The Elder Scrolls : Dawn of Order 作:蛾の司祭
演説を、聞いていなかった。
帝都の北外縁。ブラヴィル、シェイディンハル、スキングラード——各地の旗が、力なく風にはためいている。旗の下に集められた兵の数だけは、多かった。だが、それだけだ。陣のどこを見渡しても、士気と呼べるものはどこにも見当たらない。
「……はぁ」
誰かがため息をついた。咎める者もいない。無理もなかった。
若い帝国兵は、支給された剣の刃を指の腹でなぞってみた。切れない。研いだところで、もとの鉄が粗末なのだ。鎧は継ぎ接ぎで、肩の留め具は今にも外れそうに軋む。背の弓は弦が擦り切れかけている。盾は薄く、まともな一撃を受ければきっと真ん中から割れるだろう。こんな装備で戦えと言われて、いったい誰が希望を持てるというのか。
足元も、ひどいものだった。支給された革の沓は、右のつま先がぱっくりと口を開けている。歩くたび、そこから小石と泥が入り込む。若い兵は列が止まるたびに、癖のように沓の縫い目を指でいじった。糸で縫い直そうにも、まともな糸の一本も配られない。故郷を出るとき母が持たせてくれた蝋引きの麻紐を、彼はまだ懐に忍ばせていた。こんなもので沓が直るとは思えない。
朝の炊き出しは、湯に穀物を溶いただけの、薄い粥だった。匙で掬うと、椀の底が透けて見える。塩の一つまみも惜しむらしい。それを啜りながら、若い兵は隣の男を横目に見た。
古参の兵だった。歳の頃はわからない。頬に古い刀傷があり、口数は少ない。若い兵が入隊してからずっと、なぜかこの男の隊に組まれている。ベテランは椀を傾け、粥を最後の一滴まで飲み干すと、何も言わずに椀の底を舌で舐めた。無駄にしない。そういう男だった。
「あの」若い兵は、つい口を開いていた。「これ、本当にやるんですかね。戦」
ベテランは、しばらく答えなかった。椀を腰の袋にしまい、擦り切れた弓の弦を親指で弾いて、鈍い音を確かめる。
「さあな」
それだけだった。
前方で、将軍らしき男が何か叫んでいた。演説だろう。腕を振り上げ、声を張っている。だが風に千切れて、ほとんど届かない。届いたところで、この末端の列にまで熱は伝わらない。かろうじて聞き取れたのは、地名だけだった。
ブルーマ。コロール。その二つを繋ぐ街道。ファルクリースの南東にある、山の低い切れ目。
そこで食い止める、という言葉も、風の切れ目に一度だけ挟まった。
若い兵は、そのどれも見たことがない。
数日前、ブルーマとコロールの民には退去の令が出たと聞いた。年寄りと子供から順に、帝都へ、あるいはさらに西へ。おかげで戦場となるあたりの村々は、もぬけの殻になっているはずだ。守るべき民のいない土地を守る。それが戦というものかと、若い兵はぼんやり思った。
この士気で。
若い兵は胸の内で自嘲した。お笑い草だ。
昨夜、二つ隣の隊から三人が消えたという噂も聞いた。夜の闇に紛れて、装備を捨てて逃げたらしい。捕まれば脱走で吊るされる。それでも逃げた。捕まって吊るされるのと、ここに残って未知の蛮族に殺されるのと、どちらがましか。そう天秤にかけた者が、この陣には他にもいる。
周りには、いろいろな顔があった。ハイロックから来たというブレトンの魔道兵の一団。褒賞目当てらしいレッドガードの傭兵団——こちらは末端の帝国兵よりよほど腕が立ちそうで、目つきも据わっている。彼らは彼らで固まり、帝国の正規兵を、金にもならぬ雑兵とでも見るように、一瞥もくれない。人種はばらばらだ。インペリアルにノルド、シロディールに根を下ろしたレッドガード、それにカジートの姿もちらほら。エルフは少ない。ダンマーやボズマーが、遠慮がちに混じっている程度だ。
敵は、海の向こうから来たという。アカヴィル。
若い兵は、その名を子供の頃の寝物語でしか聞いたことがなかった。虎の顔をした人。蛇の姿をした人。竜になった王。——そんなもの、本当にいるものか。どこか現実味が湧かない。今、自分が武具を担いで立っているこの状況ですら、まだどこか他人事のようだった。
「……あの」若い兵は、もう一度ベテランに声をかけた。「アカヴィリの兵ってのを、見たことは、ありますか」
「ない」ベテランは前を向いたまま言う。「見たことのある奴は、みんな西へは戻れなかった。そう聞いた」
若い兵は、口を噤んだ。
移動が、始まった。
列が緩慢に動き出す。若い兵は流されるように足を踏み出した。前の男の背を追って、ただ歩く。口の開いた沓に、また小石が入り込む。
ふと、彼は西の方へ目をやった。
理由は、無かった。敵が来るのは北だ。誰もがそちらへ向いて身構えている。それなのに、なぜか、西の丘陵のあたりから、背筋を撫でるような冷たいものが這い上がってきた。低くうねる丘の連なりの、その向こう。何が在るわけでもない。ただの、なだらかな地平だ。だが、見ていると、喉の奥が乾くような、妙な寒気がした。
戦を前にした、ただの臆病風か。それとも——
答えは、出なかった。彼は小さく身震いして、西から目を逸らした。
——こんな時でも、戦神の名すら呼べない。
ふと、そんな思いが胸をよぎった。窮地に立てば、人は神の名を呼ぶものだと聞く。だが、この国の民には、呼ぶべき神の名が、とうの昔に禁じられている。サルモールに、そのひと言まで奪われてしまった。牙を抜かれたとは、こういうことか。
若い兵は、力なく笑った。自分でも、なぜ笑ったのかわからなかった。隣で、ベテランがちらとこちらを見た気がしたが、何も言わなかった。
そうして、憂鬱な足取りのまま、彼は列の一部となって、目的地へと消えていく。
その名を、彼はまだ、口にすることを知らない。