The Elder Scrolls : Dawn of Order   作:蛾の司祭

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第3話:軋まない扉

シロディールの森は、まだ緑だった。

 

帝都からリフテンへ、湖沼の縁を東へ辿る街道を二つの影が進んでいた。痩せた老馬にまたがったローブの魔術師と、その半歩後ろを行くもう一頭に揺られる帝国兵。カイラスは時折、鞍の上から自分の左腕へ視線を落とす。感覚は無い。アルセリウスの結界が焼け爛れた肉と痛みを薄い膜の向こうに閉じ込めている。手綱を握れぬその腕は、荷のように鞍の脇へ垂れたままだった。触れても、他人の腕のようだ。

 

「アルセリウス殿」カイラスは口を開く。「先ほどから、鳥の声がしないように思うのですが」

 

老魔術師は手綱を握ったまま、しばらく答えなかった。

 

「……ええ」やがて静かに。「私も、そう思っておりました」

 

コロールが近い。街道の両脇になだらかな森が広がっている。夏の終わりの、緑の濃い森だ。風は吹いている。梢は揺れている。だが葉擦れの音がしない。カイラスは馬を止め、耳を澄ませた。虫の音も、遠くの獣の気配も、水の流れる音すらも。あるべきものが一つずつ抜け落ちていく。まるで世界から音だけを丁寧に摘み取っていった者がいるかのように。

 

「進みましょう」アルセリウスが促す。その声に、いつもの余裕は無かった。

 

しばらく行くと、空気が変わった。

 

境目は、線を引いたように明瞭だった。夏の熱を孕んだ湿った風が、ふつりと途切れる。汗ばんでいた首筋から、温度という温度が抜けていく。暑くも寒くもない。ただ、何も無い。カイラスは思わず腕をさすろうとして、それが動かぬ左腕だったことを思い出した。

 

「ここから先です」アルセリウスが言った。

 

                 ◇

 

同じ頃。街道から森一つ隔てた、名も無き農村。

 

一人の農夫が、朝の寝床から身を起こした。

 

いつもと同じ朝のはずだった。だが何かがおかしい。それが何なのか、寝ぼけた頭ではすぐにわからない。扉に手をかけ、押し開ける。——きしまなかった。何十年も開けるたびに軋んでいた木の扉が、今朝はまるで一度も使われたことのない新品のように、音もなく開いた。

 

外へ出る。

 

日は、昇っていた。夏の日差しが、いつものように畑を照らしている。だが、その光がどこかおかしかった。眩しくない。肌を焼く熱が無い。真夏の朝だというのに、蝉の一匹すら鳴いていない。光だけがそこに在って、夏がどこかへ抜け落ちてしまったような——そんな、薄っぺらい朝だった。

 

畑を囲う木の柵が目に入る。昨日まであちこち傾き、朽ちかけていた杭が、今は一本の狂いもなく並んでいる。間隔が、寸分たがわない。

 

そして、村の端。

 

昨日まで何も無かった場所に、それは在った。

 

黒に近い灰色の巨大な石柱。天へと突き刺さるように聳え、その表面には見たこともない幾何学の紋様が隙間なく刻まれている。オベリスク。いつ、どうやって建ったのか。昨夜、そんな音は聞かなかった。誰も、何も。

 

「……おい」

 

農夫は隣の家から出てきた男に声をかけた。「あんた。昨日まで、あんなもの、あったか」

 

男は答えなかった。

 

農夫は振り返る。

 

隣人はそこに立っていた。だが、その顔から表情という表情が綺麗に拭い去られている。目も口も頬も、ただそこに配置されているだけの、精巧な人形のような——

 

いや。それは隣人ではなかった。

 

いつのまにかそこに在ったのは、灰色の甲冑。継ぎ目の一つも見えぬ、完璧に磨き上げられた鎧の騎士。顔のあるべき場所には、ただ滑らかな面。それが音もなく剣を振りかぶっていた。

 

農夫は悲鳴を上げようとした。

 

だがこの村には、もう、悲鳴を響かせるための空気すら残されていなかったのかもしれない。

 

                 ◇

 

森の中。カイラスとアルセリウスは、変わり果てた光景の中を進んでいた。

 

木々がおかしい。すべてが同じ高さに揃えられている。天を目指してばらばらに伸びていた梢が、まるで一本の刃で薙ぎ払われたように水平に切り揃えられていた。そして葉。一枚、また一枚と、緑の葉が完璧な六角形の透き通った結晶へと置き換わっている。触れれば切れそうなほど硬質な、けれど美しい、偽物の葉。

 

路傍に崩れた荷馬車の残骸があった。だがそれは残骸と呼ぶにはあまりに整いすぎていた。砕けた木材は木材だけで、折れた鉄具は鉄具だけ。馬だったものは有機の塵となって、種類ごとに積み分けられている。塵一つ混じっていない。

 

とても綺麗な残骸だった。

 

カイラスは馬を止めていた。

 

視界の端にあの石柱が聳えている。オベリスク。その表面の紋様を、彼はいつのまにか目で追っていた。整然と、隙間なく、規則正しく連なる線。一つ、また一つと辿るうちに、頭の中のざわめきが静かになっていく。左腕の焼けた記憶も、神話の住人たちの重圧も、故郷を焼いた海の熱も。すべてが綺麗に、平らに、均されていく。ここには痛みが無い。迷いも恐れも。ただ正しく在ればいい。何も感じず、何も思わず、ただこの完璧な——

 

音が、来た。

 

北から。

 

遥か彼方、この森の静寂を、大地の底から突き上げるようにして、それは届いた。言葉ではない。だが確かに、誰かが何かを叫んでいる。人の喉から出たとは思えぬ、山そのものが吼えているような声。空気の無い場所に、無理やり空気を吹き込まれたようだった。

 

カイラスの頭の中に、亀裂が走る。

 

平らに均されかけていた何かが、その一点から音を立てて割れた。彼は大きく息を吸い込み——自分がしばらく呼吸を忘れていたことに、そこで初めて気づいた。心臓が、思い出したように暴れ出す。

 

「——ッ、は」

 

「カイラス殿」

 

肩を掴まれた。アルセリウスの手だった。老魔術師の指には、思いがけないほどの力が籠もっている。

 

「見つめては、なりません」その声が鋭い。「あれは見る者の内側から、揺らぎを奪っていく。……人を人たらしめているものをです」

 

カイラスは、知らぬ間に鞍から身を乗り出していた。馬の首の向こう、オベリスクの方へと、動くほうの手を伸ばしかけていた。その手を、彼はゆっくりと引き戻す。震えている。恐れている。——その恐れが今はただ、生きている証のようにありがたかった。

 

アルセリウスの手が、肩から離れた。

 

離れる間際に、一度だけ力が緩む。老魔術師は、引き戻されていく手のほうを見ていた。震えが止まらないまま、その指が拳の形を作る。作れたことを、当人が確かめている。

 

見ていたが、何も言わなかった。言うべき言葉を、この人は持っていなかったのだろう。

 

「今の声は……」カイラスは、掠れた声で北の空を仰いだ。

 

森の梢の向こう。遠く霞んだ北の地平は、何も答えない。声はもう止んでいた。あれは何だったのか。誰が、何のために叫んだのか。ただ、鼓膜のずっと奥に、まだ微かな震えが残っている。

 

アルセリウスは答えなかった。

 

老魔術師もまた、北を見ていた。皺の刻まれた顔に浮かんでいたのは、驚きとも、安堵とも、どちらともつかぬ色。彼は白い髭を撫でるように顎へ手をやり、何かを胸の内で数え直すように、しばし黙っていた。

 

「アルセリウス殿?」

 

「……いえ」

 

老魔術師は目を伏せ、それきり何も言わなかった。ただ、変わり果てた森を見渡して、低く呟く。

 

「思ったより、時が無いかもしれませんな」

 

その声には、この老魔術師が滅多に見せない焦りの色が滲んでいた。

 

カイラスには、何のことだかわからなかった。北から届いた声の意味も、老人が何を数えていたのかも。ただ、割れた頭の内側で、心臓だけがうるさく鳴り続けていた。

 

                 ◇

 

同じ空の下、遥か西。帝国の心臓、帝都。

 

白金の塔は、いつもと変わらず天へ聳えていた。日の光を弾く白い壁。タムリエルの中心にして世界の背骨。地上を行き交う人々は誰一人、その足元の深くで何が起きているかを知らない。

 

塔の、地下。

 

日の光の一切届かぬ根源の闇に、いくつもの松明の焔が揺らめいていた。ハイエルフたち。サルモールの精鋭魔術師が、静かに円を描いて立っている。その中心に一人。

 

オンカノは塔の根に手をかざしていた。

 

タムリエルの大地の骨が最も深く束ねられた、その一点。彼と配下の術者たちは、黒く光る杭を一本、また一本と打ち込んでいく。杭が根に触れるたび床を伝って微かな震えが走り、闇の奥で何かが軋む。塔の力そのものを、あるべき流れから別の何かへとねじ曲げるために。

 

音は立てなかった。まだその時ではない。地上の英雄どもが東と北西の脅威に気を取られ、世界の境が崩れゆく、この好機。

 

オンカノは打ち込まれていく杭を見下ろし、薄く笑った。

 

彼の儀式は、まだ誰の目にも留まっていない。

 

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