気付けば、周囲にいる暗黒生命体の数は膨大なものとなっていた。
最初は精々周囲数キロ圏内にいた個体の一部(それでも一立方メートル辺り数千匹もの大群が十一次元に跨って分布していた)が移動していただけなのに、今では数百万キロ圏内の個体が合流してきた。やはり全体ではなくその一部だが、空間を黒く塗り潰すほどの大群。直径五十キロ長さ六千キロ近い群れが、一糸乱れぬ動きで一方向に進んでいく。
暗黒生命体は小さくとも巨大なエネルギーの塊だ。たとえ小型種であっても、そのエネルギーの一部でも解放すれば星の一つ二つは簡単に滅ぼせる。体長数メートルの巨大種ならばもっと強大だ。そんな生命体の群れの大移動となれば、蠢くエネルギーもまた膨大。暗黒生命体の生態抜きで、宇宙さえも滅ぼせそうな大群だった。
移動速度も速い。今は光速の一千数百億倍もの速さで飛んでいる。僅か一週間で宇宙中に広がった人間文明を滅ぼしたのだから、それだけの速さが出せるのは当然(むしろ遅いぐらいだ。恐らくワープなども併用して拡散している)だが……その速さをずっと維持している。暗黒生命体として未熟なナオミは最高速を出し続けなければ、小さな暗黒生命体達にさえ置いていからそうだ。臀部から生える尻尾でバランスを取れるようになった事もあり、以前よりも飛行速度はかなり向上している筈なのだが、それだけ暗黒生命体達も必死に飛んでいる、という事だろうか。
そして群れの規模と同じぐらい、或いはそれ以上に驚くべきは、どの暗黒生命体も群れの個体を襲わない事。
最初にこの大移動を見てから、随分と時間が経った。しかしその間、群れを形成する暗黒生命体同士はおろか、群れに加わっていない大部分の暗黒生命体も群れには手を出していない。どんな捕食者であっても、だ。群れの目的を探るために同行しているナオミでさえ、攻撃される気配がない。精々群れの外で起きている、巨大種同士の争いの巻き添えを食らう時があるだけだ。
群れはあまりに巨大で、ナオミの探知能力では全てを見通す事は出来ない。だからこっそり襲っている奴がいないとは言えないが、だとしても極めて稀な事象には違いない。
これではまるで、暗黒生命体全員が一つの目標に向けて一致団結しているようだ。
「(流石にそれは、考え難いかなー)」
そんな印象を抱くも、群れの中を飛ぶナオミは自身の考えを否定した。
暗黒生命体化したナオミは、暗黒生命体達の
コイツらに仲間意識なんてものは微塵もない。世界への認識が『自分』と『その他』ぐらいしかなく、『その他』は自分にとって有益・有害・無害の三パターンで区別している。
実際にはもっと複雑で緻密な、数学的順位付けをしているが……大まかにはこんなものだ。極めて利己的であり、相手が暗黒生命体かどうかなど端から気にしていない。暗黒生命体と、暗黒生命体よりも強い生命体がいれば、捕食者は迷いなく暗黒生命体を襲うだろう。
だから多種多様な種が混合した群れが、協力して一つの目標を目指すなんて考えられない。仲良く一緒に行動するよりも、その隙を狙って襲った方が得――――
「(いや、違う)」
そこまで考えたナオミは、自分の思い違いに気付く。
確かに、暗黒生命体は利己的だ。
されど数学的な合理性もある。というより思考方法が数学なのだから、あらゆる考え方が数学だ。気分だの情緒だのといった人類的短絡さはない。けれども確率も計算してしまうからこそ、実現可能性の低い長期的利益も好まない。
ならば答えは簡単ではないか。暗黒生命体達は今ここで隣の奴を喰らうより、一緒に行動した方が『得』な何かをしようとしているのだ。周りにいる暗黒生命体が群れを襲わないのは、その方が得をするから。大多数の個体が群れに参加しないのは、その方が得だから。
そして得をするのは、然程未来の話ではない。自分自身ではなくとも、数世代以内に得をするのではないか。
今にも何かが起きるかも知れない。
ナオミの予感は、的中する事となった。
「きゃっ!?」
突如、周囲にいる暗黒生命体達の動きが加速した。
ただでさえ光速を超えていた移動速度が、一気に何倍にも増大する。十メートル級の暗黒生命体が加速した時には、時空間が大きく波打つほどのエネルギーが発せられた。恐らくただ一直線に通過するだけで、銀河を形作る数兆の星が全て吹っ飛ばされるほどの威力だろう。
それを此処ら一帯にいる全ての暗黒生命体が、同時に行ったのだ。パワーの大小はあれど、合算すれば今までの移動の比ではない、途方もなく巨大なエネルギーが撒き散らされる。
すると群れの行く先にある空間が、ぐにょりと歪む。
どんどん引き伸ばされていく。まるで上下左右を引っ張られるゴム風船のように、時空が薄くなっていくのがナオミの目にも見えた。いや、四方八方というのは正しくない。十一次元の全座標から干渉され、時空間が歪まされていき……
ついに裂けてしまう。
時空の切れ目が出来たのと同時に、その向こうに広がる景色も見えた。そこは暗黒生命体の暮らす、分子一つ残さず食い尽くされた世界ではない。幾つもの星と銀河が浮かび、空間には無数の原子が飛び交う領域が映し出されている。
人間がまだオーバーロード文明とも接触していない頃のような、原始の宇宙がその先にはあった。それも一つではない。百か、二千か、三万か。否、数え切れない無数の『世界』があった。
ナオミは直感的に理解した。
暗黒生命体の大移動、それに伴うエネルギーは宇宙の境界を突破。無限に存在する平行宇宙への道を生み出したのだ。
【■■■■■■■■■■■■■!】
その穴をナオミが認識した途端、解読不可能な、暗黒生命体の雄叫びが周囲に響く。
猛り声を上げたのは全長三百メートルはあろうかという、龍のような種。
暗黒生命体の中でも特に巨大な身体を持ったその種は、鱗ではなく甲殻に覆われた身体をしならせ、節足動物に似た前脚二本を構えながら時空の穴へと突入する。恐れる様子は微塵もなく、むしろ意気揚々と言わんばかりに力強く。ナオミでは視認さえ難しい速さで一気に突撃し、開いた時空の亀裂をあっさりとぶち破って押し入る。
龍型暗黒生命体の後を追うように、小さな暗黒生命体達も続々と向かう。続くように中型、大型の暗黒生命体も時空の穴へと飛び込んだ。我先に、数多の宇宙へと繋がる道へと進む。
時間にすれば恐らく一瞬だ。バイオロイド文明の技術力では観測すら出来ないかも知れない。だが暗黒生命体が一気に移動していく衝撃的光景へのショックが、ナオミの体感時間を何百倍にも引き伸ばす。
やがて群れていた暗黒生命体は全て穴の中へと突入し、大移動は終わった。全体からすればごく一部の暗黒生命体がいなくなっただけで、今もこの辺り一帯には無数の暗黒生命体がいる。群れが別宇宙に行った事など気にも留めてないのか、暗黒生命体達は今まで通りの生存競争を繰り広げるだけ。
唖然としていたのは、人間の心をまだ残しているナオミだけ。
「……………は、はっ……はぁ……はぁ……!」
しばらくしてナオミは息を乱し、目を見開く。
暗黒生命体達は、何をしたのか?
聞かずとも、解析せずともナオミには理解出来た――――あの群れは別宇宙に旅立ったのだ。新たな繁殖地を目指して。
別宇宙に何があるかは分からない。何があっても、暗黒生命体にとっては大きな問題とはならないだろう。異次元物質で構成された肉体も、無から有を生み出すエネルギー生成も、あらゆる環境への適応を可能とする筈だ。
加えて
無論、そこに何かしらの生命体がいたとしてもお構いなしに。
生命の有無も、文明も有無も、暗黒生命体には関係ない。手当たり次第に餌としてしまう。かつてのオーバーロード文明や人間文明を滅ぼしたように、多くの知性が、心あるものが、悲劇さえも認識出来ないうちに食い荒らされる。しかも今見た光景が正しければ、先程の移動だけで数万もの宇宙に一気に拡散したのだ。悲劇も同じだけ起きる。
そう考えるとナオミは、心の中に激しいものが渦巻く。
怒りか? 悲しみか? どちらでもない。今更人類や知的生命体に対し、慈しみや同族意識なんて持ち合わせていない事はナオミが一番分かっている。ならばこの感情はなんなのか。自分が何を感じているのか。
本能に身を任せれば、答えはすぐに分かった。
「羨ま、しい」
羨望だった。
自分もああなりたい。あれらと同じ事をしたい。
どんどんその気持ちが大きく膨れ上がる。いや、元々その衝動は身体の奥底にあったのだ。ただ今までそれを上手く認識出来なかっただけ。目を逸らしていたから耐えられたが、存在を意識したら途端に何もかも蝕んでくる。
抑えきれない高揚感を逃がそうと、無意識のまま身体を力いっぱい掻き毟ってしまう。変質した黒い両手の先は硬質化しており、未だバイオロイドの柔肌を残す胸部の肉が抉れていく。けれども難なく再生する肌と同じように、気持ちはまるで収まらない。
何より一番困るのは、何をすれば良いのかまるで分からない事。あの暗黒生命体達と同じ事がしたいのに、どうしたら良いのか分からない。
いや、身体は分かっているのだ。だから無性に疼く。
情報を受け取れていないのは頭。人類の意識が残っている頭脳。幾度かの再生を経てようやく身体と同調したのに、一番肝心の、奥底の衝動がまだ理解出来ていない。
「(いっそこの頭、ブチ壊してやるか……!)」
ついには自傷行為が候補に上がる。暗黒生命体の細胞比率が増えれば、衝動の正体も理解出来るかも知れない。それにはムカデ型やスズメバチ型と戦った時のように、死にかけた事を利用して暗黒生命体の細胞を増やせば良い筈。
じゃあそうしよう――――ほぼ迷いなく決断したのも束の間、この方法は好ましくないとも感じる。冷静に考えてみれば、破壊した肉体は再生させる必要がある。体力を大きく消耗するだろう。すると弱った自分を狙って、獰猛な捕食者が襲撃してくるかも知れない。
過去二回の大怪我は敵に襲われた結果負ったもので、所謂不可抗力だった。だから消耗やそれに伴うリスクは、そもそも考慮に値しない。だが今回はわざと怪我をするつもりだ。その場合は自分の行動がリスクに見合うものか、やるに値するかを考える必要がある。
「(それで死ぬ可能性が増えるなんて、本末転倒じゃない)」
暗黒生命体と同じく合理的で数学的になっているナオミの知性は、そこの評価を誤らない。
ひとまず自傷行為はなしとする。だが、ではどうしたら良いのか。この衝動を満たさずにはいられない。
考え込んでも、答えは出てくれない。
しかし肉体は、何をすべきか知っていた。
「……あっ」
ふと思い出す。今、自分の周りには無数の暗黒生命体がひしめいていると。
別宇宙に行った暗黒生命体は、全体からすれば一部とすら言えないほどのごく少数。今も此処には、数え切れないほどの暗黒生命体がいる。
その姿をじっと見ていたナオミは、唐突に一つの衝動を感じる。それは今までナオミを支配していた、理解不能の衝動とは別物。今までも幾度となく感じ、純粋なバイオロイドの時にも感じていた、生物ならば誰もが抱くだろう根源的欲求。
食欲だ。
「……今は食べろって事かしら?」
言葉での問い掛けに、身体が答えてくれる訳もない。
そもそも身体からの『コミュニケーション』なんて、暗黒生命体に限らず何時も一方的だ。眠気と食欲を感じたら、それを我慢なんて出来ない。理性なんて所詮神経活動の副産物であり、肉体の指示こそが生物としては正しいのである。
「なら、その通りにしようじゃない」
今も滾る衝動に突き動かされるように、ナオミは小さな暗黒生命体に襲い掛かる!
その瞬間、ナオミは自身の『状態』に驚く。
今までよりも、手足が軽いように感じた。軽いだけではなく、神経の末端まで意識が及ぶような、全身をくまなく掌握している気分。動かしたいと思った時には、既に手足が思った通りに動いている。
動体視力も、今までとは明らかに違う。素早く動き回り、十一次元座標を自由に飛んでいく小さな暗黒生命体達……その動きがハッキリと見えた。
それどころか幻影のようなものも映った。暗黒生命体の先を進むように幾つも見える。幻影は濃さに差があり、幻影同士が重なっている部分は特に濃い。消えたり映ったり、目まぐるしく状態が変わっていく。
身体は幻影について何も説明してくれない。だが理解するのは容易い。
色の濃さは可能性の高さ。演算処理により導き出されたあらゆる可能性が今、複数の幻影という形で見えているのだ。
これは耳の上部分から生えている、角のような触角のお陰だ。長く伸びた触角は多くの情報を収集する器官であり、目では拾えない時空間の微かな振動、獲物の体内で起きている体組織流動などを検知。これら膨大な情報を処理する事で、将来の動きを予測している。
言うならば未来視。
ここからイモムシ型を捕まえるために取るべき行動は明白だ。幻影同士が重なり合って色濃く映る、最もそこを通る可能性が高い場所を掴めば良い。
恐らく暗黒生命体は、ほぼ全ての種がこの幻影を見ている。非力なイモムシ型であろうとも、だ。身体能力に勝る相手に襲われても、より確率の高い行動が見えていれば回避は容易い。だから今まで、ナオミは簡単には暗黒生命体を捕まえられなかった。
しかしナオミにも幻影が見えてしまえば、条件は五分。これなら動きのより素早い方が勝つ。
「はぐっ!」
思った通りに動いた手は、思った通りに動いたイモムシ型を捕まえた。瞬間、捕まえたという事実を認識するよりも早くその手は口にイモムシ型を運ぶ。
構造の解析なんてしない。素早く迅速に咀嚼し、徹底的に磨り潰す。恐ろしく不味い味が、舌を持たない口内から脳を直接刺激しているというのに、どうとも思わない。こうした方が栄養を吸収しやすいから……だから咀嚼する。
ごくんと飲み干す前に、空いた手は次の獲物を捕まえていた。何度か空振りもしていたが、手は即座に次の獲物を襲い、結果口が空となる前に食べ物を運んでくる。やりたい事が、考える前に実現していく。
「(動く。何もかも自由に)」
今までよりも明らかに身体機能が向上している。ナオミは最初そう感じるも、これは正確な表現ではないとすぐに思い直す。
肉体的には何も変化していない筈だ。群れる暗黒生命体と共にしばらく移動しただけなのだから。
変化したのは意識の方。では身体のうちから湧き立つ衝動を認知した事で、脳と身体の波長が合ったのだろうか。否、そうではない。もっと理由はシンプル。
心と身体のやりたい事が一致したのだ。
今までナオミは、知的好奇心で動いていた。自分のやりたい事をやる事で、身体を自由に動かせた。しかしこれは頭がやりたい事であって身体……暗黒生命体の細胞が求めていたものではない。
細胞の求める衝動は別にある。今までその衝動を『無視』していたがために、身体の能力を十全に活かせていなかった。だが今は違う。身体の中から込み上がる衝動に従い、やるべき事をやるために頭を働かせていた。
心身が一致したから、何時も以上の力が出せた。言葉にすればなんて事はない、極めて単純な事実だった。
「(この行動の果てに、何があるのかな。私の身体は、何を求めているのかな)」
未だ、疑問はある。
しかし今の行動――――捕食行動の意味は理解した。
食べたものは血肉へと変わる。暗黒生命体の細胞がせっせと分解・再構成して、異次元物質を作り出す。まだナオミの身体には通常の物質が残っていたが、新たに作られた異次元物質に追い出されていく。追い出されるといっても排泄はなく、そのままエネルギーまで分解されていくが。
たくさんの暗黒生命体を食べた事で、ナオミの身体はより暗黒生命体に近付いていた。この食事は、バイオロイドとしての肉体を捨てさせる意味があったのだろう。まだ全身が暗黒生命体化したとは言えないが……進行するほど、胸の中の衝動に近付いていると実感した。
すると不意に幸福感が溢れ出した。
脳からの分泌ではない。身体の方が、なんらかの化学物質を生み出している。恐らくそれはドーパミンやセロトニンなど、幸福感を引き起こす脳内物質と同質のもの。身体の奥底の衝動に従った途端、これがドバドバと溢れ出す。今まで何度も暗黒生命体を食べてきたのに、訳の分からない衝動のためにやったら露骨に『ご褒美』を渡してきた。
「(なーるほど。最早隠すつもりはない訳ね)」
ナオミの理性は状況を察した。自分の身体はおろか、心さえも暗黒生命体は侵食しようとしていると。
神経系も何もない筈だが、単独でも簡単な演算が可能なのが暗黒生命体の細胞。計算能力の高さを鑑みるに、細胞単体でも超高性能AIぐらいの、微かな自意識を有していてもおかしくない。
暗黒生命体の細胞はナオミの身体を支配し、己の目的を果たそうとしている。そしてその目的は、恐らくバイオロイドとしての理性を失っては達成出来ないもの。ナオミの自意識がどうでも良いなら、暗黒生命体が真っ先に脳の制御を奪っていない筈がないのだから。
ナオミの意識が必要な目的なんて、一つしかない。その目的を果たした後、何をするかもなんとなく想像が付く。
ならば、この身体の奥底から感じている衝動の正体は――――
「ん……っ!?」
『自分』の本当の願い。それを理解しそうになったが、言葉として頭に浮かぶ前に思考が途切れる。
ぞわぞわとした悪寒。得体の知れない不快感。
暗黒生命体化したナオミの思考は、極めて数学的なものだ。快不快さえも数値的な評価でしかない。なのに今感じたものは、極めて感情的な感覚。この身体になってから、いや、一般バイオロイドとして生きていた時にもこんなものは感じた事がない。
一体これはなんなのか。
疑問はある。普段なら考え込んだかも知れない。だが今回はあまりの不快さに、身体が無意識に動いた。その場から離れようと、背中の翅が全力で羽ばたいたのだ。
そして身体が、暗黒生命体の細胞が下した判断は最善だった。
もしも一瞬でも考え込んでいたなら、次の瞬間、ナオミの身体は真っ二つに吹き飛ぶ事になっていたのだから。