The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
第1話:止んだ音
帝都に入るまでに、減ったものが三つあった。
一つ。石柱が無い。
道の脇にも、丘の上にも、あの白い柱は一本も立っていなかった。立っていた跡すら残っていない。地面は地面のままで、草は草の高さで生えている。踏めば潰れ、離しても戻らなかった。
二つ。硝子の面が無い。
森の縁が毛羽立っている。木が木の形をしていて、遠くから見れば輪郭がぼやけていた。ぼやけているというのは、正しい木の見え方だ。
三つ。灰色がいない。
一体も見なかった。粉になったものの跡も見なかった。跡が残る造りをしていなかったのだろう。
減ったものは、他にもあった。数えなかった。
◇
大橋の上は、人で埋まっていた。
荷車が二台、向かい合って止まっている。どちらも動けない。動かそうとしている者たちの声が、橋の端まで届いている。
ネレヴァリンは、その脇を通った。
誰も彼を見なかった。見た者もいたかもしれないが、見たあとで何かをした者はいなかった。この日、この橋を渡っている者に、他人の顔を覚えている余裕は無い。
門をくぐる。
くぐった先の空気は、焦げていた。
◇
通りの右側は、まだ燃えていた。
左側は、燃えていなかった。
燃えていない側の家々は、家の形をしている。壁が壁で、窓の桟が木で出来ていた。ついさっきまでそうではなかったらしい跡が、石畳の上に少しだけ残っている。細かい粒が、目地に沿って溜まっていた。
その粒を、老人が箒で掃いていた。
掃いてどうするのかは、誰も訊いていない。
◇
赤いものが、三つあった。
正しくは、三つあったものが、いま二つになりかけていた。
一つは、通りの奥に湧いている。湧いて、潰れて、また湧く。だが、湧く量が減っていた。減り方が一定で、上の縁のほうから順に細くなっていく。
上から、押されている。
ネレヴァリンは、そちらを少し見た。
見えるのは赤いものだけだ。押しているほうは、見えない。空気の中に何も無い。何も無いところが、着実に押していた。
彼は、それが何であるかを知らなかった。
海の向こうにいたあいだ、この土地で何があったのかを、彼はほとんど知らない。帰ってきてからも、訊かなかった。訊けば教える者はいただろう。訊く必要が無かった。
だから彼は、数えただけだった。
湧く量が減っている。閉じるほうが速い。
それで足りた。
彼は、また歩き出した。
その日あの通りで赤いものを押し返していたものが、いつ、誰の手で張られたのかを、この街にいた者たちがどれだけ覚えていたかはわからない。名を覚えている者は、まだいたのだろう。覚えていない者のほうが、たぶんもう多かった。
◇
防衛隊が、三人一組で角を出ていくところだった。
角の生えたものを一つ囲み、押し込んで、下がる。同じことを繰り返している。繰り返す速さが、上がっていた。
数が、こちらのほうが多い。
さっきまでは、そうではなかったのだろう。
◇
「――ネレヴァリン殿」
呼ばれた。
彼は、止まった。
呼んだのは、老人だった。長衣を着ている。杖を右手に持っているが、杖の使い方が杖ではない。体重を預けている。
右の腿のあたりで、布の色が変わっていた。焦げて、その下に別の布が巻いてある。巻き方が急いでいた。
「足をやられたか」
「はい」
老魔術師は、それだけ答えた。
答えて、すぐ続けた。
「……ですが今は、白金の塔の地下に急がねば」
「何かあるのか」
「持ち去られました。マグナスの目を」
杖が、持ち替えられる。
「追った者がおります。あの若い者です。……リフテンで、お会いになりましたな」
ネレヴァリンは、答えなかった。
覚えていた。覚えていることに、体は何も起こさなかった。
「私が足を繋いでいるあいだに、先へ行かせてしまいました。防衛隊の者が三人、道案内に付いております。ですが、あれは」
そこで、老魔術師の言葉が止まった。
止まったのは、息が続かなかったからではない。
彼は、塔の方角を見ていた。
「……嫌な気配が」
「何が」
「わかりませぬ」
杖の先が、少し震えた。
「わかりませぬが、あれは、この時代のものではございませぬ」
◇
そのとき、音が一つになった。
ネレヴァリンは、それに気づいた。
ずっと下のほうから来ていた、低くて規則正しいもの。ここのところ、彼が測ってきたただ一つのもの。
来ていない。
彼は、上を見た。
空は割れている。割れ目は、朝より増えていた。枝が枝を出したまま、天の端から端まで、そのままそこにある。
音だけが、無い。
止んだ理由を、彼は考えなかった。
考えた者が、その日、どこかに一人でもいたかどうかはわからない。近づいてくる音というものは、たいてい、近づき終わったところで鳴らなくなるものだ。
◇
「ネレヴァリン殿」
「先に行っている」
彼は、それだけ言った。
言って、歩き出した。
老魔術師が何か言いかけたが、その言葉は彼の背中には届かなかった。届いたとしても、たぶん同じことだ。
なぜ塔へ向かうのかを、彼は自分に訊かなかった。
訊く必要のある場面ではないと、体が判断していた。
◇
塔の根元は、広場になっている。
石畳が、そこだけ違う色をしていた。古い。踏まれすぎて、目地が浅くなっている。
広場には、誰もいなかった。
さっきまではいたのだろう。倒れた旗が二本ある。倒れた向きが、どちらも同じ方向を向いていた。逃げた向きだ。
塔の裾に、口がある。
下へ降りる口だった。
その口から、音が来ていた。
音は、足音だった。
一つ。
ゆっくりしている。段を一つずつ、確かめるようにして上がってきている。急いでいない。急ぐ理由が無いか、急ぐという概念が無いか、どちらかの上がり方だ。
ネレヴァリンは、そこで立ち止まる。
待った。
◇
出てきた。
赤かった。
服がというのではない。頭の先から靴の底まで、一様に赤い。乾きかけているところと、まだ濡れているところがあって、乾いた場所のほうが色が濃かった。
顔は、わかった。
わかってしまった。
若い。それほど背は高くない。焼けた街の跡で、老魔術師の半歩後ろに立っていた男だ。あのとき、左腕を荷のように垂らしていた。垂れているのは、いまも同じだった。
いま、その顔から表情というものが抜けている。
抜けたあとに何が入っているのかは、外から見てもわからなかった。
右手に、剣がある。
飾りは古い。柄に巻かれた革は擦り切れていて、擦り切れ方が、握られてきた形をしていた。
左腕は、下がっていた。
黒い。肩から先が一様に色を失い、指の先まで同じ黒さで、体が向きを変えるたびに、遅れて振られた。
その左腕には、かつて薄い膜が張られていた。
張った者は、いま、塔の反対側から足を引きずってこちらへ来ている。
◇
ネレヴァリンの右手が、柄にかかった。
かかって、止まった。
止めた理由を、彼は確かめない。
手が、離れた。
◇
咆哮が来た。
音ではない。空気が、その形に押し出された。広場の石畳の上を、それが放射状に走っていく。倒れていた旗が二本とも吹き飛び、遠くの窓が、いくつか順に割れた。
そして、動いた。
速い。
人の速さではなかった。人の体で出せる速さでもない。踏み込みの一歩目で石畳が割れ、二歩目のときには、もうそこにいなかった。
剣が、上がる。
右手一本で。
ネレヴァリンは、避けなかった。
避けなかっただけではない。
前へ、出た。
◇
「――間に合え!」
老魔術師の声が、遠くでした。
白いものが、間に合った。
間に合ったが、それだけだ。
刃は、ネレヴァリンの左の首筋から入って、鎖骨のところで止まった。
止まったのは、骨に当たったからではない。骨は、途中で割れていた。止まったのは、そこで刃の勢いが尽きたからだ。
片手一本で、そこまで入った。
◇
ネレヴァリンは、倒れない。
倒れる代わりに、両腕を上げた。
上げて、前にあるものに回した。
回して、引いた。
引き寄せれば、刃はもっと入る。
彼は、引き寄せた。
◇
胸と胸が、当たった。
赤いものが、彼の服にも移る。
刃が、深くなった。首の付け根のあたりで、何かが軋む音がした。音は、彼の体の内側だけで鳴る。
体が、暴れた。
剣の柄から右手が離れる。離れた手が、彼の脇腹を打った。二度。三度。骨が鳴った。鳴っても、腕は緩まなかった。
喉から、音が出ていた。
言葉ではない。言葉の形をしていたのかもしれないが、この時代の言葉ではなかった。ずっと近く、耳のすぐ横で、それが鳴り続けている。
ネレヴァリンは、答えなかった。
答える言葉を持っていないのではない。
答えるべき問いだと、思わなかっただけだ。
◇
暴れは、長かった。
老魔術師が広場を横切るのに、しばらくかかった。足を引きずっている。引きずりながら、右手を前へ出したまま歩いていた。出した手からは、白いものが途切れ途切れに出ている。届いていない。届く距離まで、まだ来ていなかった。
そのあいだ、ネレヴァリンは動かなかった。
締めもしない。押さえつけもしない。
ただ、回した腕を解かなかった。
打たれた。何度か。
血は、二人ぶん出ていた。どちらのものかは、途中からわからなくなった。
◇
一度、力が抜けた。
抱えているほうではない。抱えられているほうの体が、打つのをやめ、押すのをやめ、そこで止まった。
腕の中で、重さだけになった。
そのとき、離せた。
腕を開けば、それは石畳の上へ落ちる。落ちたところで、こちらは一歩下がればいい。首の付け根に刺さったままの刃も、その距離で抜ける。
「――ネレヴァリン殿」
老魔術師の声が、届く距離まで来ていた。
「離れてください」
杖が、地面に突き立てられている。両手が空いていた。空いた両手が、こちらへ向いている。
「そのままでは、あなたが」
老魔術師は、そこで言葉を選んだ。
選んで、選んだものを使わなかった。
「――間に合いません。二人とも」
助けようとしている者が、言った。
助ける先を一つに絞るなら、いま絞るしかないと、この人は判断したのだろう。判断は、たぶん正しかった。
ネレヴァリンは、老魔術師を見た。
腕は、そのままだ。
そして、腕の中のものが、また暴れはじめた。
◇
やがて、音の質が変わる。
喉から出ていたものが、途中で切れるようになった。切れて、また出て、また切れる。切れる間隔が長くなっていく。
腕の力が、抜けた。
抜けたのは、抱かれているほうの腕だ。
そして、冷たくなくなる。
そのとき初めて、ネレヴァリンは、それまでそこが冷たかったことを知った。ずっと冷たかった。抱えたときからずっと、腕の中のものは、この季節の人の体温ではなかった。
いま、そうではない。
暖かくもない。
ただ、人の体の温度だった。
◇
何かが、離れた。
離れる音は、しなかった。
広場の空気が、少しだけ動く。動いた向きは、上だ。塔の壁に沿って、それが上がっていったのか、そこで消えたのかは、見ていた者にもわからなかった。
老魔術師は、見ていた。
見ていたが、それについて何も言わなかった。言うべき言葉を、この人は持っていなかったのだろう。生涯で二度目に、持っていなかった。
◇
腕の中のものが、崩れた。
支えが無くなったので、崩れた。
膝が抜け、体重が全部こちらへ来る。ネレヴァリンは、それを受けた。
受けた拍子に、剣の柄から右手が完全に離れる。
刃が、抜けた。
抜けた場所から、赤いものが出た。
彼は、それを見なかった。
見る余裕が無かったのではない。両腕が、塞がっている。
◇
彼は、膝をついた。
ついて、腕の中のものを、石畳の上へ下ろした。
下ろすときに、頭が石に当たらないよう、左の手を後ろへ回した。
回した左手は、まだ籠手を嵌めたままだ。
金属は、冷たい。
その冷たさを、下ろされたほうが感じたかどうかは、わからない。
◇
顔を見た。
血が乾いている。目のところから顎まで、二本の筋になって。
目は、閉じていた。
胸が、動いている。
浅い。間隔が空きすぎている。だが、動いていた。
ネレヴァリンは、少しのあいだ、それを見ていた。
そして、言った。
「カイラス」
声に、力は入っていなかった。
起こすための呼び方ではない。呼び戻すための呼び方でもない。ただ、済んだことを報せる呼び方だった。
「終わった」
もう一度、間があった。
「……休め」
それだけだった。
その言葉が誰に向けられていたのかを、その場で確かめた者はいない。確かめる余裕のある者が、そこには一人もいなかった。
◇
老魔術師が、追いついた。
追いついて、そのまま倒れるように膝をついた。繋いだだけの足は、そこまでが限界だったらしい。
「――どいてください」
言い方が、いつもと違った。
ネレヴァリンは、半歩下がった。
老魔術師の両手が、若い男の胸の上に置かれる。
白いものが、出た。
さっき途切れ途切れだったものが、今度は途切れずに出ている。出て、体の中へ入っていく。
入って、足りない。
老魔術師の眉が、寄った。
「……多すぎる」
彼は手の位置を変えた。変えて、また戻した。
「一つずつなら、どれも塞げます。塞げますが、塞いだ端から別の場所が開く。……こういう壊れ方をした体は、久しく見ておりませぬ」
白いものが、少し強くなった。
それでも、追いつかない。
老魔術師は、そこで一度、左腕のほうを見た。
見て、目を戻した。
戻したが、戻し方が遅かった。
「そちらは」
ネレヴァリンが訊いた。
「……あとで」
それだけだった。
◇
ネレヴァリンは、立っていた。
首の付け根から、まだ出ている。
出ているのを、彼は押さえなかった。押さえるという発想が出てくるまでに、少し時間がかかる程度には、それは久しく無かったことだ。
老魔術師が、手元から目を上げた。
上げて、こちらを見る。
見て、若い男の胸に置いていた左手を、そのままにしたまま、右手だけをこちらへ伸ばした。
伸ばした先は、彼の首の付け根だった。
届く距離ではない。届かせるには、こちらが半歩前へ出るしかなかった。
ネレヴァリンは、下がらなかった。
それだけだった。前へも出ていない。ただ、後ろへ動かなかった。
老魔術師は、それを見た。
見て、伸ばした手を少し高くした。指先から出た白いものが、空を渡って、彼の首の付け根へ届く。
強くはない。片手ぶんだ。左手のほうへ、そのぶんが減っている。
「……足りませぬな」
老魔術師は、誰にともなく言った。
「両方には、足りませぬ」
ネレヴァリンは、答えなかった。
答えなかったが、下がらなかった。
◇
やがて、止まる。
塞がるまでには、これまでで一番長くかかった。
長くかかったが、塞がった。
彼は、それを見なかった。
見ていれば、何か気づいたのかもしれない。気づいたところで、そのとき何かをしたかどうかはわからない。この男は、確かめるのが得意で、確かめるべきものを選ぶのが、あまり得意ではなかった。
◇
広場には、二人が膝をついていた。
一人は、手を動かし続けている。
一人は、動かない。
立っているのは、一人だけだ。
その日、白金の塔の下で何が起きたのかを、生きて見た者は三人いた。一人は目を閉じており、一人は手元しか見ていなかった。
残りの一人は、それについて、生涯なにも語らなかった。
語るべき相手を持っていなかったからだ。
そして、たぶん、語るべきことがあったとも思っていなかった。