夜が明けて、授業もいつも通り終わって。
今日の私はツルギ先輩との約束を控える身、その時が迫るにつれて、心臓がドキドキと脈打つ様な感覚を覚えていました。
しかし、それよりも顕著に様子が違った者が居ました。
コハルです。
隣の席のコハルはいつにも増して落ち着きが無く、授業中はチラチラとこちらを窺っては目を逸らす奇行が見て取れました。
顔色に至ってはいつもより赤く、まるで大きなスピーチの寸前なのではと伺えるほど。
いけませんねぇ、風邪でしょうか?
授業に集中出来ていないのは頂けない、まぁ、単元の理解が及ばない様であれば、遠慮なく手を貸しますが。
そんな彼女でしたが、授業が終わって放課後に突入するやいなや。
ガタリと立ち上がって私に詰め寄ります。
「ねぇルーシー…!えっと…今日、放課後、空いてる…?」
ずいと目の前に寄って、彼女の瞳が私を写して。
今日初めてコハルの顔をちゃんと見た、そんな取り留めの無い思いを他所に、肌の内側に押し寄せる熱の気配。
瞬間的に顔を逸らすと、コハルも同じように少し距離を離していました。
その顔は、すこぶる真っ赤っか。
彼女はまるで地面に向けて喋るかのように視線を落とし、話を続けます。
「こ、この前のカフェは散々だったし!ルーシーが良ければもう一度…行けたらいいなって…!」
「…申し訳ありません、今日はツルギ先輩との約束がありまして…またの機会にでも…」
「…えっ」
私の耳が受け取ったのは、息が漏れたかの様な落胆でした。
もう少し、言葉を選ぶべきだったのでは、考え無しの愚考に思わず後悔します。
「あ、う、うん…そっ、そっか…そうだよね、ルーシーだって、予定、あるよね」
「こ、コハル…?」
う、う、う。
目の前には口を噤んで目を翼で包むコハルの姿が。
うぅぅぅ、胸の痛みが、こんな表情をさせたい訳ではないというのに。
えっと、こういう時はどうすれば。
最早、私の対人経験の少なさに恨みすら感じる、と、兎に角言葉を掛けなければ。
その一心で口を開こうとした瞬間、彼女は一転、にこりと笑って告げました。
「…大丈夫よ!きっと大事な約束でしょ?早く行ったほうがいいわ!」
「え、ええと…」
「大丈夫だって!」
声を掛けるべきか、掛けずとも良いか、思案の内に私はコハルに背を押され、廊下の外へ押し出されます。
予定の時間も少しずつ迫っている、コハルの押す勢いのまま私は小走りで駆け出し、せめてもの別れの挨拶を紡ぎます。
「す、すみませんコハル、明日にでもいきましょう、必ず!」
「うん!」
元気な応答、やはり、問題は無いと考えていいのでしょうか。
私は一抹の不安と心配を抱えながらも、その場を後にします。
「…せっかく、良い所考えてたのになぁ…」
小さな小さな呟きは、ついぞ私の耳に届くことはありませんでした。
◆◆
「ええと…ここを曲がって…」
ツルギ先輩に送ってもらった電子地図と目印を探して、私は人通りの多いトリニティスクエアを歩き回ります。
水分補給は欠かしていませんが、頻繁に口元が乾く、はっきりと分かるほどに緊張しています。
周囲の好奇の視線がそれを助長して、心臓が鳴り止みません。
落ち合う場所は大きな噴水の元。
さて、そろそろ着く筈ですが…
「…おや」
現実逃避するかの如く視線を右往左往させていると、先輩は分かりやすくそこにいました。
人混みに紛れて見つけられない、そんな事はありません。
彼女は仮にも正実委員長、私と同様、そこに居るだけで他の視線を集めます。
周囲の生徒が私以外に注目している場所に目を向ければ、簡単に見つけられました。
「先輩!」
「…!」
先輩は先日に見かけたままの、正実の制服。
うむ、素晴らしいお姿です、濡れ羽色の黒髪が実に制服とマッチしている。
しかしなんだか、違和感が…
「すみません、少々待ちましたか?」
「き、き、来たか、だい、大丈夫、だ」
ガタガタガタ、ブルブルブル、瞳孔も身体も震えている先輩がぎこちなく手を振ります。
まるで関節の錆び付いたロボット、明らかに様子がおかしいような…い、いや、いつもこんな感じだった様な…
…っは、なんて失礼なことを考えていたのでしょうか。
私は先輩の顔を軽く覗き込み、様子を伺います。
「…体調は如何でしょうか?」
「ヒャッ」
神速。
ツルギ先輩は飛び退く様に後退、翻ってスマホを取り出し、慌ただしい手付きで画面に齧り付きます。
「…」
「…!…!…!」
…しくしく、あなかなし。
喧騒の中、ポチポチと猛烈なタップ音が響く奇妙な空間、先輩にこうも素っ気のない反応を取られると、男として傷付くような、悲しいような…
い、いえ、拒絶されている訳では無いとは分かっているのですが…
瞬間、ツルギ先輩の背がまっすぐ伸び、同時に破裂音が響き渡ります。
その様はまるで拳銃の発砲音、何があったというのか、周囲には一瞬だけ静寂が訪れます。
惚ける私をそのままに、ぐるんと先輩が私に向き直ると、震えて上擦った声を私に掛けました。
「よ、よ、よし、行くぞルシル、制服屋の場所は、分かる」
「…え、ええ…行きましょうか…」
ほ、本当に大丈夫でしょうか…?
先輩の両頬、真っ赤な手形が貼り付いていますが…
頻繁にスマホを覗き見る彼女に、私は一抹の不安を感じずにはいられませんでした。
…それでも、不思議と、充足感が胸を占めているのを感じます。
こうやって固い会話でも、私は彼女と話せている。
初対面ではこの様な約束を交わすなど、恐れ多くて考えられませんでした。
嗚呼、燦然と煌びやかな未来の道筋が、はっきりと見える。
きっと私は、先輩と、ツルギ先輩と笑い合って話せる様になる。
彼女が信頼した私が、その隣に、確かにそこにいる。
一点の疑いもない確信、それだけは確かでした。
◆◆
『どうしたらいい、くちがまわらない』
スマホからバイブレーション。
物影に潜む少女は頭を抱えながら、その返答に思考を巡らせた。
傍の男子生徒にはバレないように、隠密を心掛けながら、だ。
…しかし悲しい事に、彼女のその長身もあって、周囲からそれなりの注目をされてしまっているが、それはご愛顧だ。
要は、沙汰ルシルにバレなければいいのだから。
彼女は羽川ハスミ。
今回のデートを見守るツルギ専属サポーターである。
『まずは落ち着いて下さい、落ち着いたら出発して、世間話でもしましょう』
『わかった』
事の発端は本日のツルギの様子である。
そわそわ、ぶるぶる、がくがく、歩けば電柱にぶつかるし、立ち止まれば、突然奇声を発して壁をぶち破る。
ツルギとは付き合いの長いハスミだが、いつにも増して酷い彼女の様子に、力を貸さざるを得なかった。
幸い、理由は明白だ。
ハスミが嗾けたルシルとのデートである。
口下手、あがり症のツルギに、本来踏ませるべきだろう段階を全て吹っ飛ばしてデートの約束を取り付けたのだから、ハスミにも多少の責任感と言うものはある。
良いだろう、全力でサポートして差し上げようではないかと。
シスターフッドに倣い、恋愛の神に誓ったのがこの羽川ハスミである。
『いいですかツルギ、もし頭が真っ白になったらスマホのメッセージを見て下さい、私がアドバイスしますから』
『…!…助かる…!!ハスミ…!!』
デート直前の作戦会議、ぶんぶんと首を振るツルギは記憶に新しい。
光明を見たと言わんばかりに目が輝いていた。
まぁ、本番はお世辞にも順調とは言えない滑り出しだったが。
それでもルシルを空の彼方に吹っ飛ばさなかっただけ及第点だ。
「きょ、きょう、今日は良い天気だな」
「えぇ、本当ですね、制服屋までは少し遠いですか?」
「い、いや、ここから、すぐだ、すぐに着く」
(その調子ですよ…!!)
快挙だ、あのツルギが会話を弾ませている。
ハスミは子供の成長を感じ取る親の様な心境に至っていた。
正実の活動中は謹厳実直かつ、指示も明快、それが私生活や人付き合いとなるとグズグズに崩れる、それがツルギという生き物だ。
彼女が正実の制服を着用している事も大きいだろう、対外的に、このデートは下級生への研修としてツルギの時間を取っている。
つまり、一種の仕事であるという意識が、ルシルとの会話を可能にしているのだ。
「先輩の服装も、そこで買ったので?」
「あ、ああ、正実の制服は、そこで仕入れている」
「フフフ、成程、御用達というわけです」
「あそこはセンスが、いい、ルシルも気にいる筈だ」
「えぇ、美しい先輩にピッタリな制服ですものね」
会話は少しずつ滑らかに回り出し、伴って両者の肩の力が抜けていく。
そんな中、ただの世辞とも取れる褒め言葉が彼の口から飛び出し、加えて彼女の顔を見て軽く微笑んだ。
僅かに接近する彼らの鼻先、交錯する視線、遂に表情が固まるツルギ。
———あ、まずい。
(———間に合え!!)
異性に褒められる、それがツルギにとって、どこまでの劇薬だろうか。
分かりきっている、ツルギの思考が固まっている今しかチャンスは無い。
ハスミは芸術的な手捌きでツルギの携帯へ電話を掛け、そのバイブレーションをもって彼女を現実に引き戻す。
これがダメなら、ルシルがぶっ飛ばされるか、ツルギがぶっ倒れるかのどちらかである。
「…ハッ」
「…おや、どうしましたか?」
(っしゃあ!)
危機一髪、彼女の意識が現実にカムバック。
限界まで溜まっていたツルギのテンションゲージも幾分か下降し、ハスミも小さくガッツポーズ。
———その油断が命取りだった。
「だ、だいじょう———うっ!?」
緊張からの緩和、いかにツルギと言えども、この心拍数の乱高下には対応出来ず、足がもつれて絡まる。
転倒は不可避、一体誰が止められるというのか。
「…おっと」
側にいる、沙汰ルシル以外に誰も居ない。
「お気を付けを」
軽く肩を支えただけの、ごく僅かな接触。
果たしてツルギが感じたのは彼女と比べて固い手の感触か、手のひら一つ分を隔てた先にいる彼の視線か、一切のノイズを超えて届いた言葉か。
ツルギの視界は彼以外全てが白く染まり、そしてこの時初めて、『彼に触れた』という実感を得た。
「…終わった」
物陰で空を仰ぎ見るのは羽川ハスミ。
側から見れば些細なボディタッチ、彼女から見れば数秒後に爆発する爆弾でしかない。
後に残る惨状と結末を頭に思い描いて、彼女は静かに目を閉じて、心中でツルギへ謝罪をした。
———ごめんなさいツルギ、この後デザートでも食べに行きましょう。
だが、瞼という境の外は、何秒経ってもいつも通りの喧騒と賑わい具合。
予想ではそろそろツルギの絶叫が響き渡る筈…
恐る恐る目を開くと、そこには———-
「…ひゃおお、お」
「…先輩?」
なんと、白い肌が茹で上がって機関車の様に煙を吹き出すツルギの姿が。
彼女は羞恥で暴走するどころか、振り切ってオーバーヒート、一周回って大人しくなっていたのだ。
「…た、助かった…!」
ハスミは緊張から脱し、肩の力を抜いてまた天を仰ぎ見る。
ルシルは困惑しているが、それでいい。
今は下手に刺激せずに、そっとしておくのが得策だ。
こうなったツルギを見るのはハスミも初めて、次の瞬間にはどうなるかも分からない。
改めて彼ら二人の様子を覗き見る。
すると…バサバサ。
バサバサバサ、固まっている二人の他に、視界の端で頭部の翼を忙しなく駆動させる生徒が一人。
桃色の髪に、黒い翼、ハスミと同じ様に物陰から隠れてルシルとツルギを盗み見ている様子。
しかし、挙動不審、潜伏の練度がお粗末。
ハスミの様な長年の経験を積んだ猛者ならいざ知らず、これでは見つけて下さいと言っている様なものだ。
潜伏で肝要な要素は、背景に溶け込む自然さである事は言うまでもない。
あの少女の様に動揺を翼に表していては、まだまだ未熟、体格から見積もっても入学したての生徒だろうと、彼女はアタリを付けた。
「だめ…っ…どうしよう…ルーシー…」
「こんにちわ」
「ひゃあ!?」
彼女ならば、気取られぬ内に背後に回ることも容易。
ポンと肩に手を置くと、猫の様に全身を震わせて彼女は、下江コハルは振り返った。
「初めまし…ん…?貴女は…確か…コハル…そう、確か下江コハルといいましたね?何をしているんです?」
「はっ、ハスミ先輩…!いやっ、これは、ちがくって…!!」
ハスミの肩書きは曲がりなりにも正義実現委員会副委員長、今年入部して来た新入生の名前と顔はざっと頭に入っている。
彼女はルシルと同クラスの生徒の筈、はて、ルシルとの友人だろうか、それとも———
「…ふむ」
「あわっ…わわわ」
チクタク、チクタク。
脳中枢の優秀な演算回路が解答を計算する。
小さく縮こまって、頭の右翼で顔を隠そうとしながらも、恐る恐るとこちらを覗き見る、小動物の様な後輩。
こちらから伺えるのは羞恥と罪悪感と、混乱。
「…可愛いですね」
「…えっ?」
ピーン、算出結果、とても愛くるしい。
何一つとして合理的ではないが、こんな可愛い子が何か悪事を企んでいるわけでもあるまい。
ハスミは思考を停止させ、コハルを胸に抱き上げた。
「貴女がここにいる理由は聞かないでおきましょう、私は今日は非番なのです、少しお話でもしながら…あれ?」
「わっ…!?わぁっ…!?」
足がぷらぷら、浮遊感。
そして頭上に感じる圧倒的な質量に戸惑いを見せるコハル。
仮に何かを企んでいたとしても、こうして手元に置いておけば御し易い。
そう、楽観的に考えていたハスミだった。
しかし、いざツルギらに視線を戻しても、そこには目立つ帽子を被った長身の男子生徒も、真っ黒な正実委員長も居ない。
どこを見渡しても見つからない、ハスミは他生徒よりも頭ひとつ分大きい筈だが、それでも居ない。
「し、しまった…」
「お、おろしてぇ…」
そこには、コハルに夢中になるが余り、二人を見失うハスミと、無防備に垂れ下がるコハル、そして、ひっきりなしに通知が鳴り響く手元のスマホだけがあった。
ユウカもコハルを見たらお持ち帰りしたくなる筈。