Identity. 作:安眠一兎
バベル本部の医務室には、朝から騒々しい声が響いていた。
「もう何ともないってば! なあ、これ外していいだろ?」
「駄目だ。検査結果が出るまでは安静にしていろ」
「昨日からずっと安静じゃん!」
「昨日、君は自分の超能力で地面にめり込みかけたじゃないか」
「めり込んでねーよ! ちょっと押しつけられただけだ!」
「道路が陥没しただろうが!」
ベッドの上で薫が上体を起こそうとするたび、皆本が肩を押して寝かせる。
その傍らでは、葵が呆れたようにため息をついていた。
「薫ちゃん、いい加減にし。皆本はんが心配するんも当たり前やろ」
「でも退屈なんだよー!」
「退屈を感じられる程度には元気ということだね。結構な話じゃないか」
声とともに、医務室の扉が開いた。
白を基調とした衣装に、金と赤の装飾。
銀白色の髪を揺らしながら、空蝉が紙袋を片手に入ってくる。
「空蝉!」
薫が勢いよく跳ね起きた。
皆本が無言で再び寝かせる。
「見舞いに来たよ、薫君。昨日は災難だったね」
「空蝉が助けてくれたんだろ? あれ、どうやったんだ?」
「さて、何のことかな」
「とぼけんなよ! あのとき、急に力が散ったじゃん!」
「君の能力が落ち着きを取り戻しただけではないかね?」
「絶対ウソだ!」
「空蝉さん」
皆本が咎めるような視線を向ける。
「薫の検査が終わるまでは、あまり興奮させないでください」
「これは失礼。では、おとなしく見舞いの品を渡すだけにしよう」
空蝉は紙袋を持ち上げると、中から小さな箱を取り出した。
「プリンだ!」
「病人には甘いものが必要だろう?」
「空蝉、大好き!」
「現金な子だね」
薫が満面の笑みを浮かべる。
葵にも小さな焼き菓子の包みが渡された。
「葵君にも。昨日は見事な判断だった」
「おおきに。せやけど、うち……ほんまに全員まとめて跳ばしたはずなんです」
葵の表情が曇る。
「薫ちゃんだけ、最後に何かに引っ張られたみたいで」
「自分を責める必要はないよ」
空蝉の声から、芝居がかった響きが僅かに薄れた。
「君の転移は成功していた。薫君自身の力が、その結果へ干渉したんだろう。あの状況で全員の命を救ったことに変わりはない」
「……はい」
葵が少しだけ安堵したように笑う。
空蝉も微笑み返し、最後に紫穂へ視線を向けた。
「紫穂君には、こちらを」
空蝉は箱から小さなチョコレート菓子を取り出した。
差し出すのかと思った紫穂の前で、空蝉の手が僅かに止まる。
そのまま菓子は、紫穂の隣にある机へ置かれた。
「甘すぎないものを選んだつもりだよ」
「……ありがとう」
紫穂は菓子よりも、空蝉の白い手袋を見つめた。
昨日から、ずっとそうだった。
空蝉は薫の頭には軽く手を乗せた。
葵には菓子を手渡した。
皆本の肩についた埃も、勝手に払って怒られていた。
けれど紫穂にだけは、決して触れようとしない。
紫穂が近づくと、ほんの僅かに位置を変える。
物を渡す時は、机へ置く。
距離を空ける動作はあまりに自然で、薫や葵は気づいていないらしい。
だが、紫穂には分かった。
「空蝉」
「何かね、紫穂君」
「私に触られるの、嫌なの?」
空蝉の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。
皆本が紫穂を見る。
「紫穂?」
「だって、この人、私にだけ絶対に触らないもの」
「そうなん?」
葵が空蝉と紫穂を見比べる。
薫もベッドから身を乗り出した。
「空蝉、紫穂が嫌いなのか?」
「まさか」
空蝉はすぐに穏やかな笑みを取り戻した。
「紫穂君の観察力を評価しているだけだよ。接触感応能力者へ不用意に触れるのは、礼儀を欠く行為ではないかね?」
「私は別に、触った相手の心を何でも勝手に読むわけじゃないわ」
「それは承知しているとも」
「じゃあ、避ける必要ないでしょう?」
「用心深い性格なのでね」
嘘ではない。
少なくとも、紫穂には嘘だと断言できなかった。
空蝉の表情と声には、拒絶も嫌悪もない。
むしろ気遣うような感情が見える。
だというのに、どこかがおかしい。
言葉と感情が、あまりにも綺麗に揃いすぎている。
普通の人間なら、優しい言葉の裏にも僅かな苛立ちや警戒がある。
笑っていても、別のことを考えている。
本人すら自覚していない感情が、表面の隙間から漏れてくる。
空蝉には、それがない。
言葉に合わせて感情が用意されているのか。
感情に合う言葉を選んでいるのか。
あるいは――紫穂に見せるための心が、最初から別にあるのか。
「紫穂」
皆本の声で、紫穂は思考を止めた。
「相手が嫌がっていることを、無理に確かめようとするべきじゃない」
「まだ何もしてないわ」
「だから、今のうちに言っているんだ」
「……分かってるわよ」
紫穂はそっぽを向いた。
空蝉は何も言わず、僅かに目を細めた。
◆
午後。
薫の検査結果に異常はなく、チルドレンは訓練室へ移動した。
ヘリの墜落と能力暴走が続いたため、皆本は能力制御の状態を確認したかったらしい。
訓練内容は単純だった。
室内に配置された複数の標的を、薫が念動力で破壊する。
葵は落下物を指定地点へ転送。
紫穂はダミーの残留思念から、次に動く標的を特定する。
事故後の確認訓練としては妥当な内容だった。
「では始めよう。無理はしないこと。少しでも違和感があったらすぐに能力を止めてくれ」
「分かってるって!」
薫が腕を振り上げる。
赤い光が走り、奥に置かれた標的が勢いよく吹き飛んだ。
同時に天井から落下した鉄球を、葵が別の籠へ転送する。
紫穂は机に並べられたカードへ指を触れた。
複数の映像が頭の中へ流れ込んでくる。
誰かがカードを置いた手。
視線。
次に作動する装置。
「右奥よ!」
紫穂の指示で、薫が標的を破壊する。
訓練は順調に進んだ。
空蝉は訓練室の端に立ち、腕を組んで三人を眺めている。
「どうです?」
皆本が隣へ歩み寄った。
「薫の出力に、昨日の影響は残っていますか?」
「目立った異常はないね。むしろ以前より、自分の力を意識して使っている」
「昨日のことで、少し慎重になったのかもしれません」
「君が何度も言い聞かせた成果では?」
「そうならいいんですが」
皆本は薫を見つめたまま答える。
空蝉は横顔を眺め、わずかに笑った。
「随分と心配性な主任だ」
「当然です。あの子たちはまだ子供ですから」
「……そうだね」
空蝉の声が、僅かに沈んだ。
紫穂はカードへ触れたまま、二人の会話を聞いていた。
次の標的を読み取ろうとする。
しかしカードに残っていた思念は、妙に雑然としていた。
訓練スタッフの記憶だけではない。
誰か別の人物が触れた痕跡。
苛立ち。
強い緊張。
そして、機械が壊れる映像。
「待って」
紫穂が顔を上げる。
直後、訓練室の照明が明滅した。
天井付近から金属音が響く。
「皆、止まって!」
皆本が叫んだ。
薫が能力を切る。
だが一歩遅く、訓練用の大型標的を支えていた固定具が外れた。
重い金属製の標的が傾き、その下にいた作業員へ倒れ込む。
「危ない!」
薫の念動力が標的を受け止めた。
しかし昨日の記憶が蘇ったのか、薫の顔が一瞬強張る。
出力が揺れ、金属板が激しく震えた。
「薫、落ち着いて! ゆっくり持ち上げるんだ!」
「分かってる!」
皆本の声に応じ、薫が力を制御する。
葵が作業員を安全な場所へ転送した。
標的はゆっくりと床へ下ろされる。
大きな音が響いたが、それ以上の事故は起きなかった。
「全員、怪我は?」
「うちは大丈夫や」
「平気!」
皆本が三人を確認する。
空蝉は落下した標的を見たあと、紫穂の持つカードへ視線を移した。
「紫穂君。何を見た?」
「この装置が壊れるところ。誰かが先に触ってるわ」
「読めるかね?」
「もっと深く見れば」
紫穂がカードを握り直そうとする。
「やめたまえ」
空蝉の声が鋭く響いた。
紫穂の手が止まる。
「どうして?」
「既に必要な情報は得た。意図的に固定具を緩めた者がいる。あとは監視記録を確認すればいい」
「誰がやったのか、すぐ分かるわ」
「その必要はないと言っている」
「またそれ?」
紫穂の声に苛立ちが混じる。
「私の能力なら分かるのに、どうして使わせないの?」
「使えないとは言っていない」
「じゃあ何よ」
「君が深く読む必要のある相手ではないということだ」
「勝手に決めないで」
紫穂が空蝉を睨む。
空蝉は視線を逸らさなかった。
「決めるとも。ここにいる大人としてね」
「子供扱いしないで!」
「君は子供だよ、紫穂君」
空蝉は静かに言い切った。
薫と葵が、驚いたように二人を見る。
「君が優秀な特務エスパーであることと、まだ子供であることは両立する。能力が有用だからといって、不要な悪意や犯罪者の内面へ触れさせていい理由にはならない」
「私なら平気よ」
「平気かどうかの問題ではない」
「じゃあ、何の問題なのよ!」
「大人が君に、それをやらせてよいかどうかだ」
紫穂は唇を噛んだ。
正論の形をしている。
だからこそ腹が立つ。
空蝉は自分の能力を知らない。
自分が今まで、どれほど多くの悪意へ触れてきたかも知らない。
誰もが隠したがる本音。
自分勝手な欲望。
優しい顔の裏にある醜い考え。
そんなものは、とっくに見慣れている。
「あなたに決められたくないわ」
紫穂はカードを机へ置き、空蝉へ歩み寄った。
「紫穂、待ちなさい」
皆本が止める。
しかし紫穂は足を止めなかった。
「私には触らせない。能力も使わせない。なのに理由は何も言わない」
「紫穂君」
「そんなに私が信用できない?」
空蝉が僅かに息を止めた。
その反応を見て、紫穂の疑念が強くなる。
やはり何かを隠している。
自分だけを避ける理由がある。
なら、確かめればいい。
「紫穂!」
皆本の声とほぼ同時に、紫穂は空蝉の手首を掴んだ。
白い手袋越しだった。
それでも、接触感応は発動した。
最初に見えたのは、白い部屋だった。
窓も、出口もない。
壁には無数の扉が並んでいる。
次の瞬間、一斉に扉が開いた。
暗い独房。
赤く濡れた床。
誰かの喉を締める指。
自分へ向けられた銃口。
逃げる背中。
追いすがる怒号。
泣いている子供。
笑っている男。
殴られた痛み。
殴った手の感触。
憎い。
怖い。
殺したい。
助けてほしい。
違う。
これは自分ではない。
けれど、誰のものか分からない。
記憶と感情が濁流のように押し寄せる。
複数の声が同時に囁いた。
――見るな。
――誰だ。
――子供を入れるな。
――追い出せ。
――触れるな。
その奥で、ひときわ強い怒りが燃えていた。
古い軍服。
血の匂い。
背中から身体を貫く熱。
信じていた男の顔。
世界を焼き尽くしても消えそうにない憎悪。
紫穂の意識が、その怒りへ引きずられる。
直後、白い部屋の中央にいた誰かが振り返った。
女の声が叫んだ。
「触れるな!」
紫穂の手が弾かれた。
身体が後ろへ倒れる。
床へぶつかる寸前、葵のテレポートで位置がずれ、薫が受け止めた。
「紫穂!」
薫の声が遠く聞こえる。
頭の中に、まだ知らない声が残っている。
紫穂は息を吸おうとして、激しく咳き込んだ。
目の前が暗い。
「紫穂、僕を見て! 聞こえるか!?」
皆本が駆け寄り、紫穂の肩を支える。
「……大丈夫」
声が震えた。
「ちょっと、びっくりしただけ」
「無理に話さなくていい。葵、医務室へ!」
「待ちたまえ」
空蝉が言った。
いつもの余裕ある声ではなかった。
顔色は青ざめ、呼吸も浅い。
それでも空蝉は紫穂の前へ膝をついた。
手を伸ばしかけ、途中で止める。
「紫穂君。私が分かるかね?」
「……空蝉」
「ほかに、誰かの声は聞こえる?」
「いっぱい」
紫穂は額を押さえた。
「でも、だんだん消えてる」
「そうか」
空蝉は目を閉じ、安堵するように息を吐いた。
「すまなかった」
「何で、あなたが謝るのよ」
「止めきれなかった」
「勝手に触ったのは私よ」
「それでもだ」
空蝉の言葉は短かった。
皆本は紫穂の様子を確認したあと、空蝉へ厳しい視線を向けた。
「説明してもらえますね」
「皆本君」
「紫穂が勝手に触れたことは、後で僕から叱ります。ですが、あなたが危険を知りながら理由を説明せず、避けるだけだったことにも問題がある」
「説明すれば、好奇心の強い子ほど確かめたくなる」
「だからといって、何も知らせず遠ざければ、不信感が残るだけです」
空蝉は答えなかった。
「あなたは紫穂を守るつもりだったのかもしれない。でも、紫穂には嫌われているようにしか見えなかったんです」
「……耳が痛いね」
「冗談で済ませないでください」
「済ませるつもりはないよ」
空蝉はゆっくりと立ち上がった。
いつもの笑みは戻っていない。
「紫穂君。少しだけ、説明しよう」
紫穂は薫に支えられながら、空蝉を見上げた。
「私の中には、本来私のものではないはずの記憶が多く存在している」
「さっきの人たち?」
「そうだ」
「犯罪者なの?」
「全てではないよ」
空蝉は白い手袋を見つめる。
「私は仕事柄、彼らの能力や精神へ触れることがある。その際に、記憶や感情の一部が残ることがあるんだ」
完全な嘘ではない。
だが、すべてでもない。
紫穂には分かった。
それでも今は、それ以上踏み込む気にはなれなかった。
「だから、私に触らせなかったの?」
「ああ」
「私が耐えられないと思った?」
「耐えられるかもしれない」
空蝉は迷わず答えた。
「君は強い子だ。私が想像するより、ずっと多くのものに耐えてきたのだろう」
「だったら――」
「だが、耐えられるから傷つけてよい理由にはならない」
紫穂は言葉を失った。
空蝉の視線は真っ直ぐだった。
「読めることと、読ませてよいことは別だ。君の力が必要かどうかと、君にそれをやらせてよいかどうかも別の話だよ」
「自分はいいの?」
「私はそういう役目だからね」
空蝉は当然のことのように答えた。
紫穂の胸の奥で、何かが引っかかった。
さっき見えた白い部屋。
大量の声に囲まれながら、空蝉だけがどこにもいない。
「自分を人間扱いしない人に、子供扱いされたくないわ」
空蝉の表情が止まった。
皆本も、薫も、葵も何も言わない。
「あなた、自分なら壊れてもいいって思ってるでしょう」
「……それは見えたのかい?」
「見えたんじゃない。そういう顔してるのよ」
「私は表情を作るのが得意なつもりだったんだが」
「下手よ」
「これは手厳しい」
空蝉は笑おうとした。
けれど、いつもの笑みにはならなかった。
「私は、人間というには少々混ざり物が多いのでね」
「だから何?」
「だから――」
「犯罪者の記憶が入ってたら、人間じゃないの?」
紫穂の問いに、空蝉は沈黙する。
「誰かの記憶が混ざってたら、自分じゃないの?」
「簡単な話ではないよ」
「難しくしてるのはあなたでしょ」
紫穂は薫の腕から離れ、自分の足で立った。
まだ僅かに眩暈がする。
それでも空蝉から目を逸らさなかった。
「私を子供だから守るって言うなら、あなたも大人として自分を守りなさいよ」
「……」
「大人なんでしょ?」
空蝉は長い間、何も言わなかった。
やがて小さく息を吐く。
「そういうことに、しておこうか」
「何よ、それ」
「私なりの最大限の譲歩だよ」
「全然足りないわ」
「では、今後の課題としよう」
少しだけ、いつもの空蝉の声が戻る。
皆本はそれを確認してから、紫穂の前へしゃがんだ。
「紫穂。今度は君の番だ」
「分かってるわよ」
「相手が明確に拒否しているのに、能力で心を読むのは駄目だ。どんな理由があっても」
「……ごめんなさい」
紫穂は空蝉へ向き直った。
「勝手に触って、ごめんなさい」
「謝罪を受け入れよう」
「あなたも謝って」
「先ほど謝ったと思うが?」
「私を避けてたこと」
空蝉は僅かに眉を上げる。
「理由を言わず、君に不快な思いをさせたことについては、私が悪かった。すまない」
「全部教えてくれる?」
「それは断る」
「反省してないじゃない」
「反省と機密保持は両立するのでね」
紫穂は呆れて息を吐いた。
「やっぱり、よく分からない人」
「それはお互い様ではないかね?」
「私は分かりやすいわよ」
「そう思っているのは本人だけだよ」
薫が空蝉の腕を軽く叩いた。
「紫穂をいじめんなよ!」
「私は今、いじめられていた側だと思うんだがね」
「どっちもどっちや」
葵の言葉に、皆本が深くため息をついた。
◆
夕方。
空蝉は報告書を提出するため、バベル本部の廊下を歩いていた。
窓の外には夕日が差し込み、白い衣装を淡い橙色に染めている。
「空蝉」
後ろから呼び止められた。
振り返ると、紫穂が一人で立っている。
「身体はもういいのかね?」
「平気よ。医務室でも異常なしだって」
「そうか。それは良かった」
空蝉は心から安堵したように笑った。
少なくとも、その感情は本物だと紫穂にも分かった。
「これ」
紫穂が手を差し出す。
昼間、空蝉が机へ置いたチョコレート菓子だった。
「口に合わなかったかね?」
「開けて」
「自分で開けられるだろう?」
「いいから」
空蝉は首を傾げながら、包装を開いた。
中から小さなチョコレートを一つ取り出し、紫穂へ差し出そうとする。
途中で手が止まる。
いつものように、近くの窓枠へ置こうとした。
「手渡しでいいわよ」
紫穂が言った。
「今日は読まないから」
空蝉は紫穂を見る。
そしてそのまま、紫穂の手に手を伸ばす。
「信用してくれるのね?」
「君は約束を守る子だろう?」
「貴女はあまり正直者にはみえないけれど」
「厳しい評価だね」
「悪い人じゃないとは思ってる」
「それは光栄だ」
空蝉は手袋をしたまま、紫穂の掌へチョコレートを乗せた。
指先は触れなかった。
それでも以前よりは、少しだけ距離が近い。
「でも」
紫穂はチョコレートを口へ運ぶ。
「やっぱり気味は悪いわ」
空蝉は一瞬目を瞬いたあと、声を上げて笑った。
「正直な子だね、紫穂君」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「それがいい」
紫穂は空蝉の隣へ並び、夕日の差す廊下を歩き始めた。
触れなければ分からないことがある。
触れなくても分かることもある。
空蝉という女が何者なのか、紫穂にはまだ分からない。
ただ、悪い人ではない。
そして、放っておくと自分を人間の外へ置こうとする、少し面倒な大人らしい。
「空蝉」
「何かね?」
「次から、嫌なら嫌って言いなさい」
「努力しよう」
「今、誤魔化したでしょ」
「触れていないのに分かるのかね?」
「顔に出てるわ」
「……表情の練習が必要だな」
空蝉が困ったように笑う。
その笑顔だけは、言葉と感情が少しだけずれていた。
けれど今度は、そのずれが不思議と嫌ではなかった。