長い人生だった。
ルーデウス・グレイラットは、静寂に包まれた意識の底で、ただそれだけを確かに感じていた。
目の前には、守り抜いてきた日々のすべてがある。家族の温もり、共に戦った仲間たちの記憶、そして自らの手で繋いだ未来の形。
何も持たず、何者にもなれないと信じていた過去の自分からは、想像もできない結末だった。
魔術を学び、剣を振るい、出会いと別れを重ね、その一つ一つが確かに今へと繋がっている。
後悔がないわけではない。救えなかった命も、届かなかった想いもある。
それでも、それらすべてを抱えたまま歩き切った人生だった。
「……俺の人生は、悪くなかったな」
その言葉は祈りでも誇りでもなく、ただ静かな実感として零れ落ちる。
満ち足りたというには足りない。だが、確かに終わりとして受け入れられるだけの重みがあった。
ルーデウス・グレイラットは、安らぎの中でゆっくりと目を閉じる。
その瞬間まで、彼の生きた時間は確かに世界に刻まれていた。
◆◇◆◇
「……また、この未来か」
ララ・グレイラットは何度目かも分からない光景を見下ろしていた。崩れた大地、音の消えた世界、そして終焉の中心に立つ白い影――ヒトガミ。
未来を見る力は祝福ではない。ただの呪いだ。避けられたはずの結末、救えたはずの命、救えなかった現実を何度も突きつけられる。
父が歩んだ道、母たちとの日々、仲間との約束。そのすべてが「最初から存在しなかった未来」を、ララは何度も見せられてきた。
原因は分かっている。
「ヒトガミ……」
あれは世界を支配しようとしているのではない。もっと静かに、もっと確実に、未来に生まれる“可能性”そのものを潰している。
そしてその中心にいる男。
「お父さん……」
ルーデウス・グレイラット。それは英雄の名ではない。救世主でもない。ただ一人の父の名前だ。不器用で情けなくて、それでも誰より必死に家族を守ろうとした人。
だから分かる。あの人ならきっと言う。「俺のことはいい。みんなが生きる未来を選べ」と。
だからこそ迷う。父を取り戻すことは本当に救いなのか。それは父の望みを踏みにじることではないのか。
それでも。
「……それでも、私はッ!!」
ララは手を伸ばす。震えながらも止めない。父が残したものを消したくなかった。記憶、経験、想い――誰かを救おうとした意志。それこそがルーデウス・グレイラットの証だ。
「お父さんがいない世界なんて……ッ!! 認められるわけがないだろうが!!」
術式が解放される。蘇生でも時間逆行でもない。ただ“受け継ぐ”ための術。
「……やはり、気付いていたか」
声が世界の裏側から響く。
「ヒトガミ……ッ!!」
「無駄だよ」
静かな嘲り。
「彼はもう終わった存在だ。世界は彼を必要としていない」
「ふざけるなッ!!」
ララの叫びが空間を震わせる。
「必要かどうかなんて関係ない!! 私がッ!! 私たちがッ!! あの人を必要としているんだ!!」
瞬間、二つの意思が激突する。未来を閉ざす力と、繋ぐ力。世界が軋み、悲鳴を上げる。
「……ッ、くっ……!!」
術式が歪む。本来一つに戻るはずの魂が崩れ、裂け、形を失っていく。
だが消えない。消させない。
魂ではなく、記憶として。経験として。意志として。
それは“誰か”へと刻まれていく。
「……これで、いい」
ララは歯を食いしばる。
「これでいいんだ……お父さん……」
そして世界は静かに書き換わった。誰も知らないまま、新たな未来が始まる。
◆◇◆◇
第一話 ――少女としての始まり
暗闇だった。何もない。音もなく、感覚もなく、ただ静かな場所。それが死というものなのだと、ルーデウス・グレイラットは理解していた。長い人生だった。前世では何もできなかった。何も成し遂げられず、何者にもなれないまま終わった人生。だが、この世界では違った。魔術を覚えた。大切な人と出会った。家族を作った。守りたいものができた。失敗もした。後悔もした。それでも、最後には自分の人生を悪くなかったと思えた。だから、もう十分だった。――そう思っていた。
「……?」
何かがおかしい。終わったはずなのに、なぜ意識がある?なぜ、温かい?
「……あぁ」
声が聞こえる。優しい声。どこかで聞いたことがある。いや、知っている。
「女の子……だったのね」
その言葉に、心が揺れる。女の子?誰のことだ。そう思った瞬間、自分の身体に違和感を覚える。身体が動かない。声が出ない。視界がぼやけている。そして気付く。小さい。あまりにも小さい。これは――。
「……赤ん坊?」
理解した瞬間、混乱する。あり得ない。自分は死んだはずだ。ルーデウス・グレイラットとして、家族に囲まれて人生を終えたはずだ。なのに、なぜ。
「ゼニス……」
名前が浮かんだ。目の前にいる女性。金色の髪。優しい笑顔。間違いない。ゼニス・グレイラット。自分の母親。だが同時に疑問が生まれる。母?なぜ自分がそう思う?なぜ、この人を知っている?
「パウロ」
次に聞こえた男性の声。その名前を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられた。パウロ・グレイラット。父。厳しくて、不器用で、それでも誰よりも家族を大切にした人。失った時、どうしようもないほど苦しんだ人。
記憶が流れ込む。魔術。剣。旅。仲間。家族。しかし、それは自分のものなのか。分からない。
「……俺は」
声にしようとして、出たのは小さな音だけだった。「あー……」
その瞬間、違和感に気付く。俺?違う。この身体は。この声は。
「ルディナ」
男性が優しく言った。「お前の名前だ」
ルディナ。それが、この子供に与えられた名前。ルーデウスではない。そう理解した。
でも、胸の奥には確かに残っている。ルーデウス・グレイラットという存在が。
「……私は」
言葉にはならない。ただ、心の中で問い続ける。私は誰なのか。ルーデウスなのか。それとも、ルディナなのか。
答えはまだ出ない。ただ一つだけ分かることがあった。この世界で、もう一度人生が始まった。今度は、ルーデウス・グレイラットとしてではなく、私…ルディナ・グレイラットとして。
◇◆◇◆
「……困った子だね」
白い世界。何もない空間で、ヒトガミは一人呟いた。目の前には無数の未来が広がっている。その中で彼が最も嫌う存在、ルーデウス・グレイラット。いや、正確には彼が残したもの。あの男は死んだ。それは確定した未来だった。長い人生を終え、家族に囲まれ、満足して消えていった。本来ならそれで終わりだった。
「人間は死ねば終わりなんだよ」
ヒトガミはそう考えていた。どれだけ大きな影響を残そうと、どれだけ多くの人間に慕われようと、魂が消えればすべては過去になる……そのはずだった。しかし。
「まさか、君がそこまでするとはね」
ヒトガミはララを見る。未来を見る力を持つ少女、ルーデウスの娘。彼女が行おうとしていることを理解した瞬間、ヒトガミは動いた。蘇生でも時間逆行でもない。彼女はもっと厄介なことをしようとしている。
「父親の存在を未来へ繋ぐ、か」
ヒトガミは小さく笑う。くだらない、そう思う。しかし同時に警戒もしていた。ルーデウスという存在は、そういう小さな感情から未来を変えてきた。
ならば、ここで潰す。
術式へ干渉する。魂が戻ることだけは防ぐ。
「残念だけど、もう君の父親は終わったんだ」
ヒトガミの力が術式へ入り込む。本来ならこれで終わるはずだった。ルーデウス・グレイラットは戻らない。未来に影響を与える存在も消える。そうなるはずだった。
しかし。
「……?」
一瞬、ほんの僅かな違和感。術式が完全には消えない。
「おかしいな」
ヒトガミは目を細める。何かが残っている。だがそれが何なのか分からない。魂ではない。ルーデウス本人でもない。ただ、何かが未来へ流れていく。
「……まあいいか」
ヒトガミは興味を失った。小さな欠片、残滓。そんなものが未来を変えられるはずがない。
「ルーデウス・グレイラットはいなくなった」
それだけ確認できれば十分だった。
彼は知らなかった。その小さな欠片が、いつか自分の未来を再び狂わせる存在になることを。
ルディナ・グレイラット。その名前を、まだこの神は知らない。
初めて書きます。