The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
匂いで、部屋の広さがわかる。
狭い部屋は、匂いが濃い。この部屋は濃かった。
卓の上に、栓を抜いたままの瓶がある。シロディールのブランデーだ。年数は聞いていない。もらい物で、渡した者が「開けるなら、理由のある日に」と言った。
理由のある日が来たのかどうかは、まだわからない。
それでも、彼は開けた。
◇
羽根ペンは、右手にある。
左は無い。袖は縫い留めてあって、そこだけ布が新しい。
片手でものを書くには、順番がいる。
羊皮紙を先に置く。文鎮を先に置く。それから栓を抜く。抜いたら、栓を置く場所を先に決めておく。一つでも順を違えると、どこかで手が足りなくなる。
初めのうちは、よく足りなかった。
いまは、足りる。
◇
この頃は、首から何かを下げている者を見かける。
服の下からではなく、外へ出して。
咎める者は、まだいる。咎められた者が、以前ほど素直に外さなくなった。違いは、それだけだ。
北との話も、まとまってはいない。まとまってはいないが、書簡の往復は速くなった。
速いというだけで、以前とは違う。
◇
卓の左側に、別の綴じがある。
清書ではない。聞いたことを、聞いた順に書き留めただけのものだ。
聞けた名と、聞けなかった名がある。
「マリウス」
一行。それだけ。
この名は、本人から聞いた。北の門の普請場で石を担いでいるところを呼び止めて、断られて、次の月にもう一度行った。
◇
その下に、名の無い行がある。
年上の兵だ。同じ普請場にいた。マリウスと二人で、同じ石を反対の端から持っている。
あの日、土手の斜面で肩を貸したのはこの男だという。名を訊いたのもこの男のほうで、自分の名は言わなかったという。
カイラスは、その男にも訊いた。
男は、石を下ろしてから答えた。
「そいつは、書くのか」
「はい」
「……なら、なおさらだ」
それきり、また石を持ち上げた。
マリウスが、笑った。
「変わりませんね」
「訊いたことが、おありですか」
「何度か」
そう言って、彼も端を持ち上げた。
◇
カイラスは、その行を空けたままにしている。
埋めようと思えば、書きようはある。年上の兵、でもいい。石を担いでいた男、でもいい。
書かなかった。
そこは、名を書く欄だからだ。
◇
名の無い行は、ほかにもある。
そちらは、聞いた話ではない。
坂を駆け下りた二人。鼻の骨が曲がったほうと、髭の生えていないほう。
顔は書ける。書いた。
名のところだけが、二行とも空いている。
◇
彼が書いているのは、神の話ではない。
無敵の英雄の話でもない。
恐怖に震え、泥に塗れ、それでも理不尽に抗い続けた者たちの話だ。
最後の一節を、彼はこう書いた。
――凡人ですら、神の駒であるかもしれない。
――星霜の書には、きっと一人一人の過去も未来も書き込まれているのだろう。
――神話であろうとなかろうと、この世界に生きる者は誰も、書かれた運命から完全には自由になれないのかもしれない。
◇
神話については、短くしか書いていない。
――神話は、神話に帰って行った。
それだけだ。
一人については、そのあとに一行だけ足した。
――ネレヴァリンと呼ばれた男は、ただのダンマーへ。
もう一人については、書けることが少なかった。
――どこかの山から聞こえてくるシャウトは、『ドラゴンボーン』かもしれない。
かもしれない、と書いてから、彼はそこを消さなかった。
消せる材料が、どこにも無い。
◇
シェオゴラスについては、一行も無い。
書こうとして、使える言葉が一つも出てこなかった。
出てこなかったことを、彼はそのままにした。
たぶん、そのほうがいい。
理由は、うまく言えない。
◇
書き終えて、羽根ペンを置いた。
置く場所は、決めてある。
インクが乾くまでは、触れない。触ればにじむ。片手では、にじんだところを押さえられない。
だから、待つ。
待つあいだに、彼は杯を空けた。
窓の外が、明るくなりはじめている。
朝焼けだ。
雲の形は、どれも違っていた。端のほうだけが、妙に赤い。
きれいだった。
彼は、目を細めた。
誰かに命じられたわけでもない。
*
ニュー・シェオスの玉座の間で、同じ頁がめくられていた。
どうやってそこにあるのかを、訊く者はいない。
「『凡人ですら、神の駒であるかもしれない』だと?」
シェオゴラスは、頁から目を上げた。
「ハッ! 笑わせる!」
哄笑が、天井を叩いた。
膝の上には、エイダールチーズがひと塊。最高級のやつだ。
かじる。かじってから、また笑う。笑いながらかじるので、粉が頁の上へ落ちた。
落ちた粉を、彼は払わなかった。
◇
「過去も未来も」
頁を、逆さにした。
「右も左も」
横にした。
「上も下も」
もう一度回して、そのまま読み続ける。
「神も人も、変わらん!」
チーズの粉が、頁から滑り落ちた。
「……ふむ。逆さのほうが上手いな」
◇
「駒かもしれん」
かじる。
「そうじゃないかもしれん」
もうひと口。
「……その余白よ」
三口目のところで、動きが止まった。
「その余白こそ、チーズより味わい深い」
止まっていたのは、ほんの一瞬だった。
「いや、チーズが上かもしれん。そうであろう、ハスキル」
玉座の脇の灰色の上衣が、わずかに顔を上げる。
「御意にございます」
「答えになっておらんぞ」
「はい」
◇
シェオゴラスは、立ち上がった。
立ち上がって、杯を高く掲げる。
「シロディールを守り抜いた、愚かで、愛すべき凡人どもに!」
誰も応えない。
「……もう一度いくぞ」
「シロディールを守り抜いた、愚かで、愛すべき凡人どもに!」
やはり、誰も応えない。
彼は満足したらしく、座った。
◇
それから、彼は懐へ手を入れた。
出てきたのは、金貨だった。
縁が擦れている。
目の高さまで上げて、ほんの少しだけ、見た。
見て、池へ投げ込んだ。
水面は、揺れなかった。
金貨は落ちていく。途中まで見えて、そこから先は見えない。
どちらの面が上を向いていたのかを、見た者はいない。
◇
「大公」
「なんだ」
ハスキルは、水のほうを見ていた。
「……いえ」
シェオゴラスは、玉座へ戻った。
戻る途中で、一度だけ、指で頁の端を弾いた。
◇
その横で、ペラギウス三世が、今日も自分の腸で縄跳びをさせられている。
今日は、一人だった。
飽きたのかもしれない。頁をめくるあいだだけ静かにさせておいたのかもしれない。
どちらなのかは、わからない。
跳ぶ音だけが、続いている。
fin