The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
止まったあとの部屋は、静かではなかった。
音が無いのと、静かなのは違う。二十人ぶんの息が、それぞれ勝手な場所で止まっていた。止まったものは、いつかまた動く。動くまでのあいだ、部屋にはその気配だけが詰まっていた。
カイラスは、床に手をついたままだった。
頭が下がっている。
顔は、見えない。
「……何をした」
黒と金が、言った。
初めて、声に張りがあった。張ったつもりは無かったのだろう。それでも、さっきまでとは違う出方をしていた。
答えは、無い。
「何をしたと訊いております」
杖が、上がった。
上がりきったところで、振り下ろされる。
打つ先は、下がったままの頭だった。
◇
音は、高かった。
金属が金属を弾く音だ。
杖は、床に落ちた。二度跳ねて、輪の縁まで転がっていって、そこで止まった。
黒と金の右手が、空を握ったままの形で止まっている。
カイラスの右手が、上がっていた。
剣が、そこにある。
さっきまで、その手は指が言うことを聞かず、離せないから握っていただけだった。いま、その手は肩の高さで止まっている。止まり方に無駄が無い。振り抜いていない。当てて、止めた。
そういう止め方をする腕を、この男は持っていない。
持っていないものが、そこにあった。
◇
顔が、上がった。
鼻から、血が出ていた。
口の端からも。
目からも出ていて、それは頬を伝って顎で合流し、そこから床へ落ちていった。落ちた場所に、丸ができる。
目は、開いている。
開いた目が、黒と金を見た。
見た、というのが正しいのかはわからない。視線というものには、たいてい距離が入っている。これには入っていなかった。近くのものも、遠くのものも、同じ扱いをする見方だった。
そして、笑った。
◇
音ではない。
部屋の空気が、笑い声の形に押し出された。縦の空洞を、それが上っていく。上っていって、途中で壁に当たり、当たったところから戻ってきて、また上っていった。
床の白いものが、震えた。
八つとも。
長衣の一人が、耳を押さえた。押さえた手の下から、赤いものが出た。
笑い声は、続いた。
長い。
長すぎた。人が一息で出せる長さではない。どこかで吸わなければならないはずの場所を、それは通り過ぎていった。切れ目が無い。
さっきまで、この部屋には切れ目の無い音があった。
いま、別のものが、同じ場所を占めていた。
◇
内側で、カイラスは自分の喉が裂けるのを聞いた。
聞いたが、痛くない。
痛みが無いのではない。痛みが届く先に、彼がいなかった。
彼は、自分の右手を見ていた。
見ているのは目だ。目は彼の目で、いま見えているものも彼が見ているものだった。だが、右手を上げたのは彼ではない。
上げようと思った覚えが、無い。
彼は、指を動かそうとした。
動かなかった。
動かないのではない。
彼の言葉が、そこまで届いていなかった。
◇
長衣たちが、動いた。
一人ではない。輪だったものが、いっぺんに崩れて、崩れた形のまま二十の手が上がった。
光が、来た。
白。青。橙。それぞれ違う形をしていて、それぞれ違う速さで飛んだ。狭い部屋の中で、それが二十本、同時に。
すべて、落ちた。
床に。
右腕が、一本。
上から、下から、横から、返して、また返して。剣は一度も止まらず、止まらないのに、次のものが来る場所に必ず先に着いていた。
弾いているのではない。
飛んでくる線の、始まる場所と終わる場所が最初からわかっていて、そのあいだのどこか一点に刃を置いているだけだった。置いた場所が正しいので、それ以上は動かない。
左腕は、下がっていた。
黒い。
肩から先が、色を失っている。爪の先まで一様に黒く、動きに合わせてぶら下がり、ぶら下がったまま、体が向きを変えるたびに遅れて振られた。
誰も、それを見ていなかった。
◇
一歩目で、床の上のものを踏んだ。
さっき落ちてきた兵だ。
体は、踏んだことに気づかなかった。踏んだ場所が柔らかかったので、足の運びが少し変わった。変わった運びを、次の一歩で戻した。
それだけだ。
カイラスは、それを見た。
見て、初めて、自分の背中のあたりが冷たくなるのを感じた。
さっきまで、彼の中には別のものがあった。
――届く。
そう思っていた。
この男たちに、届く。あの祠を潰した者たちに。土台の石だけを残していった者たちに。あの議場の高みから、こちらを見もしなかった者たちに。
届いている。いま、確かに。
その熱が、足の裏の柔らかさで、すっと引いた。
◇
二人目は、逃げようとした。
逃げる方向を、体は先に知っている。
三人目は、壁に背をつけた。つけて、両手を前へ出した。手のひらを、こちらへ向けて。
魔術の形ではない。
体は、速さを変えた。
速くなった。
そのことに、カイラスは気づいた。抵抗をやめたものに向かうときだけ、この体は速くなる。理由はわからない。わからないが、そこには何かがあった。
そして、彼はそれを、自分の胸のあたりで感じていた。
感じていることが、いちばん恐ろしかった。
◇
「――こいつは……まるで」
言いかけたのは、輪の三番目に立っていた男だった。
背が低い。他の者より若い。
言う直前に、彼は掌を腿で拭った。
拭った手を、まだ腿から離していない。
言葉の続きは、来なかった。
刃が、額の生え際から入って、顎の手前で止まった。止まったのは、それ以上進む必要が無かったからだ。
体は、その男を見なかった。
見る前に、次へ移っていた。
◇
そこから先を、カイラスは全部見ていた。
見ないという選択が、無い。
彼は瞼を閉じようとした。二度。
瞼は、動かなかった。
彼の目は、そこにある全部を映し続けた。映すことしかできなかった。
音が、増える。
悲鳴が三つ重なり、四つになり、六つになって、それから減っていく。減り方は速くなかった。この部屋には出口が枠一つしか無く、その枠のほうへ行こうとした者は、みな途中で止められた。
床の白いもののあいだを、赤いものが流れていく。
八つを、順に囲んでいく。
囲まれた白いものは、色を変えなかった。
◇
黒と金は、最後まで残っていた。
残ったのは、彼が強かったからではない。
体が、後回しにしていた。
その意味に、彼は途中で気づいたらしい。気づいてから、彼は走った。走って、枠のほうへ向かい、枠の手前で足が止まった。
止めたのは、床だった。
床に何かがあったのではない。彼が自分で止まった。前に、何も無いことを見てしまったからだ。
「――お待ちを」
振り返って、彼は言った。
「お待ちください」
声が、震えている。
「何なのです、あなたは。……いや。よろしい。何であっても、よろしいのです。話ができます。私は、話ができる者です。ご存じでしょう。私はこの国の――」
体が、歩いた。
急いでいなかった。
「――お待ちを。差し上げます。何でも。この珠を。これは、あなた方の側のものでございましょう。お返しいたします。ご覧ください、ここに」
掌が、こちらへ突き出された。
珠が、そこにある。
瞬いている。
間隔は、まだ揃っていない。
◇
一本目は、肘の少し上だ。
黒と金の口が、開いた。開いたが、そこからは何も出なかった。出る前に、体が待った。
待つ必要は、無い。
待ったのは、待つことに意味があるからだ。
カイラスは、その意味を知っていた。
さっき、この床の上で教わったばかりだ。
◇
二本目のあと、珠が落ちた。
支える手が無くなったので、落ちた。
床で二度跳ね、それから転がりはじめる。目地に沿って、傾いているほうへ。赤いものの縁まで行って、そこで速さを落とし、それでもまだ少し進んで、止まった。
止まった場所で、それは瞬いていた。
誰も、そちらを見なかった。
◇
「……ぁ」
黒と金は、膝をついていた。
肩から先が、両方とも無い。
「あ……ああ、あ」
言葉の形をしていない。
さっきまで、この男の言葉には、いつも一分の隙も無かった。丁寧で、静かで、聞き取りやすかった。いま出ているものには、子音が入っていない。
体は、それを聞いていた。
聞いていることが、カイラスにはわかった。急いでいないからだ。
「……ぉ、ねが」
首が、下がった。
「お願い……いたし、ま」
そこで、上がった。
顔が、上がった。
血だらけの目が、こちらを見た。見て、その目の中で、何かが最後に一つだけ形を取った。
「――忌まわしき」
声が、戻っていた。
「エルフ殺しの、大罪人め」
◇
刃が、落ちた。
音は、小さかった。
人はたいてい、思ったより小さな音しか立てない。
◇
体が、止まった。
止まって、立っていた。
右手の剣が、下がっていく。ゆっくりと。下がりきって、切っ先が床に触れた。触れた先の赤いものが、少しだけ揺れた。
部屋には、もう音が無い。
さっきまでこの部屋を埋めていた、切れ目の無い音も。悲鳴も。笑い声も。
何一つ、残っていなかった。
カイラスは、立っていた。
立っているのは彼の足だ。
彼は、それを確かめようとして、確かめる方法が思いつかなかった。指を動かそうとして、動くのかどうかもわからなかった。試して、動かなかったときのことを考えると、試せなかった。
彼の目は、部屋を見ている。
見たいところを見ているのではない。体が向いているほうを、そのまま映していた。
床。
八つの白いもの。
赤いもの。
その縁で瞬いている珠。
そして、いちばん最初に落ちてきた、あの兵の靴。
◇
その日、あの部屋で起きたことは、初めてではなかった。
同じ形のことが、この塔の下で、ずっと昔に一度あったという。
そのときは、床に横たわっていたほうが違っていた。
数えた者がいたかどうかも、わからない。数えたとして、その数を書き残した者がいたかどうかも。ただ、形というものは、置き場所さえあれば何度でも同じように立ち上がるものらしい。置く者がいなくても、勝手に立つ。
立った形の中に、誰が入っているのかは、外から見てもわからない。
その日、あの部屋で立っていたものが何であったのかを、生きて見た者は一人もいなかった。
内側から見ていた者が、一人だけいた。
彼は、それについて、何も言わなかった。
言葉が、まだ返ってきていなかったからだ。