Identity. 作:安眠一兎
バベル本部の廊下を、一人の少女が歩いていた。
長い黒髪を揺らし、背筋を伸ばして、すれ違う職員へ丁寧に会釈する。
梅枝ナオミ。
レベル6の念動能力者にして、特務エスパー《ワイルドキャット》。
戦闘能力だけを見れば、バベルでも指折りの実力者である。
しかし今、彼女には一つの重大な問題があった。
「……嫌いなんですよね」
ぽつりと呟いた。
誰もいない廊下に、少女の声が響く。
「やっぱり……嫌いなんですよね」
もう一度。
口にしてみても、世界が終わるわけではなかった。
雷が落ちるでもない。
誰かに叱られるでもない。
なのに妙な罪悪感だけが残る。
「……はあ」
ナオミは小さくため息を吐いた。
つい先日まで、自分が主任である谷崎一郎を嫌っているなどとは思いもしなかった。
いや。
正確には、思わないようにしていた。
十二歳の頃から自分を指導してくれた人。
能力の使い方を教えてくれた人。
失敗して落ち込んだ時には励ましてくれた。
学校生活との両立に悩んだ時も相談に乗ってくれた。
エスパーとして成長できたのは、間違いなく谷崎のおかげだ。
だから。
そんな人を嫌うなんて、いけないことだと思っていた。
――少なくとも、少し前までは。
「ナオミ君?」
突然呼びかけられ、ナオミは顔を上げた。
廊下の先に、銀白色の髪をした女性が立っている。
白を基調とした衣装。
金と赤の装飾。
初めて見る者なら、舞台俳優か何かだと思うかもしれない。
だがナオミは彼女を知っている。
「空蝉さん」
「随分と難しい顔をしているね」
空蝉は紙コップを片手に歩いてきた。
「これから任務かい?」
「いえ。今日は待機です」
「そうか。なら少しくらい時間を貰っても怒られないかな」
空蝉が顎で休憩スペースを示した。
ナオミは少し迷ってから頷く。
◆
「それで?」
向かいの椅子に腰を下ろした空蝉が、珈琲を一口飲んだ。
「谷崎君が嫌いだと」
「…………」
「なかなか率直な相談だね」
「すみません」
「なぜ謝るんだい?」
空蝉が首を傾げる。
ナオミは膝の上で両手を握った。
「主任には、ずっとお世話になってきたんです」
「そうだね」
「能力の訓練もしてもらいましたし、私がワイルドキャットとして活動できているのも主任のおかげです」
「うん」
「だから……嫌いだなんて思ったらいけないような気がして」
空蝉はしばらく何も言わなかった。
視線だけが、静かにナオミを観察している。
「ナオミ君」
「はい」
「君は谷崎君の仕事ぶりをどう評価している?」
「え?」
「主任としてだよ」
聞かれ、ナオミは少し考える。
「……優秀だと思います」
「私もそう思う」
予想外の返答だったのか、ナオミが顔を上げた。
「空蝉さんも?」
「もちろん」
空蝉はあっさり答えた。
「彼が新人だった頃から知っているが、エスパーの育成に関しては昔から真面目だった。少々暑苦しいところはあったがね」
「主任が新人だった頃……」
「ああ」
「空蝉さんって、その頃からバベルにいたんですか?」
「いたよ」
「……主任より年上なんですか?」
「女性に年齢を尋ねるものではないよ」
「す、すみません!」
「冗談だ」
空蝉が笑う。
ナオミは慌てて頭を下げかけ、途中で止めた。
「ともあれ、谷崎君は優秀な主任だ。君を見ればよく分かる」
「私を?」
「君ほど強い能力者を、力任せに戦わせるだけの人間ならもっと早く潰している」
空蝉は紙コップを机に置いた。
「能力者を育てるのは難しいよ。力が大きいほどね。自信を持たせすぎてもいけない。かといって恐れさせすぎれば能力そのものを嫌うようになる」
ナオミは黙って聞いていた。
「まして子供の頃からだ。能力だけを伸ばせばいいわけではない。教育を受けさせる。友人も作らせる。普通の生活を守りながら、危険な仕事を教える」
空蝉の声に、いつもの芝居がかった響きはあまりない。
「それを何年も続けて、君が今ここにいる」
ナオミは自分の手を見る。
「だから谷崎君の仕事については、私はかなり高く評価しているよ」
「……はい」
「で」
空蝉は一拍置いた。
「それと君が谷崎君を嫌いなことに、何の関係があるんだい?」
ナオミが瞬きをした。
「え?」
「主任として優秀だから、私人として好かなくてはいけないのかい?」
「でも……」
「恩があるから?」
「はい」
「なら感謝すればいい」
空蝉はあまりにも簡単に言った。
「彼の仕事が優秀なら評価すればいい。助けられたことには感謝する。嫌なところは嫌う。それで何か困るかな?」
「そんなに分けて考えていいんでしょうか」
「分けなければ困るよ」
空蝉は肩をすくめた。
「人間というものは、大抵かなり面倒だからね。好きなところと嫌いなところが同居している」
「……」
「私など、谷崎君を仕事人としてはかなり尊敬している」
「そうなんですね」
「ああ」
空蝉は真顔で頷いた。
「私人としては、時々どうかと思うが」
ナオミの肩が僅かに揺れた。
「……やっぱりそう思います?」
「思うとも」
「ですよね!」
思わず声が大きくなり、ナオミは口元を押さえた。
「すみません」
「構わないよ」
空蝉は笑っている。
「というより、君が嫌う理由にも心当たりがありすぎる」
「そ、そうなんです!」
堰が切れた。
「主任って、普段は本当にちゃんとしてるんです。任務中は指示も的確ですし、危ない時はちゃんと守ってくれますし」
「うん」
「でも何であんな……」
ナオミは言葉を探した。
「……気持ち悪いんでしょう」
「随分と直球だね」
「だって!」
ナオミの頬が赤くなる。
「最近ようやく、自分でも分かったんです。私、主任に触られたり、変なこと言われたりするの、本当に嫌だったんだって」
「なるほど」
「でも嫌だって思うと、今度は主任が全部嫌いになりそうで……」
「それは困る?」
「……はい」
ナオミは小さく答えた。
「主任としては、信用してますから」
「なら、それでいい」
空蝉は即答した。
「信用できる嫌いな人間がいてもいい」
「そんな人間関係、あるんですか?」
「珍しくもないよ」
空蝉は遠い目をした。
「むしろ社会人になると増える」
「嫌な話ですね……」
「大人になるというのは、そういうことも含むのさ」
ナオミが少し笑った。
「だから、嫌いでいい」
空蝉は続けた。
「嫌いという感情があること自体には罪はない。大事なのは、その感情を理由に何をするかだ」
「何をするか……」
「嫌いだから殴る。嫌いだから仕事を放棄する。嫌いだから陥れる。そこまで行けば責任が生まれる」
「はい」
「だが、嫌いだから少し離れていたい。それくらいなら好きにしたまえ」
「……はい」
ナオミの顔から、ほんの少し力が抜けた。
その時だった。
館内放送が鳴った。
『特務エスパー《ワイルドキャット》、至急出動準備。繰り返します――』
ナオミが立ち上がる。
空蝉も紙コップを置いた。
「どうやら、続きは現場になりそうだね」
◆
現場は、市街地外縁にある大規模再開発地区だった。
建設途中の高層ビル。
周囲には複数のクレーンと資材置き場。
その一角が、見るも無残な状態になっている。
重機が横倒しになり、コンクリートブロックが道路へ散乱していた。
警察車両の窓ガラスもいくつか砕けている。
「念動能力者です」
先任の現場担当者が端末を差し出した。
「推定レベル4から5。元々この現場で重機誘導の補助作業に能力を使っていた男です」
「原因は?」
谷崎が尋ねる。
いつもの軽薄さはない。
特務エスパー主任としての顔だ。
「勤務先とのトラブルです。半年前から待遇を巡って揉めていたようで、今日正式に解雇を通告された直後に暴走しました」
「人質は?」
「三名。現場監督と会社側の職員です」
ナオミの表情が引き締まる。
「負傷者は?」
「軽傷者が七名。今のところ死者はいません」
「なら、そうならないうちに終わらせよう」
空蝉が建設中のビルを見上げた。
上階から鉄骨が一本浮かび上がる。
直後。
「伏せろ!」
谷崎が叫んだ。
鉄骨が道路へ向かって飛来する。
ナオミが前へ出た。
「はっ!」
不可視の力が激突する。
飛来していた鉄骨が空中で止まった。
ナオミが両腕を広げ、ゆっくりと横へ押し流す。
鉄骨が資材置き場へ落下し、地響きを立てた。
「相当強いですね」
「重量物の扱いに理解があるようだ。効率的に動かしているのだろう」
谷崎が答える。
「細かい操作は不得手だが、単純な押し引きならレベル以上と想定してかかるぞ」
「私が前に出ます」
「ああ。ただし追い込みすぎるな。人質がいる」
「分かりました」
「空蝉さん」
谷崎が振り返る。
「悪いが、後方を頼めるか?」
「了解したよ、谷崎君」
その短いやり取りを聞きながら、ナオミは少し不思議に思った。
谷崎の口調が、皆本や自分に向けるものとは微妙に違う。
年上への敬語ではない。
かといって完全な同僚口調でもない。
長い付き合いの相手へ向ける、遠慮のない信頼。
「ナオミ!」
「はい!」
思考を切る。
ナオミが跳躍した。
念動力で身体を持ち上げ、一気に建設途中のフロアへ飛び込む。
直後、鉄パイプの束が横薙ぎに飛んできた。
「っ!」
念動力で弾く。
「来るな!」
奥から男の怒声が響いた。
「来たらこいつらごと潰すぞ!」
壁際に三人の人質が座らされている。
その周囲には鉄骨や工具、コンクリート片が浮遊していた。
「落ち着いてください!」
ナオミは距離を取ったまま声をかける。
「私はバベルの梅枝ナオミです。話を――」
「バベルなんかに何が分かる!」
男が腕を振る。
大量の金属片が飛来した。
ナオミが防壁を張る。
金属が空中で弾けた。
「俺はずっとこの力で働いてきたんだ! 重機より安いからって使われて、腰を壊しても働かされて!」
「それでも人質を取っていい理由にはなりません!」
「うるさい!」
床が軋んだ。
周囲の資材が一斉に浮かび上がる。
「ナオミ、無理に押し返すな!」
通信機から谷崎の声。
「横へ流せ! 人質側には絶対飛ばすな!」
「分かってます!」
ナオミが歯を食いしばる。
飛来物の軌道を逸らす。
鉄板。
ボルト。
工具箱。
コンクリート片。
一つ一つを人質から離れた方向へ弾いていく。
「右だ!」
谷崎。
ナオミが反射的に右へ防壁を作る。
直後、大型の鉄骨が死角から飛び込んできた。
「っ!」
重い。
ナオミの身体が僅かに後退する。
「ナオミ!」
谷崎の声が大きくなる。
「無理するな! 一旦退け!」
「まだ大丈夫です!」
「退け!」
「嫌です!」
思わず強い口調で返していた。
ナオミ自身が一瞬驚く。
以前なら、主任の命令へこんな言い方はしなかった。
でも。
今は腹が立っていた。
自分がまだやれるのに。
危険だからと、すぐに下げようとする。
心配してくれているのは分かる。
それでも腹は立つ。
その感情を認識した瞬間、念動力が強くなる。
鉄骨が押し返された。
男が目を見開く。
「なんだと……!」
「私だって……!」
ナオミが一歩踏み出す。
「怒るんです!」
鉄骨が壁際へ叩き落とされた。
その直後。
建物全体が大きく揺れた。
男がヤケになったように両手を上げる。
外に設置されていた大型クレーンが軋んだ。
「まさか……!」
ナオミが窓の外を見る。
巨大なクレーンのブームが傾いている。
その先には警察の避難区域。
倒れれば道路まで届く。
「ナオミ、犯人を抑えろ!」
谷崎が叫ぶ。
「でもクレーンが!」
「そっちは――」
「私がやろう」
通信へ空蝉の声が入った。
次の瞬間。
倒れかけたクレーンが空中で止まった。
「え……?」
ナオミの目が見開かれる。
空蝉は地上に立っていた。
片手をクレーンへ向けている。
不可視の力。
間違いない。
自分と同じ念動力。
「空蝉さん、サイコキネシスも……?」
「多少はね」
空蝉の額に汗が浮かぶ。
「こちらは任せたまえ、ナオミ君」
ナオミは一瞬だけ迷い、犯人へ向き直った。
「はい!」
男が再び周囲の資材を持ち上げる。
だが既に遅い。
ナオミの念動力が男の身体を包み込み、その場へ押さえつけた。
「離せ!」
「嫌です!」
ナオミの声が響く。
「怒ってますけど!」
さらに出力を上げる。
「だからって、あなたを潰したりしません!」
男の身体が床へ固定された。
暴れる。
しかしナオミは力を緩めない。
「怒ってることと、何してもいいことは別です!」
男の念動力が徐々に弱まっていく。
やがて浮いていた資材が全て床へ落ちた。
◆
「怪我は?」
現場へ駆け上がってきた谷崎が、真っ先にナオミへ近づいた。
「大丈夫です」
「本当か? どこか痛むところは――」
「主任」
「なんだ?」
「近いです」
「……すまん」
一歩下がる。
その様子を見ていた空蝉が、妙な顔をした。
「谷崎君」
「今度は何だ?」
「いや」
空蝉は少し考える。
「今の距離は私も少々どうかと思う」
「なぜ!?」
「近かったからだよ」
「心配していただけだ!」
「知っているとも」
空蝉は首を傾げた。
「だが……妙だな」
「何が?」
「以前なら、そこまで気にならなかったんだが」
ナオミが空蝉を見る。
「空蝉さん?」
「いや、何でもない」
空蝉は誤魔化すように手を振った。
谷崎は怪訝そうな顔をしたが、すぐ仕事へ戻った。
「ナオミ」
「はい」
「さっきの判断は良かった」
ナオミが目を瞬く。
「命令を無視したことですか?」
「そこは後で説教する」
「やっぱり」
「だが、感情に引っ張られて能力を不安定にしなかった」
谷崎は真面目な顔だった。
「以前のお前なら、怒って能力が強くなったこと自体を怖がっていただろう」
「……はい」
「しかし、今日は違った」
ナオミは少し黙った。
「怒ってても、いいんですよね」
「ああ?」
「何でもありません」
ナオミは小さく笑った。
◆
数日後。
バベル本部の休憩室。
空蝉は珈琲を飲みながら資料を読んでいた。
向かいにはナオミが座っている。
先日の任務以来、二人で話す機会が増えていた。
「それで空蝉さん」
「なんだい?」
「この前のサイコキネシスなんですけど」
「うん」
「どうやってるんですか?」
「企業秘密だよ」
「バベルは同じ組織ですよ?」
「では部署間機密だ」
「その言い訳、皆本さんにも使ってませんでした?」
「便利なのでね」
そこへ扉が開いた。
「ナオミ!」
谷崎だった。
ナオミの眉が僅かに動く。
空蝉も顔を上げる。
「昨日渡した次回訓練計画なんだが――」
谷崎がナオミの隣へ座ろうとする。
「主任、近いです」
「まだ座ってもいない!」
「近づこうとしたじゃないですか」
「席だぞ!?」
空蝉は二人を見ていた。
なぜだろう。
以前から谷崎のこの手の言動について、どうかと思ってはいた。
だが最近。
妙に目につく。
「谷崎君」
「空蝉さんまで何だ?」
「少し離れた席へ座ったらどうかな」
「なぜ!?」
「ナオミ君が嫌がっている」
「訓練の話をするだけだぞ!」
「口ではそう言っていてもね」
「何だその疑いの目は!」
谷崎が憤慨する。
ナオミが小さく笑った。
谷崎は渋々一つ離れた椅子へ座る。
「まったく……空蝉さん、昔はもう少し俺に理解があっただろう」
「そうだったかな」
「俺が新人の頃からの付き合いじゃないか」
「そうだね」
「ナオミの指導方針についても相談に乗ってくれた!」
「懐かしいね」
「なのに最近、妙に当たりが厳しくないか?」
空蝉は考え込んだ。
確かに。
言われてみればそうかもしれない。
「……なんだろう」
「何だ?」
「この頃、谷崎君のどうかと思っていた部分が、以前より気持ち悪く思えてきたんだよね」
沈黙。
谷崎の顔が引きつる。
ナオミの顔が輝いた。
「分かります!」
勢いよく身を乗り出す。
「キモいですよね!」
「そうなんだよ」
空蝉も頷く。
「前から知ってはいたんだが、最近やけに解像度が高くてね」
「私もずっとそう思ってたんです!」
「なるほど。君は毎日これを?」
「はい!」
「それは大変だったね」
「分かってくれます!?」
「もちろんだとも」
「待て!」
谷崎が机を叩いた。
「なぜ急にそこまで意気投合しているんだ!」
二人が同時に谷崎を見る。
「何がです?」
「何がだね?」
「その目だ! その目!」
谷崎が指差す。
「ナオミはともかく、空蝉さんまで何なんだ!」
「失礼だな。私は客観的な評価をしているだけだよ」
「どこが客観的だ!」
「主任」
ナオミが微笑む。
「うるさいです」
「ナオミ!?」
その瞬間。
空蝉の周囲に置かれていた紙コップが、ふわりと浮いた。
「ん?」
空蝉が目を瞬く。
谷崎が固まる。
「空蝉さん」
「なんだい?」
「その念動力……」
空蝉も浮いている資料を見る。
「……無意識だね」
「無意識で俺に向けて使うな!」
「まだ何もしていないよ」
「“まだ”って言ったな!?」
ナオミが口元を押さえて笑っている。
空蝉は浮遊していた資料を机へ戻した。
「しかし妙だな」
「何がです?」
「ナオミ君の能力を使った後から、谷崎君を見ると反射的に念動力を使いたくなる」
ナオミが一瞬黙った。
そして。
「……正常だと思います」
「そうなのか」
「正常なわけあるか!」
谷崎の叫びが休憩室へ響いた。
◆
休憩室を出てしばらくしたところで、空蝉は背後から呼び止められた。
「空蝉さん」
「谷崎君か」
振り返る。
谷崎は先ほどまでとは違い、少し真面目な顔をしていた。
「一つ聞いていいか?」
「答えられることなら」
「……あんた、最近何かあったか?」
空蝉が僅かに眉を上げる。
「随分と漠然とした質問だね」
「俺がバベルに入った時から、あんたはずっといた」
「そうだね」
「見た目も大して変わらんし、喋り方も、胡散臭さも変わらん」
「最後の一言は余計だよ」
「でも、だから分かる」
谷崎は空蝉を見る。
「最近、少しだけ違う」
空蝉は答えなかった。
谷崎もそれ以上は踏み込まない。
「まあ……俺の気のせいならいい」
「そうかもしれないね」
「ああ」
谷崎はそれだけ言うと、踵を返した。
数歩進んでから、空蝉が呼び止める。
「谷崎君」
「なんだ?」
「君を主任として評価しているのは変わらぬ本心だよ」
谷崎は少しだけ振り返った。
「……知ってるよ」
「そうか」
「長い付き合いだからな」
それだけ言って、今度こそ谷崎は去っていった。
空蝉はしばらくその背中を見送る。
「長い付き合い、か」
小さく呟く。
確かに以前から、谷崎の言動には思うところがあった。
ただ――。
「……まあ、いいか」
空蝉は考えるのをやめた。
◆
翌日。
「ナオミ君」
「はい?」
「少し相談がある」
「何ですか?」
「谷崎君が近づいてくると、以前より少し腹が立つんだが」
ナオミは一秒も迷わなかった。
「正常です!」
「そうか」
「納得するな!」
廊下の向こうから、谷崎の叫びが響いた。