Identity. 作:安眠一兎
「京都?」
葵がぱちりと目を瞬かせた。
「そうだ」
皆本は手元の資料をめくりながら頷いた。
「ここ三日ほど、京都市内で原因不明の転移現象が続いてる」
「転移?」
「物品だけじゃない。昨日は人間も一人飛ばされた」
皆本がテーブルの上へ写真を並べる。
一枚目、『閉店後の商店から、商品の一部が数百メートル離れた路地へ移動』
二枚目、『駐車されていたスクーターが、突然近隣の公園へ出現』
三枚目、
「うわ」
薫が顔をしかめた。
「これ、人?」
「ああ」
写真に写っているのは、寺院の庭に倒れ込んだ男性だった。
「自宅の台所にいたところ、約二キロ離れた場所へ突然転移した。幸い軽傷で済んだけどな」
「能力者本人やないん?」
葵が写真を手に取る。
「本人には能力反応なし。現地の予知と警察の調査では、外部からのテレポート能力による可能性が高い」
「能力犯罪?」
「それが分からない」
皆本は眉を寄せた。
「盗難目的にしては、飛ばされる物に一貫性がない。財布や貴金属もあれば、椅子や植木鉢もある。それに人間まで飛ばしてる」
「めちゃくちゃね」
紫穂が資料を覗く。
「能力制御に失敗してるんじゃない?」
「予知課もその可能性を見てる」
皆本は葵を見る。
「そこで、同系統の高レベルテレポーターとして葵に現象を見てもらいたい」
「なるほどな」
葵が胸を張る。
「うちの出番っちゅうわけや」
「そういうことだ」
「なら今回はうちと皆本はん?」
「……行きたいんだけどな」
皆本がちらりと横を見る。
薫と紫穂。
「えー」
薫が露骨に不満そうな顔をした。
「京都いいなー」
「遊びじゃないぞ」
「でも京都だろ?」
「京都でも仕事は仕事だ!」
「八ツ橋買ってきて」
紫穂が言う。
「紫穂まで」
「あたしは生八ツ橋がいいわ」
「注文するな!」
「皆本はん」
葵が笑う。
「諦めた方がええで」
「誰のせいだと思ってるんだ!」
皆本がため息をついた。
「明日はこっちでも二人の任務がある。僕は東京に残る」
「ほな、うち一人?」
「いや」
皆本の顔が少し微妙になる。
「能力犯罪者への対応経験がある人間と組ませる」
「誰?」
その答えは、後ろから来た。
「私だよ」
全員が振り返る。
「……」
白い服。
白い髪。
いつもの胡散臭い笑み。
空蝉だった。
「なんや」
葵が言った。
「なんだね、その反応は」
「いや、もっと普通の人来ると思ってたから」
「失礼だな」
「空蝉が言う?」
薫が笑う。
皆本は真面目な顔のまま空蝉を見る。
「空蝉さん。今回は現地の捜査協力が目的です。勝手に別件を追ったりしないでください」
「信用がないね」
「過去の実績です」
「酷い言われようだ」
「それと」
皆本は葵を見る。
「葵をお願いします」
「うむ」
「本当にお願いしますよ」
「二度言われた」
「三度言ってもいいくらいです」
「皆本はん」
葵が呆れる。
「うち、京都くらい一人で行けるで?」
「そこは心配していないんだ」
「過保護だねえ」
空蝉が言う。
「心配の種はあなたです!」
◆
「で」
京都駅。
葵は改札を抜けたところで足を止めた。
「なんで空蝉さんがうちの後ろついてきとんの?」
「地元民に任せるのが効率的だからだよ」
「いや、仕事で来たんやろ?」
「そうとも」
「現場の場所知らんの?」
「住所は知っている」
「ほな行けるやん」
「君の方が詳しい」
「……」
葵はじっと空蝉を見る。
空蝉は平然としていた。
「ただついてくるだけやろ」
「それもまた旅行の醍醐味だね」
「旅行ちゃうわ!」
朝から早くも疲れる。
それでも、東京より少しだけ足取りが軽い自分に葵は気づいていた。
聞き慣れた言葉。
駅の空気。
街並み。
帰ってきた。
たったそれだけのことなのに、妙に安心する。
「葵君」
「ん?」
「顔が違うね」
「何が?」
「いや」
空蝉が笑った。
「なんでもないよ」
「変な人やなあ」
「よく言われる」
◆
最初の現場は、小さな古道具店だった。
店主が困り果てた顔で二人を迎えた。
「昨日の夜ですわ。閉めて帰って、朝来たら棚がごっそり空になっとって」
「盗難かと思ったら?」
葵が尋ねる。
「二筋向こうの駐車場に全部積み上がっとったんです」
「壊れてへんかった?」
「湯呑み一個割れてただけで」
葵が現場を見る。
棚。
床。
壁。
窓に侵入の痕跡はない。
「普通に飛ばしたんやったら、かなり綺麗やな」
「そうなのかね?」
「物だけ選んで、壁とか棚ごと持ってかんかったんやろ?」
「ああ」
空蝉は店内を見る。
「なるほど」
葵がその横顔を見た。
「空蝉さん、テレポート詳しいん?」
「多少は」
「多少?」
「能力犯罪を見ていると色々覚えるのでね」
「ふーん」
葵はそれ以上聞かなかった。
次の現場。
さらに次。
飛ばされた物の種類はバラバラ。
距離も数百メートルから数キロ。
方角にも規則性がない。
「……これ」
四件目。
路地裏へ移動した自転車の前で、葵がしゃがみ込む。
「どうしたね?」
「飛ばし方が変や」
「変?」
「目的地を見て飛ばしてへん」
空蝉が首を傾げる。
「分かるのかね?」
「うちやったら、まず行き先を決める。そこに何があるか見て、位置を合わせて、飛ばす」
葵は自転車を見る。
「でもこれ、そうやない」
「では?」
「場所やなくて……距離だけで飛ばしとる感じ」
「二百メートル北、とか?」
「もっと雑やな。そこそこ、あっち……みたいな」
空蝉が感心したように頷いた。
「面白いね」
「面白がるとこちゃうで」
「専門家の意見は貴重だよ」
葵は少しだけ得意そうに鼻を鳴らした。
「まあな」
その時。
空蝉が横を向いた。
「どうしたん?」
「……いや」
数秒。
「次は、人が飛ぶ」
「は?」
「近いよ」
空蝉の表情が変わる。
「葵君」
「どこや!」
「東。おそらく一キロ以内」
「場所!」
「まだ定まらない」
「ほな上がるで!」
葵が空蝉の手首を掴む。
「――おっと予想外」
景色が消えた。
◆
一瞬後。
二人はビルの屋上にいた。
葵が周囲を見る。
「どっちや!」
「南東」
「何階?」
「低い」
「それじゃ分からへん!」
「待ちたまえ」
空蝉が目を閉じる。
断片。
悲鳴。
赤い看板。
自動販売機。
男が消える。
「商店街」
「どこ!?」
「赤い――」
「看板なんかいっぱいあるわ!」
「では」
空蝉が少し考え。
「走ろう」
「そこテレポートちゃうんかい!」
二人が屋上から消える。
葵は短距離転移を繰り返しながら街を探す。
三回目。
「いた!」
男性。
買い物袋。
そして。
身体が歪む。
「まずい!」
葵が手を伸ばす。
男が消えた。
「っ!」
同時に葵も消える。
空蝉だけが残る。
一秒。
二秒。
「……これは大変そうだ」
空蝉も消えた。
◆
現れた先は寺院の境内だった。
「うわあああっ!」
転移させられた男性が空中に出現する。
高さ、三メートル。
葵が即座に転移。
「大丈夫や!」
男性を掴み。
地面へ。
「……ふう」
着地。
その数メートル横。
空蝉も現れた。
ただし。
「……」
石灯籠の上だった。
片足。
妙な姿勢。
数秒。
葵が見上げる。
「何しとんの?」
「着地点を間違えた」
「何で!?」
「視認できていなかったのでね」
「移動先分からへんのに飛んだん!?」
「君を追った」
「座標だけで飛ぶな!」
葵の声が境内に響く。
「壁の中とかやったらどうすんねん!」
「ここは屋外だよ」
「そういう問題ちゃう!」
空蝉は石灯籠から飛び降りた。
「なるほど。難しいものだね」
「……」
葵がじっと見る。
「何かな?」
「いや」
「言いたまえ」
「空蝉さん、テレポート下手やな」
「初めて言われたよ」
「そらそうやろな!」
◆
転移させられた男性に怪我はなかった。
問題は。
「さっきの転移、直前に別の反応があった」
空蝉が言う。
「別の?」
「ああ」
「誰かおった?」
「近い」
二人は周囲を調べる。
境内の外。
住宅地。
細い路地。
やがて葵が足を止めた。
「……ここ」
古い一軒家。
玄関先に、小学生くらいの少年が座っていた。
膝を抱えている。
「君」
空蝉が呼ぶ。
少年が顔を上げた。
「……誰?」
「B.A.B.E.L.の職員だよ」
少年の顔色が変わる。
次の瞬間。
姿が消えた。
「あ!」
葵も即座に消える。
「待たんかい!」
声だけが残る。
空蝉がため息をつく。
「早いねえ」
一拍。
「さて」
消えた。
◆
「待ちぃ!」
少年。
葵。
その後ろから少し遅れて空蝉。
三者が京都の町を転々とする。
公園。
路地。
橋の下。
住宅の屋根。
「止まり!」
「嫌だ!」
「捕まえるんやないって!」
「嘘だ!」
少年がまた消える。
葵も追う。
空蝉も。
「……」
そして。
空蝉だけがゴミ集積所へ出た。
「…………」
猫が一匹、驚いて逃げる。
「葵君」
通信機。
『何!?』
「私は今どこにいると思う?」
『知らんわ!』
「だろうね」
『せやから確認せえ言うたやろ!』
「善処しよう」
『善処ちゃう!』
空蝉は周囲を見渡した。
「……これは要練習だな」
◆
最終的に少年を追い詰めたのは、葵だった。
鴨川沿い。
少年は息を切らしていた。
「来るな!」
「行かへんよ」
葵は少し離れたところで止まる。
「でも、このまま飛び続けたら危ないで」
「平気だ!」
「平気ちゃう」
葵の声が少し強くなる。
「さっきのおっちゃん、飛ばしたやろ?」
「……」
「自分でも止められへんのやろ」
少年が俯く。
「僕じゃない」
「そっか」
「信じるの?」
「嘘ついてる顔やけどな」
「……」
「でも、わざとやないんやろ?」
少年の目から涙が落ちた。
「最近……触ったものが、勝手にどっか行くんだ」
「人も?」
「昨日から」
「怖かったな」
葵が言った。
「……」
「テレポートってな」
葵はゆっくりしゃがむ。
「飛べるから便利、だけやないんよ」
少年が見る。
「行き先間違えたら、それだけで人が死んでまう」
「……」
「うちも最初から何でもできたわけちゃう」
「ほんと?」
「ほんま」
少し後ろ。
空蝉は黙って聞いていた。
「だから」
葵が手を差し出す。
「一緒に練習しよ」
少年が迷う。
その時。
「ダメ!」
能力が暴発した。
周囲の空気が歪む。
「葵君!」
路上にあったものが次々と消える。
自転車。
看板。
ゴミ箱。
通行人。
「っ!」
葵が消える。
一人目。
救出。
二人目。
別方向。
救出。
「空蝉さん!」
「分かっている!」
空蝉も手を上げる。
消える。
現れる。
一人の女性を掴む。
「うわっ!」
「失礼」
また消える。
「そっちちゃう!」
葵の声。
「右! もっと右!」
「こっちかね?」
「そこ川や!」
「なるほど」
「なるほどやない!」
また一人。
また一人。
空蝉の転移は速い。
出力もある。
だが。
雑だった。
「空蝉さん! 飛ぶ前に見る!」
「見ているとも!」
「座標やなくて周り!」
「注文が多いね!」
「うちの能力や! 言うこと聞き!」
一瞬。
空蝉が止まる。
「……」
「何?」
「いや」
口元が少し上がった。
「専門家には敵わないと思ってね」
「笑っとらんで次!」
「はいはい」
数十秒。
最後の通行人が安全な場所へ転移。
そして。
「今!」
葵が少年の前へ飛ぶ。
「もう大丈夫や!」
肩を掴む。
「うあああああ!」
「大丈夫!」
少年の能力が暴れる。
空蝉も隣へ。
「葵君!」
「抑えるで!」
「合わせよう」
「ちゃんと調整せぇよ」
「承知した」
二つの転移能力。
一つは正確。
一つは荒い。
けれど。
暴走した空間の歪みが少しずつ収まる。
最後に。
音もなく。
全てが止まった。
◆
「……疲れた」
葵がベンチへ倒れ込んだ。
「お疲れ様」
空蝉が隣に座る。
「他人事みたいに言わんといて」
「私も働いたとも」
「ほとんどうちが指示しとったやん」
「適材適所だよ」
「テレポート使っとったんは空蝉さんやろ!」
「使えることと、上手いことは別なのでね」
「威張るな!」
少年は無事保護された。
どうやら能力の急激な成長に感覚が追いつかず、無意識に周囲の物体へ転移を起こしていたらしい。
故意の犯罪ではない。
今後は専門施設で訓練を受けることになる。
葵はそれを聞いて、ようやく安心した顔をした。
「さて」
空蝉が立ち上がる。
「仕事も終わった」
「帰る?」
「……」
葵が見る。
「何その顔」
「何も」
「観光したいんやろ」
「私は何も言っていないよ」
「顔に書いとるわ」
「皆本君みたいなことを言うね」
「ほな」
葵も立ち上がった。
「案内したるわ」
「それは助かる」
「ただし八ツ橋買ってや」
「薫君と紫穂君の分かな?」
「うちらの分もや!」
◆
その後。
本当に観光した。
甘味処。
寺。
古い街並み。
空蝉は妙に何でも興味深そうに見る。
「空蝉さん、京都来たことないん?」
「あるよ」
「ほな何でそんな初めての観光客みたいなん?」
「以前とは随分違うのでね」
「いつ来たん?」
「昔」
「どれくらい昔?」
「昔は昔だよ」
「またそれかいな」
葵が呆れる。
道を歩いていると、女子学生の集団とすれ違った。
数メートル先。
「なあ、あの人」
「宝塚の人ちゃう?」
「めっちゃ綺麗」
葵が吹き出した。
「ぶっ!」
「何かね?」
「また言われとる!」
「何を?」
「宝塚!」
「何故だろう」
「鏡見てから言いや!」
空蝉は不思議そうに首を傾げる。
◆
「せっかくやし」
夕方。
葵が少しだけ躊躇してから言った。
「うち寄ってかへん?」
「どこへ?」
「実家」
空蝉が目を瞬く。
「構わないのかね?」
「ここまで来て素通りしたら、後で怒られるし」
「ではお言葉に甘えよう」
「空蝉はんのこと、何て説明しよかな」
「嫌かな?」
「そうやなくて」
葵が少し笑った。
「まあ、おもろそうやからええわ」
◆
玄関を開けた瞬間だった。
「葵!?」
家の奥から大きな声が飛んでくる。
「帰ってくるんやったら連絡くらいせえ!」
「急に決まったんやって、お父ちゃん!」
姿を現した大作が、呆れたように娘を見る。
「せやかて飯の用意とかあるやろ!」
「一人増えるくらい大丈夫や!」
「一人?」
そこでようやく、大作の目が葵の後ろへ向いた。
白い髪。
白を基調とした服。
すらりとした立ち姿。
空蝉が丁寧に頭を下げる。
「突然お邪魔して申し訳ありません。B.A.B.E.L.の空蝉と申します。本日は葵君と仕事をご一緒していましてね」
「……」
大作が空蝉を上から下まで見る。
「お父ちゃん」
「いや」
大作が真顔で言った。
「なんや、宝塚の人みたいやな」
「またそれ言われた!」
葵が頭を抱える。
空蝉は少し嬉しそうだった。
「今日だけで何度目だろうね」
「数えんでええ!」
「あら、葵?」
今度は奥から、柔らかな声。
母のマリが顔を出した。
「おかえり。急やったんやねえ」
「ただいま」
「こちらの方は?」
「仕事で一緒やった空蝉はん。一応特務エスパーのくくりなんか?」
「初めまして」
空蝉がもう一度頭を下げる。
マリは空蝉を見て、少し目を丸くした。
「まあ……えらい綺麗な方やねえ」
「恐縮です」
「ほんま、舞台に立たはったら似合いそうやわ」
「お母ちゃんまで!」
葵が叫ぶ。
大作が横から頷く。
「せやろ?」
「お父ちゃんは黙っとって!」
その騒ぎを聞きつけて、さらに一人。
「お姉ちゃん?」
弟のユウキが顔を出す。
「ただいま、ユウキ」
「おかえり」
ユウキは葵の後ろに立つ空蝉を見る。
「……その人は?」
「空蝉さん。仕事の人」
「どうも」
空蝉が軽く手を上げる。
「今日は葵君に随分助けてもらったよ」
ユウキが姉を見る。
「お姉ちゃんが?」
「なんやその言い方!」
「いや、別に」
「絶対なんか思ったやろ!」
空蝉が小さく笑った。
「良い弟君ではないか」
「どこがや!」
◆
「それでな」
夕食が始まると、大作の質問は止まらなかった。
「東京ではちゃんとやっとんのか?」
「やっとるって!」
「飯は?」
「食べとる!」
「寝とるか?」
「寝とる!」
「怪我してへんか?」
「してへん!」
「ほんまか?」
「お父ちゃん、うるさい!」
「あなた」
マリがやんわりと割って入る。
「せっかく帰ってきたんやし、もう少しゆっくり話したらええやないの」
「いや、せやけどなあ」
「大丈夫やって」
葵がため息をつく。
「皆本はんもおるし」
「皆本さんいう人やね」
マリが空蝉を見る。
「葵がお世話になっとるそうで」
「ええ。少々過保護なくらいですが、非常に優秀な主任ですよ」
葵が箸を止めた。
「空蝉はん」
「何かな?」
「皆本はん本人がおらんと、えらい素直に褒めるな」
「本人の前で褒めると調子に乗るかもしれないのでね」
「乗らへんと思うで」
「そうかね?」
ユウキが葵を見る。
「でもお姉ちゃん、楽しそうやね」
「……何が?」
「東京の話する時」
葵が一瞬だけ黙る。
「そらまあ」
少し照れ臭そうに笑った。
「薫も紫穂もおるしな」
大作が頷く。
「ええ友達がおるんはええことや」
「うん」
そのやり取りを、空蝉は黙って見ていた。
◆
食後。
「ちょ、お母ちゃん!」
葵の悲鳴が上がった。
「何出してんの!」
「ええやないの、懐かしいわあ」
テーブルの上に置かれたアルバム。
幼い葵が写っている。
ランドセル姿。
着物姿。
歯が抜けたまま笑っている写真。
泣き顔。
「やめてや!」
「可愛いやないの」
「今見せる必要ないやろ!」
「空蝉さんも見ます?」
「是非」
「空蝉はん!?」
空蝉は躊躇なくアルバムを受け取った。
「ほう」
「ほう、やない!」
「葵君にもこんな頃があったんだね」
「当たり前や!」
ユウキが横から写真を指す。
「これ、お姉ちゃんが転移失敗して庭の池に落ちた時」
「言わんでええ!」
「へえ」
空蝉の目が少し楽しそうになる。
「詳しく聞きたいね」
「聞かんでええ!」
大作が笑う。
「昔はもっと無茶しよったんやで」
「お父ちゃんまで!」
「今もやろ」
「ユウキ!」
騒がしい。
写真一枚ごとに、誰かが何かを覚えている。
あの時は泣いた。
あの時は怒られた。
この服を気に入っていた。
この頃から負けず嫌いだった。
空蝉は笑いながら、それを聞いていた。
ただ。
アルバムをめくる指だけが、少しゆっくりだった。
◆
「ほな、そろそろ行くわ」
玄関先。
葵が靴を履く。
「もう帰るん?」
マリが少し寂しそうに言う。
「仕事あるしな」
「今度はもう少しゆっくり帰っといで」
「分かっとるって」
「連絡もしてな」
「はいはい」
大作が腕を組む。
「東京で無茶すんなよ」
「お父ちゃんもしつこい!」
「親やからな」
「……分かっとる」
ユウキが小さく手を上げる。
「またね、お姉ちゃん」
「おう。またな」
空蝉も一歩下がって頭を下げた。
「突然押しかけたにもかかわらず、大変ご馳走になりました」
「いえいえ」
マリが笑う。
「また葵と一緒に寄ってくださいね」
「機会があれば、是非」
大作も頷く。
「次来た時はゆっくりしていってや」
「ありがとうございます」
二人で家を出る。
少し歩いたところで、葵が息を吐いた。
「……疲れた」
「随分楽しそうだったよ」
「家帰ったらいつもあんなんや」
「良いことじゃないか」
「そう?」
「ああ」
空蝉は振り返らない。
「帰れば、よく帰ってきたと言ってくれる人がいる」
葵が横を見る。
空蝉はいつも通り笑っていた。
「……空蝉さんの実家って、どこなん?」
「さてね」
「さてね?」
「昔過ぎて忘れたよ」
「そんなわけあるかい」
「どうだろうね」
それ以上、葵は聞かなかった。
しばらく歩いて。
空蝉が何気なく呟く。
「まあ、帰れる場所があるのは、ええことやね」
「……」
葵が止まった。
空蝉も数歩先で振り返る。
「何かね?」
「今」
「うん?」
「関西弁やったで」
「気のせいだよ」
「いやいやいやいや!」
「何をそんなに」
「『ええことやね』って言うたやろ!」
「京都にいたからでは?」
「一日でそんな綺麗にうつるか!」
空蝉は涼しい顔で歩き出す。
「待ちぃ!」
「怖いねえ」
「誰のせいや!」
その日。
野上家で一番最後まで響いたのは、葵の声だった。
◆
翌日、B.A.B.E.L.本部。
「おはようございます」
皆本が執務室へ入る。
「おはよう、皆本君」
空蝉が椅子に座っていた。
「もう来てたんですか」
「少し前にね」
皆本は机へ資料を置く。
「葵から聞いた京都の報告書、確認お願いします」
「ああ」
「ここに置きますね」
「うむ」
皆本が振り返る。
ぱっ。
資料が消えた。
「……」
空蝉の手元に現れる。
「……空蝉さん」
「何かな?」
「今、テレポート使いました?」
「そうだね」
「三メートルですよ」
「だから?」
「取りに来ればいいでしょう!」
「何故?」
「何故って!」
そこへ葵が入ってくる。
「おはよー」
空蝉の机を見る。
「……」
資料。
空蝉。
皆本。
「今やった?」
「何をかね?」
「うちの前でしらばっくれる気か?」
葵が睨む。
空蝉はコーヒーカップへ手を伸ばした。
空だった。
「……」
ぱっ。
カップが消える。
「ちょ!」
皆本が叫ぶ。
数秒後。
ぱっ。
湯気の立つカップが戻る。
「便利だね」
「便利ちゃうわ!」
「給湯室に人いたらどうするんです!」
「確認したよ」
「いつ!?」
「先ほど」
「だからって!」
薫と紫穂まで顔を出した。
「何騒いでんだ?」
「空蝉さんが能力で怠けてる!」
「効率化だよ」
薫が目を輝かせる。
「いいじゃん! あたしもやろ!」
「薫は歩け!」
「何でだよ!」
紫穂が空蝉を見る。
「そのうち椅子ごと移動しそうね」
沈黙。
全員が空蝉を見る。
「……」
葵が指を差した。
「今考えたやろ」
「何をかね?」
「絶対やめてや!」
◆
三日後。
ぱっ。
執務室の中央に。
椅子へ腰掛けたままの空蝉が出現した。
足を組み、片手にはコーヒー。
「おはよう諸君」
「歩けぇ!!」
葵の怒声が響いた。
薫が腹を抱えて笑う。
「本当にやった!」
「効率的だろう?」
「怠けとるだけや!」
「効率と怠惰は紙一重だよ」
「紙一重ちゃう!」
皆本は呆れながら、その光景を見ていた。
「……」
空蝉がまた消える。
今度は机の向こう。
ほんの数メートル。
着地点も安定している。
「空蝉さん」
「ん?」
「上手くなりましたよね」
葵が即座に答えた。
「そら毎日アホみたいに使っとるからや!」
「実地訓練だよ」
「コーヒー取り寄せんのを訓練言うな!」
皆本は笑わなかった。
葵から聞いた京都での超能力使用。
最初の転移。
石灯籠の上。
ゴミ集積所。
葵に何度も怒鳴られていた空蝉。
そして今。
日を追うごとに、明らかに精度が上がっている。
「……」
「皆本君?」
「あ、いえ」
「何かな?」
「空蝉さんって」
皆本は少し迷う。
「……京都より前から、テレポート使えました?」
葵の顔も動いた。
「……あ」
空蝉が皆本を見る。
「使えるよ」
「今の話じゃありません」
「では?」
「京都で初めて見た時、明らかに慣れてなかった」
「そうだったかな」
「石灯籠に乗っとったで」
葵が言う。
「ゴミ捨て場にも出た」
「葵君」
「事実や」
皆本が続ける。
「でも、京都以来ずっと使えてる」
「できているね」
「だったら」
少しだけ声が低くなる。
「何で、それまであんなに下手だったんです?」
ほんの短い沈黙。
空蝉がコーヒーを飲む。
「使っていなかったからでは?」
「……」
「能力も使わなければ鈍るものだよ」
「ほんまに?」
葵が見る。
「何かな?」
「前から使えたん?」
「使えるとも」
「ちゃうねん」
葵の声音が少しだけ変わった。
「使えるかどうかやなくて」
一拍。
「前から使っとったんかって聞いとるんや」
空蝉は葵を見る。
少しだけ。
笑った。
「似たような質問では?」
「全然ちゃうで」
皆本も黙っている。
「……」
空蝉がカップを置いた。
「さて」
ぱっ。
椅子ごと消えた。
「あ!」
「逃げた!」
廊下から声。
「逃げてはいないよ」
葵が扉を開ける。
「能力使って逃げんな!」
「歩くより早いのでね」
「待ちぃ!」
葵も消える。
皆本は取り残された。
「……」
薫が横から顔を覗き込む。
「皆本?」
「なんだ」
「なんか気になる?」
「……いや」
少しだけ考える。
「まだ分からない」
紫穂が笑う。
「じゃあ、分かるまで考えるんでしょ?」
「まあね」
廊下の向こうから。
「空蝉はん!」
「何かな?」
「そこちゃう! 会議室や!」
「せやったね」
「――今また言うたな!?」
皆本は思考を止めた。
「……まあ」
頭を抱える。
「今はいいか」
京都以来。
空蝉のテレポートは日に日に上手くなっていた。
そして同じくらい。
時々、その口から妙な関西弁が出るようになっていた。
本人は。
頑として認めなかった。