召喚勇者の英雄譚 ――三人の勇者は、祝福を受け、しかし記憶を失った―― 作:霧島 高
「もうやってらんねえ!」
ドンッ!
部屋の中を怒号が響き渡り、そして机を乱暴に叩く音に空気が震える。
中央にある大きな円卓を六人が囲み、その中で一人の男性だけが顔を紅潮させていた。
「どうして逃げたっ!? まだいけただろっ!」
「無茶言わないでよ。魔法は無限じゃないんだから……」
大柄なその男性の怒りを真っ向からぶつけられているのは、その対面に座る一人の小柄な男性だ。
あるいはその容姿からすれば、男子というべきか。
もしくは、僕というべきだろう。
「このままじゃ、ダンジョン制覇なんて、いつになったってできやしねえっ! お前はいつも弱気なことばかりじゃねえか。それでも男かよっ!」
「でも。それでも! 死んでしまったら、もう終わりなんだ。次なんてないんだよ。だから、慎重に――」
ドンッ!
「それでっ! いつになったら、次に進めるってんだっ!? なあ、おいっ! そんな調子で、制覇までには何年かけるつもりだっ!? オレたちに、そんな時間があるってのかっ!?」
畳みかける大きな声だ。本当にそうだ。僕は怯みそうになる。
そして彼の言っていることも、また正しい。
そのことを僕は重々承知しながら。
それでも、これは決して曲げられない。
「だからこそ、だよっ! 無茶してそれで僕たちが死んでしまったら、もうその先には進めない。この国の、未来が無くなるんだよ……」
僕たちの死はそのまま、この王国の崩壊を意味する。
すなわち、僕たち「勇者」がすべてを背負っているのだ。
その「使命」には、すべてが掛かっているのだから。
「そうかよ。ああ、わかった」
男性は、静かに椅子から立ち上がった。
怒りが収まった、なんてわけじゃない。
その力に満ちた眼差しは、鋭く僕を射抜いていた。
「なら、もうお前とはこれっきりだ! オレは出ていく。いや……」
そして、この時、僕たちは選択を誤った。
「オレたちは、オレたちでやる! お前はもう、いらん!」
そうして六人の仲間は、二つに割れてしまった。
いったい、どこから間違っていたのだろう。
あるいは、なにも間違っていなかったのかもしれない。
もしかすれば、ここに来た、あの日からずっと――。
※
「……え?」
目の前の風景が一瞬で切り替わったことに、僕は瞠目した。
ここは、どこだろう?
さっきまで僕は……あれ?
変だ。何かがおかしい。
僕はずっとここにいた? いや、確かにさっきまで違う場所に……。
でも、それはどこだった?
「てめえ、誰だ?」
動揺する僕の耳に、唸るような声が響く。はっとしてそちらを振り向けば、大柄な男性が僕の隣にいて、前方を鋭い視線で睨み付けていた。
視線の先に目をやれば、黒く、しかし多数の煌びやかな飾りのついた長衣を羽織る一人の男性がいた。白く長く伸びた顎鬚と皺の刻まれた顔、そしてその手には長い杖を持ち――。
キィィィィ。
「ぐ、うっ……」
その時、頭に甲高い音が響き、僕を締め付けた。
たまらず僕は、冷たい床に尻餅をついた。
痛い、痛い、痛い。
「うぇ」
頭が、割れそうだ。
眩暈、吐き気。視界がゆっくりと回り始める。
「ぐぁ……!」
「う……あ……」
そして、それは僕だけではなかった。
別の声が、聞こえる。二人分の、別の声だ。
僕は片手で頭を押さえる。そのまま頭を振って、痛みを追い出そうとする。
けれど、視界がぐにゃりと歪み始めて、止まらない。
それでも僕は目端に、それを捉えた。
隣にいた男性が、僕と同じように座り込み、両手で頭を抱えていた。
その向こう側に、小柄な女性が膝をつき、前のめりになりながら呻いていた。
でも、もうだめだ。もうこれ以上は……。
「うぅ」
僕はギュッと瞼を閉じた。そこからはもう、真っ暗な中でただひたすらに痛みに耐えるだけ。
そうして痛みは、どんどんとひどくなっていき。
その度に、僕は。
あるいは、僕たちは。
何か。
大切な、何かを……。
気が付いたとき、僕は豪華な部屋のベッドに寝かされていた。目を覚ました僕は、しばらくしてから入室してきたエプロン姿の女性の案内のままに、別の部屋へと連れてこられた。
その部屋に入ると、そこにいた黒ローブ姿の男性が顎鬚に手をやり、「気が付かれましたな」と言いながら僕に微笑んだ。気を失う前に見た、あの老人だ。
彼はバルタザールと名乗った。そのローブを改めてみれば、豪奢な飾りだけでなく豪華な刺繍も施されている。それがきっと彼の地位を物語っているのだろう。
そう考えていると、彼は王宮魔術師であり、その筆頭を務めているのだと、僕たちに告げた。
この部屋には、バルタザール氏と僕の他に二人がいた。
あの時、僕の近くにいた二人だ。大柄な男性と、そして小柄な女性。前者は僕がこの部屋に入るよりも前からいて、後者は後から入ってきた。おそらく目覚めた順番に案内された、ということだろう。
一つの机を、四人で囲むように座っている。僕の右隣にバルタザール氏がいて、左隣に男性、向かいが女性という配置だ。
「なるほど。皆様、記憶が失われているというわけですか」
改めてバルタザール氏よりそれを告げられて、僕はそれを自覚する。倒れる直前に見た光景は覚えている。でもそれより前のことは、一切何も思い出せない。
僕は、同じように記憶を失った二人を見た。
僕を含め、三人は似たような格好をしている。白いシャツの上に、薄手の青いジャケットで、男性は灰色のズボンだが、女性は膝丈で裾が広めのスカートだ。
そして揃いのブレスレットを、右手首に嵌めている。
金色の蛇?
いや、二匹の龍だ。お互いの体を絡ませ合いながら向かい合い、口を開き相手を威嚇している。それが手首に巻き付いている。
そして、それだけは、なぜか、服装と噛み合っていない気がした。
それでも、僕たちは揃いの恰好をしている。
けれど、それが何を意味するのか、僕たちは誰一人思い出せなかった。
言葉、あるいは単語もわかる。でも、それだって、はたしてすべて覚えているのだろうか。
僕たちはいったい何を、どこまで忘れているのだろうか。
「それでは、一つ、確認してみましょう。皆様自身の、お名前は思い出せますかな?」
僕の、名前。
名前は、思い出せる、のか?
「オレは……。そうだ。オレは、タイガ、だ」
「えっと……私は。シンジュ、です」
二人は覚えていた。あるいは思い出した。
そして次は僕の番だ。僕は。
……そうだ。
「僕は、ミナト、です。……たぶん」
どうしてか、自信がない。
他の二人はどうなんだろうか。その様子をちらりと窺う。
左隣。タイガと名乗った男性は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
向かい。シンジュと名乗った女性は、少し俯くようにして、その思案顔を伏せていた。
おそらく二人とも僕と同じなのだろう。
「タイガ殿、シンジュ殿、そしてミナト殿ですか」
名前を呼ばれ不思議な感覚を味わった。
僕自身の名前だというのは確かだ。なのに、バルタザール氏が呼んだその名前に違和感がある。
あるいはそこに、何かが足りていない。そんな気がした。
「やはり異世界の方。こちらでは聞き慣れぬ名前ですな」
異世界? どういうことだろう?
「なあ、おい。そろそろ説明しろ。ここはどこで、俺たちはいったい誰で。……いや、そもそも、なんで俺たちは何も思い出せない!?」
ドンッ!
「……っ」
机を激しく叩く音に僕は驚き、のけぞるようになりながら息を詰まらせた。
「ひっ」
向かいにいるシンジュもまた同様だった。
小さな悲鳴があがり、少し顔が青ざめて見えた。
「そうですな」
僕たちとは対照的に、バルタザール氏は一切動じていない。
彼は、王宮魔術師の筆頭だ。つまりこの老人が、とてつもなく権力を持つ存在であるということ。
大柄で、どう見ても粗野なタイガがイラついて凄んで見せても、まったく意に介していない。
「では、まずは、ここがどこか、ですな」
「ふんっ」
勢いのままに立ち上がっていたタイガだったが、バルタザール氏のその言葉を聞いて、ドスンと音を立てながら、ふんぞり返るようにして座り直した。
その様子に、僕は小さく、ふぅ、と息を吐いた。
ふと僕は視線を感じた。視線は対面からで、そこに目を向ける。
シンジュがこちらを見ていた。彼女と目が合うと、ほんの僅かに微笑みを返してきた。
なんとなく、彼女に連帯感めいたものを抱いた。
だけどそのことに、僕は気恥ずかしさを感じてしまい、少し慌てて目を離してしまった。
そうして僕が目を向けた先で、バルタザール氏がゆっくりと話し始める。
「ここは、コピア王国の王都ユメドにございます」
コピア王国。
王都ユメド。
どちらも聞いたことはない。あるいは忘れているだけなのか。
けれど異世界、という単語が気にかかる。
「そして皆様がおられますのは、その王城となります」
しかし、ここが王城であることは、間違いないだろう。
例えばこの部屋だ。
周囲は石造りの壁に囲われている。けれどそこかしこに、ただこうやって机を囲み、話し合いをするためだけの小部屋というには、似つかわしくないほど豪華な調度品が置かれている。
「しかしまことに残念ではありますが、皆様の記憶については、何も言えることはありませぬ」
ダンッ!
「そりゃ、どういうことだよ!」
今度は足を大きく踏み鳴らす音と、怒鳴り声。
どうしても、僕の体がびくりと反応する。
とはいえ、もう予想できたことだから、先ほどよりは驚かなかった。
「それについては、我々も想定しておりませんでした、とだけ。しかしながら……」
「しかし、なんだよっ!?」
タイガがバルタザール氏をきっと睨み付ける。答えによっては承知しない、といったところか。
僕は彼が暴れ出して、バルタザール氏に掴みかかったりしないかと、冷や冷やした。
一方で、気持ちは彼と同じだ。彼のようには凄めないというだけで。
「皆様が何者であるかについては、答えがございます」
何者であるか。
何者か、ではなく、何者であるか。
僕たちは自身が何者かを忘れてしまっている。
でもバルタザール氏は、僕たちが何者であるかを知っている。
「なぜならば、皆様をここに呼び寄せたのは、我々でありますから」
呼び寄せた、だって?
「もったいぶるんじゃねえ。さっさと言えよ!」
タイガは足を踏み鳴らし、その怒りを隠そうともしない。
でも僕は、バルタザール氏の言葉に、背筋が凍りそうになっていた。
バルタザール氏は「我々」と言った。
この国自体が、僕たちをここに招いた、ということ。
いったい、どこから?
そう、異世界、からだ。
だから、答えを聞きたくない。聞いてはいけない。耳を塞げ。
なぜかはわからないが、そうせよと僕の中の何かが命じている。
「我々は、皆様を……」
でも、その答えを聞かねばならない。
僕たちは、そうしなければならないから。
なぜなら僕たちは。
「『勇者』として召喚致しました」
勇者だから。
……何だ、それは?
「……勇者……?」
僕は、知らぬ間に呟いていた。
それは、聞き慣れない言葉なのだろうか。
あるいは聞いたことがあるのかもしれない。
それが何を指す言葉なのか。あるいはそれが何を指す言葉だったのか。
「ええ、勇者です」
それは、力強い言葉だ。
希望、救済、あるいは栄光。そんな輝かしい単語と共に存在する。
だけど。
「この国は現在、存亡の危機にあります。ゆえに、そこから我々を救い出してくださる、皆様は……」
同時にそこに感じるのは。
「勇者なのです」
絶望だ。
「そして我々が、勇者の皆様に望むものは、ただ一つ」
しかし。
「ダンジョンの最奥に挑み、そして制覇することです」
僕たちの道は、そこにしかない。
それが、僕たちの使命だから。
「お二人は、まず古代語を学ぶところから始めましょう」
バルタザール氏が前に座り、僕とシンジュは並んでその講義を聞く。
ダンジョンを制覇し、そしてこの王国を救わなければならない。
その使命感に僕は突き動かされていた。それは僕だけではなく、おそらく残る二人も、だろう。
「古代語?」
隣に座るシンジュが呟く。
肩まで伸びた髪が
そして僕と同じ黒髪で黒い目をしている。その背丈は、僕と同じく小柄で。
だから、どこか親近感がある。
同じ異世界から来たもの同士。
だけど、僕は彼女を知らない。おそらく、彼女も僕を知らない。
「ええ、古代語です。神話の時代において、神が用いたという言語。魔法を習得するためには、まずは古代語を理解しなければなりませぬ」
僕たちは、ダンジョンに挑まなければならない。
そしてこの国は、そんな僕たちへの援助を惜しまない。
なぜなら、ダンジョンが攻略されなければ、この国は破滅に向かうしかないからだ。
「お二人は、魔法を扱うジョブである以上、これを避けては通れませぬ」
僕はシンジュの姿をちらりと見た。
バルタザール氏と同様に、彼女は豪華な刺繍が施されたローブを着ている。そしてそれは、僕もまた同じだ。
ただしそれぞれ、異なった色をしている。
シンジュは、白だ。彼女の艶やかな黒髪に、それがとてもよく似合っている気がする。
そして僕は、灰色だ。
黒と白の中間。それはどことなく、中途半端な気がしてしまう。
「頑張ろうね、ミナト」
「うん、頑張ろう、シンジュ」
彼女の声、答える僕。
そのとき、部屋の窓から、何かに反射した一筋の光が目に入った。
気になった僕は、そちらを見る。
二階の窓から見える外では、タイガが大きな剣を一心不乱に振っていた。
この国の騎士団長がその隣で、彼を指導している。
つまり僕たちは、それぞれ最高の師を用意され、その教えを受けているというわけだ。
すべてはダンジョンを制覇するために。
「魔法には二つの系統があります。白魔法と黒魔法の二つ。そして『セイント』であるシンジュ殿は白魔法を、『セージ』であるミナト殿は白魔法と黒魔法の両方を扱えますが、どちらも古代語は変わりませぬ」
僕は右手首に嵌められた龍のブレスレットを見た。
これが勇者の証だそうだ。よく見れば、絡み合う二匹の龍は、その手にそれぞれ杖と水晶玉を持っていた。
その意匠が示すもの、それは「セージ」というジョブ。
とても、誇らしいもの。
そして同時に、僕たちを縛る枷でもあった。
使命が、僕たちを前に進ませる。
講義と訓練を続け。
僕たち三人は休みなく、ほぼ毎日それに明け暮れた。
特に僕とシンジュは、魔法を扱うもの同士だ。必然として、同じ空間と時間を共有することも多かった。
だから、わからないことは教え合う。同じ魔法を同時に使い、それを確かめ合う。
そうしていれば、僕はいつしか。
最初の頃に抱いていた、いくつもの疑念を忘れてしまっていた。
ただひたすらに学ぶ。
そしてダンジョンに挑み、それを制覇する。
そうしなければならないのだと、それしか考えられなくなっていった。
まるで最初からそうであったかのように。
「なるほどな。こいつは確かにいい。身体の動きが軽い」
タイガが大剣を軽々と振るう。
彼に対して僕は、黒魔法を掛けていたのだ。
「へへっ、早くダンジョンに行きたいぜ」
付与魔法と呼ばれるそれで、彼の肉体を強化した。筋力と素早さを底上げされた彼は、心底楽しそうにしていた。
およそ一か月間の、シンジュと二人だけで過ごした日々が終わってしまい。そしてタイガを交えて三人での合同訓練が始まった。
少しだけ、それを寂しいと僕は感じていた。
「私も、結界魔法を掛けるね」
シンジュの口が、綺麗な呪文を紡いでいく。
シンジュの魔法が、タイガを包み込む。
僕は、それをとても羨ましいと感じた。
「どうかな?」
「どうなんだ? 団長、手合わせしてくれ!」
僕はもしかしたら、シンジュに僅かばかりの恋心を抱いていたのかもしれない。
だけど、眺め見た彼女の、その視線は。
「気を付けてね、タイガ」
きっと、僕には向いていない。
「あったりまえだ」
それは、確たるものではなかったけれど。
「ミナト、私たちも練習しよう」
「……うん、そうだね」
それでも、それは束の間の、優しく、そして甘い時間であったことは確かだ。
「本日は、勇者の皆様に、共に戦う冒険者をお選びいただきます」
王城の大広間に向かいながら、バルタザール氏は言葉を続ける。
「すでに冒険者ギルドにて、候補を絞っております。とりあえずの主戦力として三名をお選びください。残るものたちは予備となります」
「予備、ですか?」
この王国には、冒険者と呼ばれる者たちがいる。
モンスターと呼ばれる怪物と戦い、それにより日々の糧を得ている者たちだ。
「はい。離脱者が出れば、補充が必要でしょうから」
訓練を終えた僕たちは、いよいよダンジョンに入ることとなる。
ダンジョンには財宝が眠っているらしい。
だけどそれは、数多の冒険者の命と引き換えだ。
けれど、僕たちの目的は、そうじゃない。
もっと崇高なる目的であり。
だからこそ、財宝を求めるよりもずっと、危険な冒険となる。
「ふん。オレたちの足を引っ張らなきゃいいけどな」
「もう、タイガ、だめだよ。私たちはダンジョンのこと、何も知らないんだから、ちゃんと教えてもらわないとね?」
大広間へと入れば、そこには様々な装備をした冒険者たちが銘々に散らばっていた。
その数は合わせて十人。
ある者たちは数人で集団を作り、ある者は個別に佇んでいる。
「冒険者の方々、よくぞお集まりくださいました」
バルタザール氏の、老人とは思えぬ程のよく通る一声に、皆がこちらを向く。
その視線は、こちらを値踏みしているようだった。そのほとんどが、僕たちを蔑んでいるような気さえした。
彼らには「勇者」なんて肩書は、おそらく通用しない。
ダンジョンに入ったことさえない僕たちは、きっと彼らに及ばないのだろう。
だから、その誰もが歴戦の勇士に見える。僕なんかよりもずっと勇者らしく見える。
本当に全員、強そうだ。
男性が六人。女性が三人。
……あれ?
さっきと数が合わない。もう一人、いたはずなのに。
「ま、オレに任せときな」
「もう、タイガ。ちょっと待ってよ」
そんなことを考えていると、二人が連れ立って行ってしまった。
「あっ……」
僕は完全に出遅れてしまった。まあ、仕方ないか。
僕たち三人の中で、誰がリーダーかなんて、一目見ればわかるだろう。誰を選ぶなんてことは、タイガ自身が言った通り、彼に任せておけばいいし、彼に任すほかない。
とはいえ、僕も話ぐらいは聞かないとな。もしかしたら意見を聞かれるかもしれない。ないとは思うけど。
そう考えて、僕は一歩前に踏み出そうとした。
……キュッ。
「え?」
だけど、僕の灰色のローブが、何かに引っ張られていた。
だから僕は足を止めるしかなかった。
「……」
振り返れば、そこに一人の少女がいた。
僕のローブの裾を掴み、ただ黙ったまま、僕を引き留めている。
「えっと……?」
彼女は僕を見上げていた。
それは魅惑的な赤い瞳。
その肌は白く、輪郭は綺麗で滑らかな曲線で。
髪は夜空に浮かぶ月のように輝く銀色をしていて。
身体の輪郭がはっきりとわかる黒く目立たない服が、よりそれらを際立たせていた。
その姿を目にした僕は、まるでその場に縫い付けられたかのように、動けなくなった。
彼女の美しさに、どうしても目を離せなくなったのだ。
「なに、かな?」
「……」
けれど、何とか絞り出した僕の問いかけに、返事はない。
どれぐらいそうしていただろう。ほんのひと時だったのか、それともずっと長い間そうしていたのだろうか。
僕は固まり、そしてとても困ってしまっていた。
「たぶんだがね、名前が聞きたいんじゃないかと思うぜ」
だから、横合いからしたその声に、僕は助けられた。
それをきっかけに、僕は彼女の蠱惑的な呪縛から逃れることができ、視線を動かすことができた。
そこにいたのは、重厚なアーマーに身を包んだ、無精ひげを生やした壮年の男性だった。いかにもな、ベテランの冒険者の風情をしている。
彼を見て、ふと思う。
ここに集められた冒険者は、既に選りすぐられた者たちのはずだ。
ならば、この少女も、もしかして……?
「あ、名前、ですね。はい、僕はミナトといいます」
僕はその男性の方を見ながら答えた。
「……ミナト」
銀髪の少女が初めて口にした言葉は、僕の名前だった。
「えっと、それで、君は?」
僕がもう一度その少女に視線を向けると、彼女はまだ僕をじっと見つめていた。
値踏みしているのとは、違う気がする。
僕に何かを探し求めているような、そんな感じがした。
「わたし、シェリー」
「シェリー」
「そう、シェリー。そして、あなたは、ミナト」
何かを一つずつ確認するように、ゆっくりと言葉が紡がれる。
でも彼女の表情からは、一切の感情が読み取れない。
はたして何を考え、僕の服を握り締め、そして僕の名前を知りたがったのか。
「ミナト」
「なに、かな?」
彼女の綺麗な顔が、僕に迫ってきた。
僕はどきりとして、身を引いた。
「ミナト……わたしを、選んで」
桜色の唇から漏れたそれは、懇願ではない。
彼女は表情を動かさず、真摯に僕を見つめている。
「そう、すべき」
まるで、それが事実であると告げるような。
あるいは僕はそうしなければならないと、思わせるような。
だけど。
「それは、無理かな」
本当に残念だけど。
「どうして?」
その時、僕たちの会話を遮るように声が聞こえる。
「よっし、決めたぜ! この三人だ」
それは、タイガの声だ。
「僕に決める権利はないからね」
それに僕は、異を唱えることはできない。
「……そう」
小さく呟いて、少女は僕のローブから手を離した。
壮年の男性と共に去る、彼女の小さな背を見つめる。
僕は、そこはかとない寂寥感と、何とも言えない罪悪感に、少しだけ苛まれた。
「ミナト、どうしたの?」
そんな僕を見て、シンジュが不思議そうに問いかけてきた。
「……何でもないよ」
これが僕の、輝く銀髪の、赤い瞳をした、可憐な少女との出会いだった。
彼女に僕は、何かを感じていた。
それは僕が、シンジュに、魅力的な異性である彼女に、微かに感じているものとは違っていて。
でも、シンジュに抱いている親近感と、どこか似ている気もした。
そして僕たちは、ダンジョンへと向かう。
それは、過酷で、残酷な。
悲劇の始まりだった。