The Elder Scrolls : Dawn of Order   作:蛾の司祭

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第10章「戻らないもの」
第1話:止んだ音


帝都に入るまでに、減ったものが三つあった。

 

一つ。石柱が無い。

 

道の脇にも、丘の上にも、あの白い柱は一本も立っていなかった。立っていた跡すら残っていない。地面は地面のままで、草は草の高さで生えている。踏めば潰れ、離しても戻らなかった。

 

二つ。硝子の面が無い。

 

森の縁が毛羽立っている。木が木の形をしていて、遠くから見れば輪郭がぼやけていた。ぼやけているというのは、正しい木の見え方だ。

 

三つ。灰色がいない。

 

一体も見なかった。粉になったものの跡も見なかった。跡が残る造りをしていなかったのだろう。

 

減ったものは、他にもあった。数えなかった。

 

                 ◇

 

大橋の上は、人で埋まっていた。

 

荷車が二台、向かい合って止まっている。どちらも動けない。動かそうとしている者たちの声が、橋の端まで届いている。

 

ネレヴァリンは、その脇を通った。

 

誰も彼を見なかった。見た者もいたかもしれないが、見たあとで何かをした者はいなかった。この日、この橋を渡っている者に、他人の顔を覚えている余裕は無い。

 

門をくぐる。

 

くぐった先の空気は、焦げていた。

 

                 ◇

 

通りの右側は、まだ燃えていた。

 

左側は、燃えていなかった。

 

燃えていない側の家々は、家の形をしている。壁が壁で、窓の桟が木で出来ていた。ついさっきまでそうではなかったらしい跡が、石畳の上に少しだけ残っている。細かい粒が、目地に沿って溜まっていた。

 

その粒を、老人が箒で掃いていた。

 

掃いてどうするのかは、誰も訊いていない。

 

                 ◇

 

赤いものが、三つあった。

 

正しくは、三つあったものが、いま二つになりかけていた。

 

一つは、通りの奥に湧いている。湧いて、潰れて、また湧く。だが、湧く量が減っていた。減り方が一定で、上の縁のほうから順に細くなっていく。

 

上から、押されている。

 

ネレヴァリンは、そちらを少し見た。

 

見えるのは赤いものだけだ。押しているほうは、見えない。空気の中に何も無い。何も無いところが、着実に押していた。

 

彼は、それが何であるかを知らなかった。

 

海の向こうにいたあいだ、この土地で何があったのかを、彼はほとんど知らない。帰ってきてからも、訊かなかった。訊けば教える者はいただろう。訊く必要が無かった。

 

だから彼は、数えただけだった。

 

湧く量が減っている。閉じるほうが速い。

 

それで足りた。

 

彼は、また歩き出した。

 

その日あの通りで赤いものを押し返していたものが、いつ、誰の手で張られたのかを、この街にいた者たちがどれだけ覚えていたかはわからない。名を覚えている者は、まだいたのだろう。覚えていない者のほうが、たぶんもう多かった。

 

                 ◇

 

防衛隊が、三人一組で角を出ていくところだった。

 

角の生えたものを一つ囲み、押し込んで、下がる。同じことを繰り返している。繰り返す速さが、上がっていた。

 

数が、こちらのほうが多い。

 

さっきまでは、そうではなかったのだろう。

 

                 ◇

 

「――ネレヴァリン殿」

 

呼ばれた。

 

彼は、止まった。

 

呼んだのは、老人だった。長衣を着ている。杖を右手に持っているが、杖の使い方が杖ではない。体重を預けている。

 

右の腿のあたりで、布の色が変わっていた。焦げて、その下に別の布が巻いてある。巻き方が急いでいた。

 

「足をやられたか」

 

「はい」

 

老魔術師は、それだけ答えた。

 

答えて、すぐ続けた。

 

「……ですが今は、白金の塔の地下に急がねば」

 

「何かあるのか」

 

「持ち去られました。マグナスの目を」

 

杖が、持ち替えられる。

 

「追った者がおります。あの若い者です。……リフテンで、お会いになりましたな」

 

ネレヴァリンは、答えなかった。

 

覚えていた。覚えていることに、体は何も起こさなかった。

 

「私が足を繋いでいるあいだに、先へ行かせてしまいました。防衛隊の者が三人、道案内に付いております。ですが、あれは」

 

そこで、老魔術師の言葉が止まった。

 

止まったのは、息が続かなかったからではない。

 

彼は、塔の方角を見ていた。

 

「……嫌な気配が」

 

「何が」

 

「わかりませぬ」

 

杖の先が、少し震えた。

 

「わかりませぬが、あれは、この時代のものではございませぬ」

 

                 ◇

 

そのとき、音が一つになった。

 

ネレヴァリンは、それに気づいた。

 

ずっと下のほうから来ていた、低くて規則正しいもの。ここのところ、彼が測ってきたただ一つのもの。

 

来ていない。

 

彼は、上を見た。

 

空は割れている。割れ目は、朝より増えていた。枝が枝を出したまま、天の端から端まで、そのままそこにある。

 

音だけが、無い。

 

止んだ理由を、彼は考えなかった。

 

考えた者が、その日、どこかに一人でもいたかどうかはわからない。近づいてくる音というものは、たいてい、近づき終わったところで鳴らなくなるものだ。

 

                 ◇

 

「ネレヴァリン殿」

 

「先に行っている」

 

彼は、それだけ言った。

 

言って、歩き出した。

 

老魔術師が何か言いかけたが、その言葉は彼の背中には届かなかった。届いたとしても、たぶん同じことだ。

 

なぜ塔へ向かうのかを、彼は自分に訊かなかった。

 

訊く必要のある場面ではないと、体が判断していた。

 

                 ◇

 

塔の根元は、広場になっている。

 

石畳が、そこだけ違う色をしていた。古い。踏まれすぎて、目地が浅くなっている。

 

広場には、誰もいなかった。

 

さっきまではいたのだろう。倒れた旗が二本ある。倒れた向きが、どちらも同じ方向を向いていた。逃げた向きだ。

 

塔の裾に、口がある。

 

下へ降りる口だった。

 

その口から、音が来ていた。

 

音は、足音だった。

 

一つ。

 

ゆっくりしている。段を一つずつ、確かめるようにして上がってきている。急いでいない。急ぐ理由が無いか、急ぐという概念が無いか、どちらかの上がり方だ。

 

ネレヴァリンは、そこで立ち止まる。

 

待った。

 

                 ◇

 

出てきた。

 

赤かった。

 

服がというのではない。頭の先から靴の底まで、一様に赤い。乾きかけているところと、まだ濡れているところがあって、乾いた場所のほうが色が濃かった。

 

顔は、わかった。

 

わかってしまった。

 

若い。それほど背は高くない。焼けた街の跡で、老魔術師の半歩後ろに立っていた男だ。あのとき、左腕を荷のように垂らしていた。垂れているのは、いまも同じだった。

 

いま、その顔から表情というものが抜けている。

 

抜けたあとに何が入っているのかは、外から見てもわからなかった。

 

右手に、剣がある。

 

飾りは古い。柄に巻かれた革は擦り切れていて、擦り切れ方が、握られてきた形をしていた。

 

左腕は、下がっていた。

 

黒い。肩から先が一様に色を失い、指の先まで同じ黒さで、体が向きを変えるたびに、遅れて振られた。

 

その左腕には、かつて薄い膜が張られていた。

 

張った者は、いま、塔の反対側から足を引きずってこちらへ来ている。

 

                 ◇

 

ネレヴァリンの右手が、柄にかかった。

 

かかって、止まった。

 

止めた理由を、彼は確かめない。

 

手が、離れた。

 

                 ◇

 

咆哮が来た。

 

音ではない。空気が、その形に押し出された。広場の石畳の上を、それが放射状に走っていく。倒れていた旗が二本とも吹き飛び、遠くの窓が、いくつか順に割れた。

 

そして、動いた。

 

速い。

 

人の速さではなかった。人の体で出せる速さでもない。踏み込みの一歩目で石畳が割れ、二歩目のときには、もうそこにいなかった。

 

剣が、上がる。

 

右手一本で。

 

ネレヴァリンは、避けなかった。

 

避けなかっただけではない。

 

前へ、出た。

 

                 ◇

 

「――間に合え!」

 

老魔術師の声が、遠くでした。

 

白いものが、間に合った。

 

間に合ったが、それだけだ。

 

刃は、ネレヴァリンの左の首筋から入って、鎖骨のところで止まった。

 

止まったのは、骨に当たったからではない。骨は、途中で割れていた。止まったのは、そこで刃の勢いが尽きたからだ。

 

片手一本で、そこまで入った。

 

                 ◇

 

ネレヴァリンは、倒れない。

 

倒れる代わりに、両腕を上げた。

 

上げて、前にあるものに回した。

 

回して、引いた。

 

引き寄せれば、刃はもっと入る。

 

彼は、引き寄せた。

 

                 ◇

 

胸と胸が、当たった。

 

赤いものが、彼の服にも移る。

 

刃が、深くなった。首の付け根のあたりで、何かが軋む音がした。音は、彼の体の内側だけで鳴る。

 

体が、暴れた。

 

剣の柄から右手が離れる。離れた手が、彼の脇腹を打った。二度。三度。骨が鳴った。鳴っても、腕は緩まなかった。

 

喉から、音が出ていた。

 

言葉ではない。言葉の形をしていたのかもしれないが、この時代の言葉ではなかった。ずっと近く、耳のすぐ横で、それが鳴り続けている。

 

ネレヴァリンは、答えなかった。

 

答える言葉を持っていないのではない。

 

答えるべき問いだと、思わなかっただけだ。

 

                 ◇

 

暴れは、長かった。

 

老魔術師が広場を横切るのに、しばらくかかった。足を引きずっている。引きずりながら、右手を前へ出したまま歩いていた。出した手からは、白いものが途切れ途切れに出ている。届いていない。届く距離まで、まだ来ていなかった。

 

そのあいだ、ネレヴァリンは動かなかった。

 

締めもしない。押さえつけもしない。

 

ただ、回した腕を解かなかった。

 

打たれた。何度か。

 

血は、二人ぶん出ていた。どちらのものかは、途中からわからなくなった。

 

                 ◇

 

一度、力が抜けた。

 

抱えているほうではない。抱えられているほうの体が、打つのをやめ、押すのをやめ、そこで止まった。

 

腕の中で、重さだけになった。

 

そのとき、離せた。

 

腕を開けば、それは石畳の上へ落ちる。落ちたところで、こちらは一歩下がればいい。首の付け根に刺さったままの刃も、その距離で抜ける。

 

「――ネレヴァリン殿」

 

老魔術師の声が、届く距離まで来ていた。

 

「離れてください」

 

杖が、地面に突き立てられている。両手が空いていた。空いた両手が、こちらへ向いている。

 

「そのままでは、あなたが」

 

老魔術師は、そこで言葉を選んだ。

 

選んで、選んだものを使わなかった。

 

「――間に合いません。二人とも」

 

助けようとしている者が、言った。

 

助ける先を一つに絞るなら、いま絞るしかないと、この人は判断したのだろう。判断は、たぶん正しかった。

 

ネレヴァリンは、老魔術師を見た。

 

腕は、そのままだ。

 

そして、腕の中のものが、また暴れはじめた。

 

                 ◇

 

やがて、音の質が変わる。

 

喉から出ていたものが、途中で切れるようになった。切れて、また出て、また切れる。切れる間隔が長くなっていく。

 

腕の力が、抜けた。

 

抜けたのは、抱かれているほうの腕だ。

 

そして、冷たくなくなる。

 

そのとき初めて、ネレヴァリンは、それまでそこが冷たかったことを知った。ずっと冷たかった。抱えたときからずっと、腕の中のものは、この季節の人の体温ではなかった。

 

いま、そうではない。

 

暖かくもない。

 

ただ、人の体の温度だった。

 

                 ◇

 

何かが、離れた。

 

離れる音は、しなかった。

 

広場の空気が、少しだけ動く。動いた向きは、上だ。塔の壁に沿って、それが上がっていったのか、そこで消えたのかは、見ていた者にもわからなかった。

 

老魔術師は、見ていた。

 

見ていたが、それについて何も言わなかった。言うべき言葉を、この人は持っていなかったのだろう。生涯で二度目に、持っていなかった。

 

                 ◇

 

腕の中のものが、崩れた。

 

支えが無くなったので、崩れた。

 

膝が抜け、体重が全部こちらへ来る。ネレヴァリンは、それを受けた。

 

受けた拍子に、剣の柄から右手が完全に離れる。

 

刃が、抜けた。

 

抜けた場所から、赤いものが出た。

 

彼は、それを見なかった。

 

見る余裕が無かったのではない。両腕が、塞がっている。

 

                 ◇

 

彼は、膝をついた。

 

ついて、腕の中のものを、石畳の上へ下ろした。

 

下ろすときに、頭が石に当たらないよう、左の手を後ろへ回した。

 

回した左手は、まだ籠手を嵌めたままだ。

 

金属は、冷たい。

 

その冷たさを、下ろされたほうが感じたかどうかは、わからない。

 

                 ◇

 

顔を見た。

 

血が乾いている。目のところから顎まで、二本の筋になって。

 

目は、閉じていた。

 

胸が、動いている。

 

浅い。間隔が空きすぎている。だが、動いていた。

 

ネレヴァリンは、少しのあいだ、それを見ていた。

 

そして、言った。

 

「カイラス」

 

声に、力は入っていなかった。

 

起こすための呼び方ではない。呼び戻すための呼び方でもない。ただ、済んだことを報せる呼び方だった。

 

「終わった」

 

もう一度、間があった。

 

「……休め」

 

それだけだった。

 

その言葉が誰に向けられていたのかを、その場で確かめた者はいない。確かめる余裕のある者が、そこには一人もいなかった。

 

                 ◇

 

老魔術師が、追いついた。

 

追いついて、そのまま倒れるように膝をついた。繋いだだけの足は、そこまでが限界だったらしい。

 

「――どいてください」

 

言い方が、いつもと違った。

 

ネレヴァリンは、半歩下がった。

 

老魔術師の両手が、若い男の胸の上に置かれる。

 

白いものが、出た。

 

さっき途切れ途切れだったものが、今度は途切れずに出ている。出て、体の中へ入っていく。

 

入って、足りない。

 

老魔術師の眉が、寄った。

 

「……多すぎる」

 

彼は手の位置を変えた。変えて、また戻した。

 

「一つずつなら、どれも塞げます。塞げますが、塞いだ端から別の場所が開く。……こういう壊れ方をした体は、久しく見ておりませぬ」

 

白いものが、少し強くなった。

 

それでも、追いつかない。

 

老魔術師は、そこで一度、左腕のほうを見た。

 

見て、目を戻した。

 

戻したが、戻し方が遅かった。

 

「そちらは」

 

ネレヴァリンが訊いた。

 

「……あとで」

 

それだけだった。

 

                 ◇

 

ネレヴァリンは、立っていた。

 

首の付け根から、まだ出ている。

 

出ているのを、彼は押さえなかった。押さえるという発想が出てくるまでに、少し時間がかかる程度には、それは久しく無かったことだ。

 

老魔術師が、手元から目を上げた。

 

上げて、こちらを見る。

 

見て、若い男の胸に置いていた左手を、そのままにしたまま、右手だけをこちらへ伸ばした。

 

伸ばした先は、彼の首の付け根だった。

 

届く距離ではない。届かせるには、こちらが半歩前へ出るしかなかった。

 

ネレヴァリンは、下がらなかった。

 

それだけだった。前へも出ていない。ただ、後ろへ動かなかった。

 

老魔術師は、それを見た。

 

見て、伸ばした手を少し高くした。指先から出た白いものが、空を渡って、彼の首の付け根へ届く。

 

強くはない。片手ぶんだ。左手のほうへ、そのぶんが減っている。

 

「……足りませぬな」

 

老魔術師は、誰にともなく言った。

 

「両方には、足りませぬ」

 

ネレヴァリンは、答えなかった。

 

答えなかったが、下がらなかった。

 

                 ◇

 

やがて、止まる。

 

塞がるまでには、これまでで一番長くかかった。

 

長くかかったが、塞がった。

 

彼は、それを見なかった。

 

見ていれば、何か気づいたのかもしれない。気づいたところで、そのとき何かをしたかどうかはわからない。この男は、確かめるのが得意で、確かめるべきものを選ぶのが、あまり得意ではなかった。

 

                 ◇

 

広場には、二人が膝をついていた。

 

一人は、手を動かし続けている。

 

一人は、動かない。

 

立っているのは、一人だけだ。

 

その日、白金の塔の下で何が起きたのかを、生きて見た者は三人いた。一人は目を閉じており、一人は手元しか見ていなかった。

 

残りの一人は、それについて、生涯なにも語らなかった。

 

語るべき相手を持っていなかったからだ。

 

そして、たぶん、語るべきことがあったとも思っていなかった。

 

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