最初に列を離れたのは葛西さんだった。
山狗が人数を出しての山狩りに入り、俺たちへの包囲を狭めてきているのを感じとると、彼は即座に決断した。
「……皆さんは先に進んでください。私が、包囲の一角を引きつけます」
「でも、葛西っ!」
詩音の制止の声に、葛西さんは凄みのある笑みひとつで応えてみせた。
「ご安心を。あの程度の連中に始末されるほど、ヤワに出来ちゃいませんよ。どちらかといえば、殺さずに可愛がってやるほうが骨が折れるってもんです」
確かにこの人のタフさはこの短い時間でもさんざん見せつけてもらったし、ショットガンは威嚇にしか使えないとしても俺たちの最大戦力には違いない。連絡役として逃げ延びなければならない富竹さんを除外するなら、この場面で囮になれるのは葛西さんだけだ。
「……わかった。気をつけてね」
詩音も渋々納得し、葛西さんは無言で頷くと林の中へと消えていった。その広い背中を見送り、俺たちは葛西さんの指示した方へと逃げることにした。
「ジロウさん、ここはどのへんかしらね……?」
夜の山中をまっすぐに逃げられるわけもなく、俺たちはとっくに街の方向を見失っていた。
「正直わからないな。僕がよく歩いているのは、もっと雛見沢寄りの森の中だからね」
富竹さんのカメラマンという身分は偽装に過ぎないらしいが、趣味なのも間違いないようで、滞在中は雛見沢の山野を歩き回って野鳥や風景を撮影している。都会育ちの俺や鷹野さん、興宮の生活が長い詩音と比べれば、もっとも山歩きに慣れているのはこの人だった。
「川に沿っていけばいいんじゃないですかね? 玉子川にでれば、それに沿って簡単に興宮に出られますよ」
詩音のアイディアに、富竹さんは苦笑して首を振った。
「いやいや、詩音ちゃん。本流のそばじゃさすがに目立ってしまうし、山の中は小さな沢が入り組んでる。それに、山で遭難したときのセオリーは知ってるかい?」
「あ、聞いたことあります。とにかく上へ上へ向かえって話ですよね。下ると沢筋に出て余計に自分の位置を見失うことになるからって」
俺がそう言うと、大きく頷いた。
「そうさ。それに沢筋では気温も低くて、意外に体力を失うことが多い。だから思いきって登り続けたほうが、高所からなら周囲の地形を確認できるし、運がよければ山小屋なんかも見つけられるかもしれないからね」
鷹野さんが肩をすくめてその後を引き継ぐ。
「……もっとも、今は逃げてる最中だもの。あまり見通しのいいところに出るわけにはいかないけどね」
富竹さんの言うのは道理だったので、俺たちは文句を言わず彼に従った。それでも、俺や富竹さんはともかく、女性陣二人には夜の山を登り続けるのはかなりの重労働だ。二人とも弱音こそ吐かなかったが、徐々に足元がおぼつかなくなってきていた。
「……ぅあっ!?」
そして、その瞬間がやってきてしまった。
「詩音っ!」
詩音が、道を踏み外して斜面を転げ落ちてしまう。その先は闇に包まれているが、かすかに水音が聞こえるから、最悪、沢まで落ちてしまったかもしれない!
「富竹さん、鷹野さんを頼みます! 先に興宮に向かってください、園崎組の屋敷に話を通してあります!」
「け、圭一くんっ!?」
「わかったわ! 暗いから、気をつけてっ!」
無謀なのはわかっていたが、詩音は見捨てられないし、富竹さんには一刻も早く興宮に辿り着いてもらわなければいけない。ここは、俺が詩音を助けにいくしかなかった。
「詩音っ、どこだっ!?」
なかば滑り落ちるように、暗い斜面を駆け下りる。
詩音からの返答はない。山狗に見つかるかもしれないなんてことを考える余裕はなかった。
「詩音、返事をしろ! 詩音っっ!」
ばしゃりと足元に水音。
どうやら沢まで降りてきてしまったらしい。
「うぅ……」
かすかな声を聞きつけて闇に目を凝らすと、近くの水辺にうずくまる影があった。
「詩音、大丈夫か!? しっかりしろ!」
駆け寄って抱き上げると、詩音は俺を見上げてふわっと笑顔を浮かべた。
「……よかった、来てくれたんですね。圭ちゃん」
落ちた瞬間、よほど不安だったのだろう。涙さえ浮かべたその表情に、俺は詩音を追いかけた行動が間違っていなかったことを確信する。
「圭ちゃん、怖かったよぅ……」
震える背中を抱きしめ、しばらく落ち着くまでそうしていた。それから詩音は名残惜しそうに顔をあげて、
「鷹野さんと、富竹のおじさまは……?」
「先に行ってもらった。富竹さんならきっと鷹野さんを守ってくれるし、ここで足止めするわけにはいかないからな」
「そうですか……ごめんなさい、足引っ張ってますね」
軽く足をくじいたらしい詩音を支えて立ち上がる。いまはとにかく、どこかに隠れないと山狗に見つかってしまう。
「いいさ。……俺だって、いざというときは何もできないガキだって思い知らされてるからな」
前の世界では、俺がみんなの足を引っ張った。
6対6の均衡は、鷹野さんの放ったたった一発の銃弾で打ち崩され、俺は真っ先に退場してしまったのだ。
その後悔を引き継ぐことができたこの世界で、俺は誰も見捨てるわけにはいかない。ましてやそれが詩音なら、俺に選択肢など最初からなかった。
「俺に出来ることは、……彼女を守ることくらいだろ」
そう言うと、詩音の顔色が闇の中なのにバラ色になった。でも頬が火照ってるから、俺のほうも同じなのだろう。
「……とんでもなく恥ずかしいこと言いますね、圭ちゃん」
「……はは、俺もそう思う」
詩音の白い手が、ぎゅっと俺の服の裾を握りしめる。
「私、圭ちゃんを好きになって……よかったです」
俯いたままぼそぼそと言う詩音が可愛くて、頭を撫でる。
詩音はくすぐったそうにしていたが、いつまでもそうしているわけにはいかない。
「とにかく、どこか沢から出られる場所を探さないとな」
しばらく沢のほとりの歩きにくい足場をたどったところで俺たちが見つけたのは、草に隠れて見えにくくなった浅い洞窟だった。身を隠す場所としてはややたよりないが、内部の空気は乾いていて、沢筋のような肌寒さもない。
「すこしここで休憩しよう」
「そうですね……濡れた服もなんとかしたいですし」
ただでさえ暗い森の中、洞窟に入るとほとんど真っ暗だ。隣で詩音が服を脱いでいるらしい衣擦れの音がしたが、まったく見えない。それでも一応気を遣って背中を向けることにした。自分のTシャツを脱いで、背中越しに詩音に渡す。詩音はそれを受け取って着込むと、くすくすと笑い声を立てた。
「圭ちゃんの体温、あったかいです……」