「や、やっと…追いつき、ました…ツルギ、先輩…」
決して少なくない人混みの中で、一際大きな存在が肩で息をしている。
彼、ルシルは弾かれた様に走り出したツルギを追いかけて来たのだ。
一方、当の本人はスマホを手に立ち尽くしていた。
明らかに動揺した様子で、白磁の肌がより一層白く、もはや青くさえ見える。
「ハ、ハスミ…そ、そんな…」
手元のスマホに映るメッセージは、こちらは短く大量の乱文。
あちらは、ただの一文。
『申し訳ありませんツルギ、貴方達を見失いました、なんとか場を繋いでください』
絶望、ハスミの静観を振り切ったのは、あの場を走り去ったツルギ自身なのだが、それでも後悔先に立たず。
目の前には息を整えるルシルが居る、また逃げてしまっては彼に不誠実だと、兎に角、ちゃんとコミュニケーションを取るのだと、ツルギは心に刻み込んだ。
「…す、まない、ちょっと、走りたく、なっただけだ」
「は、ははぁ、成程」
ゆっくりゆっくり、言葉を選ぶツルギ。
合理性なんて考える暇はなかった。
ルシルとしては、折角こうして二人で出掛ける機会を頂いたのだから、少しでも楽しい時間にしたい、という思いで一杯だった。
慣れない褒め言葉も、少し気恥ずかしささえ感じていたが、先輩の気分が良くなるならと、言葉を惜しまなかった。
その様はまるで、初めて社交界に招待された子供のようだ。
いや、実際の所、彼の対人経験はその比喩と大差ないのだが。
「…先輩は」
「な、なんだ」
「休日などは、どのようにお過ごしなのでしょうか?」
「きゅ、休日…?」
「ええ、普段はお忙しいでしょうから、趣味のお時間など取れているのかと」
言葉を紡ぐ、お互いを知れば、彼女だって、私だって緊張は無くなる筈。
根拠のない自信…とは言い切れない、ツルギがルシルを見て来た様に、彼も彼女を見て来た。
確信があった。
「しゅ、趣味…趣味か…」
「…?」
「ほ、本…本を、読む」
「おや…!」
ルシルの顔が、少し明るくなる。
「…奇遇です、私も本は読むのですよ」
「そ、そうなのか?」
「えぇ!幼い頃はそればかりでしたねぇ…フフフ、文字から広がる世界というのは、いつも私に憧れを与えてくれます」
「…!」
ツルギの目が、僅かに見開かれて、ルシルを見上げる。
彼の顔は晴れやかだった、つられて、彼女の顔も柔らかくなる気がした。
二人は合図もなく、自然に歩き出す。
何かを話さないといけない、場を繋がないといけない、そんな考えは、最早両者の頭の中には無かった。
「フフ、例えば英雄物語、『オデュッセイア』…あれは素晴らしい、どうしたって主人公に憧れてしまう、特にお気に入りの一節がありましてね」
「…ああ」
「その一連の文こそ、『オリーブの木は変わらずそこにある、ならば———」
「…我らの愛も、そこにあり』、か?」
彼は、大きく、目を見開いた。
重なられたツルギの言葉は一字一句、彼の言わんとした言葉と一致し、ツルギ自身も、自分が漏らした言葉に驚いていた。
古代の英雄と、その妻との再会を描いたラブロマンス。
二人の視線が、深く交錯して。
貴方は、貴女も。
知っているのか。
「フ、フフフフ…トリスタンと?」
「…イゾルデ」
「オルフェウスと?」
「エウリュディケ…!」
「ランスロットは!?」
「グィネヴィア!」
「っフフフ…!」
「っはは…!」
片割れを挙げれば、もう一方の名前が挙がる、打てば響く会話。
両者から、込み上げる様な笑みが漏れる。
初めての事だった、読書という趣味が、こんな所で噛み合うだなんて。
彼はツルギの横顔をちらと見る。
彼女は控えめにでも、笑っていた。
戦闘の最中に見せる、頬を裂く様な鬼面では無い。
見たことのない表情だった。
形容のしようもない、ルシルにとっては大輪の花に等しい笑顔だった。
「フフフフ、好きなジャンルなどはありますか?」
「…!………れ…」
彼女はたっぷり溜めて、顔を逸らして一言。
「恋愛…だ…」
「成程、先程の物語もラブロマンスですからね…もしよろしければ、今度おすすめの本を教えていただけませんか?」
「…あ、ああ…!」
「フフフ、楽しみがまた一つ増えましたね」
ルシルの柔らかな微笑。
ツルギの心臓が跳ね上がり、暫くの間言葉を失ってしまう。
身体中に熱い血が駆け巡るが、共通の趣味を見つけた歓喜が、彼女の爆発の勢いを掻き消した。
絶えず心臓が脈打っている、だから、羞恥もそれに紛れて薄まったのかも知れない。
熱に浮かされているのだろう、だが、それが心地よかった。
「…着いた、ぞ」
「おや、こちらですか」
目の前には、瀟洒な造りの洋装店。
黒塗りの木枠に嵌め込まれた大きな硝子窓。その内側には、意匠を凝らした見本や制服が整然と並べられている。
ルシルは思わず足を止め、外装、扉、内装へと視線を滑らせた。
「…ふむ、素晴らしい」
自然と、感嘆の声が漏れる。
それを聞いたツルギの口角が、僅かに吊り上がる。
「…気に、入ったか?」
「ええ、とても!」
◆◆
「おや、委員長殿、ご無沙汰しております」
店内に足を踏み入れると、整ったスーツを着こなす犬獣人の店員が二人を迎え、ツルギの顔を見るなり丁寧に頭を下げた。
どうやら、彼女はこの店の勝手は知っているらしい。
慣れた様子でツルギは口を開く。
「あぁ、いつも感謝している、今日は大量発注の件ではない」
「と、言いますと?」
「この後輩に合う制服を探している」
ツルギの誘導のままに、店員の視線が、ルシルの頭から爪先までをゆっくりと移動する。
最後に大きく見上げて、少しばかりの感嘆を漏らした。
「ほほぉ、随分と立派な体格をしていらっしゃいますね」
「お褒めに預かり光栄です」
「オーダーメイドで作成した方が早そうですな、では早速採寸を始めましょうか、委員長殿もついてこられますか?」
「あ、ああ」
ルシルが案内されたのは、店の奥に設けられた試着室。
鏡が三方に取り付けられ、傍には様々な寸法の上着やスカートが並んでいる。
ルシルは促されるままに上着を脱ぎ、店員の指示に従って両腕を広げた。
「…ふむう」
「どうかなさいましたか?」
「いえ、肩幅と胸囲が…少々、珍しい寸法ですので」
店員が測定器具を見つめる。
ルシルは申し訳なさそうに眉を下げた。
「お手数をお掛けします」
「とんでもありません。仕立て甲斐がございますよ、腕が鳴ります」
少しだけ、褒められているような感覚にむず痒い感覚を覚えるルシル。
彼にとって、体格を褒められたことはあまりない、見上げられ、恐れられるか好奇の目を向けられるかのどちらかだ。
…いや、褒められたこと自体は何度もあった。
ただ、それはそれは
「では、次に襟元を確認いたしますので……お帽子も一度お預かりしてよろしいでしょうか?」
「………む」
ぴたり。
ルシルの動きが止まった。
その一言に、彼の背筋をうすら冷たいものが駆け抜ける。
無意識のうちに、右手が頭上へと伸びた。
黒いソフトフェルトハット。
彼にとって、それは単なる装飾品ではない。
頭部から伸びる、漆黒の角。
自身がトリニティの生徒たちとは異なる存在であることを、何より雄弁に物語るもの。
そして、その事実を隠してくれる、たった一枚の薄い防壁。
「あ、ええと……」
今になって、自分が異物であるという自覚が襲い来る。
足下が瓦解しそうな感覚に、ルシルは口を開くことが出来なかった。
店員は悪くない。
仕事をしているだけだ。
それは分かっている。
だからこそ、断る理由もなかった。
「…すまない」
その時だった。
傍らから、低い声が響いた。
「…彼は、帽子を取るのが嫌なんだ」
「…え?」
「襟の寸法だけなら、他の方法でも測れるだろう」
ツルギだった。
先程までのぎこちなさは何処へやら。
震えも何もない、威風堂々とした声。
「無理に取らせる必要はない」
「あっ、失礼いたしました。もちろん、そのままで結構ですよ」
店員はすぐに頭を下げ、手元の器具を持ち替えた。
何事もなかったかのように、採寸が再開される。
ルシルはしばらく、されるがままで口を開くことができなかった。
ただ、なぜ、どうしてという疑問ばかりが頭を占めていた。
彼女は勿論、角の存在を知らない。
彼が何故帽子を脱ぎたがらないのか、その理由すら分からないはずだ。
それなのに。
「…先輩」
「ん?」
「…ありがとう、ございます」
「…大したことじゃない」
それだけ言って、ツルギは視線を逸らした。
ルシルは、その横顔をじっと見つめる。
恐ろしく強く、時には奇声を上げて暴れ回り、近寄り難いと思われがちな委員長。
実際はそうではないと、何度もその目で見てきていた、助けられた事だってある。
嗚呼、しみじみと伝わる、彼女はこんなにも、優しいのだと。
「…フフ」
「…な、なんだ?」
「いえ…何でもありません」
今度はルシルが、何でもないと答える番だった。
しかし、胸奥で湧き上がる感情があった。
「ああ、一つだけ、宜しいですか?」
「…?」
「ルーシーと、呼んで頂けますか?」
「…ああ、分かった」
もっと彼女と仲良くしたい、そんな純情。
採寸の傍らで繰り広げられる青春に、店員は終始笑みを絶やさなかった。
◆◆
「では、こちらを一度お試しください」
採寸を終えてしばらく。
店員が用意したのは、正義実現委員会の制服を男性用に改造した上着とスラックスである。
既製品のツギハギでもあるため、寸法は完全には合わない。
しかし、完成時の姿を確かめるには十分だという。
ルシルはそれを受け取り、試着室へと入った。
衣擦れの音。
ボタンを留める、僅かな金属音。
そして。
「…フ、フフ」
鏡に映る自身の姿を見て、彼は思わず声を漏らした。
黒を基調とした、精悍な制服。
整えられた襟元。
引き締まった胴回り。
肩から袖へと流れる、直線的な意匠。
赤の差し色が映え、着用する帽子を合わせれば、まるでかっちりとした軍服だ。
未だあどけなき頃、初めて正義実現委員会の活動を目の当たりにした、あの日から。
憧れたその姿形、その象徴。
いつか、自分もあの人たちと同じ場所に。
その願いが、今、鏡の向こう側で形になっている。
「……」
襟元へと手を添える。
帽子の角度を整える。
鏡の中の青年も、同じ動きをした。
決めポーズでも取ろうと考えた彼だが、そんな振る舞いは正実に似合わないだろうかと考えて、軽く背筋を伸ばすに留めた。
彼の腕には、まだ正式な腕章はない。
寸法も、細かな装飾も、完成品とは異なるのだろう。
それでも。
その姿は紛れもなく、彼の憧れ続けた正義実現委員会のものだった。
「…先輩」
試着室の幕が、静かに開かれる。
「如何でしょうか?」
店内に立っていたツルギが振り返った。
「…」
ぱちくり、猫のように縮こまった瞳がルシルを見据える。
沈黙。
ゆっくりと視線が、彼の顔から肩、胸元、そして足元へと下がっていく。
再び顔へ。
もう一度、胸元へ。
噤んだ口が開かれて、遠慮がちにまた閉ざされる。
言葉を探した果てに、彼女は顔を逸らして、その言葉を吐き出した。
「…に」
「…に?」
「…にあ、似合って、いる」
小さな声。
しかし、本心。
確かな賞賛を受けて、彼の心は舞い踊った。
「…本当ですか?」
「…あ、ああ」
「…!」
思わずツルギの元へ駆け寄って、その手を取って笑顔を見せた。
「フフフ!歓喜の極みです!」
「はひゃッ、わっ、わか、わかったから…!」
「はっ、す、すみません…嬉しくて抑えられず…」
熱、ツルギの顔がカッと熱くなる感覚。
彼女は咄嗟に、彼から首だけでも距離を置こうとしたが、失敗。
身をよじっただけに留まる。
彼がすぐに距離を置いたために助かったが、もしあれ以上続いていたら何をしていたのか分からない。
一方の彼は、湧き出す幸福をただ噛みしめていた。
コハルと友になった時も、入部を認められた時も、嬉しかった。
けれども今は、それとはまた、圧倒的に違う。
憧れの先輩が認めてくれている承認、それによって満たされる心の内。
これ以上の幸福があるだろうかと考えてしまうほどだ。
「………これで」
彼は、もう一度鏡を振り返って、自分の姿を見据えた。
「これで、私も皆様と同じ、正義実現委員会の一員なのですね」
ぽつりと。
まるで自分自身に言い聞かせるように。
その言葉を聞いたツルギが、僅かに首を傾げた。
「…違う」
「…え?」
思いもよらぬ一言に、彼の心境が凍り付く。
しかし、それはすぐにひっくり返る事となる。
「お前は既に正実の一員だ」
「………」
「それは、変わらない事実の筈だ、制服なんて、後から付いてくるものだ」
ツルギはそこで一度言葉を切った。
そして、いつもよりも幾分か柔らかな声で続ける。
「…ルシ…ル、ルーシーが自分に自信が持てないなら、何度も言ってやろう」
口慣れない彼の愛称に口籠もりつつ、彼女は続ける。
「お前は、あの日から、最初から仲間だ」
ルシルは。
その瞬間、何も言えなくなった。
求めていた物が、求めていた以上に押し寄せて。
ずっと感じていた疎外感の檻から、引っ張り出されたような気がして。
初めて、日の光を浴びたかの如き暖かさを感じて。
箱庭の中で、ただただ熱望した眼差し。
信頼の、承認の、ただ、彼がそこに居てもいいと無条件に認める眼差しに、魂が歓喜する。
「…っはい…はい…!」
喉の奥が、熱かった。
心の奥底で激情が燃え滾って、それに対して情けないと自分を叱咤する。
これでは、まるで子供ではないか。
彼はそれを誤魔化すように微笑んだ。
「…はい、先輩…!」
彼女もぎこちない笑顔を返す。
それが、ただ眩しかった。
犬獣人(春とは、良い季節ですねぇ)