爆発炎上する研究施設での短い邂逅は、少年を人間にした。
ただ実験動物として生み出され、苦痛に苛まれ続けて、未来に絶望する少年を、スパイダーマンはたった5分で救ってみせた。
…だが、同時に。
火に包まれた研究施設から子どもを連れて逃げ出すには、彼はもう力を使い果たしていた。
いくら俊敏性に優れていても、いくらハルクと殴り合える怪力を持ち、いくら危険察知能力に優れていても。
…シンビオートは、宿主の回復能力を大きく高める。
生まれたときから死にかけてきた少年は、もちろんスパイダーマンの死期に気づいていて。
だから、少年は。
最期に、それを生まれて初めて出会った彼に託そうとした。
「だめだよ、それは」
「………え?」
「そのオトモダチ、君の命を維持してるんだろ?逆に言うと、君の身体からそのオトモダチが抜けてしまえば、君は死んでしまう」
「でも」
生きていてほしいと、初めて思ったのだ。
死にたいとしか思えなかった人生で、初めて。
そんな未熟な献身を見せる少年に、スパイダーマンはマスクの下で穏やかな笑みを浮かべていた。
彼は、研究施設に侵入し、カメレオンに寄生したシンビオートを撃退するにあたって、あらかたの資料に目を通していた。
寄生生物。
加虐性の増加。
回復力の向上。
戦闘力を跳ね上げる鎧としての役割。
そして。
彼の頭脳は、冷静にこの状況でより多くの命が助かる方法を導き出していた。
「…君のオトモダチ、見せてくれる?」
「…hnnnnnn…なんだ、死にぞこない」
少年の意志に反して、あっという間に少年の身体を奪い取るヴェノムは、見下すようにスパイダーマンを睨みつけていた。
「…わー…さっきのやつよりも強そう…じゃなくて。僕はスパイダーマン、君に一つお願いがあるんだけど」
「言ってみろ」
「僕を食べてほしい。…もう、血を流しすぎた」
「ハハハハハハ!!何だ、お前!血を流して身動き取れなくなって、そうして焼死するのが怖くなったのか!臆病者め!ヒーローなどと、それでよく名乗れたな!!!」
ちがう、と。
飲み込まれ、見ていることしかできない少年は叫ぶ。
彼は臆病なんかじゃない。
炎に無力な怪物とその宿主の無力な子ども、死にかけのスーパーヒーロー。
このままだとどちらも助からない現状で、自分の命を犠牲にして、子どもを助けようとする高潔で誇り高いヒーローの姿が、そこにはあった。
だが、無力で、未熟で、まだ何ものでもない少年は、何もできなくて。
「あとは任せるよ。…今日から君がスパイダーマンだ。喜んでいいんだぜ?なにせ、街のみんなが僕に憧れてる。そのうちユーチューバーより人気な将来の夢になる」
やめて、と。
どれだけ暗闇で喚いても、ヴェノムは変わらず主導権を握っていて。
だから、その日。
ぐちゃり、と。
そんな命が終わる音とともに。
赤い記憶に抱かれながら。
少年は、スパイダーマンになったのだ。
シンビオートの持つ、取り込んだものへと擬態する、その力で。
蜘蛛由来の遺伝子を真似続ける、不出来な偽物が生まれたのだ。
『大いなる力には、大いなる責任が伴う』
少年の脳内に、スパイダーマンの人生が流れ込む。
いじめられっ子だった彼は、放射性の蜘蛛に噛まれた日から、特別な力を授かった。
その力を持て余し、溺れ、大切な人を喪った。
そこから始まるスパイダーマンとしての人生。
悪を許さず、街を愛して、人を助けた。
ピーター・パーカー。
もう二度と戻らない、本物のスパイダーマン。
少年が意識を取り戻す頃には、身体は、もう研究所の外にいて。
火災を脱出した際に消耗したヴェノムは中に潜って休眠状態になって。
どうしたらいいのかわからなくて。
彼の身につけていた赤いマスクを握りしめていた少年は、彼が愛した唯一の家族。
メイ・パーカーのもとを訪れた。
僕のせいで、死にました。
見ず知らずの子供であるにも関わらず、そう告げながら泣きわめく自分を抱きしめてくれたメイおばさんの腕の中で。
少年の、死にものぐるいの生活は始まった。
●
「ぼくは…ひとごろし」
「バーロー」
灰原をただ必死に抱きしめ、生存に安堵した少年は同時に、暗い後悔に襲われていた。
だが、千切れ落ちた僅かなシンビオートを抱え、項垂れる少年に、真っ直ぐな声が降り注ぐ。
江戸川コナン。
どこか普通じゃない、クラスメイト。
少年からしてみれば、ある意味で日常の象徴で。
だから、どうしてここにいるのか、わからなかった。
「……なに、が…?きょうだけで、なんにん」
「まだ、一人も殺してねーよ」
ニっと、人のいい笑みを浮かべるコナンは、ベルの頭に手を乗せ、小さなカバンを押し付ける。
それは、とある女性が怪盗キッドに託し、コナンへと受け継がれた、想いのバトン。
「でも、一人死にそうな人がいるんだ。だから───助けてくれ」
「…………いいの?」
カバンには、メッセージカードとスーツ。
それに、新品のウェブシューター。
『時には正義のために、何かを諦めなくちゃいけないかもしれない。夢でさえ。それでも───』
震える手で、赤いスーツを身に纏う。
それは、驚くくらいぴったりで。
ずっと荷が重くて纏えなかった赤色のスーツなのに。
身体が軽くて。
今なら、なんだって、できる気がした。
「…いってくる」
少年は飛ぶ。
何度折れても。
何度負けても。
何度だって立ち上がる。
『それでも、私は。皆は、あなただからあなたを愛してるのよ』
メイおばさんがくれた手紙の返事が、少年の背中をおしていた。
●
一発の銃声が響き渡る。
だが、それはベルモットの心臓ではなく、肩を大きく傷つけるだけにとどまった。
その傷が自分の銃ではなく、バーボンのそれから放たれたものだと気が付いたベルモットは目を見開く。
「あなた…」
「申し訳ありませんが、死なせはしませんよ」
───あの子が死ぬ気で繋いだ未来を、無駄にはさせない。
そんな決意を、冷徹な仮面の下に押し殺して。
宮野明美経由で知ったコナンという少年。
彼の知恵も借りながら、東都の街で死者を食い止めてきた。
多くの人々の健闘は、スパイダーマンとして少年が紡いできた日々の賜物だ。
だから。
死にかけて、命を諦めようとするベルモットを死なせてやるつもりなんてさらさらなかった。
自殺しようとするはず、という。
江戸川コナンの推理通りに、ベルモットの自殺を警戒していた降谷は、ひとまずそれを阻止できたことに安堵する。
「あなたはボスのお気に入りなんですから。当然生かしたまま連れて帰ります」
「そう…まぁ、確かにね。……私だけ、はいおさらばなんて都合が良すぎたわね」
そうして、彼女の下へ歩き出し、事件は全て終焉する。
そうなれば、よかったのに。
「あら…裏切りを……許す私だと思った?」
蠍の尾が、ベルモットの腹部を貫いた。
「───!?スコーピオン!!」
先に地獄で待ってるわ、と蠍が意識を手放したのを見届けるよりも早く、バーボンはベルモットへと駆け付ける。
その毒を、バーボンは知っている。
スパイダーマンが、一晩中苦しんだ、生物由来の合成毒。
ワルファリンのような、血液凝固を阻害するたちの悪さと、神経麻痺を引き起こす劇毒は、傷だらけのベルモットにあまりにも致命的だった。
「…因果応報ね」
「くそ!!これじゃあ…」
助けられない、と。
そう諦めかけた降谷の耳に、聞き慣れた音がした。
人を助ける蜘蛛の糸が。
ビルの壁に張り付いて、小さな身体を空へと運ぶ。
そんな、暗闇を引き裂く。
希望の音。
「スパイダーマン!!」
「どいて!!」
少年の瞳は、瞬時に状況を理解する。
蠍の毒。
死にかけのベルモット。
病院に運ぶ時間はない。
彼女の命は今まさに失われようとしている。
それでも。
「あなた…とうしてきたの…?」
「たすけるため」
「嘘ね」
少年の言葉を、ベルモットは否定する。
彼女は知っている。
何よりも、シンビオートの恐ろしさを。
恐ろしさを知っていてなお、麻薬のようにあの快楽を思い出してしまうことを。
いくら元よりそう作りかえられ、産み落とされただけだとしても。
少年が心の底からヒーローになれるなど、とても思えはしなかった。
偽物は本物になれない。
その高潔さまで、模倣は不可能だ。
それに、そもそも。
「あなたが、私を助ける理由がないわ」
「たしかに?」
彼の忌み嫌う力を無理やり引き出して、スパイダーマンとしてその名声を地に落とし、痛めつけ、日常を壊した。
決して許されることではない。
「でも…うん、それでも」
その、新しい赤いスーツを纏う彼は、なんてことないように、その言葉を口にした。
「くるしそうなかおしてる」
『君が苦しそうな顔してたから。…それだけさ』
「…あぁ…」
過去は消えない。
だが、思いは繋がる。
少年は確かに罪を犯した。
だが、スパイダーマンはただ殺されたのではない。
思い託して、一人の子どもの未来を救ったのだ。
思ったより本人が自罰的で真面目だったせいで、その答えにたどり着くのに三年もかかってしまったけれど。
その高潔さは間違いなく、消えていない。
誇りある最期は、未来へと届いていた。
「……なんだ、そこにいたのね…私の、ヒーロー…」
ベルモットは過去、シンビオートに寄生された。
軽率な行いで、自分を見失って。
最悪な体験だったと、記憶している。
だが。
スパイダーマンによって引き剥がされ、それでも僅かに体内に残ったシンビオート。
それを今もなおシンビオートと共生している少年が活性化させることで、ベルモットの傷が回復していく。
毒が抜け、傷が癒え、そして、彼女の精神を知らず知らずに蝕んでいたシンビオートの残り滓は力を使い果たして消滅する。
これもまた、因果応報。
過去は消えない。
忌々しい過去も、輝かしい思い出も。
全てが今に繋がっている。
「…ありがとう…スパイダーマン」
「…おやこうこう」
「名付け親ってだけよ。それも、気まぐれにつけただけの」
「いつだって、じこまんぞく」
「そう…」
バーボンの姿は既にない。
警察官が到着するよりも早く、黒の組織の幹部として疑われないように速やかに姿を眩ませていた。
「ねぇ…あなた、名前は何?」
「すぱいだーまん」
「…もう、意地悪なのね」
「………ベル。ベル・パーカー。ひさしぶり、おかあさん」
その日。
少年はスパイダーマンになった。
紆余曲折を経て、大いに悩んで、その上でもう一度マスクをかぶる決意をした。
偽物ではない。
自分がスパイダーマンであると、ようやく理解したから。
ちなみに逮捕されたベルモットは数日後、すぐに刑務所から姿を消すことになるのだが。
日本警察に、その存在を認知された『黒の組織』は、少しずつその規模を縮小していくことになる。
彼らが解体されるのは、真実を見通す青い瞳が見据えるそう遠くない未来の話。
あとはエピローグをやって完結になります。
話を畳むのに6話もかかるとか聞いてない…。