The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
繋がった。
朝から増え続けていた線が、天のどこか一点で互いに触れ、触れたところから先は速かった。枝が枝と噛み合い、噛み合った先がまた別の枝を呼ぶ。
そして、空が開いた。
音は、しなかった。
あれだけのものが開いて、音がしない。裂けるものには、たいてい音がある。布にも、木にも、皮にも。あれには無かった。
開いた向こう側には、何も無い。
黒くもない。黒は色だ。色があるということは、そこに何かがあるということだ。あれには、それすら無かった。
そこから、降りてきた。
◇
戦場は、静かになった。
止めろと言った者はいない。
歓声が、上がっている途中で消えた。斧を掲げていた腕が、掲げたまま下りてこない。名前を叫んでいた者は、口を開けたまま次の音を出さなかった。
翼が、開いている。
黒い。今度は色があった。だが、光を返さない黒だった。あれだけの面積が空にあって、その一面だけが空から切り抜かれたように見える。
一度、打った。
ゆっくりだ。急いでいない。急ぐ必要のあるものが、この空のどこにも無いという打ち方だった。
打つたびに、下の空気が押される。押されて、地面の埃が円を描いて外へ逃げた。円は広がりながら薄くなり、消える前に、次の円が内側にできる。
音は、しない。
あれだけのものが空気を叩いて、その音だけが来なかった。
近づくにつれて、他の音も減った。
風が鳴らない。人が動かない。誰かが動けば、鎧が鳴るはずだ。鳴らなかった。
これまで、この戦場でいちばん大きな音を立てていたものは、空にいた。
いま空にいるものは、何の音も立てていない。
◇
丘の上に、男が立っていた。
立つのに、少しかかった。
左の膝が、まだ言うことを聞かない。彼はそれを二度やり直し、三度目に、両足を地面に置いた。置いたときに胸のどこかで嫌な音がしたが、それは彼にしか聞こえていない。
右手の斧が、下がっていく。
下ろしきって、刃先を地面に置いた。
そして、彼は上を見た。
「……怖くないんですの?」
隣に、女が立っている。
弓は下ろしていた。矢もつがえていない。右手を、少し後ろへ回している。
「出来ることなら」
男は、上を見たまま言った。
「あのツラを拝みたくは無かったな」
そして、少し笑った。
女は、それについて何も言わない。
◇
それは、丘の上で止まった。
止まったというより、そこで降りるのをやめた。地面には着いていない。着く必要が無いのだろう。
首が、下がってきた。
近い。
男の頭の上に、その顔がある。
目が、二つ。
そこに、怒りは無かった。
憎しみも無い。侮りも、面白がる色も無い。生きているものが他のものを見るときには、たいてい何かが入る。あれには入っていなかった。
ただ、見ていた。
決めるために見ている、という見方だ。
◇
しばらく、動かなかった。
それから、目が動いた。
丘の下だ。
そこに、王が立っている。兜は無い。額から顎まで、血が乾いて一本の線になっている。斧の柄を杖にして、立っていた。立っているだけで精一杯なのが、上からでもわかる。
その男は、逃げなかった。
見上げて、そのまま立っていた。
目が、また動いた。
街道のほうだ。
捲れ返った石の上で、倒れていたものが起き上がろうとしている。一つ。三つ。五つ。数が増えていく。増える速さは遅い。肘をつき、膝を立て、そこで一度休んで、また立つ。
立って、上を見る者もいた。見ない者もいた。見ない者は、次に立たせる相手を探していた。
熊の毛皮を掛けた大男が、うつ伏せになっていた兵の腰帯を掴んで、片手で引き起こしている。引き起こされたほうは軍団の胸当てを着けている。二人は互いに何も言わなかった。言うだけの息が、どちらにも残っていない。
目が、もう一度動いた。
土手の東側の斜面だった。
そこに、二人いる。
一人は、若い。右の足に何も履いていない。足首のところに、蝋を引いた麻の紐が、まだ残っている。その足で立とうとして、立てずにいた。
もう一人が、その脇の下へ肩を入れた。
背の高い、痩せた男だ。何か短く言った。命令の言い方だ。若いほうが何か返した。返し方は、命令に返す言い方ではない。
そして、二人で立った。
歩き出した。
歩く先に、特に何があるわけでもない。ただ、そこにいるよりは歩いたほうがいいと、どちらかが思ったのだろう。
◇
雲が、動いた。
割れていない側の空だ。
厚い灰色の底に、一箇所だけ薄いところがあって、そこから下へ、光が一筋落ちた。
まっすぐだった。
落ちた先は、丘ではない。空にいるものでもない。街道の、いま人が立ち上がっているあたりだった。
光の中で、埃が上がっているのが見えた。
それだけだ。
何かが起きたわけではない。誰かが治ったわけでも、誰かが名を呼ばれたわけでもない。
ただ、そこが明るくなった。
◇
見ていた者が、二つだけいた。
一つは、空にいる。
首が、そちらへ回った。回した先を、しばらく見ていた。目の中に、初めて何かが入った。何が入ったのかは、下からではわからない。
もう一つは、丘の上にいた。
男も、そちらを見ていた。
見て、口の端が少し動いた。笑ったのではない。何か言いかけて、やめた形だった。
立ち上がっていた者たちは、誰もそちらを見ていない。
明るくなったことに気づいた者も、たぶんいなかった。彼らは自分の膝と、隣の者の腕のことで手一杯だったし、この日、空を見上げる理由なら、もう十分に足りていた。
◇
『フン』
音が、初めて出た。
短い。鼻を鳴らしただけだ。呆れているようにも聞こえたし、何かを認めたようにも聞こえた。どちらとも決められる出し方だった。
そして、首が上がっていく。
『ドヴァー』
言いかけて、止まった。
『……いや』
止めた理由を、この竜は説明しなかった。
『ドヴァーキンよ』
翼が、開いた。
『もう会う事もないだろう』
◇
一度、打った。
体が持ち上がる。持ち上がった高さは、翼の大きさに対して釣り合っていなかった。あれだけ打って、それだけしか上がらない。あるいは、それだけしか上がる気が無い。
二度目で、丘の草が全部倒れた。
三度目からは、見ている者の首が追いつかなくなる。
戻っていくのに、来たときよりも時間がかかった。
そのあいだ、誰も何も言わなかった。
黒いものが、開いた口の中へ入っていく。
入りきったところで、開いていたものが閉じはじめた。
閉じ方は、割れ方の逆だった。枝が枝を戻し、戻った線が細くなり、細くなったものが端から消えていく。消える順序は、増えたときの逆ではなかった。どこから消えるかは、決まっていなかったらしい。
◇
男は、上を見ていた。
見ていて、小さく息を吐いた。
聞こえた者はいない。
「じゃあな」
そして、続けた。
「……竜の長子よ」
後ろで、骨が鳴った。
『クックッ』
骸の竜が、喉の奥で骨を鳴らしている。
『追い返されておったな』
「そう見えたか」
『あれは、そういう帰り方だ。我は知っておる』
竜は、それ以上何も言わなかった。
言わずに、しばらく骨を鳴らし続けていた。
◇
空は、青かった。
線は、一本も残っていない。
朝からずっとあったものが無くなると、無かったころの空がどんな色だったのかを、しばらく思い出せない。誰も口に出さなかったが、多くの者が同じことをしていた。上を見て、しばらくそのままでいる。
やがて、下のほうから声が上がった。
一つ。それから、止まらなくなった。
◇
裸の男が、通りを歩いていた。
正しくは、通りではない。捲れ返った街道の残りだ。そこを、大きな男が一人、何も身につけずに歩いている。
体のあちこちに傷がある。傷は塞がっていた。塞がり方が速すぎたのか、塞がった線が皮膚の色と合っていない。
彼は、地面に落ちているものを一つずつ拾っては、体に当てていた。
どれも小さい。
三つ目を当てたところで、近くにいた一団が笑い出した。腹を抱えている者もいる。裸の男は振り返り、何か言い返し、言い返しながら四つ目を拾った。
四つ目も、小さかった。
笑いは、大きくなった。
同じような格好の者が、街道の別のところにも二人いる。片方は、盾を前に当てて歩いている。円い盾で、狼の意匠が打ってあった。
「返せ」
盾の持ち主らしい女が、後ろから追いかけていた。
「あとでな」
「あとでとは何だ」
そのやりとりを、周りの者たちが囃した。
◇
石畳の広いところで、輪ができていた。
輪の真ん中で、砂の国の外套を着た男が一人、剣を振っていた。
斬るための振り方ではない。刃が片側だけで、先が緩く反ったあの剣を、体の周りで回している。手首だけで返し、返した先を肘で送り、送った先をまた手首で受ける。刃が空を切る音が、一定の間隔で鳴った。
輪の者たちが、その間隔に手を合わせはじめた。
合わせているうちに、二人目が輪の中へ出た。同じ外套だ。二人は向かい合い、それぞれ勝手な速さで回しはじめる。勝手なのに、ぶつからない。刃と刃のあいだが、そのつど同じ幅だけ空いていた。
「――おい」
輪の外から、誰かが叫んだ。
「そういうのが出来るなら、さっき使え!」
砂の国の男の一人が、回しながら何か言い返した。
言葉はわからなかった。わからなかったが、笑いは起きた。
◇
緑の肌の男が、街道の脇にしゃがんでいる。
前に、三つ並べてある。
彼は、その一つ一つに向かって話しかけていた。声は大きい。隠していない。何を言っているのかは、周りの者にも聞き取れた。聞き取れたが、誰も近寄らなかった。
順に、名を呼んでいる。
呼んで、そのあとに一言ずつ足していた。足す言葉は、三つとも違う。
最後の一つに言い終わると、彼は立ち上がった。
立ち上がって、拳で自分の胸を二度叩いた。
それから、歩いていく。
振り返らなかった。
◇
土手の斜面では、二人が座っている。
肩を貸していたほうが、先に座った。座って、両足を投げ出し、それから隣に座らせた。
若いほうの右足は、まだ裸のままだ。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
「……なあ」
年上のほうが言った。
「名前は」
若いほうが、顔を上げた。
「マリウスです」
「マリウス」
年上の男は、一度だけそれを繰り返した。
繰り返して、それきり黙った。
顔は、正面を向いている。街道のほうだ。そこには、まだ動かないものがいくつも転がっていて、そのうちのいくつかには、たぶん名前があった。
「……覚えとかにゃならん名前も、あるわな」
言い方は、独り言に近かった。
若いほうは、それに返事をしなかった。
返事のしかたが、わからなかったのだろう。
◇
少し離れた場所で、一人の兵が胸に手をやっていた。
鎧の上からだ。
そこには、何も下がっていない。ここ何年か、この国で首から何かを下げている者はいない。下げていれば、面倒なことになる。
彼の手は、無いものの形に沿って動き、そこで止まった。
止まって、しばらくそのままだった。
それから、手を下ろした。
誰も、見ていない。
◇
シグヴァルドが、丘を登ってきた。
登りきるまでに、二度止まった。二度目は、少し長かった。
「ドヴァキン」
「生きてたか」
「……スカイリムの民を代表して、礼を言う」
「やめとけ」
男は、上を見たままだった。
「アイツらが見てたのは、俺じゃない」
「アイツら?」
「ああ」
彼は、そこで初めてシグヴァルドのほうを向いた。
「神の慈悲か、ただ気まぐれだ」
そして、笑った。
シグヴァルドは、その笑い方をしばらく見ていた。
見て、頷いた。
◇
「もう一つ、礼を言わせろ」
「言っただろうが」
「別のことだ」
シグヴァルドは、丘の縁のほうを見た。
そちらでは、女が土手のほうへ下りていくところだった。歩き方に無駄が無い。朝からずっとあの調子だった。
「アンタの連れだ」
「……ああ」
「投げた」
「聞いた」
男は、少し黙った。
黙ってから、言った。
「助かった」
シグヴァルドは、肩をすくめた。
「一度だけだ」
「それでもだ」
「それに、こっちは大勢助けられた。数で言えば、まるで釣り合っておらん」
「回数の問題じゃない」
言い方が、変わった。
強くなったのではない。むしろ、低くなった。
シグヴァルドは、そちらを見た。
男は、また前を向いている。
「アイツは、死ぬことを恐れて無さすぎる」
「……不死身なんだろう、あれは」
「関係ない」
風が、丘を渡っていった。
「怖がってほしいわけじゃないんだ」
そこで、切れた。
続きは、来ない。
シグヴァルドは、しばらく待った。待って、来ないとわかると、それきり訊かなかった。
この王が同じ相手に二度目を訊かないのは、今日で二度目だった。
「……そうか」
それだけ言って、彼は前を向いた。
◇
風が、来た。
強い。
丘の上の草が一斉に倒れ、倒れた向きが揃った。
男は、顔を上げた。
風の来た方角を見る。
南だ。
遠くに、白いものが一本立っている。
「ん?」
彼は、そのまま少し目を細めた。
空は青い。雲は、さっきの一枚を最後に、もうどこにも無い。
その青の中に、光っているものがあった。
星だ。
昼だった。
◇
「どうかしましたの?」
女が、いつのまにか戻ってきていた。
「……いや」
男は、まだそちらを見ている。
「誰かに呼ばれたような気がしてな」
女は、彼の見ているほうを見た。
そちらには、白いものが立っている。それだけだった。
「そうですの」
彼女の視線は、まだそちらにあった。
◇
「ダーネヴィール」
骸の竜が、首を上げた。
「翼は」
『飛べる』
「訊いてないことに答えるな。翼はどうなってると訊いてる」
竜は、左の翼を一度開いた。
開いて、閉じた。
『繋がっておる』
「三本折れてただろうが」
『繋がっておる、と申した』
「いつ繋がった」
『……そういうものだ』
男は、それ以上訊かなかった。
訊いても、たぶん同じ答えが返ってくる。骨だけになってもまだ空を飛んでいるものに、体の道理を訊いても仕方がない。
彼は、その首の根元へ手をかけた。
かけて、一度で上がれなかった。二度目で上がった。
「どこへ行きますの?」
下から、声がした。
「あの塔だ」
「……そう」
女は、少し息を吐いた。
「あなた一人だと、何をしでかすかわかりませんから」
そして、彼女も上がってきた。
上がるのは、一度で済んだ。
◇
「ドヴァキン!」
シグヴァルドが、下から呼んだ。
「落ち着いたら、ソリチュードに顔を出してくれ。酒ぐらいなら出すぞ」
男は、片手を上げた。
「ああ。そのうちな」
そして、少しだけ笑った。
◇
翼が、開いた。
一度、地を叩く。
骸の竜は、丘の上の空気ごと持ち上がるようにして飛び立ち、右へ大きく傾いてから、姿勢を直した。直すのに、少しかかった。
かかったが、直った。
そのまま、南へ向かう。
下では、まだ声が上がっていた。北の言葉と、この国の言葉が混じっている。混じったまま、誰も分けようとしていなかった。
その日、あの戦場で何が起きたのかを、そこにいた者たちは知っている。
自分たちが何を見られていたのかを知っていた者は、たぶん一人もいなかった。