The Elder Scrolls : Dawn of Order   作:蛾の司祭

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第3話:手

帝都の中心は、静かになっていた。

 

赤いものは、もうどこにも湧いていない。角の生えたものも、灰色も、いない。

 

広場に残っているのは、倒れた旗と、割れた石畳と、三人の人間だけだった。

 

一人は、横たわっている。

 

一人は、その脇に膝をついて、手を動かし続けている。

 

もう一人は、立っていた。

 

その空が、色を変えた。

 

昼だった。日は高く、雲はほとんど無い。それなのに、広場の石だけが、夕暮れの色を返しはじめた。

 

赤ではない。橙でもない。そのあいだの、名前を持たないほうの色だった。石畳の目地の一本ずつに、その色が溜まっていく。溜まったところから、影の向きが変わった。

 

老魔術師の手が、止まった。

 

止めたのではない。止まった。

 

ネレヴァリンは、顔を上げた。

 

                 ◇

 

そこに、いた。

 

立っているのではない。石を踏んでいない。踏んでいないのに、そこに在ることに無理が無かった。

 

輪郭は、女のものだった。それ以上のことは、見るたびに変わった。見ようとすると、目のほうが少し後ろへ下がる。

 

「ネレヴァリン」

 

声が、来た。

 

近くも遠くもない。この広場のどこからでも同じ大きさで聞こえたはずだが、聞いた者は二人しかいなかった。

 

「予言の重荷を下ろし、あなたは自らの運命を成就させた」

 

                 ◇

 

彼は、答えなかった。

 

かわりに、訊いた。

 

「今度こそ本当に終わりだろうな?」

 

声に、力は入っていない。責めてもいない。

 

期待もしていなかった。

 

神はいつでも理不尽で、都合のいいことばかりを言う。訊いたところで返ってくるのは、たいてい訊いていないことのほうだ。それがわかっていて、彼は訊いた。

 

訊くのは、二度目だった。

 

                 ◇

 

女神は、少し首を傾けた。

 

そういう動作をする必要は、たぶん無かったのだろう。

 

「――よく戦い抜いた」

 

そして、続けた。

 

「私のかわいい定命の者よ」

 

                 ◇

 

色が、退いていく。

 

来たときと同じ速さで、石畳の目地から順に。溜まっていたものが引き、引いたあとには、昼の光が戻ってきた。

 

影の向きが、元へ戻る。

 

ネレヴァリンは、そこを見ていた。

 

何も無い。

 

さっきまで何かが在った場所には、いま、割れた石畳と、その上の埃しかない。

 

彼は、しばらくそこを見ていた。

 

感謝は、無かった。

 

怒りも、無かった。

 

腹の底で何かが動く気配も、喉が締まる感じも、掌が濡れることもない。ずっとそうだった。今日も、そうだった。

 

彼は、目を戻した。

 

                 ◇

 

戻す途中で、自分の手が視界に入る。

 

右手だ。

 

血で汚れている。乾いたものと、乾いていないものが混じっていた。

 

指を、開いた。

 

関節のところに、線があった。

 

細い。浅い。皮膚の表面にだけある。指を強く曲げると、その線は深くなり、開くと、また浅くなって、そこに残った。

 

一本ではない。

 

どの関節にも、同じものが入っていた。

 

ダンマーは、その手を、しばらく見ていた。

 

数百年、そこに無かったものだ。

 

                 ◇

 

「ふっ」

 

息が、一度だけ出た。

 

笑ったのかどうかは、本人にも判別がつかなかったろう。

 

「……片付いたら、アイツのところでも行ってみるか」

 

小さい声だった。

 

誰にも聞こえていない。老魔術師は手元しか見ていないし、横たわっているほうは目を閉じている。

 

誰に向かって言ったのかを訊く者は、そこにいなかった。

 

                 ◇

 

骨が、降りてきた。

 

広場の石畳に影が落ち、影が広がって、風が来た。

 

翼が二度打たれ、二度目で埃が全部飛んだ。骸の竜は、旗の倒れているあたりに脚を下ろすと、そこで首を低くした。

 

背から、二つ降りた。

 

一つは、左足を引きずっている。

 

もう一つは、降りるのが速かった。

 

「――どちらですの」

 

女は、着地したその足で、もう歩き出していた。

 

歩き出して、三歩で止まった。

 

石畳の上に、人が横たわっている。その脇で、老人が膝をついて手を動かしていた。動かし方に余裕が無い。同じ場所を、何度も往復している。

 

老魔術師が、顔を上げた。

 

上げて、そこに立っている者たちを見て、一度、目を大きくした。

 

「……あなた方が、なぜ」

 

女は、答えなかった。

 

答えを持っていないからだ。

 

持っているはずのほうは、まだ竜の脇にいて、足を引きずりながら降りてくるところだった。

 

「……ねえ」

 

女は、そちらを振り返った。

 

「これですの?」

 

「知らん」

 

「知らん、とは」

 

「呼ばれたと言っただろうが。何のためかまでは、言われてない」

 

「どなたに呼ばれたのかは」

 

「それも聞いてない」

 

女は、少しのあいだ黙った。

 

黙ってから、前へ向き直った。

 

                 ◇

 

向き直って、横たわっているものの顔を見た。

 

血の筋は、乾いたまま、そこに残っていた。拭った者が、誰もいなかったのだろう。

 

彼女は、しばらくそれを見ていた。

 

「……リフテンの」

 

「はい」

 

老魔術師の声は、それだけだった。

 

女は、横たわっているものの反対側へ膝をつく。

 

つく前に、一度だけ、老魔術師の手元を見た。

 

見て、それだけで済ませた。

 

                 ◇

 

「傷は」

 

「多すぎます」

 

「血が」

 

「はい。それが」

 

「足りていませんわね」

 

女は、袖をまくった。

 

右手の指の腹が、三本とも裂けている。裂けた縁が乾ききっておらず、まくった拍子に、また少し開いた。

 

彼女は、それを見た。

 

見て、そのまま両手を横たわっている体の上へ持っていった。

 

「わたくしは、増やせません」

 

指が、開かれる。

 

「動かすだけですわ。……足りない場所へ、足りている場所から」

 

老魔術師は、その手つきを見ていた。

 

見て、何も言わなかった。この人が生涯で三度目に、言うべき言葉を持たなかった。

 

                 ◇

 

男は、少し離れたところに立っている。

 

近づかない。

 

近づいても、やることが無いからだ。

 

彼は自分の手を一度見て、それから下ろした。この手でできることは、この場に一つも無い。それを確かめるのに、時間はかからなかった。

 

その視線が、横たわっているものの左腕へ落ちた。

 

黒い。

 

肩から先が一様に色を失い、指の先まで同じ黒さで、そこに置かれている。置かれているというより、その形をした別のものが、たまたまそこにあるように見えた。

 

「……おい」

 

彼は、老魔術師のほうへ言った。

 

「そいつは、もう」

 

「はい」

 

老魔術師は、そちらを見なかった。

 

「もう、ございません」

 

                 ◇

 

四人が、動いた。

 

老魔術師が、両手を若い男の額へ置いた。

 

「……眠らせます。深く。目が覚めるかどうかは、そのあと次第でございます」

 

白いものが、額から入っていく。入っていって、胸のあたりで一度広がり、それから体の隅へ流れていく。

 

若い男の指が、二度動いた。

 

止まらない。

 

もう一度動き、それから、背が反った。反ったところで、喉から音が出た。言葉ではない。低い。この体から出るには、低すぎた。

 

「――押さえてください」

 

「押さえてる」

 

「……効いておりません」

 

老魔術師の額に、汗が浮いていた。

 

「眠らせております。眠らせておりますが、眠っておるのは、この者のほうだけでございます」

 

「まだ残ってんのか」

 

「残っては、おりませぬ」

 

老魔術師は、手を離さないまま言った。

 

「通ったあとが、まだ閉じておらぬのでございます。……道が開いたままなのです。誰も歩いておらぬのに」

 

                 ◇

 

男は、押さえたまま、息を吸った。

 

深くはない。短く。

 

『Kaan- Drem- Ov』

 

言葉が、落ちた。

 

火でも氷でもない。飛んでいったものは、何も見えなかった。ただ、広場の空気が、少しだけ緩んだ。

 

反っていた背が、下りた。

 

石畳の上へ戻る。喉から出ていた音が、途中で止まった。呼吸が、浅いまま、間隔だけ揃っていく。

 

指は、動かなかった。

 

しばらく、誰も何も言わなかった。

 

「……いまのは」

 

老魔術師が訊いた。

 

「獣を落ち着かせるやつだ」

 

男は、手の位置を直しながら言った。

 

「馬とか、熊とか。そういうのに使う」

 

「……この方は、人でございますが」

 

「知ってる」

 

それだけだった。

 

なぜ効いたのかを、その場で考えた者はいない。考える余裕のある者が、一人もいない。

 

                 ◇

 

止まったあと、老魔術師は手を離さなかった。

 

離さないまま、左腕のほうを一度だけ見た。

 

見て、目を戻す。

 

その腕には、彼が張ったものがあった。焼けた肉を焼けたままにしておくために、無茶を承知で組んだ。

 

いま、そこには何も無い。

 

彼は、何も言わなかった。

 

                 ◇

 

ダンマーが、剣を取った。

 

自分の剣ではない。

 

石畳の上に落ちていたものだ。飾りは古く、柄に巻かれた革は擦り切れていて、擦り切れ方が、握られてきた形をしていた。

 

彼は、それを右手に持った。

 

持ち替えて、重さを見る。

 

肩の高さまで上げたとき、首の付け根のあたりが引き攣れた。塞がったばかりのところだ。塞がるのに、これまでで一番長くかかった場所でもある。

 

彼は、それを気にしなかった。

 

「動くなよ」

 

「動かさない」

 

男は、置いた両手にもう一度体重をかけた。

 

かけた手の大きさが、体に対して不釣り合いだった。この場でいちばん力のある両手が、いま、動かないようにするためだけに使われている。

 

「……いいぞ」

 

                 ◇

 

刃が、上がった。

 

止まらなかった。

 

肩から手のひら一つぶん下。

 

音は、二つした。一つは肉のもので、もう一つは骨のものだった。二つ目のほうが、短い。

 

黒いものが、石畳の上へ落ちた。

 

落ちて、そこで動かなかった。

 

                 ◇

 

「――ええ」

 

女が、言った。

 

言いながら、両手を下げる。触れてはいない。掌を、切り口の上へ浮かせたまま、指をゆっくりと閉じていく。

 

出ていたものが、止まった。

 

止まったのではない。止められた。

 

切り口の縁で、赤いものが盛り上がり、盛り上がったところで内側へ折り返して、そのまま入っていった。外へ出るはずのものが、出ないほうを選んでいる。選ばせている者が、そこにいた。

 

彼女の指が、少し震えた。

 

裂けた三本のところから、彼女自身のものが出ている。

 

出ているのを、彼女は動かさなかった。

 

「……こちらは、いいのです」

 

誰も訊いていなかった。

 

                 ◇

 

老魔術師の白いものが、切り口の縁へ入っていく。

 

縁が、寄りはじめた。

 

寄って、閉じきらない。閉じきらないところへ、また白いものが入る。

 

それを、四人で繰り返した。

 

一人は眠らせ続け、一人は血を戻し続け、一人は押さえ続け、一人は、そのあいだ何もしなかった。

 

やることが、無かったからだ。

 

彼は落ちた腕のほうへ歩いていって、それを拾い、旗の布で包んだ。

 

包んで、少し離れたところへ置いた。

 

それだけだった。

 

                 ◇

 

やがて、止まる。

 

出ているものが止まり、閉じるものが閉じ、白いものが要らなくなった。

 

老魔術師が、手を離した。

 

離してから、そのまま石畳へ座り込んだ。座り込んで、しばらく動かなかった。

 

女は、両手を下げた。

 

下げた手の指を、三本とも自分の掌で包んで、そこに置いた。

 

男は、押さえていた手をゆっくり離した。離したあと、若い男の胸のあたりを一度だけ見た。

 

動いている。

 

浅い。間隔が空きすぎている。だが、動いていた。

 

「……生きてんな」

 

「まだ、でございます」

 

老魔術師は、座ったまま言った。

 

「まだ、というのが、いちばん大事なところでございまして」

 

                 ◇

 

静かになった。

 

広場には、四人と、一人と、包まれたものが一つ。

 

男は、立ち上がった。

 

立ち上がって、背を伸ばそうとして、途中でやめた。肋のどこかが、まだ元に戻っていない。

 

戻す気も無いらしい。

 

その目が、ダンマーの左手に落ちた。

 

「――お前」

 

彼は、少し首を傾けた。

 

「それ」

 

籠手だ。

 

金属で、重い。留め具が三つ。血で汚れていたが、汚れの下の造りは変わっていない。

 

そして、その視線が下がった。

 

腰のところに、布に巻いたものがある。布の端がほどけていて、そこから柄が覗いていた。柄は赤い。血の色ではなく、血の色をした石だ。

 

「……お前が持ってたのか」

 

「?」

 

ダンマーは、そちらを見た。

 

意味がわからなかった。

 

この男が何を言っているのか、なぜそれを訊くのか、訊いてどうしたいのか。どれもわからない。彼は、何も返さなかった。

 

男は、しばらく籠手のほうを見ていた。

 

見て、それから鼻から息を出した。

 

「そうか」

 

そして、言った。

 

「そいつは、お前を選んだんだな」

 

ダンマーは、答えなかった。

 

男も、二度は言わなかった。

 

説明は、されなかった。

 

説明できる者が、その場に一人もいなかったからだ。

 

                 ◇

 

翼が、鳴った。

 

骸の竜が、首を上げていた。

 

『クァーナーリン』

 

「なんだ」

 

『そろそろだ』

 

竜は、自分の前脚を見ていた。

 

見ているうちに、その先が薄くなりはじめている。骨の一本ずつの縁が緩み、緩んだところから、向こう側の石畳が透けはじめていた。

 

『理が、戻った。戻ったところに、我の居場所は無い』

 

「そうか」

 

『そういうものだ』

 

男は、そちらへ歩いていった。

 

途中で足を引きずったが、隠さなかった。

 

                 ◇

 

『クァーナーリン』

 

「まだいるだろうが」

 

『いや。訊いておきたいことがある』

 

竜の首が、少し下がった。

 

『まだ現世にいるのか』

 

男は、答えなかった。

 

しばらく黙って、それから言った。

 

「さあな」

 

『……そうか』

 

首が、元の高さへ戻った。

 

『用があればまた呼んでくれ』

 

薄くなった前脚が、もう半分無い。

 

『またお前と飛ぶ日を待っているぞ』

 

男は、片手を上げた。

 

それだけだった。

 

骸の竜の眼が、満足そうに一度光る。

 

そして、消えた。

 

石畳の上に、何も残らなかった。跡が残る造りをしていなかったのだろう。

 

                 ◇

 

広場には、五人が残った。

 

一人は眠っている。

 

一人は座り込んでいる。

 

一人は自分の指を包んでいる。

 

一人は、竜のいた場所を見ている。

 

もう一人は、いつのまにか立ち上がっていた。

 

                 ◇

 

男が、こちらへ戻ってくる。

 

途中で足を引きずった。さっきと同じ側だ。

 

ダンマーは、それを見た。

 

見て、口の端が動いた。

 

「……ひどくやられたな」

 

男の足が、止まった。

 

止まって、こちらを見る。数日前に焼けた宿で会ってから、この顔がそういう形になったところを、彼は一度も見ていない。

 

何か言おうとして、やめた。

 

やめて、別のことを言った。

 

「あそこまでデカいなら、先に言っておけ」

 

「聞かれていない」

 

「……お前ら年寄りは、聞かなきゃ教えんのか」

 

言いながら、頭の隅に別の一頭がいた。喉笛の上で、いつも同じ速さで喋る老いた竜だ。あれもそうだった。訊けば答える。訊かなければ、風を受けたまま何百年でも黙っている。

 

「教えたところで、何か変わったか」

 

男は、やれやれと言うように頭を振った。

 

                 ◇

 

ダンマーは、剣を石畳の上へ戻した。

 

戻して、そこから離れた。

 

歩き出す。

 

歩幅は、変わっていない。摩耗しきった瞳も、たぶん、そのままだった。

 

「ドラゴンボーン」

 

歩きながら、彼は言った。

 

「なんだ」

 

「狂った神から伝言だ」

 

「……あ?」

 

「『お前が一番退屈だった』、だそうだ」

 

「――おい」

 

後ろから、声がした。

 

「どういう意味だ」

 

彼は、振り返らなかった。

 

振り返らずに、片手だけを上げた。

 

「さあな。シェオゴラスに聞け」

 

それで足りた。

 

                 ◇

 

その足取りが、いつか本当に「終わり」へたどり着くのかどうかは——あの日、神々でさえ知らなかったのかもしれない。

 

いまは、たどり着く。

 

いつたどり着くのかは、誰も知らない。

 

数えはじめた者も、まだいない。

 

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