The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
老人だった。
深い藍の長衣。白く枯れた髭。手には節くれだった杖。その石突きが床を突いたが、音がしない。ただの老魔導士のようでいて、この議場という現実に、半分しか属していないかのようだった。
議員たちが、椅子を蹴って後ずさる。衛兵が槍を構える。だが老人は、そのどれにも目もくれず、混乱の中央で静かに杖を立てた。
「お騒がせして、申し訳ない」
柔らかな、けれど広間の隅々まで通る声だった。
「私はアルセリウス。アルテウム島、サイジック会の者にございます」
サイジック会。その名に、幾人かの議員が息を呑んだ。世界の理の彼方を覗き、めったに定命の世へ姿を現さぬという、伝説の魔術結社。老議員が、辛うじて声を絞り出す。
「サイジック会が……何用だ」
アルセリウスは答える代わりに、杖を持たぬほうの手を、ゆるやかに掲げた。
その手のひらの上に、光が凝る。
一個の珠だった。透きとおった球の内に、無数の星が渦を巻いている。
議場から、音が引いた。
◇
柱の陰で。
オンカノの、氷の瞳が、大きく見開かれた。
あれを、彼は知っていた。神代の遺物。世界のありうべき姿を映し出すという、時と可能性の眼。——マグナスの目。
柱から、背が離れた。
一歩、円卓のほうへ出る。
拍は、もう打たれていない。
◇
議場の混乱をよそに、アルセリウスは静かに語りだす。
「東の海より、破壊が来ております。皆さまが、この伝令兵の口から聞いた通りに」
彼の視線が、末席のカイラスへ、ちらと向けられた。
「そして——北西より、静止が。皆さまはまだ、お気づきでないかもしれませんが。ここより北西、コロールのあたりから、それは音もなく這い上がってきております。破壊とはまた別種の、けれど破壊よりなお恐ろしいものが」
「静止、だと……?」
議員の一人が、意味を掴みかねて呟く。アルセリウスは、それには答えなかった。ただ、掲げた珠の中で、星々の渦がゆっくりと形を変える。
「このふたつが、このシロディールで、ぶつかります。そのとき、世界を隔てる境目は——ほどけます。何が、そこから漏れ出すか。それは、私にも見通せませぬ」
議場が、水を打ったように静まった。脅しの響きは無い。すでに決まった事実を読み上げる声だった。
◇
やがて、アルセリウスの視線が、ふたたび末席へと向けられる。こんどは、ちらとではなく、まっすぐに。
「カイラス殿」
名を呼ばれ、カイラスは弾かれたように顔を上げた。
「わ……私、ですか」
「はい。あなたに、お願いしたき儀があって、参りました」
議員たちの目が、いっせいに末席へ集まる。
カイラス自身が、誰よりも同じ顔をしていた。
「これから、この地に、神話が集まってまいります」
アルセリウスは言った。
「竜の血を継ぐ者。予言に選ばれし者。狂気を統べる者。世界を渡り歩いた、いにしえの英雄たち。……ですが、彼らは、あまりに強すぎるのです」
「強すぎる……?」
「ええ。強き神話は、互いに反発いたします。定められた大いなる役割を負う者どうしが触れ合えば、その因果は火花を散らし、盤面そのものを焼き崩してしまう。放っておけば、彼らは同じ卓につくことすら、叶わぬでしょう」
アルセリウスの声が、ふと、和らいだ。
「その、火花を吸う結び目が要ります。どの神話にも属さず、どの運命にも与しない、まっさらな一点が。——あなたのような」
カイラスは、言葉を失った。
「私は……ただの、伝令兵です。魔法も使えず、竜の血も、英雄の血も引いておりません。何も、持っておりません」
「ええ。持たざるお方だ」
アルセリウスは、静かに肯った。否定ではなく、肯定として。
「神話を生きる者には、あらかじめ定められた役割がございます。ですが、あなたには、それがない。だからこそ、あなたには、何にでもなれる余白がある。……そして、あなたは、あの東の海で焼かれてなお、生き残られた。持たざる者が、それでも生き延びた。ただ、それだけのこと。ですが、だからこそ——価値があるのです」
カイラスは、頷かなかった。
理屈としては聞き取れる。なぜ自分でなければならぬのかが、そこから出てこない。
◇
答えあぐねるカイラスに、横合いから声がかかった。議長格の老議員だった。
「……伝令兵。従いなさい」
その声には、もはや命令の威厳よりも、藁にも縋る響きのほうが勝っていた。
「サイジック会が、わざわざ現れて名指しした者を、無下にはできぬ。それに——正直に言えば、我らには、もう打つ手がない。あなたが何をさせられるのか、私にはわからぬ。だが、それが一縷の望みだというなら、行ってもらうしかない」
石の色が濃いあたりには、誰も立っていない。カイラスのほかには。
◇
カイラスは、しばし俯いた。
右手が、感覚のない左腕を押さえていた。
炭になった輪郭が、風に一度だけ揺れた。あれを見た者は、この議場に彼しかいない。
顔を、上げた。
「……わかりました。私に、何ができるかはわかりませんが。やってみます」
「よき、お返事だ」
アルセリウスは目を細めた。それから、杖を持つ手を、カイラスの垂れた左腕へと、ゆっくりかざす。
「その前に。まず、そのお腕を」
「腕、ですか。……もう、感覚もありませんが」
「感覚がないのが、いま、この腕が生きている証にございます。この焼けは、尋常のものではない。捨て置けば、腐りが胴へ這い上がり、あなたの命を先に奪ってしまう。かと申して、治す術も、いまの世の魔術では、届きませぬ」
届かぬ、という言葉に、カイラスの背が強張った。
歯で栓を抜いた瓶の、二度目のときの手の感触が戻ってくる。
「ですので——封じます」
アルセリウスの杖の先に、淡い光が灯る。その光が、糸のように伸びて、カイラスの左腕を、幾重にも巻いていった。焼けただれ、黒ずんだ腕の周りに、目に見えぬ薄い膜のようなものが、そっと張られていく。
「腐りの進みと、痛みを、この結界の内に閉じ込めました。これで、腕はあなたの旅を妨げますまい。……ただし」
老魔導士の声が、わずかに沈んだ。
「これは、あくまで封じているだけのこと。傷が癒えたわけでも、腐りが止まったわけでもございません。この結界が、なんらかの理由で解けたそのときは——」
アルセリウスは、そこで言葉を切った。
それ以上は、言わなかった。
カイラスは、封じられた左腕を持ち上げてみた。相変わらず、感覚はない。だが、あの奥で居座り続けていた熱の気配だけは、薄い膜の向こうへ遠のいたようだった。
「……ありがとう、ございます」
「礼には及びませぬ。さあ、参りましょう」
アルセリウスは、杖で床を、こつ、と突いた。
「あなたに繋いでいただきたい者たちが、北東の——リフテンの廃墟に、向かいつつあります。かつて竜を討った者。終わらぬ命を生きる者。彼らを、同じ盤面へ。あなたという、避雷針を通して」
◇
老魔導士は背を向け、議場の出口へ向かって歩き出した。カイラスは、慌ててその後を追う。
扉に手をかける前に、彼は最後にもう一度、議場を振り返った。疲れきった議員たちの顔。そのどれもが、彼を英雄と見てはいなかった。ただ、厄介事を押しつけられる都合のいい駒を見るような、あるいは、得体の知れぬものへ差し出される生贄を見るような、そんな目だった。
その視線の中に、ただ一つ。
柱の陰から注がれる、ひときわ冷たいものが、あった。
オンカノは、去りゆくカイラスを見ていない。
彼の目がとらえて離さなかったのは、老魔導士の手のひらで瞬く珠、ただそれだけだった。
扉が、二人の背を通して閉じた。あとには、なおも右往左往する黄昏の元老院と、影に佇む一人のハイエルフだけが、残された。