そうじゃない」
『では何故』
「こいつには『それ』が無いだけだ」
竜は、それきり黙った。
砂は、なお細かくなっていく。
やがて、頭のあった場所も無くなった。
そのあとに、残ったものがあった。
◇
虎だった。
人の形をしている。だが、人の体で、あの太さの腕がつくものではない。肩から先の造りが、支えるべき重さを間違えている。首の後ろの筋が束になって盛り上がり、その盛り上がりのせいで、頭が本来の位置より前へ出ていた。
毛並みは、いいものだった。
顔は、穏やかだった。
目は閉じている。閉じた顔だけを見れば、寝ているのと変わらない。
砂の中に、それだけが残されていた。
骨の竜が、首を伸ばした。
伸ばして、しばらく見ていた。
『フン』
鼻を鳴らす音を、骨でどうやって出しているのかは、誰にもわからない。
『やはり偽者か』
竜の顎から、火が出た。
小さかった。さっき目を凍らせたときの半分も無い。ちょうど、その体を覆うだけの大きさで、それ以上は広がらなかった。
虎は、燃えた。
燃えているあいだ、誰も何も言わなかった。
やがて灰になり、灰は上へ昇っていく。
昇っていく先には、割れた空がある。灰は割れ目のところまでは届かず、途中で風に混ざって、見えなくなった。
◇
崩れたのは、東の側からだった。
最初に、一頭が向きを変えた。虎の顔をした兵だ。武器は持ったままだった。持ったまま、東へ走った。
二頭目までに、間は無い。
隊列というものが、そこから消えた。消え方が速い。列を保っていたものが崩れたのではなく、列を保つ理由のほうが先に無くなったという消え方だった。旗が倒れる。倒れた旗を、後ろから来た者が踏んでいく。踏んだ者が、その旗が何の旗だったのかを見もしない。
雪の国のものたちは、もっと速かった。白い体が、地面すれすれを東へ流れていく。何かを叫んでいたが、それは号令ではなかった。号令であれば、誰かが立ち止まるはずだった。
追う者は、多くはなかった。
追える体力の残っている者が、多くなかったからだ。何人かは追いかけ、何十歩かで足を止め、止めた場所で膝をついた。
東へ逃げていく背中を、防衛線の生き残りたちは、ただ見ている。
◇
蛇の顔をした一団だけが、逃げなかった。
彼らは、動きもしなかった。
しばらく、そのまま立っていた。何千という数が、砂になったものの跡地のほうを向いて、槍を立てたまま立っている。
やがて、その中の一つが槍を下ろした。
石突きを地面に置き、手を離す。槍は倒れる。倒れる音は、そこだけの小さな音だった。
次が、下ろした。
次が、下ろした。
音は、順に増えていく。増えていくうちに、順序がわからなくなった。何千本という柄が地面に落ちる音が、地鳴りに近いものになり、それから止んだ。
止んだあと、彼らは歩き出した。
速くない。列も組まない。走らない。ただ、みな同じ方向へ、同じ速さで歩いていく。
向かう先には、片足を引きずった男が一人、立っていた。
男は、動かなかった。
蛇の顔をしたものたちは、届く手前で止まり、そこで頭を垂れた。前の列から順に。後ろのほうまで届くのに、しばらくかかった。
男は、しばらくそれを見ていた。
「……重いんだよ」
誰にも聞こえない大きさで、そう言った。
◇
戦場は、静かだ。
声が上がるまでに、少し間があった。
上がりはじめると、あとは止まらなかった。斧を掲げる者。膝をついたまま動かない者。名前を叫んでいる者。誰の名前なのかは、叫んでいる本人にしかわからない。
シグヴァルドは、まだ土手の上にいた。
彼は、周りを見た。
倒れている。あちこちに、いくつも。数えかけて、数え方を変えた。
倒れているもののうち、いくつかが動いていた。
一つが、肘をつく。一つが、膝を立てる。一つが、隣にいるものの襟を掴んで、掴んだまま二人で起き上がる。起き上がる速さは、どれも同じくらい遅かった。遅いが、順に増えていく。
「……おい」
シグヴァルドは、一歩前へ出た。
「起きろ。起きたやつから、そのへんの生きてるやつを起こせ」
盾の一枚の下から、腕が出た。
盾がずれて、下から男が這い出てくる。兜は無い。左の肩から下が、血で色が変わっていた。彼は座った姿勢まで来ると、そこで一度、大きく息を吐いた。
「……死にそびれました」
「ルーデウス」
「はい」
「二度言うな」
「はい」
側近は笑った。笑って、それから咳をした。咳をしながら、まだ笑っている。
シグヴァルドは、その横に立ったまま、しばらく何も言わなかった。
言わずに、斧を地面へ突き立てた。
突き立てて、両手をその柄の頭に置いた。
置いた手が、少し震えている。
震えている指の下に、割れた木の感触があった。
目を落とす。握りのすぐ上だ。浅く、斜めに入っている。切り口が、まだ白い。
いつ入ったのかは、わからなかった。
彼は、そこを親指の腹で一度だけ撫でた。撫でてから、手を戻した。
◇
土手の上では、盾が下ろされていた。
削られずに残った側に、まだ何枚か立っている。数えられる枚数だった。並んでいた者たちは、並んでいたときの間隔のまま、そこにいた。抜けたところは、抜けたままにしてある。詰め直そうとした者はいなかった。
一人が、そのまま座り込んだ。
裸のままの右足が、土の上に投げ出されている。足首の麻紐は、まだそこにあった。
隣に立っていた男は、座らなかった。
立ったまま、東の空を見ている。
そちらには、もう何もいない。
◇
女が土手の裏から上がってきたとき、シグヴァルドはまだ同じ場所に立っていた。
上ってくる途中で、彼女は一度足を止めている。
止めた場所に、何があったのかはわからない。
「……投げましたわね」
「投げた」
「一言くらい、あってもよろしくてよ」
「言ってたら間に合ってねぇ」
女は、それには答えなかった。
「終わったか」
「終わりましたわね」
「その手は」
「あら」
彼女は握りを開いた。開いてから、開かなければよかったという顔をした。
「……少し、無理をいたしました」
「見せてみろ」
「よろしくてよ」
シグヴァルドは、それ以上言わなかった。
女は、土手の縁まで歩いた。
歩いて、下を見た。
◇
蛇の顔をしたものたちは、まだ頭を垂れている。
その真ん中で、男は立ったまま動いていない。斧は肩に戻したままだ。左足に体重が乗っていないのが、上からでもよくわかった。
女は、斜面を降りた。
降りきるまでに、蛇の顔をしたものたちが道を空けた。誰かが命じたわけではない。前の列が半歩ずつ横へずれて、それが後ろまで伝わっていっただけだ。
「立っていられますの」
「立ってる」
「そう見えませんけれど」
「じゃあ座る」
男は座らなかった。
女は、その横に並んだ。並んで、彼と同じ方向を見た。頭を垂れたものの並びが、そこから先も、しばらく続いている。
「……で。どうなさいますの、これ」
「知るか」
「またブレイズでも作ります?」
男は答えなかった。
答えないのを、女は少し待った。
「守るものがないだろ」
「あら」
彼女は、少し笑った。
「では、あなたの親衛隊にしたらどうです」
「……何の話だ」
「立派なものですわ。何千といらっしゃる」
「どこに住まわせるんだよ」
女は答えなかった。
「ヴォルキハル城で集合だな」
言ったのは、男のほうだった。
女は、一拍おいた。
「やめてくださいませ」
「広いだろ」
「広さの問題ではございません」
「客間はある」
「客が違いますでしょう」
男は、そこで初めて笑った。
声はほとんど出ていない。肩が一度だけ上下して、そのあと胸のどこかで嫌な音がして、彼は顔をしかめた。
「……笑わせるな」
「わたくしのせいですの」
女は、右手を後ろへ回した。
回した手を、彼に見せなかった。見せなかったが、彼はそちらを見ていた。
二人とも、しばらく何も言わない。
言わなくてよかったのは、その日、あの場所が初めてだった。
◇
先に上を見たのは、男のほうだった。
女が何か言いかけて、途中でやめた。
彼が答えないからではない。彼が、答えるのをやめたからだ。
空は、割れている。
朝より、増えていた。減ってはいない。長いものが落ちたときも、砂になったときも、灰が昇っていったときも、あれは一度も動かなかった。枝が枝を出したまま、天の端から端まで、そのまま在る。
「……消えないな」
「ええ」
「あれは、俺のじゃない」
女は、彼を見た。
「では、どなたの」
男は答えなかった。
答えなかったのは、知っていたからかもしれないし、知らなかったからかもしれない。そのときの彼の顔を、まともに見ていた者は一人しかおらず、その一人は、それについて何も言い残していない。
見上げていたのは、二人だけではなかった。
土手の上でも、下でも、捲れ返った街道の上でも。斧を掲げていた者が掲げたまま、名前を叫んでいた者が叫び終わったところで、次々と顔を上げていく。
上げて、そのまま黙った。
歓声は、そこから先へは続かなかった。
その日、あの戦場で殺されたものが何であったのかを、そこにいた者たちは知っていた。殺されなかったものが何であるのかは、まだ誰も知らない。空に走っているそれは、彼らのために走っていたのではないのだろう。もっとずっと前から、そこへ向かって割れ続けていただけのものだ。
一つ、止めた。
止まらなかったものの数を、数えた者はいなかった。