The Elder Scrolls : Dawn of Order   作:蛾の司祭

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第4話:空いていた場所(前半)

白金の塔の下に立って、初めてわかることがある。

 

上が、見えない。

 

この塔を遠くから見た者は、みな一本の白い柱を思い浮かべる。根元まで来ると、白いものは視界の全部になり、柱であることをやめる。壁だ。曲がっているのかどうかも、この距離ではわからない。

 

カイラスは、一度だけ上を見た。

 

見えたのは壁と、その上に細く残った空だった。

 

空には、線が走っていた。

 

朝より増えている。増え方に法則が無い。一本が伸びるあいだに別の一本が枝を出し、その枝がまた分かれて、どれが元の一本だったのかがわからなくなっていた。

 

北のほうで、空気が鳴った。

 

音ではない。壁が震え、震えが足の裏から膝へ上がってくる。上がってきて、そこで止まる。何かが、遠くで吠えていた。

 

「……先を急ぎましょう」

 

前を歩いていた兵が言った。

 

彼は上を見ていなかった。

 

                 ◇

 

塔の中は、外より暗かった。

 

明かり取りの穴が、高いところに等間隔で並んでいる。差し込む光が床に丸を作り、丸は等間隔で並んでいた。並んだ丸のあいだを、四人は順に踏んでいく。

 

先頭の兵は、迷わない。

 

三度、曲がった。二度、扉を開けた。扉はどれも施錠されておらず、そのことについて彼は何も言わない。三つ目の扉の向こうに、下りの階段があった。

 

「ここから、まっすぐです」

 

カイラスは頷いた。

 

頷いてから、頷いたことを自分で確かめた。何かを言うべきだったのかもしれない。だが、この兵たちに向かって言うことを、彼は思いつかなかった。

 

礼なら、上で一度言った。

 

言ったとき、三人のうち誰も、それに返事をしなかった。

 

                 ◇

 

階段は、途中から様子が変わる。

 

段が、無くなっていた。

 

正しくは、段だったものが段でなくなっていた。角が丸くなり、丸くなった面が隣と繋がって、下へ向かう一枚の坂になっている。表面には六角の粒が敷き詰められていて、粒はどれも同じ角度で光を返した。

 

坂の上に、灰色が立っていた。

 

四体。

 

背が高い。全身を覆う面に継ぎ目が無い。手には何も持っていなかった。片方の掌を段の縁に当てて、そこをゆっくりと撫でている。撫でた場所から、角が取れていく。

 

戦っているのではない。

 

直しているのだった。

 

「……止まってください」

 

先頭の兵が、腕を横へ出した。

 

四人は止まった。

 

灰色は、こちらを見なかった。四体とも、それぞれの手元を見ている。人が四人、そこに立っていることは、彼らにとって計算に入っていなかった。

 

「あれの横を、抜けられますか」

 

カイラスが訊いた。

 

「抜けられます」

 

兵は坂を見ていた。

 

「触れなければ」

 

坂の幅を、カイラスは目で測った。灰色の一体の肩から壁までは、大人が横向きになっても足りない。

 

測り終える前に、後ろの二人が前へ出た。

 

一人は鼻の骨が曲がっていた。もう一人は、まだ髭も生えていない。

 

二人は、何も言わなかった。

 

言わずに、盾を構えた。

 

「――お待ちください」

 

カイラスは手を伸ばした。

 

伸ばしたのは右手で、右手には剣がある。剣を持った手で人を止めることはできない。彼はそれに気づいて、手を下ろした。

 

下ろしたときには、二人は坂を駆け下りていた。

 

一人が、灰色の一体の背へ剣を打ち込んだ。

 

音が、鳴った。

 

四体が、一斉にそちらを向いた。

 

向いた。

 

それだけのことで、坂の上の空気が変わる。手が段から離れる。四つの面が、同じ角度で二人のほうへ揃う。撫でていた手は、いつのまにか六角の粒を積み上げた剣になっていた。

 

「――今です!」

 

鼻の曲がった兵が、こちらを見ずに叫んだ。

 

先頭の兵が、カイラスの背を押した。

 

押されて、彼は走った。

 

壁沿いを、灰色の背中の後ろを、滑るように。誰も彼を見なかった。四つの面はすべて別の方向を向いていて、そちらでは、二人が二人ぶんの音を立てている。

 

坂を下りきる直前に、音が一つ減った。

 

カイラスは、振り返らない。

 

振り返るという動作を、体がしなかった。あとになって、なぜしなかったのかを考える機会は、この日のうちには来なかった。

 

                 ◇

 

下りるほど、静かになる。

 

上の音が届かない。燃えている音も、号令も、鉄の音も、坂を一つ隔てるごとに薄くなっていく。

 

かわりに、下から来るものがあった。

 

歌だった。

 

歌と言うには、抑揚が無い。低い。言葉の切れ目が無い。

 

カイラスは、しばらく聞いていた。

 

聞いて、おかしいことに気づいた。

 

息継ぎが無い。

 

人が声を出すなら、どこかで吸わなければならない。この音には、吸っている場所が無かった。ずっと出続けている。近づくほど大きくなり、大きくなっても、やはりどこにも切れ目が無かった。

 

「……何でしょうか、これは」

 

「知りません」

 

先頭の兵は、それだけ答えた。

 

「二年ここに詰めておりますが、下でこんな音は聞いたことがありません」

 

                 ◇

 

天井から、埃が落ちていた。

 

北で何かが鳴るたび、細かいものが上からぱらぱらと来る。カイラスの肩に積もり、彼はそれを払わなかった。払っても、また積もる。

 

その埃が、落ちなくなった。

 

彼は気づいて、足を止めた。

 

天井を見上げる。

 

何も落ちてこない。

 

震えも、来ていない。

 

いつ止んだのかは、わからなかった。落ちていたものが落ちなくなったことに気づくには、しばらく落ちてこない時間が要る。要った時間のぶんだけ、彼は遅れて知ることになる。

 

「……北が」

 

「静かになりましたね」

 

兵は、上を見なかった。

 

「どちらが勝ったんでしょうか」

 

答えられる者は、そこにいなかった。

 

                 ◇

 

最後の扉は、開いていた。

 

開いていたというより、扉が無かった。枠だけがある。枠の向こうから、切れ目の無い音が真正面に来ていた。

 

カイラスは、そこへ入った。

 

                 ◇

 

部屋には、天井が無かった。

 

見上げれば、上へ向かってすぼまっていく縦の空洞が、闇の中へ消えている。あの上のどこかに、彼がさっき見上げた白い壁があるのだろう。

 

床の中央に、輪があった。

 

長衣が、二十ほど。等間隔で立ち、切れ目の無い音を出し続けている。一人が吸っているあいだ、残りが出す。だから途切れない。

 

輪の中心の床に、白いものが並んでいた。

 

短い。爪の先ほどしか出ていない。艶が無く、光が当たっても、当たった場所が明るくならない。

 

カイラスは、数えた。

 

一、二、三。

 

八。

 

彼の右手が、勝手に強く柄を握った。

 

握ったことに、彼は少し遅れて気づいた。

 

                 ◇

 

輪の中に、黒と金が立っていた。

 

長衣の裾が焦げている。掌が上を向いていて、そこに珠が乗っていた。

 

珠は、瞬いていた。

 

間隔が、揃っていない。

 

「――おや」

 

黒と金が、こちらを向いた。

 

「客でございますか」

 

声を張っていない。この距離で、切れ目の無い唱和の上を通って、それでもはっきり聞こえた。

 

輪の何人かが、音を出したまま目だけをこちらへ向けた。

 

そのうちの一人が、掌を腿で拭った。

 

拭ってから、拭ったことに気づいたような顔をして、また前へ向き直る。カイラスは、その動作を見た。見たが、それが何なのかは知らなかったし、知る機会も、そのあと来なかった。

 

                 ◇

 

先頭の兵が、前へ出る。

 

出て、剣を構えた。

 

構えただけだ。

 

黒と金は、その兵を見なかった。

 

見ずに、掌の上の珠を右手に持ち替え、空いた左手を、少しだけ持ち上げた。

 

肘から先が動いたわけではない。指が一本、上を向いただけだ。

 

兵の体が、床から離れた。

 

離れて、真上へ上がった。三人ぶんの高さまで。そこで止まり、それから、一度も曲がらずに落ちた。

 

床に、当たる。

 

音は、思っていたよりずっと小さかった。人が高いところから落ちれば大きな音が出るものだと、カイラスは漠然と思っていた。そんなことはない。人はたいてい、思ったより小さな音しか立てない。

 

黒と金は、そちらを見ていなかった。

 

見ていない場所で、何が起きたのかも、たぶん知らない。落ちたものが、床のどのあたりに落ちたのかも。

 

「……で」

 

彼は、カイラスのほうへ向き直った。

 

「あなたは、使いの者ですか」

 

                 ◇

 

カイラスは、剣を抜いていた。

 

いつ抜いたのかは、覚えていない。

 

「そう、でございます」

 

答えてから、なぜ答えたのかがわからなかった。

 

「使いの者です」

 

「なるほど」

 

黒と金は、少し首を傾けた。

 

「では、何をお持ちで」

 

「……何も」

 

「では、使いではございませぬな」

 

言い方は、優しかった。

 

年上の者が、道を間違えた子供に道順を教えるときの言い方に、よく似ていた。

 

その目が、カイラスの右手のものへ落ちた。

 

「ずいぶんと古いものをお持ちで」

 

カイラスは、答えなかった。

 

「よい造りです。柄の巻きの減り方に嘘がございませぬ。……あなたのものではございませぬな」

 

「……借り物でございます」

 

「そうでしょうとも」

 

黒と金は、それきりその剣について何も言わなかった。

 

                 ◇

 

そこから先を、カイラスはあまり覚えていない。

 

覚えているのは、いくつかの断片だけだ。

 

一度、踏み込んだ。踏み込んだところで、床が無くなった。無くなったのではない。膝から下が、そこを認めなくなっていた。

 

一度、剣が届いた。届いた先に、何も無い。

 

一度、壁に当たった。当たったとき、背中よりも先に、後頭部が鳴った。

 

立ち上がるたびに、立ち上がる速さが遅くなる。三度目のあと、彼は膝から先の使い方を思い出すのに、少し考えなければならなかった。

 

唱和は、続いていた。

 

一度も、途切れていない。

 

彼が壁に当たった音も、床を転がった音も、その音の切れ目にはならなかった。誰も止めなかったし、誰も見ていなかった。

 

                 ◇

 

四度目に、彼は立てなかった。

 

床に手をついたまま、そこにいる。

 

右手には、まだ剣がある。指が言うことを聞かないので、離れないだけだった。

 

足音が、近づいてきた。

 

黒と金は、彼の前でしゃがんだ。

 

初めて、しゃがんだ。

 

「……ほう」

 

そして、カイラスの左腕を見た。

 

見て、しばらく動かなかった。

 

「――これは」

 

指が伸びる。

 

袖を、まくった。

 

「珍しい」

 

黒と金の声が、そこで初めて少し変わった。

 

嬉しそうだった。

 

「サイジックの仕事ですな。それも古い型の。近ごろの者はこういう組み方をいたしませぬ」

 

指が、腕の上を辿った。

 

触れてはいない。皮膚から指一本ぶん浮かせたまま、肘から手首へ、手首から指先へ。何かの縫い目を目でなぞるような動きだった。

 

「よくもまあ、こんなものを人間の腕に。……いや、人間の腕だからでしょうな。焼けた肉を焼けたままにしておいて、痛みのほうだけ別の場所へ寄せてある。無茶な話でございます。無茶ですが、美しい」

 

顔を上げた。

 

「あの老人でございますな」

 

カイラスは、答えなかった。

 

「議場で、ずいぶん立派なことを仰っておられました。理がどうの、境がどうの。あれだけの席で、あれだけのことを申されて」

 

指が、また下りる。

 

「それが、こういうことをしておられる。人間の腕に。手ずから」

 

声は、責めていなかった。

 

呆れてもいない。理解できないものを一つ見つけて、それを口に出して確かめている、という調子だった。

 

「よほど気に入られたのですな。……あなたを」

 

指が、止まった。

 

肘の内側の、ある一点で。

 

「ここが、留めでございますな」

 

                 ◇

 

黒と金は、彼を痛めつけようとしていなかった。

 

そのことを、カイラスはわかっていた。

 

わかっていたが、どうにもならなかった。この男は、細工を見ているだけだ。見て、どう組んであるのかを知りたいと思っている。知るためには、外側から一枚ずつ外していくのがいちばん早い。

 

指が、動いた。

 

小さな動きだった。糸の端を探して、引くときの動き方だ。

 

「失礼」

 

                 ◇

 

音が、した。

 

体の内側で。

 

薄い硝子を、遠くで割ったような音だった。

 

そして、来た。

 

                 ◇

 

順序が、無い。

 

ネクロムの崖の上で、あの熱が腕を通っていったときから今日までの全部が、そこにあった。分けられていない。並んでもいない。ただ、一つの塊として、彼の中へ押し込まれた。

 

痛みではなかった。

 

痛みには場所がある。ここが痛い、と言える。これには場所が無かった。腕でも、体でもない。彼という入れ物の内側が、全部そうなった。

 

視界が白くなり、それから黒くなり、それでもなくならなかった。

 

左腕が、そこで終わった。

 

終わる、というのが正しい。焼けてから今日まで、あれはずっと終わりかけていた。終わりきらなかったのは、終わらせないものが張ってあったからだ。

 

張ってあったものは、いま外れた。

 

肩から先が、重くなった。

 

重くなっただけだ。

 

                 ◇

 

右手が、動いた。

 

いつもの場所へ。

 

左の肘。

 

指が、触れた。

 

触れたことは、指のほうだけが知っていた。

 

彼は、探した。

 

そこに何があるはずだったのかを、彼はもう思い出せない。ずっと触ってきた。焼けてからは毎日、それより前も、たぶん癖として。触れば、何かがあった。

 

いま、何も無い。

 

腕は、そこにある。

 

無いのは、腕ではなかった。

 

彼は、探し続けた。

 

見つからなかった。

 

                 ◇

 

「――なるほど」

 

黒と金が、立ち上がった。

 

「壊れましたか。少々乱暴でしたな。……いや、これは面白い」

 

彼は自分の指先を見ていた。

 

「痛みを別の場所に寄せておくということは、寄せた先に溜まるということでございます。溜めたぶんは、どこへも行かぬ。……サイジックというのは、本当に、先のことを考えぬ連中でして」

 

そして、笑った。

 

小さく。

 

輪の唱和は、まだ切れていない。

 

床に落ちた兵は、もう動かない。

 

カイラスは、床に手をついたまま、そこにいた。

 

頭が、下がっていた。

 

下げたのではない。上げているだけの力が、どこにも残っていなかった。

 

                 ◇

 

そのとき、部屋が冷えた。

 

一息にだった。

 

火が消えたのでも、風が入ったのでもない。この部屋の熱が、この部屋の中で無くなった。石も、金属も、人の頬も、同じ速さで冷たくなっていく。

 

長衣の一人が、息を吸う。

 

吸ったまま、出さなかった。

 

唱和が、乱れた。

 

乱れて、細くなって、そこで――

 

止まった。

 

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