「峰川、今日このあと空いとる? 久しぶりに駅前の居酒屋でも行かへん?」
金曜日の定時を過ぎたオフィス。パーテーション越しに同期の男が声をかけてきた。
「ごめん! 今日は妻が東京の子どもの下宿先に行っててなぁ。久しぶりのひとりタイムやから、真っ直ぐ帰るわ」
翔大は申し訳なさそうに手を合わせた。50代になり、頭頂部もすっかり寂しくなった冴えないサラリーマン。出世コースからは外れたが、「現場第一主義」というプライドだけを胸に、ここまで泥臭く働いてきた自負はある。
「え、ならなおさらオッケーやん! 羽伸ばせるチャンスやで!」
「いやいや、ほんま今日はごめん。久々に家でゆっくり身体休めたいねん」
苦笑いしながら断る翔大に、同期はニヤニヤしながら肩を叩いた。
「オッケーオッケー、また今度な。けど、ひとりで変な動画ばっかり見とったらあかんで!(笑)」
「変な動画ってなんや(笑)、見るわけないやろ。とにかく、誘ってくれてありがとうな」
職場を出ると、西の空には言葉では言い表せないほど美しい、燃えるような夕焼け空が広がっていた。
「あー、今日も疲れたけど……なんか幸せやなぁ」
どこか少年の頃の遠足を思い出すような、胸がじんわりと満たされる風景だった。心地よい夕風が、翔大の少々寂しくなった髪を優しく揺らす。
(……まぁ、おかんが生前『お前は若い頃から髪が細いから、将来ハゲる』って予言してた通りになってもうたけどな)
ふと亡き母の顔が浮かび、翔大は頭をかきながら、どこか愛おしそうに口元を緩めた。
愛車に乗り込み、途中のセブンイレブンで晩ごはんのおかずをいくつか買い込んで自宅へ帰った。誰もいない静かなリビング。テレビをつけてビールを煽り、のんびり過ごしているうちに、日頃の疲れもあっていつの間にかソファでうとうとと眠ってしまった。
気がつくと、夜の10時を回っていた。
「うわ、もうこんな時間か…」
急いで風呂に入って寝支度を済ませ、毎日の習慣にしている日記帳を開く。
『○月×日。妻は東京。夕焼けが綺麗だった。一人の時間を満喫』
短い言葉を綴ったあと、布団に寝転がってスマホで懐かしい昭和のアニメ動画を眺める。画面の中で、ビキニ姿の宇宙人の女の子が元気いっぱいに飛び跳ねていた。
(あの頃は、本気でこんな子が空から降ってくるって信じてたなぁ……)
淡いセンチメンタルは、すぐに深い睡魔へと溶けていった。
ゴオオオオッ……!
凄まじい突風が家を揺らし、激しい雨の音が寝室に響き渡っていた。
――パリンッ!!!
突如、激しい破砕音が闇を切り裂いた。
「うわっ! なんだなんだ!?」
翔大は跳ね起きるようにして目を覚ました。心臓がバクバクと早鐘を打つ。焦って部屋を見渡すと、割れた窓ガラスの向こう、暴風雨が吹き込むカーテンの影に、何かが滑り込んできたのが見えた。
「泥棒か……!? いや、まさか……」
恐怖に身をすくめながら、翔大は布団を盾にするようにして恐る恐る近づく。
「……人、か?」
そこにいたのは、若い女性の姿だった。しかし、明らかに地球の人間ではなかった。彼女が身にまとっているのは、見たこともない獣の皮をなめしたような衣服。そして何より、乱れた髪の隙間から覗く頭のてっぺんには、一本の尖った、小さな角のような突起物が生えていたのだ。
「嘘だろ……夢かこれ。寝ぼけとんのか、俺は」
頭の中がパニックで真っ白になる。しかし、彼女はぐったりと倒れており、体に突き刺さった窓ガラスの破片から、尋常ではない量の液体が流れ出していた。部屋の電気をつけようと壁のスイッチを激しく連打するが、反応がない。嵐による停電だ。
「クソッ、こんな時に……!」
翔大は手探りでスマホを掴み、ライトを起動させた。白い光が、生々しい現場を照らし出す。
「血が……! え、ピンク……!?」
彼女の体から流れる血を見て、翔大は息を呑んだ。その色は、人間の赤黒い血ではなく、イルミネーションのように透き通るような淡いピンク色をしていた。だが、色が何色だろうが、怪我をしていることには変わりない。床に広がっていくピンクの海を見て、翔大の長年培われた「現場第一主義」のスイッチがカチリと入った。
「とにかく、早く血を止めな!」
パニックを起こしている暇はない。工場勤務時代、安全講習で嫌というほど叩き込まれた応急処置の知識が、脳裏に鮮明に蘇る。まずは傷口の確認だ。
翔大は「すまん! 許してや!」と心の中で叫びながら、彼女の衣服に手をかけた。獣の皮のようなその服は、見た目に反してフロント部分が特殊な合わせ目になっており、翔大が触れると、まるで意思を持つかのように滑らかに左右へと開いた。
露わになったその身体は、息をのむほど白く、均整の取れた美しいプロポーションをしていた。
「いかんいかん、相手は怪我人や! 何、邪念を抱いとんねん、俺のドアホ!」
翔大は自分の頭をゴツンと叩いて理性を引き戻す。見れば、脇腹や太ももにガラスの深い切り傷があり、そこからドクドクとピンクの血が溢れていた。
翔大は救急箱から大量のガーゼと太い包帯を引っ張り出し、さらに洗いたての清潔なバスタオルを何枚も抱えて戻ってきた。
まずは傷口にガーゼを分厚く当て、その上から体重をかけるようにして、両手で力強くグッと圧迫する。
「……う、く……っ」
その強い痛みに、気を失っていたはずの彼女の眉がキュッと中央に寄り、小さな唇からかすかなうめき声が漏れた。
「痛いな、ごめんな! すぐ終わるからな!」
翔大は必死に声をかけながら、バスタオルと包帯を傷口にこれでもかと巻きつけ、ギチギチに強く縛り上げて圧迫止血を施した。
すると不思議なことに、翔大が全体を強く圧迫したことで出血が抑えられると、彼女のピンクの血がジュワッと泡を立てて固まり始めた。地球人よりも遥かに血が固まるのが早い――宇宙人ならではの、驚異的な回復力だった。
翔大の必死な応急処置と、彼女の宇宙人パワーが奇跡的に噛み合った瞬間だった。
「よかった、止まった……」
新たな出血がないか、翔大は夜通し彼女の様子を見守り、額の汗を拭いながら枕元で声をかけ続けた。
「大丈夫やからな、もう安心やからな……」
気がつけば、外の嵐の音が遠くに聞こえるほど、翔大は夜を徹しての看病を続けていた。
翌朝、夜通し荒れ狂った嵐は嘘のように去り、部屋に静かな朝の光が差し込んでいた。割れた窓の隙間から、雨上がりのどこか冷たい空気が流れ込んでくる。
ベッドの上の女の子が、うっすらと長い睫毛をかすかに揺らして、ゆっくり目を覚ました。
「大丈夫か……?」
翔大が枕元からそっと声をかけると、彼女はハッと目を見開き、信じられないほど険しい表情でガタッと身構えた。何かを激しく叫びながら、ブツブツと早口で言葉をまくし立てる。だが、その金属的な響きをもった言葉は地球のどの言語でもないようで、翔大にはまったく意味が理解できない。
彼女は鋭い警戒の視線を向けたまま、ベッドから逃げようと立ち上がろうとした。しかし、自分が一枚の衣服も身に着けていないことに気づいた瞬間――ピキリ、と全身が凍りついた。
次の瞬間、彼女の顔はこれ以上ないというほど真っ赤に染まった。
「……っ!」
声にならない悲鳴をあげ、身を極限まで縮こまらせて、恥ずかしさのあまり泣き出しそうな顔で身をかがめる。
そのとき、彼女は自分の指にはめていた指輪を口元に近づけ、すがるように何かをつぶやき始めた。彼女の声の周波数に呼応するかのように、指輪の表面がかすかに、そして怪しく明滅している。
翔大がゴクリと唾を呑んでその異様な光景を見守る中、やがて、彼女はゆっくりと翔大の方を向き、震える声で言った。
「こ、ここは……どこ?」
たどたどしいが、紛れもない日本語だった。
翔大はひっくり返りそうになるほど驚いたが、相手を刺激しないよう、努めて冷静に答えた。
「……俺の、家やけど」
彼女はしばらくその言葉の意味を頭の中で反芻するように、じっと視線を彷徨わせていたが、再び掠れた口を開いた。
「この、星の……名前は?」
「あっ…地球、やで…」
彼女はまた指輪にボソボソ話しかけたり、じっとそれを見つめたりしながら、深く考え込んでいた。しばらくして、ようやく何か大きな覚悟を決めたように、真っ直ぐに翔大を見つめた。さきほどの恐れや怒気は消え去り、朝日の光を浴びたその顔は、息をのむほど美しかった。
「私は、この星の人間ではありません」
「君は……いったいどこから来たの?」
翔大が恐る恐る問いかけると、彼女は静かに答えた。
「私は、ここから2400光年離れた『リコールヌ』という星の人間です」
2400光年――。あまりのスケールに頭がクラクラしながらも、翔大は急いでスマホを起動し、震える指で夢中で検索をかけた。当然、「リコールヌ」という名前の星は見つからない。しかし、2400光年の距離にある天体を調べていくうちに、ある天体データが目に留まった。
「……これ、かな?」
翔大は、画面に映し出された『クリスマスツリー星団』の無数の星々が美しくまたたく画像を見せた。
すると、彼女の瞳がパッと輝いた。
そう、それ、と言わんばかりの、懐かしさと愛おしさが混ざった潤んだ瞳で画面を見つめている。彼女いわく、この星団内にある、ある太陽系の惑星から来たのだという。
話のスケールが大きすぎて、脳の処理が追いつかない。現実離れした状況の連続に、混乱で頭がどうにかなりそうだった。
しかし、目の前にいるこの美しい少女は、紛れもなく本物の「宇宙人」なのだ。
(俺は今、宇宙人と出会って、会話をしている……!)
そう確信した瞬間、50代の冴えないサラリーマンの身体を、少年時代にも味わったことのないような、この世のものとは思えないほどの猛烈な興奮と好奇心が、雷のように激しく貫いていった。