それは薄暗いオフィスの一室。
誰も入れない、監視カメラもない密室で、男女が一組。
男女、と言うには片方があまりにも小柄だ。
華奢な肩に、すらりと伸びた手足。
肋の浮いた腹に、まだ喉仏すらない細い首。
…全裸にマスクという格好でなければ、それこそマニア受けの良さそうな少年だった。
「この歌詞、私のことだ…」
「…は?」
女のつぶやきに怪訝な顔をした少年が上体を起こして女の手元をのぞき込めば、小型端末で演歌が流れているのが見えてさらに困惑する。
天城◯えだ。
天◯越えがリピート再生されている。
「…え、なに…なんで今…?」
───誰かに盗られるくらいなら、殺してもいいですか
そんな歌詞を見て淡く微笑む女に、マスクだけをしてその下は全裸という随分な格好を強いられている少年の額に汗が浮かぶ。
薬の効果を調べるとか言って、明らかに過剰なくらい少年の身体を検分(意味深)して回って、なんなら味見までしといて、天城◯え聞いてるのはちょっと普通にどうかと思う。
有り体に言って、品性を疑う。
「煩いわね…犯すわよ」
目がマジだった。
「こわい…」
上機嫌に鼻歌を奏でる女に、少年は震え上がっていた。
まさに未知との遭遇。
スパイダーマンとして今まで戦ってきたどの敵よりも怖い。
どうしてこうなったか。
それは6時間ほど前まで遡る。
●
夜のビル群を眺めながら、女は煙草の煙を燻らせていた。
今日の街はいつもよりも静かだ。
───怪盗キッドの飛ぶ夜は、街は静けさを取り戻す
…ボリュームを絞ったラジオからは、警察が見事白い彼に出し抜かれている様が聞こえてくる。
これから始まるのは怪盗紳士の逃亡劇。
街中をパトカーが走り回るせいで、犯罪者たちも今日ばかりは息を潜めるのだ。
遠くでパトカーのサイレンが鳴り響き、しかし人の命が脅かされるような切迫感はない。
穏やかな夜だ。
スーパーヒーローが休むにはもってこいの。
…夜風とは違う空気の揺らめきが、白煙を乱す。
「たばこすうんだ」
…気配のない来訪者に取り乱すような真似はしない。
「女の部屋にいきなり来といて第一声がそれ?無粋なのね」
「……むずかしい」
「あら、犯罪者に立ち向かっていく時の陽気なあなたはどこに行ったのかしらね」
「そんなの、さいしょからいない」
くすり、と笑いながら女はその侵入者を歓迎するかのように窓から身を乗り出す。
「昔から煙草は嫌い。だから吸ってみたのよ」
「……えぇ……?」
闇夜に浮かぶ白いスーツの少年が、糸に吊り下がった状態でこちらを見下ろしている。
彼女と少年の奇妙な共犯関係が始まって、数ヶ月。
こうしてシェリーが少年を部屋に招き入れることへの抵抗感ももはや存在しない。
───それは、ある意味で不幸な、あるいはバカバカしいきっかけだった。
少年はとある事情から組織を追っていて、シェリーの研究室へとたどり着いた。
そして、秘密を守るためにあえて歪な構造をしていた施設は、よりによってシェリーの寝室へと少年を迷い込ませた。
もちろん、そんな侵入者をシェリーが歓迎する理由はない。
本来ならそこで決別していたはずだ。
というか乙女の部屋に入り込むなんて極刑まったなしだ。
もし少年が混乱のさなか『宮野エレーナ』の名前を出さなければ、きっとそうなっていた。
両親の研究を知る少年。
シェリーにとって、初めはその程度の価値だった。
だからこそ、2人は共犯関係になれたのだ。
だというのに、とんでもなく危うい均衡の下に繰り返される逢瀬は既に十を超えている。
窓越しに街並みを眺めながら、噂のスーパーヒーローとぽつりぽつりと話す時間が、案外自分は嫌いではないらしいということに、最近彼女は気づき始めていた。
彼はコーヒーが飲めない。
苦いから。
好きなのは甘いジュース。
映画館が好きで、ポップコーンはキャラメル味をいつも頼む。
そんな、研究には何も関係ない情報ばかりが最近は増えてきている。
「───相変わらず、よくまともで居られるわね。その身体で」
「しつれいな…」
少年の身体をスキャンにかけて、その結果が表示される画面を見ながらシェリーはため息を吐き出す。
「蜘蛛由来の外部遺伝子…それを真似た異常な反応を見せている細胞変異。あなたの身体は常に最適化という名の苦痛に苛まれている」
「だから、ふろキャンしなきゃ」
「その略称どうにかしたほうがいいわよ」
「ふろうふしキャンセルかいわい」
「何度聞いてもバカみたいな名前ね…」
不老不死。
少年か恐れているのは、それが夢物語ではなく、現実になりかけていることだった。
少年が追い求めている研究は、両親がアポトキシンの以前に着手していたものだ。
その名は───Synthetic Soldier Series。
多様性幹細胞を元に全臓器どころかあらゆる部位の再生を実現するというコンセプトで始めた、夢のような計画。
しかし、それは倫理的な問題で母が無理矢理計画を凍結したらしい。
そう。
これは、悪魔の計画だ。
そして、目の前の少年は両親と自分の罪の結晶なのだ。
癒えない苦痛を強いられ、暴走機関車を無理矢理乗りこなすような破綻を押し付けられた、哀れな被害者。
「……とりあえず、今から渡すのは遺伝子抑制剤よ。あなたの身体を根本から治療していくための第一段階…身体に出る反応としては筋弛緩剤が近いわね」
「ほーん…」
わかってるのか、わかっていないのか。
絶対わかっていない顔で頷く少年に、少しばかり心配が頭をよぎる。
この無垢さは少年の長所だが、同時に弱さにもなる。
有り体に言うなら騙されそう。
悪い女とかに。
悪い女とかに!
自分のことを棚に上げて憤慨する自分は今、研究対象相手にあまりにも入れ込みすぎている。
その自覚はある。
その自覚はあるが、今更湧いてしまった情をなくせるほどシェリーは訓練されていなかった。
「あなたねぇ…仮にも敵対組織の女から渡される薬を何の疑問も持たずに飲もうっての?誰の言うことでも聞くわけ?だとしたらヒーローなんてやめなさい」
「……シェリーはだまさない」
「なんの、根拠があって…!」
思わず声を荒げたシェリーを、マスク越しだと言うのに真っ直ぐな目線が見つめ返す。
「しんじてるだけ」
「私たちは、ただの共犯よ。いつだって裏切れる」
「…うん」
「あなたに与えた組織のデータだって間違ってるかもしれないし、一方的にデータを取っていつか裏切るかもしれない。そんなふうには考えないわけ?」
「おもわない」
「なんで!」
なぜ、自分がこうも取り乱しているのか、シェリーはもう自分でもわからないでいた。
シェリーにとって姉と研究だけが唯一の寄る辺だった。
人を殺すのが当たり前の組織で、他に行く宛もなくて、本当はこんな組織にいるのは嫌で嫌でしょうがなくて。
でも姉が組織に所属していて、自分を産んですぐに亡くなった両親とのつながりを感じられるのは組織の持つ研究所にあるデータだけ。
だから、シェリーは組織を裏切れない。
そんな時に現れた、子供のスパイダーマン。
その白いスーツのように無垢で、人一倍怖がりで、なのに勇気を胸に悪へと立ち向かう。
そんな光を知ってしまった。
暗闇で蹲っている自分には眩しすぎるくらいの、温もりを感じてしまった。
建前なんて、もう崩れ落ちている。
醜い自分が叫ぶ。
その無垢さを穢せ、と。
自分と同じ所まで引きずり落とせ、と。
遠ざけなくてはいけない。
じゃないといつか、弱い自分は少年という存在を最悪の形で踏みにじってしまう。
なのに。
もう一度
「わざわざ、にがくないミルクティーをいれてくれる」
「…なにを」
「キズがあったらちりょうしてくれる」
「なにを…いってるの…」
「タイカをよこせなんていうくせに、いつも大したことはもとめない。CDをかしてくれる。あたまをなでてくれる。いっしょにえいがもみた」
だから。
だからどうか、優しくしないでほしいのに。
「わるいことしてるくせに、わるいひとにはなれない」
どうせ、みんなに優しいだけのくせに。
「シェリーといるのはたのしい。きらいじゃない。…ぼくだけ?」
「──────」
きっと、少年は壊れているのだ。
壊れて、敵対組織のバカな女に騙されているだけなのだ。
少年が憎む研究を推し進めてる相手こそが私だと、少年は理解してると言うのに。
でも。
ああ、でも。
もういいか。
私がこんなに必死に手放そうとしているのに、自分から懐に入れるというのなら。
もう。
───戻れなくても、もういいの。
そんな、いつか聞いた演歌の歌詞が脳裏によぎる。
ねぇ、そうでしょう。
だって、あなたのせいで私は壊れたんだから。
その後について、詳細を語る人間はどこにもいない。
ただ、少年は少女の最後の良心による防波堤をぶっ壊し、そのせいでシェリーが彼を見る目がこれまで以上にひどく粘ついた湿度のあるものになってしまっただけのこと。
「…はぁ、最低ね。私って」
「しんじくん?」
ただ、それだけの話だ。
もしかしたら、一線を越える理由を今か今かと求めていた肉食獣が、牙を突き立てても許される可能性を感じてしまったが故に起きた悲劇なのかもしれないが。
「それに、いつかそしきもこわすから。むしょくになったシェリーはたいほ。みせいねんりゃくしゅ」
「えっ」
「あたりまえのはなし」
2人の間に陰鬱な空気は、存在していなかった。
・うすほそ
薬を盛られ手ごにょごにょされた。
光属性に見せかけた闇属性。
ふろキャン勢。
・しぇりー
どろどろじとじと。
ここまでプロローグ3話にお付き合いくださって誠にありがとうございました。
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