「ルディナ」
その声に、少女は小さく顔を上げた。
ゼニス・グレイラット。
優しく、少し過保護で、そしてどこか不安げな母の顔。
その腕の中にいるのが、今の自分だった。
温かい。
柔らかい。
揺れるたびに、世界がゆっくりと流れていく。
「今日は機嫌がいいわね」
そう言って微笑むゼニスに、ルディナは小さく瞬きを返す。
言葉はまだうまく出ない。
声も思うように形にならない。
だが、それでいい。
今の自分は“そういう存在”だ。
何もできない。
守られるだけの、小さな命。
それを理解しているのに、不思議と恐怖はなかった。
むしろ。
どこか安心している自分がいる。
「おい、ゼニス。そろそろ俺にも抱かせろ」
「もう少しだけよ。今いいところなんだから」
「いいところってなんだよ……」
呆れたような声。
パウロ・グレイラット。
父。
その姿を見るたびに、胸の奥がわずかに揺れる。
懐かしい。
だが、それだけではない。
前世の記憶がある。
ルーデウス・グレイラットとして生きた人生。
その中で、この男をどれほど後悔と共に思い返したか。
もっと話せばよかった。
もっと理解しようとすればよかった。
もっと早く、向き合うべきだった。
その思いは、今も消えていない。
「……」
ルディナはじっとパウロを見る。
パウロは少し気まずそうに視線を逸らした。
「なんだよ、その目は」
「ふふ、この子、あなたのこと見てるわよ」
「そりゃ俺の娘だからな」
「そういう意味じゃないと思うけど」
ゼニスがくすくすと笑う。
その何気ないやり取りが、妙に心地よかった。
変わっていない。
この家は。
この人たちは。
自分が知っている“グレイラット家”のままだ。
ただ一つ違うのは。
その中にいる自分が、もう“ルーデウス”ではないということだった。
それでも。
この光景を、もう一度見られたことが。
少しだけ、救いのように思えた。
────────
◇
日々は静かに過ぎていった。
泣くことを覚え。
笑うことを覚え。
歩くことを覚え。
言葉の断片を覚え。
世界が少しずつ広がっていく。
その中で、ルディナは気付いていた。
自分の中にある“もう一つの記憶”。
魔術の知識。
戦い方。
人の死。
後悔。
失敗。
救えなかった誰かの顔。
それらは確かに存在している。
だが、それは今の自分の人生とは少しずれている。
まるで。
遠い夢のように。
あるいは。
誰かの人生を、外から眺めているような感覚。
「……魔力」
ある日、ふと呟いた言葉に、自分でも驚いた。
まだ幼い身体。
喉も未発達で、言葉は不明瞭だったはずなのに。
それでも確かに“知っている”。
ルーデウスとして生きた記憶が、完全には消えていない。
いや。
消えていないどころか。
今の自分の中に“重なっている”。
二つの人生が、同じ場所に折り重なっているような感覚。
「どうしたの?」
ゼニスが覗き込む。
心配そうな顔。
その表情は、前世でも何度も見たものだった。
ルディナは小さく首を振った。
今の自分は、まだそれを説明できる年齢ではない。
だが一つだけ分かる。
この世界は、かつて自分が生きた世界と同じだ。
空気も。
魔力の流れも。
人の温度も。
そして。
自分はもう一度、この世界に立っている。
ただし。
“同じ場所に立っている別の存在”として。
────────
◇
「おい、ルディナ」
ある日、パウロが声をかけた。
剣を持っている。
まだ幼い子供に見せるには、あまりにも重く、鋭いもの。
「そろそろ体も動くようになってきただろ」
ルディナはじっと剣を見る。
その形。
その重さ。
知っている。
握り方も。
振り方も。
その先にある痛みも。
だが、同時に思う。
これは“前世の自分”が選んだ道だ。
今の自分はどうする?
同じ道を歩くのか。
それとも。
別の道を選ぶのか。
「どうした?怖いのか?」
「違うわよ」
ゼニスがすぐに口を挟む。
「まだ小さいんだから、そんなもの持たせなくても」
「いや、早いうちから慣れさせた方がいい」
「あなたはすぐそういうこと言うんだから……」
二人のやり取りは、どこかいつも通りだった。
喧嘩というほどではない。
ただの夫婦の会話。
その中にある、当たり前の温度。
ルディナはゆっくりと手を伸ばした。
剣の柄に触れる。
冷たい。
重い。
だが。
嫌ではない。
むしろ。
どこか“馴染む”感覚があった。
身体が覚えている。
いや。
魂のどこかが覚えている。
パウロが少し驚いた顔をする。
「おい、今の年齢でそれ持つか?」
「やめなさいってば!」
ゼニスが慌てる。
だがルディナは剣を離さなかった。
ただ、じっと見つめていた。
これは。
自分がかつて選んだ道。
そして。
今の自分が選ぶかもしれない道。
だが同時に。
“同じように歩く必要はない”という予感もあった。
────────
◇
夜。
ルディナは天井を見上げていた。
小さな身体。
小さな部屋。
だが、頭の中は静かではない。
ルーデウスとしての記憶。
ルディナとしての現実。
二つが重なり合いながら、少しずつ形を変えていく。
どちらが本物なのか。
どちらが過去なのか。
それすら曖昧になっていく。
「私は……」
声にならない言葉。
どちらでもない。
でも、どちらでもある。
それが今の自分だった。
ルーデウスの続きではない。
ルディナという新しい人生。
だが。
完全に切り離された存在でもない。
その曖昧さの中で。
少女は静かに目を閉じた。
────────
◇
ルディナ・グレイラット。
少女の人生は。
静かに、確かに。
そしてまだ形を持たないまま。
続いていく。