痛みは感じない。
だが全身の細胞から『警告』を感じる。今、自分の生命は危機的状況にあると。尤も、そんなものがなくとも明らかだろう。
胸を貫いて伸びる一本の『棘』と、その先に付いている自分の心臓の肉片が丸見えなのだから。
「(……やらかしたー)」
自分の失敗を自覚して、ナオミは心の中で独りごちる。
胸を貫いた棘は、太さ十センチ長さ五十センチといったところ。背骨と胸骨を容易く粉砕し、痛みや異常を感じる前に貫通してきた。恐るべき鋭さ、或いはパワーと言えよう。
バイオロイドは人間よりも生命力に優れる。特に怪我を負う事が前提の、軍用バイオロイドならば尚更だ。だとしても心臓を貫かれたら死は免れない。
考え込み過ぎた、と言うべきか。軍用バイオロイドの本能として、人類を救える可能性に気付いたらそちらを優先してしまった。その結果背後から迫る敵に気付かず、心臓を抉られてしまうとは。
後悔先立たず。今更反省しても、泣いて謝ろうと、貫かれた心臓がナオミの身体に戻る事はない。
戻る必要もないが。
「ぅああッ!」
渾身の回し蹴りを、ナオミは背後にいるであろう何かに向けて放つ!
普通ならば即死する傷。だが今のナオミは普通のバイオロイドではない。暗黒生命体化が進んだ存在であり、臓器の一つ二つが欠損しても生命活動を維持出来る。
ならば後悔だのなんだの考える前に、とりあえず一発食らわせる!
しかし背後の相手は、やはり一枚上手と言うべきか。ナオミが蹴りの動作に入った、そのほんの一瞬前に動き出していた。棘も引き抜いたが、この棘、見えないぐらい小さな『返し』でも付いているのか。心臓を引っ掛け、そのまま引きずり出してしまう。そいつはナオミが繰り出した技を掠めるように躱し、心臓を奪いながら離れていく。
ナオミも無理には追わず、まずは後ろに下がる。無意識に胸の穴を手で抑えていたが、身体の肉が蠢き、再生していくのを感じ取れた。放っておいても、この
それよりも優先すべきは、自分を攻撃してきた者の把握。故に真っ直ぐ前を見る。
「……………!」
見た瞬間、悪寒がぶわりと駆け巡った。
ナオミと相対するのは、一体の大型暗黒生命体。
長さ一メートルはある翅、というより翼のような器官を二枚広げている。翅は殆ど動かしていないが、身体はゆらゆらと揺れ動いていた。静止していないというより、こちらを翻弄しようとしている動きに見える。
その身体は頭と胸と腹の三つに分かれた、地球の昆虫とよく似た構造をしていた。頭二十センチ、胸三十センチ、腹五十センチほどの大きさで、合計した体長は約一メートル。身体は何処も甲殻質で、鎧に覆われているかのように無骨だ。
頭部には複眼と思しきものがあり、大きく発達している。左右に開く大顎は牙のように太くて鋭く、獲物の肉を切り裂くのに適した構造だ。今はぐちゃぐちゃと、奪い去ったナオミの心臓を食べている。触角は糸のように細長く、うねうねと自在に蠢く。獲物であるナオミの情報を、この触角で掻き集めているのだろう。
胸部分の背面から翅、側面からは二本だけ脚を生やしている。脚や翅の付け根以外全てが甲殻に覆われていて、生半可な攻撃は通じそうにない。腹部は太く、こちらも甲殻に覆われているが、蛇腹のような構造をしているからか自由に動く。高い防御力と可動性を両立させた構造だ。
特徴的なのは二本しかない脚、いや、腕と言うべきだろうか。
腕の先端が長く鋭い、棘のような形になっている。物を掴む機能は完全に捨て去り、相手を刺し貫く事に特化した形態だ。腹部末端に針のような器官は見当たらず、突き刺す能力があるのはこの両手のみらしい。
毒針こそ持っていないが、地球の生物であるハチ、それもスズメバチに似た形態の種だ。暫定的にスズメバチ型と呼ぶ。
スズメバチ型はナオミから目を逸らさない。しかしナオミだけを意識している訳ではないらしく、触角を忙しなく動かしている。周囲の警戒はバッチリ、といったところか。
対するナオミはスズメバチ型から目を逸らさない。いや、逸らせない。今も周囲には無数の暗黒生命体がひしめいているが、それらも気にしない。
一瞬でも意識を外せば、今度こそこのスズメバチ型に殺されるという確信があった。
「(これはちょっと……エグいなぁ)」
冷や汗が止まらない。流した汗に小さな何か(バクテリアサイズの暗黒生命体だろうか? いても不思議ではない)が蠢くような感覚を覚えるも、拭う気さえ起きない。
確かに、身体の大きさではナオミが圧倒的に勝っている。成人女性と幼稚園児ぐらいの体格差だ。もしもナオミが完全な暗黒生命体なら、或いはスズメバチ型が地球生命だったなら、戦いになれば高確率でナオミが勝っていただろう。
しかし今のナオミには、コイツに勝てるイメージが沸かない。
それどころか今までろくに意思疎通が取れなかった、暗黒生命体の細胞由来と思われる「逃げろ」という感覚が来る始末。きっと、身体の主導権を握るバイオロイド脳に危険性を伝えるため、ありとあらゆる方法を試したのだろう。
ちょっと意地っ張りな性格なら、おめおめ逃げるなんてと思うかも知れない。
だが思った瞬間、そいつは死ぬ。
ろくに戦ってもいないのに、そう確信するぐらいの警戒心がナオミの頭を満たす。幸いと言うべきか、ナオミは自己に対する意地なんて持ち合わせていない。逃げる事に一片の迷いもなかった。
強いて懸念を言うなら二つ。一つは、周りに小型の暗黒生命体が群れ始めた事。戦いが始まってまだ間もないのに、既にエネルギーを求めて集まり始めているらしい。小型種の一匹二匹であれば障害にならないが、何百万といれば話は別だ。逃げるには、この群れを強行突破しなければならない。
とはいえ小型種もナオミの体当たりを喰らいたくはあるまい。余程鈍臭い個体以外は、ナオミが近付けばさっと逃げるだろう。だからこの懸念は大した問題ではない筈だ。
もう一つの、無視出来ない懸念――――そもそも逃げられるのか、というのに比べれば、どうでも良い事だろう。
「(やるだけやらなきゃ、ね……!)」
兎に角今は逃げるべき。身を翻す事もなく、背中にある翅の動きだけで後退を試みる。
するとスズメバチ型は俊敏に、距離を詰めてきた。
一瞬だった。かつてより身体能力が向上した筈のナオミであるが、スズメバチ型の動きは全く見えなかった。気付いた時にはもう、鋭く伸びた腕の射程圏内に入ってしまう。
更に攻撃も一瞬。
「ぐうぅっ!?」
反射的に、思考を介さずに左腕が動いてくれなければ……今頃スズメバチ型の手はナオミの胸部をまた貫いていただろう。
あまりにも速く、そして鋭い一撃だ。攻撃力に特化した形態だからこそ出せる威力は、盾代わりに構えられたナオミの腕を容易く貫通する。
しかし突き刺し攻撃は、それ自体が弱点でもある。深く肉に食い込んだ棘は、簡単には引き抜けない。
「(腕の筋繊維を引き締めて、身動きを封じる!)」
意識した通りに身体は動き、筋繊維は瞬時に収縮。突き刺さったスズメバチ型の手先を、筋繊維が雁字搦めにして縛り上げた。片手を拘束すれば、スズメバチ型は離れる事など出来ない。
この隙にナオミは自由な右手の拳を振り上げ、力を込めていく。身体中のエネルギーを掻き集めようと意識すると、本当に全身からエネルギーが集まり出す。そんな使い方が出来ると思ったのでやってみたら、本当に出来てしまった。
今でもこの身体の機能を百パーセント使いこなせているとは思わない。
だが今は色々な事が分かる。恐らく先程心臓を貫かれ、その再生をした時に暗黒生命体の細胞が増殖。より一層の暗黒生命体化が進んだのだろう。決して好ましい状態ではないが、今はそんな事を言っている場合ではない。
「これでも、喰らえ!」
今の自分に出せる最大最強の一撃を、スズメバチ型の顔面目掛けて振るう!
繰り出した拳は、煌々と光り輝いていた。いや、厳密には光っても輝いてもいない。発しているのは光エネルギーではなく、もっと別の、人類にとって未知のエネルギーだ。
未知のエネルギーが何を引き起こすかなんて分かりようもない。だが直感的に、惑星どころか恒星の一つぐらいなら粉砕出来るとナオミは思った。余波も含めればどれだけの被害が出るか、分かったものではない。最早人類の生活圏では使う事さえ許されない力だ。
それほどの攻撃をスズメバチ型は回避せず。ナオミの拳は獰猛な顔面を殴り飛ばした。
――――否、殴り飛ばす、というのは正しくない。
真正面から叩き込んだ、が、スズメバチ型は微動だにせず。それどころか殴り、触れているのに、叩いたという感触が一切感じられない。
間違いなく、効いていない。
刹那、ナオミの脳裏に一つの可能性が過った。頭で考えたのではなく、身体の奥底から噴き出すような思考。そんな馬鹿なと理性的に言いたくなるが、逆に何故否定出来るのかと即座に反論も浮かぶ。
「ぐ、こ、の……!」
その『合理的意見』を無視して、今度は左腕に突き刺さったままの、スズメバチ型の手を引き抜こうとする。渾身の力を込め、押し出そうと奮戦する。
なのに、スズメバチ型の手は更に深々と入り込んできたではないか。
スズメバチ型が押し込んできたと思ったが、見たところスズメバチ型の身体には全く力が入っていない。無感情な節足動物の顔から意思を窺う事は出来ず、実際意思と呼べるものはないのかも知れない。行動と呼べるような動作は何一つしていないようだ。
だとするとナオミに刺さるスズメバチ型の鋭い棘は、スズメバチ型の意思と関係なく進んでいるのか。
もしもそうであるなら、まるで自分自身の力が腕を押し込んでいるかのようで。
「(こ、コイツ、まさか運動エネルギーを自由に制御出来るの!?)」
故に一度は否定した、身体の奥底から込み上がった考えを認めるしかない。
いや、そもそも何故否定出来ると思ったのか。相手は異次元物質で身を作る存在。どんな能力を持ち合わせていようと驚くに値しない。
殴っても効かないのは運動エネルギーを吸収したため。腕を押し出すつもりが更に食い込んできたのはベクトルを反転させられたから。ほんの二回の攻防だが、感じた手応えや感触からしてそうとしか説明出来ない。それに初撃で胸に突き刺さった棘を引き抜く時、心臓も一緒に引き抜かれた。あの時は棘に小さな返しでもあるかと思ったが、恐らくこれも運動エネルギーの操作により、心臓の動きを制御したのだろう。
この予想が正しければ、スズメバチ型に物理攻撃は通用しない。殴ろうが蹴ろうが噛み付こうが、その身体には傷も与えられない筈だ。背後から突き刺し、心臓を持ち去った時には蹴りを回避したのでなんらかの弱点はあるようだが……見当が付く。
恐らく一度に設定出来る制御方法は一種類だけなのだろう。そしてその制御は敵だけでなく、自分の動きにも反映される。心臓を持ち去ろうとした時に物理攻撃を吸収や反射をしたら、身体の動きが止まってしまう可能性が高い。強力ではあるが、使い勝手が良い訳ではないらしい。
しかしその弱点は、同時に強みでもある。どうやるかは兎も角、例えば体内に突如衝撃波が発生する攻撃を受けたとして――――自分自身を運動操作能力の対象外にしていたら、この攻撃は防げない。中に入りこまれた以上、それは既に自分の一部なのだから。だが自分さえも能力の対象であるスズメバチ型なら、この攻撃を吸収・操作する事が可能だ。力を受け流し、無効化する事が出来るだろう。
……このような能力が進化したという事は、直接体内に攻撃を発生させるような種がいるのだろうか。それも自分を能力の対象外にするメリットを上回るほどの頻度で遭遇するぐらい。
「(って、今はそんな事どうでも良い!)」
絶対自分では勝ち目のない存在が想定されるが、今は暢気にぞっとしている場合でない。そんな馬鹿げた想像よりも、目の前の捕食者の方がずっと危険だ。
他に付け入る隙があるとすれば、恐らく常時発動している能力ではない事。攻撃や移動時に運動制御なんてしていたら、思うように身体を動かせない筈だ。だからなんらかの動作中であれば、攻撃が通じる可能性は高い。
高いが……スズメバチ型は見た目からして、かなりの武闘派。頑強な甲殻、ナオミを貫く強度がある両手は、簡単には破壊出来そうにない。唯一脆そうな翼も、大きくて分厚いため相応の耐久があるだろう。ナオミがどれだけ力を集めたところで、一撃で倒す事は恐らく不可能。おまけに動きは俊敏であり、判断力にも優れ、相手の動きを読むのも上手い。
無敵に思える能力に加えて、フィジカル面も普通に強い。それに、ダメージを与えていないので確認出来ていないが、恐らく再生能力もある。大型捕食者でも暗黒生命体が再生力に優れているのは、この宇宙に来たばかりの頃襲ってきたムカデ型が角イモムシに切り裂かれても生きていた事から明らか。胸や腹を文字通りぶち抜いたところで、スズメバチ型からすれば仕切り直しぐらいのものでしかあるまい。よって油断した瞬間に致命の一撃を与える、という起死回生の策は通じないだろう。
何から何まで、付け入る隙がない。
「(そりゃそうなんだけどね……喰われる側が、喰う側に勝てないのはさ)」
どれだけ強く逞しいカブトムシでも、カラスからすれば食べ応えのある餌に過ぎない。
どんなに知恵と勇気のあるネズミでも、フクロウに襲われれば逃げ惑うしかない。
生態系における食う食われるの関係は、極めて絶対的だ。というより捕食者も怪我はしたくない(自然界に病院も何もないのだから死に直結しかねない)ので、苦労せずに仕留められる生物を獲物にするのが普通である。ナオミを襲ったからには、スズメバチ型は容易く勝てるという自信がある筈。
そしてその自信は、決して過信の類ではあるまい。暗黒生命体がひしめくこの宇宙で、奴等は激しい生存競争を繰り広げている。常に天敵やライバルと競い、生き延びたものだけが今此処にいるのだ。このスズメバチ型暗黒生命体も、数多の獲物や天敵と戦い、生き延びてきた猛者である。今更
対してナオミの実戦経験は、小型種相手に手を振り回した程度。仮に身体能力が互角でも、ここまで経験に差があっては勝ち目などない。
「(だからって、こんなところで死ぬ訳にはいかないのよ)」
それでもナオミは諦めない。軍用バイオロイドとして、人類に暗黒生命体の脅威を伝えるため、最後まで生存を試みようとした
瞬間、視界の左半分が消えた。
何かに覆われた? 或いは毒液でも掛けられた? これら当然考えるべき可能性をナオミは何一つ思考していない。それどころか意識が薄れ、思考が停止していく。
ナオミは気付かなかった。
スズメバチ型のもたげた腹部、それが目にも止まらぬ速さで振るわれた事に。蛇腹状の腹部は自由に動かせるだけでなく、パワーとスピードも兼ね備えていた。スズメバチ型の武器は二つの両手のみならず、腹部含めた『三つ』なのである。
力強く振るわれた腹部による打撃は、ナオミの頭部左側を狙った。この攻撃が見えていないナオミは、防御なんて出来ない。おまけに左腕はスズメバチ型に貫かれていたため、身体も無意識の防御態勢を取れず。
直撃を受けたナオミの頭部左側は、一撃で粉砕されてしまった。
「ぇ、あ……………」
頭蓋骨のみならず、脳まで届く大損傷。先程までの挫けぬ意思はあっさりと消えて、ナオミの身体から力が抜け落ちる。
脳の破損は人間だけでなく、バイオロイドにとっても致命傷だ。
脱力したナオミを見て、スズメバチ型は動きを止めてしまう。まるで戸惑うかのように。暗黒生命体の生態系で生きてきた故に、まさかこの程度でやれるとは思っていなかったのだろう。ほんの少し、攻撃の手が緩んだ。
そのほんの少しの間に、ナオミの身体に力が戻る。
だがそれはナオミの意思ではない。そもそも人類的な自我を形作るには、物理的に脳機能が足りていない。今のナオミを動かすのは、身体を形作る暗黒生命体の細胞だ。
頭が砕かれ、腕を貫かれても、ナオミの身体は悲鳴一つ上げない。上げたところで無意味だと、細胞単位の本能で知っている。身体にとって重要なのはこの状況から脱し、生存する事。そのための行動のみを行う。
しかし、状況は圧倒的に不利。
暗黒生命体に身体の主導権が移った事で、身体能力をフル活用出来るようになった。だが相手も暗黒生命体だ。大きさこそナオミが勝っているものの、『不純物』だらけの肉体では、いくらフルパワーを発揮しても純正の暗黒生命体には敵わない。
加えて、餌として食べていた小型のイモムシ型と違い、このスズメバチ型は捕食者だ。生物と戦い、殺す事に特化した種族。イモムシ型のような繁殖力はないが、それを補って余りある戦闘能力を有す。『雑食性』である人間の身体構造では太刀打ち出来ないだろう。
まともに戦って勝てる相手ではない。『身体』にそんな思考は出来ないが、本能的に状況は把握した。故にこの後取るべき行動は一つしかないと判断する。
逃走だ。
結論を出したら即行動。逃げるためにまずは左腕を自切した。バイオロイドの肉体にそんな機能はないので、肉体の動きで引き千切ったというのが正しい。棘に貫かれた腕など邪魔でしかないので、捨ててしまうのが合理的。
ナオミの身体が動いてから、スズメバチ型も行動を起こす。もう片方の手で、再びナオミを串刺しにする算段だ。しかしそれよりも先に、ナオミは残った右腕に全身のエネルギーを集める。急速に溜め込まれた力によって、ナオミの右腕はボコボコと膨れ上がり――――
ナオミの身体はこの右腕も、あっさり切り離した。
しかし離れたところで、一度溜め込んだ力は消えない。なおも膨れ上がる肉の塊は、スズメバチ型の繰り出す棘の行く手を遮った。ぶすりと突き刺さればその瞬間、蓄積されていたエネルギーも刺激される。
直後に起きたのは、暗黒生命体にとっても強烈な爆発だった。
爆発を前にして、スズメバチ型は防御体勢を取る。両手を前に構えた体勢であり、ただそれだけで衝撃を殆ど無効化していた。ベクトル操作能力を使うまでもない様子だ。
対するナオミの身体は、衝撃をもろに受けて遥か彼方まで吹っ飛ぶ。
空中でぐるんぐるんと大回転。片足が千切れ、残っていた耳と眼球も吹っ飛んだ。だがこれで良い。これだけの勢いで飛んでいけば、スズメバチ型から距離を取れるのだから。
スズメバチ型は追ってこなかった。ナオミの飛んでいく速さ、既に飛んでしまった距離、摂取出来たエネルギー量、そして周囲にいる他の暗黒生命体……総合的に考慮した結果、追わない方が良いと判断したのだろう。
ナオミの身体は警戒を緩めず、吹き飛びつつ体勢を立て直す。手足、それと頭部の再生を始めたのだ。
ただし元通りではないが。
新しく生えた腕の構造は、人間とは全くの別物。真っ黒な色彩をし、人間のような『関節』を持ち合わせていない。人間の腕と呼べる程度の形はしているが、三百六十度あらゆる方向に曲がるそれは断じて人間のものではない。指にも関節や爪はなく、先端が硬質化した、節足動物の『脚先』のようになっている。
脚も同様だ。やはり人間に似た形こそしているが、関節は持ち合わせていない。全体的に黒ずんだ脚の前面には甲殻が生じ、防御力が上がっていた。
更に臀部からは、ずるりと尻尾が生じる。長さ二メートル近いもので、付け根よりも先端付近の方が太い。甲殻や体節がないため、自由に動かす事が出来る構造となっている。
そして頭部。
こちらはかつての、ナオミの頭部をほぼ再現している。しかし耳の上部分から硬く、細長い触角が生えてきた。触角は前を向いていて、アンテナのようにも、角のようにも見える。
鼻の中は塞がった。今は痕跡が残るだけ。口内から舌もなくなり、眼球も硬質化したレンズ状のものに変化した。背中から生えていた二枚の翅も長さ一・五メートルまで伸び、ハチに似た薄い膜状のものへと育つ。
胴体と頭に人間味があるため、一見して人類に見える容姿だが……確実に人間ではない姿だ。
「……………ん、んん……」
それでも身体の修復が終われば、ナオミは意識を取り戻す。
覚醒したナオミは、空間をゆったりと漂う。
自分の手足がある事、顔が治っている事を、ナオミは肉体の感覚で理解した。そしてそれらの身体部位が、バイオロイドのものとは大きく異なる事も、服一枚纏っていないがために目視で把握出来た。
確実に、人外へと近付いている。
確実に、人類の敵になりつつある。
その事実を認識した上で、ナオミはゆっくりと身体を起こす。地面も上下もない、何もかも食い尽くされた世界を眺めるように座り込みながら沈黙。
やがてぽつりと、独りごちるように口を開く。
「あー、これはダメな感じね」
淡々と呟く諦めの言葉。
それは自分の中から『人類への貢献』という考えが消えたと自覚して漏れ出た、最後の理性の一言だった。