Identity. 作:安眠一兎
休日の学校というものは、妙に落ち着かない。
生徒がいる。
教師もいる。
廊下には足音が響き、教室からは話し声が漏れてくる。
にもかかわらず、普段ならそこにいないはずの大人たちが校舎を歩いているというだけで、空間全体が借り物のように見えた。
壁には色紙。
廊下には児童の作品。
掲示板には行事予定。
窓から入る初夏の光は明るく、磨かれた床を照らしている。
その中を。
ひどく場違いな白い女が歩いていた。
銀白色の髪。
白を基調とした服。
細身の長身。
両手にはいつもの手袋。
保護者たちは空蝉とすれ違うたび、一度見て、もう一度見る。
空蝉本人は気にしていなかった。
「……随分見られるね」
むしろ不思議そうだった。
隣を歩く教師が困ったように笑う。
「まあ、その……目立ちますから」
「そうかね?」
「かなり」
「普通にしてきたつもりなのだが」
「それで普通なんですか?」
「うむ」
教師はそれ以上聞かなかった。
賢明な判断だった。
本来なら、この役目は皆本光一が担うはずだった。
授業参観。
それから簡単な三者面談。
ザ・チルドレンの学校生活について、担任と話をする。
皆本本人もかなり楽しみにしていたらしい。
しかし前日の夜、緊急の出動要請が入った。
薫たちの任務ではない。
皆本だけが外せない案件。
結果。
「空蝉さん、お願いします」
という話になった。
空蝉は二つ返事で引き受けた。
そこまでは良かった。
「できれば、普通にしてください」
「どういう意味かな」
「そのままの意味です」
「失礼だねえ」
「学校ですよ?」
「理解しているとも」
「本当に?」
「君は私を何だと思っているんだね」
皆本は答えなかった。
答えないことで答えていた。
◆
教室の後方。
空蝉は腕を組み、静かに授業を眺めていた。
正確には。
かなり楽しんでいた。
「……ほう」
小さく声が漏れる。
黒板。
教科書。
机。
教師が生徒へ問いを投げ、生徒が手を挙げる。
当てられた児童が立ち上がり、答える。
ただそれだけの光景なのに、空蝉には妙に新鮮だった。
前方。
薫がちらりと振り返る。
目が合う。
空蝉は軽く手を振った。
薫の眉間に皺が寄る。
口だけ動く。
『なんでそんな目立ってんだよ』
空蝉は首を傾げる。
何のことか分からない、という顔。
その横では葵が前を向いたまま肩を震わせていた。
紫穂に至っては、完全に笑っている。
教師が黒板へ文字を書く。
チョークの音。
教室の空気。
空蝉はふと窓際を見る。
廊下に立たされている生徒はいない。
教卓の横にも妙な棒はない。
「……そうか」
小さく呟いた。
「今は教師が竹刀を持ってたりしないのだな」
隣にいた保護者が振り返った。
「……竹刀?」
「ああ、いや」
空蝉は口元へ指を当てる。
「昔は割と見たものだからね」
「昔……?」
「昔だよ」
相手は曖昧に笑った。
そこへ前方から。
紫穂の視線。
「……」
空蝉と目が合う。
紫穂が、実に楽しそうに笑った。
嫌な予感がした。
◆
算数。
国語。
社会。
授業が進むにつれて、空蝉は三人の意外な差を発見していった。
薫は思っていたより授業を聞いている。
じっと座ること自体が苦手なので時折身体が動くが、教師が何を話しているかは理解している。
当てられれば答える。
しかも、分からない時は分からないと即答する。
妙な見栄を張らない。
葵は予想通りだった。
教師が問いを出した時点で答えが分かっていることが多い。
ただし、毎回手を挙げるわけではない。
周囲を見て。
他に誰も手を挙げなければ挙げる。
「……なるほど」
空蝉は少し感心した。
紫穂は。
一番普通に見えた。
それが一番不自然だった。
教科書を読み。
必要な時だけ発言し。
友人と目が合えば小さく笑う。
誰かへ不用意に触れることもない。
自分の能力を学校生活へ持ち込まないために、どれだけ日常的な注意を払っているのか。
空蝉にはそれが分かった。
「器用なものだね」
独り言のように呟く。
その瞬間。
紫穂が振り返った。
「……」
「……」
空蝉は微笑む。
紫穂も笑う。
何となく。
読まれた気がした。
◆
休み時間。
「空蝉!」
薫が真っ先に飛んできた。
「なんだね」
「なんだね、じゃねーよ! なんであんな目立つ格好で来たんだよ!」
「休日なので普段より控えめなのだが」
「どこが!?」
葵も寄ってくる。
「ほんまに皆見とったで」
「そうなのかね」
「そうや!」
「気づかなかったよ」
「嘘やろ」
「空蝉さん」
紫穂がにこにこしながら近づいてきた。
「何かな、紫穂君」
「先生が竹刀持ってたのって、いつ頃?」
「……」
「私も気になる!」
薫が食いつく。
「うちも」
「君たちは授業の内容よりそこが気になるのかね」
「気になるだろ!」
「何年前なん?」
「さてね」
「出た!」
薫が指差す。
「都合悪くなるとそれ!」
「女性の過去を詮索するものではないよ」
「学生時代の話やろ!」
「それも過去だ」
紫穂が目を細める。
「じゃあ聞き方変えるわ」
「どうぞ」
「空蝉さん」
一拍。
「それ、自分で見たの?」
「……」
ほんの少し。
空蝉の笑みが止まった。
記憶を探る。
教師。
竹刀。
廊下。
怒鳴り声。
冬の冷たい床。
手の中にある竹刀の感触。
――手の中?
「……さてね」
今度の返答は。
いつもの誤魔化しと、少しだけ違った。
紫穂はそれ以上聞かなかった。
代わりに薫が言う。
「で、空蝉は竹刀持ってた側? 叩かれてた側?」
「どちらだったかな」
「怖っ!」
「何がだね?」
「自分の学生時代忘れてんじゃん!」
「昔のことなのでね」
「どんだけ昔なんだよ!」
話はそこで笑いに消えた。
紫穂だけが。
少しだけ空蝉を見ていた。
◆
授業参観が終わる。
次は保護者との簡単な面談だった。
三人まとめて。
普段なら皆本が座るはずの椅子へ、空蝉が腰掛ける。
対面する教師は、少し緊張しているようだった。
「本日は皆本さんがお仕事ということで」
「ええ。代理で参りました」
「空蝉さんは……その」
「B.A.B.E.L.職員です」
「三人とは?」
「職場の知人だね」
後ろに座っていた薫が即座に不満を漏らす。
「知人って言い方ひどくね?」
「では何と?」
「もっとあるだろ!」
「同僚?」
「それも違う!」
教師が笑った。
空気が少し柔らかくなる。
「では、まず明石さんから」
「お願いします」
「明石さんは……とても元気ですね」
「存じています」
薫がむっとする。
「授業中に少し集中が切れてしまうこともありますが」
「存じています」
「空蝉!」
「事実だろう?」
「でも」
教師が少し笑う。
「下級生には結構優しいんですよ」
「……ほう」
空蝉の表情が変わった。
「具体的には?」
「え?」
「どのような場面で?」
「あ、はい。先日、低学年の子が校庭で転んだ時にですね――」
空蝉が身を乗り出す。
薫が慌てた。
「いいって! そんな話!」
「なぜだね」
「恥ずかしいだろ!」
「私は知らない」
「知らなくていい!」
「知りたいね」
「なんでだよ!」
空蝉は完全に楽しんでいた。
教師もつられて笑う。
「それから、困っている子を見つけると声をかけてくれることも多いです」
「へえ」
「……空蝉、顔」
「何かな?」
「なんかニヤニヤしてる!」
「していないよ」
「してる!」
次は葵。
「野上さんは非常にしっかりしていますね」
「それも存じています」
「ただ」
「ただ?」
「少し、周りを気にしすぎるところがあるかな、と」
葵が目を瞬く。
「うちが?」
「はい。誰かが答えられなかったりすると、自分が分かっていてもすぐには手を挙げなかったり」
空蝉が葵を見る。
「……」
「何?」
「いや」
小さく笑う。
「葵君らしいなと思ってね」
「どういう意味や」
「そのままだよ」
葵は少し照れたように顔を逸らした。
そして紫穂。
「三宮さんは」
教師が少し考える。
「とても大人びています」
「でしょうね」
空蝉が答える。
「でも」
「うん?」
「もう少し子供らしくてもいいのかな、と」
紫穂の眉が僅かに動いた。
「というと?」
「周囲をよく見て、誰かが困っていたら助けてくれますし、先生にも気を遣ってくれます」
教師は少し困ったように笑った。
「でも、小学生なんですから。もう少しくらい先生に頼ってくれてもいいんですよ」
空蝉は黙った。
紫穂も。
「……なるほど」
やがて空蝉が言った。
「先生はよく見ているのだな」
「え?」
「彼女を能力者としてではなく、一人の子供として見てくれている」
「いえ、そんな」
「ありがたいことだよ」
空蝉が静かに笑う。
「私たちはどうしても、彼女たちの力を頼ってしまうからね」
「……」
「学校では、なるべく普通の子供でいさせてやってくれると助かる」
教師の頬が少し赤くなった。
「は、はい」
「よろしく頼むよ」
「もちろんです」
紫穂が空蝉を見る。
「……空蝉さん」
「何かな?」
「先生、困ってるわよ」
「そうかね?」
「そうよ」
「私は礼を言っただけだが」
「それが問題なの」
「何故?」
「分からないならいいわ」
教師がさらに赤くなる。
葵が小声で呟く。
「無意識なんが一番タチ悪いな」
「何の話だね?」
「何でもない」
◆
面談が終わり。
校舎を出る。
門の周辺では、それぞれの家族が帰り支度をしていた。
父親と手を繋ぐ子。
今日の授業について母親へ話す子。
兄弟で走り回って怒られている子。
ごく普通の光景。
空蝉は少しだけ足を止めた。
どこかで見たことがある。
そんな気がした。
いや。
見たことがあるのだろう。
誰かが。
「空蝉?」
薫の声。
「ん?」
「何見てんの?」
「いや」
空蝉は笑う。
「随分変わったものだと思ってね」
「学校が?」
「ああ」
葵が隣へ来る。
「何が変わったん?」
「色々さ」
「例えば?」
「教師が竹刀を持っていない」
「まだ言うとる!」
「廊下に立たされている子もいない」
「今そんなんしたら問題になるで」
「そうなのか」
「空蝉さん」
紫穂が問う。
「昔は立たされたの?」
「……」
また。
記憶。
廊下。
外から聞こえる授業。
冷たい壁。
退屈。
それから。
誰かを立たせていた記憶。
「どちらもあった気がするね」
三人が止まった。
「どっちだよ!」
薫が笑う。
「どういう学生生活送ったら両方あんだよ!」
「さあ」
「またそれ!」
空蝉も笑った。
◆
「で」
校門を出たところで薫が言った。
「腹減った」
「早いね」
「昼過ぎだぞ!」
「何か食べて帰ろうや」
葵も乗る。
「紫穂は?」
「賛成」
三人の視線が空蝉へ集まる。
「……」
「何かな?」
「奢って」
「何故?」
「皆本なら奢ってくれるぞ」
「君たちの保護者様じゃないか」
「皆本はんから今日の保護者役頼まれたんやろ?」
「む」
「保護者や」
「そうね」
「保護者だな」
「……」
空蝉は三人を見る。
三人とも期待に満ちた顔をしている。
「なるほど」
財布を取り出す。
「では今日は保護者らしく振る舞うとしよう」
「やった!」
「ただし」
「ん?」
「一人一品だ」
「ケチ!」
「保護者にも予算というものがある」
「空蝉さん絶対持っとるやろ!」
「あることと使うことは別だよ、葵君」
「出た!」
四人で歩き出す。
少し先。
薫と葵が何を食べるか揉めている。
紫穂がその横から候補を増やして、さらに話をややこしくしている。
空蝉は一歩後ろを歩いた。
今日知ったことは多い。
薫は、自分が思っているより人の世話を焼く。
葵は、自分が答えられる時でも周囲を見る。
紫穂は、学校ですら大人でいようとする。
知らなかった。
その事実が。
思いのほか、嬉しかった。
自分が知らないところでも。
三人は三人なりに生きている。
「空蝉!」
薫が振り返る。
「何してんだよ、置いてくぞ!」
「ああ」
空蝉は歩調を早めた。
「今行くよ」
「ファミレスでいい?」
「構わないとも」
「パフェ食べていい?」
「一品と言っただろう」
「飯とデザートは別だろ!」
「今君たちに食べさせ過ぎると皆本君に怒られるのでね」
「ケチ!」
「教育的指導ということにしておこう」
「学校の影響受けるの早すぎだろ!」
笑い声。
雑踏。
休日の街。
空蝉は三人の後ろを歩く。
少しだけ考える。
自分にも学校へ通った記憶はある。
確かにある。
教室。
教師。
机。
竹刀。
給食。
廊下。
春。
冬。
笑い声。
叱責。
友人。
誰かの泣き顔。
――では。
それは誰の学校だったのだろう。
「……」
考えて。
空蝉はやめた。
「空蝉ー!」
「聞こえているよ」
前を歩く三人へ追いつく。
昔が誰のものだったとしても。
少なくとも。
今日ここへ来たのは、自分だった。