The Elder Scrolls : Dawn of Order   作:蛾の司祭

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第3話:三つ(後半)

近すぎる距離のまま、しばらく何も起きなかった。

 

後ろでは、灰色の上衣が結晶の腕を躱し続けている。躱すたびに、躱された腕が地面へ落ちて、落ちたところの面が組み替わった。組み替わる音だけが、規則正しく鳴っていた。

 

私は、何故ここにいるのか。

 

彼は、そう考えた。

 

器ではない。あれは置いてきた。置いてくるとき、体は何も起こさなかった。呼ぶ声も、もう無い。無いことを確かめたわけではないが、無いのだろうと思う。

 

ならば、何故ここにいる。

 

考えて、答えは出なかった。

 

出なかったが、困らなかった。理由なら、これまでも無かった。

 

「何故、デイドラの王子であるアンタが来た」

 

言ってから、彼は少し驚いた。

 

驚いたのは、内容にではない。訊いたことにだ。

 

彼は、久しく何も訊いていなかった。

 

「何故?」

 

杖を担いだ男が、聞き返した。

 

「ああ」

 

彼は続けた。

 

「狂乱の王子。予測も不可能なアンタが、タムリエルに干渉する理由があるのか」

 

男は、目を細めた。

 

細めて、それから杖の先を空へ向けた。何も出なかった。出す気も無かったらしい。

 

「理由や意味など、何故必要なのだ」

 

杖が、下りる。

 

「意味など無いものは、そのへんに溢れかえっておるではないか。石が転がる。虫が死ぬ。誰も見ておらん。あれに理由を付けて回る者がおるか。おらんだろう。おらんのに、世界は今日も回っておる」

 

「……」

 

「意味など、後からついてくる」

 

男は、そこで初めて笑った。

 

「最初に意味を求めてしまえば、そこが終着点になる。歩く前に着いてしまうのだ。それを人は納得と呼ぶ。ワシは、あれがいちばん嫌いだ」

 

そして、彼を指した。

 

「貴様ら定命の者は、いつもそうだ」

 

                 ◇

 

腹が、立った。

 

立ったことに、彼は気づいた。

 

久しぶりだった。

 

――私は、自らの意思で生きているのではない。

 

彼は、そう処理した。

 

――死ぬことを、許されていないだけだ。あれと同じ括りに入れられる筋合いは無い。

 

処理は、済んだ。

 

済んだので、彼はそれ以上考えなかった。

 

杖を担いだ男は、訂正しなかった。

 

                 ◇

 

「のぅ」

 

男が、言った。

 

「死ねないダンマーよ」

 

杖の石突きが、地面を突く。

 

「貴様は、器だから戦ってきたのか」

 

彼は、答えようとした。

 

そうだ、と。

 

答えは、口の手前まで来ていた。来ていて、そこで止まった。

 

止まった理由が、わからなかった。

 

わからないものは、確かめればいい。確かめることだけは、この数百年で減らなかった。彼は、いつも通りにそれをやった。

 

――器だから戦った。

 

では、器でなくなった今、私は何故ここにいる。

 

一つ。

 

――呼ばれたから来た。

 

誰に呼ばれた。北の男か。あれは呼んでいない。「足止めぐらいなら、してやる」と言ったのは、私のほうだ。誰も頼んでいない。誰も期待していなかった。それでも口が動いた。

 

二つ。

 

――船。

 

あの浜に、粗末な小舟が打ち捨てられていた。誰の物でもない。私はそれを、いつのまにか引き寄せていた。

 

何のために、とは考えなかった。

 

考えなかったのは、考える必要が無かったからだ。理由は、後から貼った。故郷が西にあったから、と。

 

だが、貼ったのは、乗った後だ。

 

三つ。

 

四つ目を数える前に、彼は数えるのをやめた。

 

やめた理由も、確かめなかった。

 

「それとも」

 

男の声が、続いていた。

 

「貴様にも、何か欲があったか」

 

杖が、揺れる。

 

「貴様の狂気は、どこにある」

 

                 ◇

 

彼は、答えなかった。

 

答えの持ち合わせが無かったからではない。

 

彼は、剣を握り直した。

 

それだけだった。

 

「ふん」

 

男は、鼻を鳴らした。

 

「つまらんヤツめ」

 

言い方は、突き放していなかった。

 

むしろ、機嫌が良さそうだ。

 

                 ◇

 

そのとき、面が揺れなかった。

 

彼は、それに気づいた。

 

もう長いこと、東から来ていたものが、来なくなっている。いつ止んだのかはわからない。止んだあとで気づくものは、たいてい止んだ時刻を持たない。

 

「おや」

 

杖を担いだ男が、東を見た。

 

「静かになったな」

 

見て、それから肩をすくめた。

 

「吠えるほうが残ったか。……まあ、そうなるわ。喚くほうは、喚いておるうちは強そうに見えるものでな」

 

彼は、東を見なかった。

 

見ても、何も変わらないからだ。

 

                 ◇

 

「ハッ」

 

男が、急に大声を出した。

 

「埒があかんな!」

 

灰色の上衣が、躱しながら顔だけを向けた。

 

「わたくしは、当初よりそう申し上げております」

 

「聞いておらん」

 

男は自分の足元を見た。

 

影がある。この一帯の光の当たり方からして、そこに影があるのはおかしかった。おかしいまま、影は男の足元で、少し膨らんでいた。

 

彼は、そこへ手を突っ込んだ。

 

「おい、ペラギウス」

 

引きずり出されたのは、人だった。

 

痩せている。上等な服を着ているが、着方が間違っていた。片方の袖に両腕が入っている。目は開いていて、開いたまま、何も見ていない。口は動いていた。ずっと動いている。声は出ていない。

 

引きずり出されたその人は、まず縄跳びをはじめた。

 

縄は無い。

 

「そればかりだな貴様は」

 

男は、その肩を掴んだ。

 

「よい。今日は別の芸だ。お前の大好きな血筋の輝きを見せてやれ」

 

そして、杖を振った。

 

                 ◇

 

光が、出た。

 

杖の先から出たのではない。痩せた人の内側から出た。

 

輪郭が、外へ膨らんでいく。膨らんだ先で形が決まっていき、決まった形には翼があった。

 

竜だった。

 

金色でも白でもない。光そのものが竜の形をしているというだけで、色は無い。輪郭の内側に何も詰まっておらず、向こう側の石柱が透けて見えた。

 

ずっと昔に、一度だけ空へ現れたことのある形だ。

 

そのときは、誰かが自分の全部を差し出して現した。

 

いまは、狂った王の魂が、杖の一振りで押し込められている。

 

竜が、鳴いた。

 

鳴き声は、悲鳴に近かった。

 

そして、結晶へ向かって落ちていった。

 

                 ◇

 

『――そのようなものは』

 

音の並びが、初めて乱れた。

 

『そのようなものは、無い。順が、無い。前が、無い。あれは、どこから来た』

 

結晶の面が、一斉に組み替わろうとした。

 

組み替える先が、決まらなかった。

 

光の竜が結晶の肩へ食い込む。食い込んだ場所の粒が、並ぶべき角度を見失った。見失った粒は、隣の粒を巻き込んで並ばなくなり、それが胴のほうへ広がっていく。

 

胴の中心に、空きができた。

 

面が閉じきらない一区画。

 

「おい、急げ」

 

杖を担いだ男が、初めて張った声を出した。

 

「そいつは保たん。魂を押し込んで竜の形にしておるだけだ。器が竜用に出来ておらんのだからな。……ほれ、もうほどけかけておる」

 

光の竜の後ろ足のあたりが、実際に薄くなっていた。輪郭が二重に見え、二重に見えた部わから、糸のようなものが後ろへ流れ出している。

 

                 ◇

 

彼は、走らない。

 

止まった。

 

止まって、背の袋へ手を回した。

 

出したのは、籠手だった。左手用。金属で、重い。

 

彼はそれを膝で挟み、右手だけで左手を押し込んだ。押し込んで、留め具に指をかけた。

 

一つ。

 

指が滑った。血で滑ったのではない。手が、少し震えていた。

 

光の竜の後ろ足が、片方消えた。

 

二つ。

 

秩序の騎士が、横から来た。灰色の上衣がそれを畳んだ空気へ吸い込む音が、遠くで鳴った。

 

「――間に合いませんな」

 

灰色の上衣の声には、抑揚が無かった。

 

三つ。

 

留め終わった。

 

彼は、数え終わっていた。

 

腰の布に、右手を伸ばす。

 

布を解く。

 

中から出てきたものは、短かった。

 

刃は、石だった。

 

青みの差した緑で、光にかざせば向こうが薄く透ける。表面は割れた面の集まりで出来ていて、割れ方に法則が無い。この一帯を埋めている粒と、色はよく似ていた。

 

似ているのに、一枚として同じ角度をしていなかった。

 

根元には、鈍い金色の板が二枚、鋲で留めてある。板の縁から、細い棘が外へ向かって何本も出ていた。突くための棘ではない。何かを寄せつけないための、出方をしていた。

 

板の側面に、渦が一つ彫ってある。

 

渦の中心に、小さな点があった。遠目には、目に見えなくもない。

 

柄は赤い。血の色ではなく、血の色をした石だ。黒い筋が、その中を走っている。

 

柄の端は、鉤になっていた。細い月を横に倒したような形で、先が内側へ曲がっている。何かを引っ掛けるための形だ。引っ掛けたものを外す造りには、なっていなかった。

 

持っただけで、右手の側の空気が薄くなる。

 

籠手を嵌めた左手で、彼はそれを握った。

 

握って、地面を蹴った。

 

                 ◇

 

刺さった。

 

胴の中心の、閉じきらない一区画へ。

 

抵抗は、無かった。

 

無かったのが、いちばん恐ろしかった。

 

彼の背後で、光の竜がほどける。

 

ほどけたので、隙は無くなった。

 

結晶は、彼を弾かない。

 

払いもしなかった。

 

そういう動作を、持っていないのだろう。

 

そのかわりに、整えにかかった。

 

                 ◇

 

刃の周りの面が、組み替わろうとした。

 

組み替える対象が、見つからなかった。神殺しの刃には、並ぶべき角度が無い。無いものは、囲えない。

 

囲えないので、結晶は次に近いものへ手を伸ばした。

 

握っている手のほうだ。

 

籠手の甲に、六角の粒が乗った。

 

乗った粒が、金属の面へ角度を合わせにいく。合わせて、留め具のあいだへ潜り込み、そこから内側へ入っていく。手首を過ぎ、前腕を上がり、肘の内側で一度止まって、また上がった。

 

冷たくはない。

 

彼は、痛みを予期した。予期した痛みは、来なかった。かわりに、その一帯の感覚が無くなっていく。無くなった場所は、動かそうとしても動かない。動かないのではなく、動かす必要が無いという形に整えられていた。

 

肩まで来た。

 

そこで、止まった。

 

『――何故、並ばぬ』

 

音の並びが、前半と同じ言葉を出した。

 

同じ高さで、同じ切れ目で、同じ強さで。

 

彼は、答えなかった。

 

答えを持っていないからではない。

 

答えを、確かめていないからだ。

 

                 ◇

 

離せば、終わる。

 

握っている手を開けば、腕は自由になる。伸びてきているものは、掴む先を失う。彼はそれを理解している。理解するのに、時間はかからない。

 

彼は、開かなかった。

 

開かなかった理由を、彼は考えなかった。

 

考えなかったことに、あとで気づくこともなかった。

 

彼は、押し込んだ。

 

深く。

 

                 ◇

 

そこから先は、順序が無い。

 

絶対の秩序と、絶対の混沌と、その両方を殺すために作られたものが、彼の左手の中で擦れ合った。

 

擦れ合った先に、彼の体があった。

 

肩まで来ていたものが、そこで並ぶのをやめた。

 

やめたのではない。並べなくなった。

 

角度が決まらない。決まらない粒が、隣の粒を決まらなくさせる。それが腕を逆に下っていき、籠手のところで、外へ噴き出した。

 

背骨のあたりで、何かが外れた。

 

外れた、というのが正しいのかはわからない。彼の中には、数百年ぶんの檻がある。死なせないために組まれた檻だ。組まれた場所が、いま、内側から引き伸ばされていた。

 

肩が裂けた。

 

裂けた口が、閉じない。

 

閉じるはずだった。これまで、閉じなかったことは一度も無い。

 

赤いものが、腕を伝って落ちた。

 

落ちた血は、六角の粒にならなかった。

 

地面に、赤いまま溜まる。

 

彼は、それを見なかった。

 

見る余裕が無かったのか、見る必要が無かったのかは、本人にもわからなかったろう。

 

                 ◇

 

結晶の神は、内側から壊れはじめた。

 

崩れるのではない。並ばなくなる。並ばなくなった粒が隣を並ばなくさせ、それが全体へ広がっていく。角が伸びるのをやめた。人の形に近づきかけていたものが、途中で止まり、止まったところから逆へ戻っていった。

 

『……不足だ』

 

音の並びは、乱れたままだった。

 

『整えきる前に、乱れが増えた。乱れが増える速さが、想定と合わぬ』

 

彼は、刃を抜かなかった。

 

抜けば終わると思わなかったからだ。

 

『――退く』

 

それだけだった。

 

結晶の巨体が、上から順に薄くなっていく。薄くなった部分の向こうに、この一帯の景色がそのまま見えた。景色は歪んでいない。あるべきものが、あるべき場所に見えている。

 

「おい」

 

杖を担いだ男が、上へ声をかけた。

 

急いでいなかった。玄関で靴を履いている相手に思い出したことを言う、という声の出し方だった。

 

杖が、南東を指す。

 

木々の向こう、遠くの空に赤いものが湧いている。湧いて、潰れて、また湧いていた。

 

「タムリエルに手を出すと、ろくな事にならんことぐらい、わかるであろう」

 

『貴様も、いま、この地にいる』

 

「ワシは遊びに来ておるのだ」

 

男は、心外そうな顔をした。

 

「手は出しておらん」

 

薄くなりかけた面が、いくつか、こちらを向いた。

 

向いたまま、しばらく何も出てこなかった。

 

『……ではどこに、オブリビオンを作れば』

 

「知らん」

 

『……』

 

「知らんと言うておる。ワシに訊くな。ワシは自分のところの土地の形すら覚えておらん」

 

音の並びが、一度だけ出た。

 

『ふむ』

 

その「ふむ」は、他のどの言葉とも同じ高さで出た。

 

同じ切れ目で、同じ強さで。考えている音のはずのものが、考えている音をしていなかった。

 

『また、考えてみることにしよう』

 

「そうせい」

 

そこにいたものだけが、いなくなった。

 

海へ帰ったのだと、彼は思った。

 

どの海なのかは、考えない。

 

彼は、聞いていた。

 

聞いていたが、どちらの言葉も、彼の役には立たなかった。

 

                 ◇

 

石柱が、倒れはじめる。

 

一本目は、根のところから折れた。折れて、倒れる途中で粒に戻り、粒は落ちながらさらに細かくなって、地面に届くころには何も残っていなかった。

 

二本目。三本目。

 

順序は無い。近い順でも、大きい順でもなかった。

 

秩序の騎士たちは、倒れなかった。

 

立ったまま、面の継ぎ目の無い体が、端から粉になっていく。一体が崩れきるまでのあいだ、彼らは一度も動かなかった。逃げようとした者も、こちらへ来ようとした者も、いなかった。

 

音は、減っていく。

 

                 ◇

 

杖を担いだ男は、そのあいだ、別のほうを見ていた。

 

木々の合間だ。

 

木は、もう六角の面をしていない。ただの木に戻った枝と枝のあいだから、遠くに白いものが一本、立っている。

 

男は、しばらくそれを見ていた。

 

「フン」

 

鼻を鳴らした。

 

それだけだった。

 

そして、振り返った。

 

「ペラギウス! いつまでふざけた格好をしておるのだ」

 

光の竜が、そこで止まった。

 

止まって、輪郭がほどけていく。ほどけた先に、痩せた人が落ちてきた。落ちて、四つん這いになり、それから立ち上がって、また縄跳びをはじめた。

 

「そればかりだな」

 

男は、その背を杖で押した。

 

                 ◇

 

「ではな」

 

杖の先が、空へ向く。

 

向いた先の空気が、縦に裂けた。向こう側に、色が見える。この世のどこにも無い色の組み合わせだった。

 

「『死ねないダンマーよ』」

 

男は、裂け目へ足をかけながら、振り返った。

 

「貴様なら、ディメンシャの住人として歓迎するぞ」

 

彼は、答えなかった。

 

「返事はよい。返事をするやつは、たいてい来ん」

 

裂け目へ半分入ったところで、男は思い出したように止まった。

 

「そうだ。あの竜の男に会うことがあれば、言うておいてくれ」

 

「……何をだ」

 

「『お前が一番退屈だった』とな」

 

男は笑った。腹の底からではなく、思い出し笑いに近い笑い方だった。

 

彼には、意味がわからなかった。

 

訊こうとして、やめた。訊けば、答えが返ってくる。返ってきた答えのほうが、たいてい厄介だ。

 

男は、ステップを踏んだ。

 

三歩に一度、意味の無い運びが入る。その運びのまま、彼は裂け目の向こうへ行った。

 

灰色の上衣は、いつのまにかいなくなっていた。

 

いなくなる場面を、誰も見ていない。

 

                 ◇

 

静かになった。

 

音は、二つに戻っていた。

 

一つは、彼の呼吸。

 

もう一つは、低い。ずっと下のほうから、まだ規則正しく来ている。

 

止まっていないのは、それだけだった。

 

                 ◇

 

彼は、左手の籠手を外さなかった。

 

外そうとして、留め具の一つ目で手が止まり、そのまま下ろした。

 

肩の傷は、まだ閉じていない。

 

閉じるまでに、これまでよりずっと長くかかった。長くかかったが、閉じた。

 

彼は、歩き出した。

 

一歩目で、草を踏んだ。

 

足を離す。

 

草は、潰れたままだ。

 

戻らなかった。

 

彼は、そこで足を止めた。

 

止めて、潰れた草を見ていた。

 

                 ◇

 

音は、二つのままだ。

 

一つは、彼の呼吸。

 

もう一つは、低い。

 

さっきまで、それはどこから来ているとも言えなかった。上でもなく、下でもなく、この土地の底のあたりから、ただ届いていた。方角というものが、あの音には無かった。

 

いま、そうではない。

 

減ったからだ。

 

石柱の伸びる音も、粒の並ぶ音も、灰色の足音も、みな無くなった。無くなったぶん、残った一つの輪郭が出た。

 

南東だ。

 

彼は、そちらを向いた。

 

木は、木に戻っている。戻った枝と枝のあいだの、ずっと遠くに、白いものが一本立っていた。

 

さっき、あの神が見ていたほうだ。

 

見て、一度だけ鼻を鳴らした。それだけだった。それ以上は何も言わなかったし、彼も訊かなかった。

 

訊いていれば、何か言ったのかもしれない。

 

そのことについて、彼は考えなかった。

 

                 ◇

 

足元の草は、まだ潰れたままだった。

 

彼は、もう一歩踏んだ。

 

同じだった。

 

その先も、たぶん同じだろう。

 

面の揃った地面は、もうどこにも無い。歩ける。あの白いものの下まで、ずっと歩けるはずだった。

 

                 ◇

 

肩が、まだ少し痛んだ。

 

痛みが残っているというのは、彼にとって、久しく無かったことだ。

 

いつ引くのかは、わからない。

 

引かないのかもしれない。

 

わからないものは、確かめればいい。

 

彼は、そこに立っていた。

 

立っていた時間がどれくらいだったのかを、数えた者はいない。その日、あの一帯にいたのは彼一人であり、彼は、そのとき何も数えていなかった。

 

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