The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
帝都の中心は、静かになっていた。
赤いものは、もうどこにも湧いていない。角の生えたものも、灰色も、いない。
広場に残っているのは、倒れた旗と、割れた石畳と、三人の人間だけだった。
一人は、横たわっている。
一人は、その脇に膝をついて、手を動かし続けている。
もう一人は、立っていた。
その空が、色を変えた。
昼だった。日は高く、雲はほとんど無い。それなのに、広場の石だけが、夕暮れの色を返しはじめた。
赤ではない。橙でもない。そのあいだの、名前を持たないほうの色だった。石畳の目地の一本ずつに、その色が溜まっていく。溜まったところから、影の向きが変わった。
老魔術師の手が、止まった。
止めたのではない。止まった。
ネレヴァリンは、顔を上げた。
◇
そこに、いた。
立っているのではない。石を踏んでいない。踏んでいないのに、そこに在ることに無理が無かった。
輪郭は、女のものだった。それ以上のことは、見るたびに変わった。見ようとすると、目のほうが少し後ろへ下がる。
「ネレヴァリン」
声が、来た。
近くも遠くもない。この広場のどこからでも同じ大きさで聞こえたはずだが、聞いた者は二人しかいなかった。
「予言の重荷を下ろし、あなたは自らの運命を成就させた」
◇
彼は、答えなかった。
かわりに、訊いた。
「今度こそ本当に終わりだろうな?」
声に、力は入っていない。責めてもいない。
期待もしていなかった。
神はいつでも理不尽で、都合のいいことばかりを言う。訊いたところで返ってくるのは、たいてい訊いていないことのほうだ。それがわかっていて、彼は訊いた。
訊くのは、二度目だった。
◇
女神は、少し首を傾けた。
そういう動作をする必要は、たぶん無かったのだろう。
「――よく戦い抜いた」
そして、続けた。
「私のかわいい定命の者よ」
◇
色が、退いていく。
来たときと同じ速さで、石畳の目地から順に。溜まっていたものが引き、引いたあとには、昼の光が戻ってきた。
影の向きが、元へ戻る。
ネレヴァリンは、そこを見ていた。
何も無い。
さっきまで何かが在った場所には、いま、割れた石畳と、その上の埃しかない。
彼は、しばらくそこを見ていた。
感謝は、無かった。
怒りも、無かった。
腹の底で何かが動く気配も、喉が締まる感じも、掌が濡れることもない。ずっとそうだった。今日も、そうだった。
彼は、目を戻した。
◇
戻す途中で、自分の手が視界に入る。
右手だ。
血で汚れている。乾いたものと、乾いていないものが混じっていた。
指を、開いた。
関節のところに、線があった。
細い。浅い。皮膚の表面にだけある。指を強く曲げると、その線は深くなり、開くと、また浅くなって、そこに残った。
一本ではない。
どの関節にも、同じものが入っていた。
ダンマーは、その手を、しばらく見ていた。
数百年、そこに無かったものだ。
◇
「ふっ」
息が、一度だけ出た。
笑ったのかどうかは、本人にも判別がつかなかったろう。
「……片付いたら、アイツのところでも行ってみるか」
小さい声だった。
誰にも聞こえていない。老魔術師は手元しか見ていないし、横たわっているほうは目を閉じている。
誰に向かって言ったのかを訊く者は、そこにいなかった。
◇
骨が、降りてきた。
広場の石畳に影が落ち、影が広がって、風が来た。
翼が二度打たれ、二度目で埃が全部飛んだ。骸の竜は、旗の倒れているあたりに脚を下ろすと、そこで首を低くした。
背から、二つ降りた。
一つは、左足を引きずっている。
もう一つは、降りるのが速かった。
「――どちらですの」
女は、着地したその足で、もう歩き出していた。
歩き出して、三歩で止まった。
石畳の上に、人が横たわっている。その脇で、老人が膝をついて手を動かしていた。動かし方に余裕が無い。同じ場所を、何度も往復している。
老魔術師が、顔を上げた。
上げて、そこに立っている者たちを見て、一度、目を大きくした。
「……あなた方が、なぜ」
女は、答えなかった。
答えを持っていないからだ。
持っているはずのほうは、まだ竜の脇にいて、足を引きずりながら降りてくるところだった。
「……ねえ」
女は、そちらを振り返った。
「これですの?」
「知らん」
「知らん、とは」
「呼ばれたと言っただろうが。何のためかまでは、言われてない」
「どなたに呼ばれたのかは」
「それも聞いてない」
女は、少しのあいだ黙った。
黙ってから、前へ向き直った。
◇
向き直って、横たわっているものの顔を見た。
血の筋は、乾いたまま、そこに残っていた。拭った者が、誰もいなかったのだろう。
彼女は、しばらくそれを見ていた。
「……リフテンの」
「はい」
老魔術師の声は、それだけだった。
女は、横たわっているものの反対側へ膝をつく。
つく前に、一度だけ、老魔術師の手元を見た。
見て、それだけで済ませた。
◇
「傷は」
「多すぎます」
「血が」
「はい。それが」
「足りていませんわね」
女は、袖をまくった。
右手の指の腹が、三本とも裂けている。裂けた縁が乾ききっておらず、まくった拍子に、また少し開いた。
彼女は、それを見た。
見て、そのまま両手を横たわっている体の上へ持っていった。
「わたくしは、増やせません」
指が、開かれる。
「動かすだけですわ。……足りない場所へ、足りている場所から」
老魔術師は、その手つきを見ていた。
見て、何も言わなかった。この人が生涯で三度目に、言うべき言葉を持たなかった。
◇
男は、少し離れたところに立っている。
近づかない。
近づいても、やることが無いからだ。
彼は自分の手を一度見て、それから下ろした。この手でできることは、この場に一つも無い。それを確かめるのに、時間はかからなかった。
その視線が、横たわっているものの左腕へ落ちた。
黒い。
肩から先が一様に色を失い、指の先まで同じ黒さで、そこに置かれている。置かれているというより、その形をした別のものが、たまたまそこにあるように見えた。
「……おい」
彼は、老魔術師のほうへ言った。
「そいつは、もう」
「はい」
老魔術師は、そちらを見なかった。
「もう、ございません」
◇
四人が、動いた。
老魔術師が、両手を若い男の額へ置いた。
「……眠らせます。深く。目が覚めるかどうかは、そのあと次第でございます」
白いものが、額から入っていく。入っていって、胸のあたりで一度広がり、それから体の隅へ流れていく。
若い男の指が、二度動いた。
止まらない。
もう一度動き、それから、背が反った。反ったところで、喉から音が出た。言葉ではない。低い。この体から出るには、低すぎた。
「――押さえてください」
「押さえてる」
「……効いておりません」
老魔術師の額に、汗が浮いていた。
「眠らせております。眠らせておりますが、眠っておるのは、この者のほうだけでございます」
「まだ残ってんのか」
「残っては、おりませぬ」
老魔術師は、手を離さないまま言った。
「通ったあとが、まだ閉じておらぬのでございます。……道が開いたままなのです。誰も歩いておらぬのに」
◇
男は、押さえたまま、息を吸った。
深くはない。短く。
『Kaan- Drem- Ov』
言葉が、落ちた。
火でも氷でもない。飛んでいったものは、何も見えなかった。ただ、広場の空気が、少しだけ緩んだ。
反っていた背が、下りた。
石畳の上へ戻る。喉から出ていた音が、途中で止まった。呼吸が、浅いまま、間隔だけ揃っていく。
指は、動かなかった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……いまのは」
老魔術師が訊いた。
「獣を落ち着かせるやつだ」
男は、手の位置を直しながら言った。
「馬とか、熊とか。そういうのに使う」
「……この方は、人でございますが」
「知ってる」
それだけだった。
なぜ効いたのかを、その場で考えた者はいない。考える余裕のある者が、一人もいない。
◇
止まったあと、老魔術師は手を離さなかった。
離さないまま、左腕のほうを一度だけ見た。
見て、目を戻す。
その腕には、彼が張ったものがあった。焼けた肉を焼けたままにしておくために、無茶を承知で組んだ。
いま、そこには何も無い。
彼は、何も言わなかった。
◇
ダンマーが、剣を取った。
自分の剣ではない。
石畳の上に落ちていたものだ。飾りは古く、柄に巻かれた革は擦り切れていて、擦り切れ方が、握られてきた形をしていた。
彼は、それを右手に持った。
持ち替えて、重さを見る。
肩の高さまで上げたとき、首の付け根のあたりが引き攣れた。塞がったばかりのところだ。塞がるのに、これまでで一番長くかかった場所でもある。
彼は、それを気にしなかった。
「動くなよ」
「動かさない」
男は、置いた両手にもう一度体重をかけた。
かけた手の大きさが、体に対して不釣り合いだった。この場でいちばん力のある両手が、いま、動かないようにするためだけに使われている。
「……いいぞ」
◇
刃が、上がった。
止まらなかった。
肩から手のひら一つぶん下。
音は、二つした。一つは肉のもので、もう一つは骨のものだった。二つ目のほうが、短い。
黒いものが、石畳の上へ落ちた。
落ちて、そこで動かなかった。
◇
「――ええ」
女が、言った。
言いながら、両手を下げる。触れてはいない。掌を、切り口の上へ浮かせたまま、指をゆっくりと閉じていく。
出ていたものが、止まった。
止まったのではない。止められた。
切り口の縁で、赤いものが盛り上がり、盛り上がったところで内側へ折り返して、そのまま入っていった。外へ出るはずのものが、出ないほうを選んでいる。選ばせている者が、そこにいた。
彼女の指が、少し震えた。
裂けた三本のところから、彼女自身のものが出ている。
出ているのを、彼女は動かさなかった。
「……こちらは、いいのです」
誰も訊いていなかった。
◇
老魔術師の白いものが、切り口の縁へ入っていく。
縁が、寄りはじめた。
寄って、閉じきらない。閉じきらないところへ、また白いものが入る。
それを、四人で繰り返した。
一人は眠らせ続け、一人は血を戻し続け、一人は押さえ続け、一人は、そのあいだ何もしなかった。
やることが、無かったからだ。
彼は落ちた腕のほうへ歩いていって、それを拾い、旗の布で包んだ。
包んで、少し離れたところへ置いた。
それだけだった。
◇
やがて、止まる。
出ているものが止まり、閉じるものが閉じ、白いものが要らなくなった。
老魔術師が、手を離した。
離してから、そのまま石畳へ座り込んだ。座り込んで、しばらく動かなかった。
女は、両手を下げた。
下げた手の指を、三本とも自分の掌で包んで、そこに置いた。
男は、押さえていた手をゆっくり離した。離したあと、若い男の胸のあたりを一度だけ見た。
動いている。
浅い。間隔が空きすぎている。だが、動いていた。
「……生きてんな」
「まだ、でございます」
老魔術師は、座ったまま言った。
「まだ、というのが、いちばん大事なところでございまして」
◇
静かになった。
広場には、四人と、一人と、包まれたものが一つ。
男は、立ち上がった。
立ち上がって、背を伸ばそうとして、途中でやめた。肋のどこかが、まだ元に戻っていない。
戻す気も無いらしい。
その目が、ダンマーの左手に落ちた。
「――お前」
彼は、少し首を傾けた。
「それ」
籠手だ。
金属で、重い。留め具が三つ。血で汚れていたが、汚れの下の造りは変わっていない。
そして、その視線が下がった。
腰のところに、布に巻いたものがある。布の端がほどけていて、そこから柄が覗いていた。柄は赤い。血の色ではなく、血の色をした石だ。
「……お前が持ってたのか」
「?」
ダンマーは、そちらを見た。
意味がわからなかった。
この男が何を言っているのか、なぜそれを訊くのか、訊いてどうしたいのか。どれもわからない。彼は、何も返さなかった。
男は、しばらく籠手のほうを見ていた。
見て、それから鼻から息を出した。
「そうか」
そして、言った。
「そいつは、お前を選んだんだな」
ダンマーは、答えなかった。
男も、二度は言わなかった。
説明は、されなかった。
説明できる者が、その場に一人もいなかったからだ。
◇
翼が、鳴った。
骸の竜が、首を上げていた。
『クァーナーリン』
「なんだ」
『そろそろだ』
竜は、自分の前脚を見ていた。
見ているうちに、その先が薄くなりはじめている。骨の一本ずつの縁が緩み、緩んだところから、向こう側の石畳が透けはじめていた。
『理が、戻った。戻ったところに、我の居場所は無い』
「そうか」
『そういうものだ』
男は、そちらへ歩いていった。
途中で足を引きずったが、隠さなかった。
◇
『クァーナーリン』
「まだいるだろうが」
『いや。訊いておきたいことがある』
竜の首が、少し下がった。
『まだ現世にいるのか』
男は、答えなかった。
しばらく黙って、それから言った。
「さあな」
『……そうか』
首が、元の高さへ戻った。
『用があればまた呼んでくれ』
薄くなった前脚が、もう半分無い。
『またお前と飛ぶ日を待っているぞ』
男は、片手を上げた。
それだけだった。
骸の竜の眼が、満足そうに一度光る。
そして、消えた。
石畳の上に、何も残らなかった。跡が残る造りをしていなかったのだろう。
◇
広場には、五人が残った。
一人は眠っている。
一人は座り込んでいる。
一人は自分の指を包んでいる。
一人は、竜のいた場所を見ている。
もう一人は、いつのまにか立ち上がっていた。
◇
男が、こちらへ戻ってくる。
途中で足を引きずった。さっきと同じ側だ。
ダンマーは、それを見た。
見て、口の端が動いた。
「……ひどくやられたな」
男の足が、止まった。
止まって、こちらを見る。数日前に焼けた宿で会ってから、この顔がそういう形になったところを、彼は一度も見ていない。
何か言おうとして、やめた。
やめて、別のことを言った。
「あそこまでデカいなら、先に言っておけ」
「聞かれていない」
「……お前ら年寄りは、聞かなきゃ教えんのか」
言いながら、頭の隅に別の一頭がいた。喉笛の上で、いつも同じ速さで喋る老いた竜だ。あれもそうだった。訊けば答える。訊かなければ、風を受けたまま何百年でも黙っている。
「教えたところで、何か変わったか」
男は、やれやれと言うように頭を振った。
◇
ダンマーは、剣を石畳の上へ戻した。
戻して、そこから離れた。
歩き出す。
歩幅は、変わっていない。摩耗しきった瞳も、たぶん、そのままだった。
「ドラゴンボーン」
歩きながら、彼は言った。
「なんだ」
「狂った神から伝言だ」
「……あ?」
「『お前が一番退屈だった』、だそうだ」
「――おい」
後ろから、声がした。
「どういう意味だ」
彼は、振り返らなかった。
振り返らずに、片手だけを上げた。
「さあな。シェオゴラスに聞け」
それで足りた。
◇
その足取りが、いつか本当に「終わり」へたどり着くのかどうかは——あの日、神々でさえ知らなかったのかもしれない。
いまは、たどり着く。
いつたどり着くのかは、誰も知らない。
数えはじめた者も、まだいない。