The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
白金の塔の下に立って、初めてわかることがある。
上が、見えない。
この塔を遠くから見た者は、みな一本の白い柱を思い浮かべる。根元まで来ると、白いものは視界の全部になり、柱であることをやめる。壁だ。曲がっているのかどうかも、この距離ではわからない。
カイラスは、一度だけ上を見た。
見えたのは壁と、その上に細く残った空だった。
空には、線が走っていた。
朝より増えている。増え方に法則が無い。一本が伸びるあいだに別の一本が枝を出し、その枝がまた分かれて、どれが元の一本だったのかがわからなくなっていた。
北のほうで、空気が鳴った。
音ではない。壁が震え、震えが足の裏から膝へ上がってくる。上がってきて、そこで止まる。何かが、遠くで吠えていた。
「……先を急ぎましょう」
前を歩いていた兵が言った。
彼は上を見ていなかった。
◇
塔の中は、外より暗かった。
明かり取りの穴が、高いところに等間隔で並んでいる。差し込む光が床に丸を作り、丸は等間隔で並んでいた。並んだ丸のあいだを、四人は順に踏んでいく。
先頭の兵は、迷わない。
三度、曲がった。二度、扉を開けた。扉はどれも施錠されておらず、そのことについて彼は何も言わない。三つ目の扉の向こうに、下りの階段があった。
「ここから、まっすぐです」
カイラスは頷いた。
頷いてから、頷いたことを自分で確かめた。何かを言うべきだったのかもしれない。だが、この兵たちに向かって言うことを、彼は思いつかなかった。
礼なら、上で一度言った。
言ったとき、三人のうち誰も、それに返事をしなかった。
◇
階段は、途中から様子が変わる。
段が、無くなっていた。
正しくは、段だったものが段でなくなっていた。角が丸くなり、丸くなった面が隣と繋がって、下へ向かう一枚の坂になっている。表面には六角の粒が敷き詰められていて、粒はどれも同じ角度で光を返した。
坂の上に、灰色が立っていた。
四体。
背が高い。全身を覆う面に継ぎ目が無い。手には何も持っていなかった。片方の掌を段の縁に当てて、そこをゆっくりと撫でている。撫でた場所から、角が取れていく。
戦っているのではない。
直しているのだった。
「……止まってください」
先頭の兵が、腕を横へ出した。
四人は止まった。
灰色は、こちらを見なかった。四体とも、それぞれの手元を見ている。人が四人、そこに立っていることは、彼らにとって計算に入っていなかった。
「あれの横を、抜けられますか」
カイラスが訊いた。
「抜けられます」
兵は坂を見ていた。
「触れなければ」
坂の幅を、カイラスは目で測った。灰色の一体の肩から壁までは、大人が横向きになっても足りない。
測り終える前に、後ろの二人が前へ出た。
一人は鼻の骨が曲がっていた。もう一人は、まだ髭も生えていない。
二人は、何も言わなかった。
言わずに、盾を構えた。
「――お待ちください」
カイラスは手を伸ばした。
伸ばしたのは右手で、右手には剣がある。剣を持った手で人を止めることはできない。彼はそれに気づいて、手を下ろした。
下ろしたときには、二人は坂を駆け下りていた。
一人が、灰色の一体の背へ剣を打ち込んだ。
音が、鳴った。
四体が、一斉にそちらを向いた。
向いた。
それだけのことで、坂の上の空気が変わる。手が段から離れる。四つの面が、同じ角度で二人のほうへ揃う。撫でていた手は、いつのまにか六角の粒を積み上げた剣になっていた。
「――今です!」
鼻の曲がった兵が、こちらを見ずに叫んだ。
先頭の兵が、カイラスの背を押した。
押されて、彼は走った。
壁沿いを、灰色の背中の後ろを、滑るように。誰も彼を見なかった。四つの面はすべて別の方向を向いていて、そちらでは、二人が二人ぶんの音を立てている。
坂を下りきる直前に、音が一つ減った。
カイラスは、振り返らない。
振り返るという動作を、体がしなかった。あとになって、なぜしなかったのかを考える機会は、この日のうちには来なかった。
◇
下りるほど、静かになる。
上の音が届かない。燃えている音も、号令も、鉄の音も、坂を一つ隔てるごとに薄くなっていく。
かわりに、下から来るものがあった。
歌だった。
歌と言うには、抑揚が無い。低い。言葉の切れ目が無い。
カイラスは、しばらく聞いていた。
聞いて、おかしいことに気づいた。
息継ぎが無い。
人が声を出すなら、どこかで吸わなければならない。この音には、吸っている場所が無かった。ずっと出続けている。近づくほど大きくなり、大きくなっても、やはりどこにも切れ目が無かった。
「……何でしょうか、これは」
「知りません」
先頭の兵は、それだけ答えた。
「二年ここに詰めておりますが、下でこんな音は聞いたことがありません」
◇
天井から、埃が落ちていた。
北で何かが鳴るたび、細かいものが上からぱらぱらと来る。カイラスの肩に積もり、彼はそれを払わなかった。払っても、また積もる。
その埃が、落ちなくなった。
彼は気づいて、足を止めた。
天井を見上げる。
何も落ちてこない。
震えも、来ていない。
いつ止んだのかは、わからなかった。落ちていたものが落ちなくなったことに気づくには、しばらく落ちてこない時間が要る。要った時間のぶんだけ、彼は遅れて知ることになる。
「……北が」
「静かになりましたね」
兵は、上を見なかった。
「どちらが勝ったんでしょうか」
答えられる者は、そこにいなかった。
◇
最後の扉は、開いていた。
開いていたというより、扉が無かった。枠だけがある。枠の向こうから、切れ目の無い音が真正面に来ていた。
カイラスは、そこへ入った。
◇
部屋には、天井が無かった。
見上げれば、上へ向かってすぼまっていく縦の空洞が、闇の中へ消えている。あの上のどこかに、彼がさっき見上げた白い壁があるのだろう。
床の中央に、輪があった。
長衣が、二十ほど。等間隔で立ち、切れ目の無い音を出し続けている。一人が吸っているあいだ、残りが出す。だから途切れない。
輪の中心の床に、白いものが並んでいた。
短い。爪の先ほどしか出ていない。艶が無く、光が当たっても、当たった場所が明るくならない。
カイラスは、数えた。
一、二、三。
八。
彼の右手が、勝手に強く柄を握った。
握ったことに、彼は少し遅れて気づいた。
◇
輪の中に、黒と金が立っていた。
長衣の裾が焦げている。掌が上を向いていて、そこに珠が乗っていた。
珠は、瞬いていた。
間隔が、揃っていない。
「――おや」
黒と金が、こちらを向いた。
「客でございますか」
声を張っていない。この距離で、切れ目の無い唱和の上を通って、それでもはっきり聞こえた。
輪の何人かが、音を出したまま目だけをこちらへ向けた。
そのうちの一人が、掌を腿で拭った。
拭ってから、拭ったことに気づいたような顔をして、また前へ向き直る。カイラスは、その動作を見た。見たが、それが何なのかは知らなかったし、知る機会も、そのあと来なかった。
◇
先頭の兵が、前へ出る。
出て、剣を構えた。
構えただけだ。
黒と金は、その兵を見なかった。
見ずに、掌の上の珠を右手に持ち替え、空いた左手を、少しだけ持ち上げた。
肘から先が動いたわけではない。指が一本、上を向いただけだ。
兵の体が、床から離れた。
離れて、真上へ上がった。三人ぶんの高さまで。そこで止まり、それから、一度も曲がらずに落ちた。
床に、当たる。
音は、思っていたよりずっと小さかった。人が高いところから落ちれば大きな音が出るものだと、カイラスは漠然と思っていた。そんなことはない。人はたいてい、思ったより小さな音しか立てない。
黒と金は、そちらを見ていなかった。
見ていない場所で、何が起きたのかも、たぶん知らない。落ちたものが、床のどのあたりに落ちたのかも。
「……で」
彼は、カイラスのほうへ向き直った。
「あなたは、使いの者ですか」
◇
カイラスは、剣を抜いていた。
いつ抜いたのかは、覚えていない。
「そう、でございます」
答えてから、なぜ答えたのかがわからなかった。
「使いの者です」
「なるほど」
黒と金は、少し首を傾けた。
「では、何をお持ちで」
「……何も」
「では、使いではございませぬな」
言い方は、優しかった。
年上の者が、道を間違えた子供に道順を教えるときの言い方に、よく似ていた。
その目が、カイラスの右手のものへ落ちた。
「ずいぶんと古いものをお持ちで」
カイラスは、答えなかった。
「よい造りです。柄の巻きの減り方に嘘がございませぬ。……あなたのものではございませぬな」
「……借り物でございます」
「そうでしょうとも」
黒と金は、それきりその剣について何も言わなかった。
◇
そこから先を、カイラスはあまり覚えていない。
覚えているのは、いくつかの断片だけだ。
一度、踏み込んだ。踏み込んだところで、床が無くなった。無くなったのではない。膝から下が、そこを認めなくなっていた。
一度、剣が届いた。届いた先に、何も無い。
一度、壁に当たった。当たったとき、背中よりも先に、後頭部が鳴った。
立ち上がるたびに、立ち上がる速さが遅くなる。三度目のあと、彼は膝から先の使い方を思い出すのに、少し考えなければならなかった。
唱和は、続いていた。
一度も、途切れていない。
彼が壁に当たった音も、床を転がった音も、その音の切れ目にはならなかった。誰も止めなかったし、誰も見ていなかった。
◇
四度目に、彼は立てなかった。
床に手をついたまま、そこにいる。
右手には、まだ剣がある。指が言うことを聞かないので、離れないだけだった。
足音が、近づいてきた。
黒と金は、彼の前でしゃがんだ。
初めて、しゃがんだ。
「……ほう」
そして、カイラスの左腕を見た。
見て、しばらく動かなかった。
「――これは」
指が伸びる。
袖を、まくった。
「珍しい」
黒と金の声が、そこで初めて少し変わった。
嬉しそうだった。
「サイジックの仕事ですな。それも古い型の。近ごろの者はこういう組み方をいたしませぬ」
指が、腕の上を辿った。
触れてはいない。皮膚から指一本ぶん浮かせたまま、肘から手首へ、手首から指先へ。何かの縫い目を目でなぞるような動きだった。
「よくもまあ、こんなものを人間の腕に。……いや、人間の腕だからでしょうな。焼けた肉を焼けたままにしておいて、痛みのほうだけ別の場所へ寄せてある。無茶な話でございます。無茶ですが、美しい」
顔を上げた。
「あの老人でございますな」
カイラスは、答えなかった。
「議場で、ずいぶん立派なことを仰っておられました。理がどうの、境がどうの。あれだけの席で、あれだけのことを申されて」
指が、また下りる。
「それが、こういうことをしておられる。人間の腕に。手ずから」
声は、責めていなかった。
呆れてもいない。理解できないものを一つ見つけて、それを口に出して確かめている、という調子だった。
「よほど気に入られたのですな。……あなたを」
指が、止まった。
肘の内側の、ある一点で。
「ここが、留めでございますな」
◇
黒と金は、彼を痛めつけようとしていなかった。
そのことを、カイラスはわかっていた。
わかっていたが、どうにもならなかった。この男は、細工を見ているだけだ。見て、どう組んであるのかを知りたいと思っている。知るためには、外側から一枚ずつ外していくのがいちばん早い。
指が、動いた。
小さな動きだった。糸の端を探して、引くときの動き方だ。
「失礼」
◇
音が、した。
体の内側で。
薄い硝子を、遠くで割ったような音だった。
そして、来た。
◇
順序が、無い。
ネクロムの崖の上で、あの熱が腕を通っていったときから今日までの全部が、そこにあった。分けられていない。並んでもいない。ただ、一つの塊として、彼の中へ押し込まれた。
痛みではなかった。
痛みには場所がある。ここが痛い、と言える。これには場所が無かった。腕でも、体でもない。彼という入れ物の内側が、全部そうなった。
視界が白くなり、それから黒くなり、それでもなくならなかった。
左腕が、そこで終わった。
終わる、というのが正しい。焼けてから今日まで、あれはずっと終わりかけていた。終わりきらなかったのは、終わらせないものが張ってあったからだ。
張ってあったものは、いま外れた。
肩から先が、重くなった。
重くなっただけだ。
◇
右手が、動いた。
いつもの場所へ。
左の肘。
指が、触れた。
触れたことは、指のほうだけが知っていた。
彼は、探した。
そこに何があるはずだったのかを、彼はもう思い出せない。ずっと触ってきた。焼けてからは毎日、それより前も、たぶん癖として。触れば、何かがあった。
いま、何も無い。
腕は、そこにある。
無いのは、腕ではなかった。
彼は、探し続けた。
見つからなかった。
◇
「――なるほど」
黒と金が、立ち上がった。
「壊れましたか。少々乱暴でしたな。……いや、これは面白い」
彼は自分の指先を見ていた。
「痛みを別の場所に寄せておくということは、寄せた先に溜まるということでございます。溜めたぶんは、どこへも行かぬ。……サイジックというのは、本当に、先のことを考えぬ連中でして」
そして、笑った。
小さく。
輪の唱和は、まだ切れていない。
床に落ちた兵は、もう動かない。
カイラスは、床に手をついたまま、そこにいた。
頭が、下がっていた。
下げたのではない。上げているだけの力が、どこにも残っていなかった。
◇
そのとき、部屋が冷えた。
一息にだった。
火が消えたのでも、風が入ったのでもない。この部屋の熱が、この部屋の中で無くなった。石も、金属も、人の頬も、同じ速さで冷たくなっていく。
長衣の一人が、息を吸う。
吸ったまま、出さなかった。
唱和が、乱れた。
乱れて、細くなって、そこで――
止まった。