暗黒生命体にとって、別宇宙への移動は大した困難ではない。やり方も一つではなく、ナオミもまた本能的に知っていた方法を用いる。
まず身体を構成する異次元物質の一部をエネルギーに変換し、そのエネルギーで巨大質量体……重力の塊を生み出す。重力により周りの空間を歪ませつつ、空間破壊に特化した『歪曲次元光線』を発射。光線と言いつつ光とは全く異なるその力は、宇宙に存在する次元階層を破壊し、尚且つ空間が持つ座標情報を再構築する。
この再構築された座標を通る事で、別宇宙へと渡るのだ。以前ナオミが見た光景は時空に穴が空いたのではなく、一歩先が別宇宙になっていた、というのが正しいのだろう。また複数の座標が重なり合っているため、複数の宇宙が同時に見えるという現象も起こす。今回はざっと二十六万個以上の宇宙が見えた。
これは「設定された座標が離れた位置だからワープ出来る」という『概念操作』に近い方法での移動だが、暗黒生命体にとっては小型種単体でも可能な、難しくない技に過ぎない。この力の本来の使用用途は超長距離移動、数百億光年の距離を一瞬で飛ぶためのものだが、書き換える内容が違うだけで無茶な使い方をしている訳でもない。
どれだけ暗黒生命体の中の弱者達といえども、このぐらいの技は可能だ。ナオミも単身で発動可能であり、他の暗黒生命体にとっても難しくない。二十六万もの宇宙が重なり合っているのも、ナオミが作り出した次元の歪みに、他の暗黒生命体が別宇宙の座標を捩じ込んだために起きた事象である。
【カハァッ】
合図のように一声発すれば、ナオミと群れは一斉に新天地へと進む。
二十六万個もの宇宙に、暗黒生命体達はそれぞれ飛んでいく。どの宇宙に進むかは、それぞれの暗黒生命体が自由に選ぶ。ランダムという方が正確かも知れない。
群れを形成する個体の数が膨大なので、大抵の宇宙にはそれなりの数が向かう事になるが、時折少数しか行かない事も起こり得る。生態系ごと移動するという目的は共有しているが、一致団結している訳ではないのだ。かつて人類文明に一匹だけでやってきた暗黒生命体は、極めて不運な個体だったのだろう。
そしてナオミが向かうのは、人類が隠れ潜む裏世界だ。人類側が記録していた裏世界と人間文明があった宇宙の座標を、暗黒生命体が使っている座標データに変換。これにより裏世界の場所を特定している。
移動に時間は掛からない。先述したように座標自体を書き換えているため、階段を一歩上がるぐらいの手間暇で別宇宙に移動出来る。つまりほんの一瞬だ。おまけに座標を書き換えているのはあくまでも移動元の宇宙なので、移動先の宇宙では如何なる兆候も検出されない。本来、これは移動先で天敵に待ち伏せられるのを防ぐための対策だが、結果的に文明への奇襲攻撃にもなっていた。
ナオミが作り出した座標でも同じ。作り出した座標をただ通り抜けるだけで、彼女は人類の本拠地である裏世界にあっさりと戻ってしまう。
裏世界にナオミが現れても、人類側は誰一人として感知出来なかった。ナオミと一緒にやってきた暗黒生命体達に至っては、宇宙を移動したという自覚さえない。暗黒生命体にとって元いた世界でちょっと遠出するのも、宇宙間の移動も、座標を書き換えて進むという意味では同じなのだから。
唯一この行為に感情を抱いたのは、ナオミの意識だけだった。
【(辿り着いた)】
新天地にして自分の故郷。まずは周囲を把握しようと、頭部の触角を用いて周辺環境の観測を行う。
どうやら辿り着いたのは、軍事施設の一室らしい。
見覚えのある空間だ。そこはかつてナオミが、NTL型バイオロイドとして働いていた部屋。暗黒生命体を観測するためのドローン、そして『遠隔操作するための肉体』を遠隔操作する装置が無数に配置されている。
その装置の中にはナオミと同じ、NTL型バイオロイドが入っている。傍には上官のバイオロイドが立ち、NTL型の管理を行っていた。
この部屋のど真ん中に現れたナオミ達暗黒生命体であるが、バイオロイド達は誰一人としてその存在を意識した様子がない。いや、意識するだけの時間がまだ流れていないと言うべきか。光速以上の速さで動き回る暗黒生命体は、情報処理速度も超高速で行う。高々人間を凌駕する程度でしかない、軍用バイオロイドの思考速度で暗黒生命体の動きを認識なんて出来やしない。
ナオミとしては悠々と、周囲の状況を見回す事が出来る。懐かしい光景を、思う存分目に焼き付ける事も可能だ。
【(なんて貧相な空間なのかしら)】
尤も、久方振りの故郷に対しナオミが抱いたのは、軽蔑に等しい嫌悪だったが。
あまりにもエネルギーが少ない。
人間に分かるよう例えるならば、広大な砂漠に一滴の水を垂らしたぐらい乾いた世界に思えた。人間やバイオロイドにとって住心地の良い世界は、暗黒生命体にとってはあまりにも貧相である。
今のナオミにとっても、まるで魅力を感じない。もしも単身でこの世界に戻ってきても、飢えと乾きでたちまち死んでいただろう。
しかし今回は、ちゃんと他の暗黒生命体も連れてきた。無数の生産者と消費者、それらにより形作られる暗黒の生態系が此処には既にある。
後は、何時も通りの生存競争を繰り広げれば良い。
【ピィィィィィ】
鳴き声、ではなく甲高い飛行音を奏でながら、イモムシ型暗黒生命体が四方八方へと散っていく。
イモムシ型は部屋に置かれているあらゆる装置へと突撃し、そのまま衝突。戦闘能力など皆無な、柔らかな身体は衝突の勢いでぐしゃりと潰れた。
けれどもイモムシ型は死なない。
むしろ潰れた身体は表面積を増し、装置の広い範囲を覆う。暗黒生命体の体表にはエネルギー吸収能力があり、表面積が広いほど効率的に吸収が可能だ。潰れる事で、イモムシ型はより多くのエネルギーを短時間で吸い上げる。
一部装置の中には仕事中のNTL型バイオロイドもいる。しかし暗黒生命体にとって、機械もバイオロイドも人間も、どれも大差ない。大したエネルギーを含んでいない物質という意味では、等しく全てが腹の足しにもならない。
だがその腹の足しにならないものでも、他に食べるものがない時であれば少しは繁殖の役に立つ。
だからイモムシ型は次々と装置を、中にいるバイオロイドごと
ナオミからすればかつての同胞が、次々と虫に食い散らかされていくような光景だ。瞬きさえも永遠に思えるほどの速さで、次々とバイオロイド達が死んでいく。バイオロイドだけでなく部屋の壁が、建物が、あっという間に食い尽くされた。十メートル超えの暗黒生命体もやってきて、残った床や壁を破壊しながら動き出す。部屋の外にいた他のバイオロイド達も、次々と死んでいるだろう。
しかし今のナオミにとって、バイオロイドは最早仲間ではない。否、仲間と呼べるものなど何もない。ただ自分の遺伝子を増やせればそれで良いのだ。施設が跡形もなく破壊され、イモムシ型が人類文明に拡散し始める光景は、むしろ好ましいとすら思う。
イモムシ型が増えれば、自分が獲物としているやや小型の暗黒生命体も増えるのだから。
【シャアァーッ!】
その小型暗黒生命体の一種(クラゲのような見た目をした種)に、中型の暗黒生命体であるムカデ型が襲い掛かる。クラゲ型はムカデ型に襲われる事を予知していたかのように、一瞬早く周りの空間を歪めるほどの速さで飛翔して逃げ出す。
他の場所でも、暗黒生命体が暗黒生命体を襲い始めている。
見方によっては、元いた世界で暮らしていけない、弱い個体達の醜い争いかも知れない。されど同時に、新天地で行われる生き生きとした生存競争でもある。
当然、ライバル達との戦いも始まる。
【ゴガアアアアアアア!】
体長五十メートル近い、犬と甲殻類を混ぜたような見た目の暗黒生命体が吼える。
咆哮を向けられたのは、体長四十メートル近いイモムシ型。身体に分厚い甲殻と棘を生やしているが、生粋の生産者なのか攻撃的な顎や手足はない。精々翅が刃物のように、薄く鋭い程度か。
犬型暗黒生命体は巨大イモムシ型に襲い掛かり、硬質化した両手の指による引っ掻き攻撃を行う。ただ腕を振るうだけ、ではない。超光速の動きは時空間さえも破壊し、余波だけで半径数十キロのあらゆる物質を空間ごと湾曲させた。ただし巨大イモムシ型の表皮は平然と耐えていたが。
攻撃された巨大イモムシ型も反撃を行う。翅を高速で震わせながら大きく振るえば、三日月型の『エネルギーブレード』が放出された。エネルギーを刃のように変形させたそれは、犬型の身体を切り裂くには至らない。だがそれは犬型の甲殻が頑強であるが故の結果だ。エネルギーブレード自体は空間を容赦なく、十一次元に渡って切り裂く。
犬型も巨大イモムシ型も、一応はバイオロイドの軍事施設内にいる。されどこんな建物が二体の戦いを抑え込める訳もない。攻撃の余波は軍事施設の壁を瞬時に吹き飛ばし、その数十万キロ先の空間に浮かぶ工業地帯や農業区画にも及ぶ。いや、たとえ数光年、数十光年離れていても破壊されただろう。最早空間どころか物理法則さえも破壊され、余波が及んだ場所は文字通り消滅していた。
軍事施設や工業区画には数多くのバイオロイドや人間が働いている。さぞや多くの者達が巻き込まれただろう。尤も、その事実を認識する事は誰にも、AIによる監視システムにさえも出来ないが。
――――百年以上前に滅びた人間文明。その滅亡は大増殖する暗黒生命体に飲み込まれた事で起きた。侵入してきた個体群に捕食者が殆どいなかったため、小型種が思うがままに繁殖し、大型の捕食者が誕生する前に広まりきったからだ。
だが裏世界に潜んだ人類文明には、大型の暗黒生命体が何体かやってきた。やってきた理由はただの偶然。群れの中でも多くはない大型種の一部が、偶々やってきただけ。そんな偶々集まった彼女達の闘争により、文明は瞬く間に崩壊していく。
捕食する価値すらないと、言わんばかりに。
暗黒生命体化したナオミにとっても、人類文明に価値などない。人類自身はおろか、作り出した建物や道具にも今のナオミにとって価値あるもの……繁殖の足しになる高エネルギーはないのだから。
しかし知性あるナオミは知っている。人類が開発したものの中で、唯一暗黒生命体の腹を満たせるものの存在を。
『それ』の詳しい置き場所を知っている訳ではない。だがその原理を知っていれば、『それ』の放つ独特なエネルギーを感知する事は出来る。
【ギッ、クゥ、ィッ!】
だからナオミは飛び立った。
飛んでくるイモムシ型の大群を躱し、大型種が飛ばしてきたエネルギーブレードの欠片を掠めるように避け、巨大暗黒生命体の脚と脚の間を通り抜ける。
建物の壁ぐらいならば無視。巨大隕石の衝突にも耐える超剛性装甲壁を体当たりで突破し、頑強な金属扉さえも接触前に飛行時の空間湾曲で弾け飛ぶ。通路にいたバイオロイドも全員飛翔時の余波で粉々にして、更に施設の奥深くへと進む。
『それ』の近くまで来ると防御フィールドに覆われた区画にぶち当たったが、エネルギーで出来た防壁など暗黒生命体にとっておやつでしかない。生産者ほどの強さはないが、ナオミにもエネルギー吸収能力は備わっていた。顔を前に突き出し、唇を窄めてじゅるっと吸い込めば、超新星爆発でもビクともしないシールドを一飲みに出来る。
やがて辿り着いた部屋の扉も体当たりで突破。侵入したナオミの前に、一つの、大きな塊が置かれていた。
無数にある監視カメラ、頑強な容器、そして塊の周りに配置されている陸戦歩兵バイオロイドSST型二体……厳重な警備によって守られているそれは、ナオミにとっては見覚えのある爆弾。
VC爆弾だ。真空崩壊を引き起こす人類文明の最強兵器であり、使い方によっては宇宙さえも破壊する極大兵器。世界を滅ぼす爆弾だけに、万に一つでも誤作動や、テロリストに奪われる事があってはならない。故に重大警備が敷かれている。
しかし超光速で動き、エネルギーと物質を吸収出来るナオミには、こんな守りなどなんの障壁にもならない。
【シャッ】
警備しているSST型二体の頭に手を触れる。エネルギー吸収の応用により、二体のバイオロイドの身体は一瞬でナオミの手に吸い込まれた。
バイオロイド二体を食ったところで腹の足しにもならないが、どうせならばと食べておいた。ぺろりと舌舐めずりをしながら、ナオミは本命であるVC爆弾へと近付く。
周りを囲っている透明なガラスは、強化ガラス壁だろう。銃撃どころか爆弾にも耐えるものだが、結局のところ物質には違いない。一直線に進んで触れればそれだけでエネルギーとして吸収されて、ナオミの足止めにもならない。
VC爆弾に辿り着いたら両手で抱え込む。ここでは吸収能力は抑えておく。VC爆弾は真空崩壊を引き起こすが、厳密に言うと爆弾本体はそのための刺激と反応抑制を担うだけ。爆弾自体のエネルギーは大したものではないのだ。
指先だけエネルギー吸収を発動し、ぐっと押し込めば、指だけが爆弾の内側へと入り込む。VC爆弾の構造を思い出し、確かこの辺りだったと思う場所でそこにあるもの――――反応剤を軽く突いて刺激する。
反応剤は適切な刺激を受けると、強力な電子を放出。反応剤の周囲には巨大質量の素粒子が配置されており、放たれた電子はこれを叩き出す。亜光速で弾かれた巨大質量素粒子は周辺に存在するヒッグス粒子に干渉する。
ヒッグス粒子は質量を生む素粒子であるが、それと同時に『場の真空』とも関連する素粒子だ。このヒッグス粒子への干渉により真空崩壊に必要な、真の真空への相転移を引き起こす……というのがVC爆弾の基本原理。
反応剤への適切な刺激量は、かなり高精度な計算がなければ求められない。だが暗黒生命体の演算能力ならば、ちょっと暗算するだけで解ける。指先のコントロールも完璧で、ナオミの計算通りVC爆弾は炸裂する。
真空崩壊の始まりだ。人類が暮らす隠れた世界が、唯一の逃げ場が、崩壊を始めた。
【ジュ、オオオオオオオオオオ!】
が、ナオミは即座にこの崩壊のエネルギーを吸い込む。
宇宙の崩壊と共に放出されるエネルギーが、猛烈な吸引により跡形もなく吸い込まれていく。むしろちょっと加減しないと、真空崩壊の連鎖反応が止まってしまう。適度に抑えながら、尚且つ余りを出さないよう吸い込む。
そうしてもう十分だなと思ったところで、残りを一気に吸引。ちゅるんと真空崩壊の残りも吸い込む。
人類最強の兵器のエネルギーを、ナオミただ一人で飲み干してしまった。
【ケプゥ……】
流石にちょっとお腹がたぷたぷ。暗黒生命体化したナオミにとっても、VC爆弾のエネルギーは楽なものではなかった。文明の持つ力としては、やはり極大のものと言えるだろう。
だが食べ切れる。少しお腹が苦しくなるだけのものであり、脅威とは言い難い。
そしてVC爆弾の捕食は、ナオミにとっては『下ごしらえ』だ。もうこの場に用はない。VC爆弾の残骸を放置して、一直線に飛翔。建物の壁を貫き、通路も横断して、最短距離でこの場から離れる。
離れる理由は他の暗黒生命体と距離を取るため。
幸いと言うべきか、暗黒生命体達は出現地点であるバイオロイド軍施設を中心に、あまり遠くまで移動していない。生存競争で生じたエネルギー、そのエネルギーで生まれ育った他種を食べて成長する暗黒生命体にとって、暗黒生命体の密度の高い場所こそが最も暮らしやすい。だから個体数が増えて過密状態になるまで、暗黒生命体はあまり遠くまで拡散しない性質があった。
ナオミにもその性質……本能はある。だが理性で、群れから離れる事のメリットも考えられる。数学的に情報を処理する暗黒生命体の細胞は、合理的な要求ならば理性の訴えを却下しない。ナオミは不快感もなく、その場から離れる。
【……………シュゥルル】
念のため、ナオミは周囲を確認。
此処は市街地上空。軍施設からざっと一光年は離れた位置の区画で、何もない虚無の空間に、ビルの塊が浮かんでいるような姿をしている。大勢の民間人が暮らしていて、バイオロイドだけでなく、人間の市民も生活している拠点だ。
暗黒生命体の襲撃に、未だ誰一人気付いていないだろう。気付かないのも当然だ。ナオミの目には人類の動きなど止まって見える。人類視点では、暗黒生命体襲撃からまだ瞬きほどの時間も経っていない筈だ。
当然、ナオミは人類が自分達に気付くかどうかなど興味もない。自分のしたい事、やりたい事を優先する。
……VC爆弾のお陰で、十分なエネルギーを得た。周囲に暗黒生命体はなく安全。
今ならば、確実に子孫を残せる。
【ン、ングゥゥ……!】
準備を整えたところで、ナオミは臀部から伸びる腹部に力を込める。
此処まで移動する中で、真空崩壊から得たエネルギーの大半を腹部に送り込んでいた。
腹部にある卵細胞はこのエネルギーを吸収しながら成長。本来ならば大きさ数センチ程度で産卵可能になるが、今回は我慢してエネルギーを注ぎ続ける。するど卵細胞はどんどん分裂していき、何倍もの大きさへと育つ。
真空崩壊のエネルギーが空になるまで注ぎ込めば、卵である細胞の塊は直径二十センチまで成長した。それがナオミの腹部に十個も詰まっている状態だ。
ここまで大きく育てて産卵する事を、ナオミの身体は想定していない。だから産卵時、大きな卵が産卵管を強引に押し広げ、産卵口を引き裂きながら出てくる。並の生物からすれば致死的な怪我だが、暗黒生命体の再生力であれば問題ない。ナオミが意図して産卵を抑え、卵を大きく育てる事が出来たのも自らの再生能力に自信があったからである。
【カハァッ! ハッ、カァッ!】
とはいえ負担は大きく、一個生み終えただけで少しばかりダメージを受けたが。ただの傷なら兎も角、生んだ卵にもエネルギー吸収の性質がある。傷口からエネルギーを吸われた事で、体力を奪われたのだ。
ナオミがそこまで苦労して生んだ卵こと細胞の塊は、重力さえも吸収するため付近を浮遊。しかし意思を持つように、少しずつ人間達の暮らす市街地に向かいながらその姿形を変えていく。
小さな手足が生え、頭が形成され、翅を生やし、尻尾のような腹部が伸びる。身体は黒く、頭からは大きな角のような触角を生やす。
身体付きこそ幼いが、体長二十センチほどの『ナオミ』になる。
再びナオミは次世代の誕生に漕ぎ着けたのだ。しかも今度は食べられる心配もない。
【(やった! やったやったやった! 私が増えた!)】
誕生した次世代。その姿を見た瞬間、大きな悦びがナオミの意識を犯す。
単為生殖により生まれたが故に、誕生したナオミの子孫はほぼナオミと同じ姿形をしている。
単為生殖なら母親と同じ遺伝子を持つのだから当然……と言いたいところだが、暗黒生命体の単為生殖は地球生命のそれと違う。
暗黒生命体の身体を形作る細胞は、一つ一つが異なる遺伝子を持つ事が出来る。細胞同士で栄養の取り合いなど生存競争を行うが、一個体としての機能維持を最優先するため生命活動に大きな支障はない。細胞単位で演算能力を持つ暗黒生命体だからこそ、脳を持たない細胞達に優先順位を与える事が可能だ。もしも生命維持を優先しない『ガン』のような細胞なら、体細胞総出で排除してしまう。
この仕組みにより、様々な突然変異細胞を身体の中に保有する事が可能となっている。そして突然変異が不利であれば、細胞同士の生存競争により淘汰されて消滅。有利であれば、突然変異細胞が効率的に増殖して身体の中での割合を増やす。
この増えた割合に応じて、次世代の卵に含まれる細胞を変える。身体の中で突然変異と生存競争を行う事で、暗黒生命体は僅か一世代で急激かつ多様、しかも安定的な進化を遂げるのだ。
ナオミが生み出した子孫も、ほぼナオミと同じ遺伝子を持ちつつ、一部の細胞では突然変異が起きている。その細胞が有利な形質を持っていれば増殖し、より環境に適応した身体となるだろう。
そしてナオミから生み出された瞬間、この子孫も暗黒生命体――――その祖先であるネビオスから受け継ぐ衝動に従う。
自分の遺伝子を増やすのだ。
【キキャァアアアア!】
産声のような声は、身体から放出される余剰エネルギー。生まれたナオミの子は一直線に地面……人類が暮らす市街地に向かう。
着地と同時にエネルギー吸収能力を発動。ナオミの子は物質もエネルギーも、纏めて吸い尽くそうとしていた。当然人類も纏めて吸収していく。
極めて貪欲で、目の前のものをまず平らげる性質があるらしい。それが暗黒生命体の生態系で有利になるかは分からない。暗黒生命体の驚異的な演算能力を以てしても、急激に進化・変性していく暗黒生命体の生態系を予測する事など不可能だ。
だからこそナオミに出来るのは、とてもシンプルな行動のみ。
まだ腹に残っている九個の卵を、迅速に生み落とす事だけだ。
……………
………
…
【ン、ク、カァァ……!】
ぼこりと、大きな卵を生み落とす。生まれた卵はすぐに形を変え、ナオミを模した小さな姿となるや、翅を羽ばたかせて何処かに飛んでいく。
今ので十個目の卵。腹の中にあったものは全て生み終えた。
大きな卵を幾つも生み出すのは、ナオミにとっても大変な事だった。卵達はどれも母であるナオミからエネルギーを吸い取るものだから、体力を大きく消耗している。回復には何かを食べる必要があるが、破損した組織の再生をしなければ満足に動けない。
まずは組織の回復を優先するため、ナオミはその場に寝そべる。寝そべるも何も地面なんてなく、空中に漂う格好だが。
……そう、地面はない。
つい先程まであった、人類文明の市街地。何千億もの人々が暮らす区画は、跡形もなく消え去った。最早人の存在を示す痕跡さえもなく、ただ『無』の空間が広がるだけ。
その区画を食い散らかしたのは、ナオミが生み出した子孫達。
幼い子供達は、手近な場所にあるエネルギーを吸い取っていった。暗黒生命体からすれば物足りないエネルギー密度とはいえ、別空間を創り出せるほどバイオロイド文明は発達している。総エネルギー量はそれなりに多く、幼く狩りが下手な子供達の食事には丁度良いものだった。
数千億もいた人類は全てナオミの子達に吸収、つまり喰われたと言って良いだろう。
軍人など市街地から離れた位置にいたバイオロイドも、既に一人も残っていない。軍事基地は他の暗黒生命体達が跡形もなく食べ尽くしている。工業区画も一つ残らず食べられ、施設も人も欠片一つ残っていない。
バイオロイド文明本来の想定では、人間文明があった宇宙との間に設置した『緩衝空間』に暗黒生命体が入り込んだ時点で警戒し、避難を促す想定だったが……ナオミは直接この裏世界を襲撃している。逃げ出すどころか、暗黒生命体の襲撃に気付いた者すら皆無だろう。
バイオロイドも人間も、一人残らず食べ尽くされた。ナオミが率いた暗黒生命体によって、再興しようとしていた文明は完全な滅亡を迎えた。今はもう、暗黒生命体が泳ぐだけ。
残る『人類』はナオミ一人だ。
【(増えた、増えたっ。私の遺伝子、いっぱい増えたっ)】
その事実を認識しながら、産卵によって自分の遺伝子が数多く生まれた実感を得たナオミは幸福に浸っていた。
バイオロイドの理性を溶かす、暗黒生命体の身体からの
しかしこの幸福は、長く続かない。
暗黒生命体の身体はさっさと次の繁殖をさせたいのだ。自らの遺伝子を増やすために、悦楽に浸る『無駄』は最小限に留めなければならない。
【……………クヒッ】
次の繁殖の快楽を感じたくて、ナオミは笑いながら起き上がる。
卵のための資源を得るべく新たな獲物を捕まえようと、大きな触角で周囲を観測。暗黒生命体が群れる、かつて軍事基地があった領域へと戻ろうとした
瞬間、ナオミは背後から『大型動物』に襲われた。
【ガッ!?】
首を強く噛まれる。あまり頑強でないとはいえ、暗黒生命体化した皮膚が引き裂かれ、奥の肉まで何かが貫く。
背後からの奇襲であるため、何に襲われたか分からない。
だからひとまず暴れようとした、が、ナオミの手足にも何かが張り付き、そして噛み付く。一体だけではない。最低でも三体の生き物が、自分の身体を拘束している。
どんな奴に襲われているのか。腕に張り付いた輩を確認するため、ナオミはそちらを振り向く。
そこにいたのは、身長一メートルにも満たない、自分によく似た容姿の子供だった。
【ィ、ギァ】
理性が抱く困惑。その一瞬の隙を突かれたナオミは、今度は正面から現れた四体目の子供に襲われる。身体中に張り付くその子供達は、どう見ても自分が生んだ子孫にしか見えない。
その子孫達はナオミの腕を、足を、首を、そして胸を、大きな口で齧り取ろうとしていた。
暗黒生命体化したナオミに歯はない。だがこの四体の子供達には、歯に相当するものが生えていた。皮膚を破り肉を削ぎ、子孫達はナオミの身体を食べていく。
何故我が子が母の身体を食おうとしているのか。一瞬抱いた疑問は、暗黒生命体化した身体が教えてくれる。
単純に、腹が減ったから。
文明を跡形もなく食べ尽くし、他の暗黒生命体は遥か遠くの軍事施設跡地にたむろしている。そちらに向かうのも悪くないが……手近な位置にいた、母であるナオミを食い殺す方が手っ取り早いと判断したのだろう。産卵で疲弊している今なら勝てるという算段も、勿論考慮しているだろうが。
暗黒生命体にとって、実の親すら繁殖のための資源でしかない。食えそうならば食う。ナオミは、幼体達がそう思うぐらいの隙を晒してしまった。四肢を拘束され、首と胸を食われて、もう抵抗しようがない。
このままでは確実に食い殺される。
【(嬉しい。私の血肉で、私の遺伝子が増えるんだぁ)】
その確信を抱いた瞬間、ナオミは幸福を感じた。
遺伝子を増やす。その目的を果たせるのであれば、暗黒生命体は『自己』の生存にも頓着しない。
子孫達に親の身体を食わせ、成長させた方が生存率の向上に繋がる。成長した子孫が次世代を生む方が、ナオミが今後も生存して次の卵を生むよりも、多くの遺伝子を増やせる可能性が高い……ナオミの身体を構成する暗黒生命体の細胞は、そう計算結果を出した。
だから身体を食べさせる。痛みも苦しみも与えず、理性ある頭を蕩けるほどの幸福感で潰す。死への恐怖ではなく、死こそ幸福に感じさせる。
演算能力を持つ暗黒生命体の細胞達に、ナオミの理性は完全にコントロールされていた。
【グチャグチャグチャグチャ】
【ンギィ、ギギッ】
【シャグシャグシャグ】
腕を、足を、胸部を食い千切られる。中身である体組織を啜られて、自分自身が目減りしていく。
その感覚さえも幸福に変換されるから、ナオミは決して抵抗しない。四肢を広げ、子供達がより食べやすいよう身体を捧げる。
いずれこの子供達も、成長した時自分の子孫に身体を与えるだろう。自分の遺伝子をより確実に増やすために。
【(ああ、なんてしあわ)】
ぐしゃり。
幸福に浸るナオミの意識は、その意識の宿る頭を子孫の一体が噛み砕いた瞬間消えた。最期まで幸福だった親の身体を、子孫達は肉片一つ残さず食べ尽くす。
ナオミの身体を食べ終えたら、感慨もなく子孫達はこの場を後にする。自分の子孫を、遺伝子を増やすべく、新たな食物を探しに行くために。
かくして最後の『人類』が死に、ここで人類の絶滅は確定する。
されど人の血筋は絶えていない。暗黒生命体の遺伝子に取り込まれ、脈々と受け継がれていく。生存競争と突然変異と淘汰を経て、姿形を変えながらその数を増やしていく。
人類の遺伝子は、かつて以上の繁栄を遂げるだろう。
宇宙さえも食い尽くす、暗黒生命体の末裔に加わる事が出来たのだから。