Identity. 作:安眠一兎
スマホでベタ打ち→チャッピーに誤字脱字修正頼むで読める形が整うの凄い技術の進歩だ......
警報は鳴らなかった。
計画通りだった。
監視室の映像は十五分前のものを繰り返し、監獄の電子錠は整備中を示す黄色いランプを灯している。施設の超能力妨害装置――ECMは、外部の協力者が予備電源ごと潰したはずだ。
男は掌を鉄扉へ向けた。
念動力。超度四。
蝶番ごと引き千切るには十分だった。
「――開け」
力が立ち上がる。
直後、足元の床が砕けた。
「なっ……」
鉄扉は微動だにしていない。
代わりに亀裂が蜘蛛の巣のように広がり、男は崩れた床へ膝をついた。
「おい、何してる!」
「俺じゃない! 扉を狙った!」
背後で火花が散った。
発火能力者の女が、監視カメラへ伸ばした指を慌てて振る。炎はカメラへ飛ばず、青白い火球となって掌へまとわりついていた。
「消えない……!」
「妨害装置が生きてるぞ!」
「馬鹿な。発動はしているんだぞ!?」
誰かが叫ぶ。
瞬間移動能力者が舌打ちし、仲間二人の肩を掴んだ。
「先に外へ出る。座標固定――」
三人の姿が掻き消える。
次の瞬間、廊下の十メートル先へ投げ出された。
本来の転移地点は、施設外の林道だった。
「別に指向性の装置が……?」
「聞いてねえぞ、こんなもん!」
能力は使える。
だが、思った場所へ届かない。
腕が自分のものではなくなったような感覚に、男は奥歯を噛んだ。
施設の照明が一列ずつ点灯した。
監獄の奥から、靴音が響く。
急ぐ様子もない。
白いロングコートの裾を揺らし、一人の人影が歩いてくる。金糸と赤い組紐が、無機質な廊下にはひどく場違いだった。
銀白の髪を背後で束ねた、細身の青年――に見える女。
「空蝉……」
誰かが呻いた。
この施設で最も有名な管理官。
レベル七の予知能力者。複数の能力を持つが、出力が安定しない。普段はほとんど現場に出ないと聞いていた。
空蝉は拳銃を下げたまま、彼らの数を確かめるように視線を巡らせた。
「居住区へ戻りたまえ」
気負いのない柔らかな声だった。
「今なら、規則違反として処理してあげるよ」
「ふざけるな!」
発火能力者が腕を振り上げる。
炎が膨れ上がった。
空蝉は動かない。
火球は彼女へ向かって飛び――その目前で大きく曲がり、天井の散水装置を撃ち抜いた。
冷水が廊下へ降り注ぐ。
「……何をした」
女の声が震えた。
「私じゃない。私は、ちゃんとあんたを狙った!」
空蝉は濡れた前髪を指で払った。
その目に嘲りはない。
むしろ、少々申し訳なさそうにも見えた。
「能力の使用を停止しなさい」
「お前が邪魔してるんだろうが!」
男は床へ手をついた。
今度こそ間違えない。
空蝉の身体だけを狙い、念動力を収束させる。骨を折らず、壁へ叩きつける程度。それで十分だ。
力を放った。
空蝉コートが不自然に揺れた。
空蝉の歩みは止まらない。
「新型か……」
男の喉がひくついた。
「これはECMじゃない。能力の使用に干渉しているのか?」
空蝉は答えない。
拳銃を構えながら、一歩だけ近づいた。
「最後の警告だよ。大人しく投降しなさい」
「撃て!」
瞬間移動能力者が叫んだ。
能力が一斉に立ち上がる。
念動力。発火。転移。催眠。
そのすべてが、見えない何かに躓いた。
演算が乱れる。
出力先がずれる。
自分の能力なのに、自分以外の誰かが触れている。
男の背筋を冷たいものが這った。
空蝉の金色の瞳が、ほんの一瞬だけ細くなる。
頭蓋の内側で、何かが弾けた。
全身から力が抜ける。
膝をついた男の向こうで、仲間たちも次々と倒れていく。空蝉も壁へ片手をつき、口元を白い手袋で覆った。
指の隙間に、赤いものが滲んだ気がした。
「……反動、か」
男は笑おうとした。
声にはならなかった。
空蝉が目の前へしゃがみ込む。
「深い眠りをプレゼントしよう」
その声だけが、不自然なほど鮮明に聞こえた。
「目を覚ましたら、続きをお話ししましょう」
視界が暗くなる。
最後に見えた彼女の顔は、傲慢な勝者のものには見えなかった。
*
保安主任は、机上へ数枚の資料を並べた。
「脱獄未遂事件について、ご報告します」
空蝉は湯気の立つ珈琲を静かに置き、資料へ視線を落とした。
「超能力妨害装置――ECMは全系統停止を確認。予備電源も破壊されていました」
「ふむ。警備部門には少しばかり苦労してもらうことになりそうだ」
「現場で確認された能力障害については現在も調査中です。設備異常、外部からのESP妨害、あるいは新型装置の投入も視野に入れていますが……」
保安主任は言葉を選ぶように口を閉じた。
「現状、原因は不明です」
沈黙。
珈琲の香りだけが部屋に漂う。
空蝉は報告書へ目を通し、一枚だけ手元へ引き寄せた。
「負傷者は?」
「重傷者なし」
「死者」
「ゼロです」
空蝉は小さく頷く。
「それなら十分さ」
保安主任は、少しだけ苦笑した。
「あなたらしいですね」
「そうかい?」
「ええ、とても」
書類を回収すると一礼し、部屋を後にする。
電子ロックの閉まる音が響いた。
部屋には空蝉だけが残る。
しばらく珈琲を眺めていた彼女は、机の引き出しへ手を伸ばした。
鍵付きの小さな引き出し。
中には、黒いファイルが何冊も整然と並んでいる。
背表紙には番号だけ。
名前はない。
一冊を取り出す。
表紙を開く。
そこには先程の脱獄犯の写真。
能力。
精神状態。
更生経過。
几帳面な文字で記録が続いていた。
最終頁。
空蝉は万年筆を取り、静かに書き加える。
第八九五日。
集団脱獄を企図。
全員無事に保護。
そこで手が止まる。
しばらく考え込んだ後、
その一文へ細い線を引いた。
そして書き直す。
全員、帰室。
それだけだった。
空蝉は僅かに微笑む。
「おかえり」
その言葉は、誰へ向けたものだったのか。
部屋には誰もいない。
返事もない。
それでも空蝉は自然に頷いた。
「今日はよく頑張った」
沈黙。
まるで誰かの話を聞いているように、数秒だけ耳を傾ける。
「うん」
「次は成功するといいね」
微笑みは柔らかい。
教師が教え子へ向けるような、
家族へ向けるような、
そんな穏やかな笑みだった。
ファイルを閉じる。
鍵を掛ける。
立ち上がり、窓際へ歩く。
夕暮れに染まる施設を眺めながら、空になった珈琲へ手を伸ばした。
「…………」
カップはもう空だった。
しばらく見つめた後、
少しだけ首を傾げる。
「……飲んでしまっていたんだったか」
どこか他人事のように呟き、空蝉は静かに笑った。