「うぶぅ……む、むぐ、うぶぅ」
吐き気を堪えながら、ナオミは頬の中にある虫っぽいものを飲み込もうとしていた。
だが丸呑みに出来ない大きさなので、何度か噛まねばならない。そして噛む度に、暗黒生命体の肉からは恐るべき『不味さ』が溢れ出す。
その不味さにナオミは悶え苦しんでいる訳だが、実のところこれは奇妙な反応である。
バイオロイドは脳機能を思考によってある程度操作出来る。味覚というのは、舌から伝わってきた情報を脳で処理した結果だ。よって脳の味覚情報のインプット部分を蓋してしまえば、なんの味も感じない。
だから耐えられないぐらい不味いのなら、味覚機能を閉じてしまえば良い。そうすれば(一般的にそれを摂取する事はないが)吐瀉物だろうが糞便だろうが、バイオロイドは難なく食べられる。ナオミも暗黒生命体のあまりの不味さに、躊躇いなく味覚を遮断した。
ところがどういう訳か、まだ不味いと感じる。
「(遮断した神経系を通り抜けてくるってどーいう事なのよぉ……)」
味覚を遮断したのに不味いと感じるのは、例えるなら舌を切り落としたのに味を感じるようなもの。物理的にあり得ない結果だ。
しかもこの不味さ、どうにも言葉で表現出来ない。普通辛いだの渋いだの臭いだの、具体的な味や香りによって「不味い」と思う。ところが暗黒生命体の肉から、こういったものは感じ取れない。むしろ感覚的には無味に近いとすら思う。味覚を遮断しているのだから当然の感覚ではあるが。
無味も決して美味しくはないだろうが、叫ぶような味でもない。なのに何故か猛烈に不味いと感じるのだ。現代科学の理屈に合わない。
恐らく暗黒生命体の肉は『不味い』という情報そのものを、感覚器とは関係なく生命体の神経に叩き込んでいるのだろう。糖やアミノ酸の有無とは関係なく、
概念による現実改変能力――――バイオロイド文明でも未だ実現可能性が予言されただけの、超高度技術だ。暗黒生命体の『強さ』の一端を物語るといって良いだろう。
その使い道が、自分を食べた相手に不味いと思わせるためであったとしても。
「(いや、理由は理解出来るのよ? 凄く合理的とも思うのよ?)」
不味い、というのは生物にとっては利点である。何故なら天敵に狙われ難くなるからだ。
そもそも『不味い』という味は、その生物にとって有害な物質に反応している事が多い。例えば渋みや苦さはアルカロイドなどの有害成分に感じる事が多く、酸味は腐敗物に多い味だ。美味しくないと感じる事で、これらの物質が体内に入らないよう生物は進化したのである。
だからどんなに貪欲な捕食者でも、不味いものは食べない。それは自分にとって有害だから。捕食者に食べられなければ生き残り、多くの子孫を残せる。だから美味しくない生き物が繁栄する……極めて単純な自然淘汰の例だ。地球生命でも見られた進化であり、テントウムシは腹から苦い汁を出して捕食を回避しようとするし、野山の雑草だってどれも不味い。トウガラシの辛さだって、本来は多くの
暗黒生命体も『不味さ』を極める事で、天敵から逃れようとしているのかも知れない。そう考えれば何もおかしな事ではないだろう……概念操作というトンデモ能力で成し遂げている点以外は。
「(そこまでしないと食べられるとしたら、生存競争が激し過ぎよねぇ)」
人間の故郷を食い滅ぼした奴等に同情する気はない。しかし暗黒生命体の生き方も決して楽ではないのだと思うと、ほんの少し敵愾心が薄れる。
それと、好奇心も疼く。
食べただけ。それだけで生物進化の形跡が見付けられて……正直、ナオミは面白いと思った。
何しろ暗黒生命体は別宇宙からやってきた謎の生物。少なからず生物に興味があるなら、誰だってその生態は気になるだろう。人類の敵だとしても、だ。だから調べてみたいと思うのは、自然な気持ちだとナオミとしては主張したい。
そもそもナオミの任務は、この未知の生物の生態を調べる事。軍に暗黒生命体の危険性を伝えるのが最優先ではあるが、相手の事を詳しく知っておいて損はない。そして今食べているのは、貴重な生体サンプル。ここから得られる情報量は、一瞬で食われてしまうドローンや、ろくに活動していない休眠細胞の比ではないだろう。
……これでもナオミは軍属バイオロイドなので、人類への貢献を名目にしなければ中々行動出来ない『性分』に調整されている。つまりこれは言い訳。
「どれどれ〜」
心の中の名目が立てば、好奇心旺盛な顔を隠そうともしなかった。
探求の眼差しで見るのは、今その手に掴んでいるイモムシ型暗黒生命体。
体長は凡そ八センチ。そこらを飛び回るイモムシ型の暗黒生命体としては、かなり大きな個体だ。翅が身体の大きさの割に幅広かつ肉厚で、小さなイモムシ型に比べて表皮が厚く頑強など形態的差異が見られる。恐らく個体差ではなく種の違いによるものだろう。
『狩り』の際に強く握り締めており、その分厚い表皮を突き破って中身が飛び出している。普通の地球生命であれば間違いなく致命傷だが、この暗黒生命体は身体を大きく左右に振るぐらい元気だ。その元気が断末魔でない事は、破れた皮膚が再生し、飛び出した中身が体内に戻ろうとしている点からも明らかである。
遠慮なくもう一度握りして、中身を絞り出す。
外に出てきたものは、内臓というより体組織のようだ。粘り気が強く一塊になっているが、指で触れた感触からして液体らしい。指の腹ですり潰してみたが、繊維一つ出ず、その湿り気自体が微かに蠢いている。
どうやら暗黒生命体の体組織は、液体で出来ているらしい。筋繊維どころか血管や内臓も見られない。或いは肉眼では確認出来ないぐらい、小さなものなのだろうか。
「(なんにせよ、構造は恐ろしく単純ね)」
繊維も骨も血管も内臓もない、原始的な身体構造。
生物に関心がなければ、その下等さに気を良くするかも知れない。所詮下等生物か、といった具合に。
だが現実は、下等生物だからこそ手が付けられないと考えるべきだ。構造が単純であれば、その『生産』に必要なコストは極めて低い筈。コストというのはエネルギーや資源量の事だけでなく、費やす時間なども含む。
つまり暗黒生命体は短時間での増殖を得意とする、繁殖力旺盛な生物だと言える。何もかも食べて、爆発的に増えていき、数の力で埋め尽くす……これが暗黒生命体の必勝パターンなのだろう。
そんな事は宇宙を食い尽くされた時点で分かっているが、身体構造から裏付けられた形だ。繁殖能力の高さが、肉体構造に由来する事を突き止めたのは大きい。原理が分かったなら、それを邪魔すれば良いのだ。
無論たったこれだけで宇宙を飲み込むほどの繁殖力は出せまい。他にも何か能力がある筈だ。その能力の一つについては、暗黒生命体化しつつある身体が教えてくれた。
「(掌から感じるわ。じわじわと染み出すように、この暗黒生命体の身体からエネルギーが出ていて、私の身体はそれを吸っている)」
『エネルギー吸収能力』だ。
どうやら暗黒生命体の身体には、エネルギーを吸い取る能力があるらしい。しかも感覚的に、熱も電気も光も、恐らくほぼ全てのエネルギーが対象となっている。
これも、人類にとっては既知の力である。暗黒生命体が宇宙に初めて現れた時、人間文明は様々な攻撃を行った。その中でも最初期に食らわせたのが、プロメテウス砲による一撃。プロメテウス砲は次元圧縮理論に基づき、膨大なエネルギーをブラックホール以上に圧縮して叩き込むという、単純ながら強力な攻撃だ。恒星はおろか、超重力の塊であるブラックホールさえも破壊する威力を有す。
しかし暗黒生命体はこの攻撃に耐えた。耐えたというより、まるで効果がなかったと言うべきだろう。全宇宙に配備された十九機から一斉掃射されたが、観測した限り暗黒生命体の個体数は減りもしなかったと記録されている。
この攻撃時の記録から、暗黒生命体はエネルギーを吸収する能力を持つと考えられていた。暗黒の体色も、光エネルギーを吸収した結果の色合いと考えられている。どんな攻撃も、吸収されてしまっては意味がない。よって暗黒生命体を倒すには、エネルギー吸収能力を上回る打撃を与えるか、吸収能力の対象外の攻撃を与えるしかないと言われている。
ほぼ確定的に語られていたが、あくまでも仮説。ナオミの感覚により『実証』された訳だ。いくら確信があっても、仮説と実証は全然違う。人類の命運を預ける情報ならば尚更だろう。
そしてこの能力、どうにも限界が感じられない。まるで底なし穴のような、果てなど最初からないような感覚がある。
「(凄く厄介ね。どんなエネルギーも際限なく吸収出来るって事は、対抗手段なんてないじゃない)」
エネルギーというのは、単に熱や電気、光などの事ではない。
物質さえも本質的にはエネルギーの塊だ。例えばものに触れる、つまり通り抜けないのは、原子の持つ電磁エネルギー同士が反発した結果だ。また質量の九十九パーセントは強い相互作用によるもの。人が『物』と思う特徴は、全てエネルギーに由来する。
ならばエネルギー吸収能力とは、究極的にはあらゆるものを取り込んでしまう力である。物質であろうとも、触れた瞬間吸い込まれてしまうのだ。熱血アニメよろしく、レーザーが効かないなら拳でと殴りかかれば、その瞬間暗黒生命体に吸収される。ナオミが暗黒生命体を触れるのは、同質の能力で中和しているお陰だ。能力なしでは、戦いの土俵にすら上がれない。
この尋常でないエネルギー吸収能力により、暗黒生命体は宇宙にある全ての元素を食べ尽くした。鉄も酸素もケイ素も、エネルギーに変換すれば全部一緒。後で再構築すれば鉄から酸素を生み出す事も、水を作り出す事も容易い。栄養価なんてものは存在せず、ありとあらゆるものが餌となる。
恐るべき能力だ。だが、現実との矛盾点もある。
それは一体当たりの質量と、吸収したエネルギー量の帳尻が合っていない事だ。質量は一グラム当たり九十兆ジュールものエネルギーを有する。これはかつて人間が初めて実戦投入した核兵器である、広島型原爆に匹敵するエネルギー量……だがこれは、言い換えれば九十兆ジュールもあれば一グラムの質量に相当するという事。仮に超新星爆発のエネルギーを全て質量に換えたなら、十京トン程度にはなるのだ。ブラックホールさえ吹き飛ばすプロメテウス砲のエネルギー量なら、もっと多くの質量を生む。
ところが暗黒生命体は、プロメテウス砲を受けてもすぐには繁殖していない。
その後繁殖を開始したので、エネルギーの活用はしたのだろう。しかし一時的にだが、暗黒生命体は体内に十京トンを遥かに超える質量を溜め込んだ筈なのだ。ほんの数センチの小さな身体に、である。普通ならその巨大な体積によって弾け飛ぶ。
この奇妙な現象については、現在のバイオロイド文明でも解明されていない。暗黒生命体にエネルギー吸収能力があるという説への、反論として使われるほどだ。解析しようにも生息地である宇宙に侵入したドローンは一瞬で喰われ、休眠中の細胞の解析も上手く出来なかったため今も謎のまま。
しかし暗黒生命体化したナオミには分かってしまった。答えは物凄く単純だった。
「(コイツらの身体、滅茶苦茶高密度のエネルギーで出来てる……)」
暗黒生命体はほんの一立方センチメートル程度の身体を作るにも、超新星爆発以上のエネルギーが必要らしい。
人間文明やバイオロイド文明において、一立方センチメートル程度の大きさを作るのにここまで膨大なエネルギーが必要な物質は知られていない。というより理論上あり得ない。そんなものがあるとすればブラックホールの内側こと特異点だけだが、特異点では物理法則が破綻しているため物性なんて生じ得ない。
ならば恐らく、暗黒生命体の身体は
未知の物理法則に従う物質となれば、それこそどんなものもあり得てしまう。「どんなものも」とは、人類には理解どころか認知すら出来ない存在さえも内包するという事。たとえ認知出来ても、それが常識の範疇にあるとは限らない。1+1=Bまたは6、ぐらい意味不明な性質という事もあり得る。
暗黒生命体は人類にとって、理解出来る存在ではないかも知れない――――こんな事になっては、研究も対策も出来っこない。難解であれば挑む価値もあるが、理解不能は本当に、挑む意味すらなくしてしまう。
「(こんなの相手に勝とうとしていたとか、知ってしまえば最早滑稽ね)」
暗黒生命体に勝利する事が如何に困難であるが、ただ一匹食べただけで次々と明らかになる。
人類にとって絶望的状況にも思えるが、ナオミの考えは違う。軍は暗黒生命体の駆逐を考えているが、暗黒生命体の実力を示せば戦いを諦める可能性が高い。諦めれば安全圏に逃げ出し、生き残るという選択を取れるようになる。
ナオミは元々暗黒生命体と戦う事はリスクだと考えていた。逃げる事に方針転換してもらうのに、これらの情報は役立つ。仮に、これでもまだ軍が戦いを諦めなかったとしても……もう一つ、そして決定的に、人類の不利を突き付ける情報があった。
それは、何故暗黒生命体が宇宙を埋め尽くすほど増えたのかの答えでもある。
「(力が湧き出してる。気合いという意味じゃなくて、物理的に)」
握り締めている暗黒生命体から感じる、強いエネルギー。それはナオミの手が吸収していくが、何時までも途切れない。しかも暗黒生命体の体重は、減っているようには感じられない。
根拠はその手に感じるもののみ。
だがナオミは自信を持って言える。暗黒生命体は、無からエネルギーを創り出していると。
即ち、エネルギー生成能力だ。バイオロイド文明には、あたかも無からエネルギーを生み出しているように見える次元転送エンジンがある。しかしあれは平行宇宙から力を引き出しているだけ。無から生み出している訳ではない。未だ人類は一千年以上前に考え出された理論である、エネルギー保存則を打ち破れていないのだ。
人類が知る限り、無から有が生まれた瞬間は宇宙誕生の時のみ。無からエネルギーを生み出す暗黒生命体は、創世神話に出てくる神の所業を行っていると言えよう。それがどんな理屈によるものかは分からない。異次元物質由来の力か、人類が観測可能な物理法則由来なのか。あらゆる可能性があり得る以上、回答可能かどうかさえ断じる事は不可能。
そんな超常の力を、ほんの数センチの個体ですら使っている。こんな小さな虫さえも人類にとっては神に等しい存在。歯向かうどころか制御や利用を考える事さえおこがましい。
いや、そんな事は些末な問題だ。
もしも暗黒生命体が無からエネルギーを創り出せるとすれば……暗黒生命体の総数に限界はない。人類がのんびり研究している間も、暗黒生命体はどんどん数を増やす。
数が増えればその分、生存競争も激しくなる。天敵やライバルも増えるからだ。これらとの戦いを勝ち抜くには、より優れた身体能力や、強大な能力が必要になるだろう。強い力にはより多くのエネルギーが必要だが、暗黒生命体の数自体が増えれば餌も豊富となる。豊富な餌を食べれば、強い力を維持する事は難しくない。
より強い個体が生き残り、多くの子孫を残す。新しく生まれた子供達も天敵やライバルと競い、より身体能力の優れた個体が生き残って子孫を残す。世代を重ねるほど、どんどん強くなる。
本来ならその進化はいずれ止まる筈だ。様々な理由でエネルギーの摂取量が頭打ちになるからである。どれだけ食べ物に溢れていても、人間が一日に食べられる量には限度があるのと同じように。だが暗黒生命体の身体は異次元物質という名の、超高密度のエネルギーで出来ている。身体能力を上げるために、より高密度エネルギーの異次元物質で身体を作れば、それを食べる生物はより多くのエネルギーを得られるだろう。
エネルギーが得られるのだから、もっと強い身体能力を持てる。競争相手や獲物も対抗して強くなるが、するとエネルギー量が増える。だからもっと強い身体能力を持てる……
無からエネルギーが生まれる事で、暗黒生命体の進化には限界がなくなっているのだ。暗黒生命体は今も生存競争を通じて進化し続けている。そしてその速度が、人類の技術発展を下回るとは限らない。
もしも暗黒生命体の進化が人類の技術進歩よりも早ければ、この戦いに勝てる道理など存在しないだろう。
一匹で別次元に侵入した個体が休眠し、ナオミが飢餓感に苛まれたように、恐らくエネルギー生成能力にも制約はある。例えば基礎代謝以上のエネルギーは作れない、というような。しかしそれがなんだというのか。
暗黒生命体に果てがない以上、人類に勝ち目などない。その『事実』を、ナオミは身体でひしひしと感じ取った。
「(……これは、ヤバいかも)」
ここまで考察したところで、ナオミは自身の状態が好ましくないのではと思い始める。
暗黒生命体の身体について、あまりにもすらすらと理解しているからだ。しかも科学的解析ではなく、ほぼ直感や本能によって。
暗黒生命体の身体を一番理解しているのは、暗黒生命体自身だろう。
そう考えると、現時点でナオミの身体は暗黒生命体化の細胞にかなり侵食されている可能性がある。ナオミは人類のため、軍に暗黒生命体の危険性を伝えようと奮闘している訳だが……自分自身が危険な暗黒生命体になっては元も子もない。
浸食が進み、不意に理性を失って裏世界への侵入を試みるようになる前に、自己破壊をすべきではないか。
脳裏に浮かんだ選択肢に対し、ナオミは顔を横に振った。自己破壊はまだ必要ない。暗黒生命体化は深刻な水準ではなく、むしろ全然安全圏だろうとすら思う。理由はこれまた本能的なものなのだが、しかし確信を持って言えた。
こんなものではない。
この程度の情報など、暗黒生命体からすればほんの一部でしかないのだから。
「……はぁー、やれやれ」
独りごちながら、片手に掴んでいたイモムシ型暗黒生命体を口に押し込む。しっかり咀嚼し、難なく肉を飲み込むが、吐き気がするほど不味い。
不味いと思えるなら、きっとこの身体はまだまだ暗黒生命体には遠く及ばない。奴等は味など気にせず、バクバクと食物連鎖を繋げているのだから。
更なる調査と、裏世界との連絡手段を確保するだけの時間はまだある。ついでに暗黒生命体の、生命としての生態を解明する猶予もある。なら、焦る必要はあるまい。
考え直したナオミは、栄養補給を済ませると背中の翅を羽ばたかせてこの場から飛び立つのだった。