それは、日の光が優しく差し込む午後の国語の授業中のことだった。
窓の外からは運動部の威勢のいい掛け声が響き、教室の中は先生の朗読する単調な声が子守唄のように流れている。
毎日満員電車に揺られていたアラフィフの元サラリーマン、峰川翔大は、高校生の木製の机の狭さに未だに慣れず、手元を少し滑らせてしまった。コロン、コロコロンと小気味よい音を立てて、愛用の消しゴムが通路へと転がり落ちる。
「あ、いけね」
翔大が慌てて手を伸ばしたのと同時に、前の席に座る女の子――進路委員の橘さんもその音に気づき、親切心から床へとかがみ込んだ。狭い通路の真ん中、二人の手が同時に白い消しゴムへと伸びる。
――つん。
指先と指先が、ほんの少しだけ触れ合った。
「あ、ごめん!」
「ううん、はい、消しゴム」
ノートを貸し借りした時とは違う、予期せぬ不意の接触。若い二人の間にどこか甘酸っぱく気恥ずかしい空気が流れ、お互いに「あはは……ありがとう」と顔をぽっと赤らめて小さく笑い合った。17歳の肉体ならではの、至極純粋で無垢な青春の一コマ――のはずだった。
だが、その瞬間。
後ろの席から、地獄の底、あるいは宇宙の深淵から響くような「ゴゴゴゴ……」という禍々しい効果音が聞こえてきそうなほどの、凄まじい視線が突き刺さった。
翔大が本能的な生命の危機を感じて恐る恐る振り返ると、そこには大きな瞳をいっぱいに涙で潤ませて今にも泣き出しそうな、しかしそれ以上に激しい怒りで全身を小刻みに震わせているモナの姿があった。
「だ、だーりーーーん……今、何したっちゃ?」
嫉妬で完全に裏返った、しかしどこか冷徹で低い声が響く。周囲の生徒たちは授業中ということもあり、まだその異変に気づいていない。
「えっ、何が? いや、今のはただ消しゴムを……」
「今、ダーリンと前の女の子の手が触れるのを、うちはこの目でハッキリ見たっちゃよ! 触れ合って、二人で嬉しそうに顔を赤くして笑ってたっちゃ!」
「モナ、声が大きいって! 事故やから、ただの不慮の事故!」
「事故じゃないっちゃ!うち以外の女の子に触れちゃ、絶対にいやだちゃーーーっ!」
ついにモナの焼きもちが限界突破し、大爆発した。
それと同時に、モナの指先にはめられた不思議なトパーズ色の指輪が、主の感情の暴走に呼応するようにドクンドクンと脈打つような禍々しい紫色の光を放ち始める。空間の歪み操作が制御を失い、教室内の「重力波」が一瞬にして完全に狂い出した。
(う、うわっ!? 体が浮く……!?)
翔大の体が、パイプ椅子ごと数センチメートルほどフワリと浮き上がる。それだけではない。教卓の上のチョークが天井に向かって逆さに「落ちて」いき、窓辺のカーテンが重力を完全に無視して真横にピンと張り詰めた。クラスメイトたちが「え? 地震?」「なんか急に体が軽いんだけど!?」とガタガタとざわつき始める。
このままでは教室が文字通りの無重力地帯になってしまう。サラリーマン時代に数々の修羅場をくぐり抜けて培った最大の危機管理能力をフル回転させ、翔大は天井に激突しかける机を必死に手で押さえながら、モナに向かって全力で頭を下げた。
「モナ! 落ち着いて! 本当に悪かった! 俺が悪かったから! 次からはマジで、他の女の子とは半径1メートル以内に近づかないし、消しゴムが落ちても絶対に触らないように猛烈に気をつけるから! だからお願い、その指輪を鎮めて!」
宙に浮いた状態で、必死の形相で大真面目に謝罪を繰り返す翔大。その必死すぎるダーリンの姿と、「次からはマジで気をつける」という決死の誓いがモナの心に届いたのか、指輪の不気味な光が徐々に収まっていった。
それと同時にフッと重力が元に戻り、天井に張り付いていたチョークや翔大の体がドスン!と大きな音を立てて元の位置に落ちる。クラスメイトたちは「やっぱり気のせいか……?」と首をかしげ、黒板に文字を書いていた教師も「こら、静かにしなさい」と振り返って軽く注意する程度で済んだ。
大きな溜め息をつき、冷や汗まみれの胸をなでおろす翔大。すると、まだ少し頬をぷくーっと膨らませたままのモナが、机の下からそっと自分の小さな手を差し出してきた。
「……じゃあ、うちの手も握って!前の女の子と触れ合っちゃった時の、百倍、千倍、強く握ってくれなきゃ嫌だっちゃ」
まだ少し潤んだ瞳でじっと見つめられ、翔大は「分かったよ」と苦笑しながら、モナの華奢な手をしっかりと、力強く握りしめた。柔らかく、高校生の瑞々しい手の温もりがじわりと伝ってくる。
「……ん、少しすっきりしたっちゃ」
モナは頬を林檎のように赤く染めると、それまでの世界を滅ぼしかねない怒りが嘘のように、鈴を転がすような可愛い声で嬉しそうにハニかんだ。何とか最悪の事態は免れ、教室にいつもの平穏が戻る。
しかし、その一連のドタバタを、何列か離れた席からじっと見つめている男がいた。玉田宣道である。彼は、先ほど一瞬だけ教室の重力がおかしくなり、自分の体がフワリと浮いた時、モナの指先で奇妙な輝きを放っていたあの不思議な指輪から、どうしても目を離すことができなかった。
(……気のせいじゃない。さっき、確かにあの指輪が光った瞬間、教室の中が変になった……。いくら海外の珍しいお守りだって、重力まで変えられるわけがない。帰国子女とか、そういうレベルの秘密じゃない気がする……)
物知りな玉田の怪訝そうな表情と、モナの指輪に注がれる鋭い視線。平穏な青春の日々の裏側で、玉田の頭脳という小さな、しかし確かな疑惑の歯車が、静かに、確実に回り始めていた。
そして、その日の夕方。
翔大は駅前にある、ジャズが静かに流れるレトロな純喫茶のボックス席にいた。目の前には、昼間に消しゴムを拾ってくれた橘さんが座っている。実は放課後、彼女から「進路のことで少し相談に乗ってほしい」と呼び出されたのだ。
翔大は、頼られると無下にできない元サラリーマンとしての「義理堅さや人脈を大切にする癖」がどうしても抜けなかった。「ただの真面目な相談やし、変にコソコソ隠す方がかえって怪しいやろ」と判断し、モナには「ちょっと用事があるから先に帰っててな」とだけ伝えて橘さんと合流したのだが――それがすべての運の尽きだった。
「峰川くんって、いつも授業中ぼんやりしてるように見えるけど……なんだかすごく大人っぽくて、頼りになるよね」
橘さんは、温かいココアのカップを両手で包みながら、少し頬を染めて微笑みかけた。
「ははは、そうか? 困った時はお互い様やからな。俺に分かることなら何でも言うてよ」
おじさん特有の包容力と優しさを全開にして、親身になって微笑み返す翔大。少し身を乗り出して話を聞くその姿は、喫茶店の外から見ると、まるで二人がかなり親密な距離で語り合っているかのように見えていた。
そう、その喫茶店の大きなガラス窓のすぐ外。夕暮れの街路樹の陰に、明らかに周囲から浮きまくっている、やたらと怪しい集団が潜んでいた。
頭にトレンチコートの襟をこれでもかと立て、大きなサングラスをかけたモナ。その背後には、同じくズレたスパイ風の変装をさせられた玉田、荻中、村上の三人組が立たされていた。モナが自分の単独行動を怪しまれないよう、彼らを巻き込んで完璧な(と本人は思っている)隠密尾行ツアーを決行したのだ。
「あ~ん、峰ピーが別の女の子と密会なんて、俺のハートが張り裂けちゃうくらいだピー……!」
村上が大きな虫眼鏡を覗き込みながら、わざとらしく胸を押さえて身悶えする。
「静かにしろって。しかし、峰川のやつ、本当に女の子と二人っきりじゃん。あの橘さんと進路相談なんて、怪しすぎるっしょ」
「峰川のやつ、名古屋の男並みに隅に置けんがや! でもモナちゃんを泣かせるようなら、俺が黙っとらんがん!」
玉田の分析に、なぜか荻中が拳を握りしめて熱くなっている。
だが、そんな三人組の呑気なやり取りなど、今のモナの耳には一切届いていなかった。
窓越しに、翔大が橘さんに向かって優しく微笑み、あろうことか「よく頑張っとるな」と頭を撫でそうに手を動かした瞬間(実際には手元の資料を指差しただけなのだが)、モナの我慢の限界の導火線が完全に焼き切れた。
喫茶店のドアが「カランコロン!」と壊れそうなほどの勢いで開き、トレンチコートをバッと翻したモナが、弾かれたように店内へと躍り出てきた。
「うわああっ!? モナ!?」
翔大が跳ね起きるように立ち上がる。
モナの瞳からは、大粒の涙がぼろぼろと溢れ落ち、トパーズ色の輝きを濡らしていた。モナは真っ直ぐ翔大へ向けて駆け寄ると、涙でぐしゃぐしゃになった顔を跳ね上げ、小さな両拳でドンドン! ドン! と翔大の胸元をがむしゃらに叩きつけた。
「だ、ダーリンの浮気者っちゃ! うちを置いて、他の女の子とこんな暗いところでイチャイチャして、絶対に許さないっちゃーーーっ!」
ポカポカと必死に叩いてくる小さな拳は痛くも何ともない。けれど、その力いっぱいの打撃に乗せられた涙と激しい感情の昂ぶりに呼応するように、モナの指輪は昼間以上の凄まじい紫色の光を放ち始める。
店内の照明がチカチカと不気味に明滅し、テーブルの上の一輪挿しの花瓶がビリビリと激しく震え出した。完全に空間が歪みかけていた。
「モナ、落ち着け! 本当に相談に乗ってただけや! 俺が好きなのはモナだけ、モナだけやから!」
翔大の腕の中で、モナの身体が一瞬、トクンと跳ねるように強張った。
「……す、好き……?」
耳元で囁かれたダーリンの真っ直ぐな告白の言葉が、モナの心にじんわりと染み渡っていく。
あれほど激しく燃え上がっていた嫉妬と不安の嵐が嘘のように、モナのトパーズ色の瞳から険しさが消え、潤んだ瞳が嬉しそうに丸くなった。それに呼応するように、指輪の禍々しい紫色の光もゆっくりと淡い輝きへと収まり、店内に元の静寂が戻る。
「橘さん、ごめん、ちょっと急用ができたから先帰って!後でちゃんと説明するから!」
翔大は唖然とする橘さんを慌てて店外へと逃がすと、外で尾行していた三人組が窓越しに「うわ、ガチの修羅場じゃん……」「峰ピー、お疲れだがや……」と遠巻きに見つめる中、モナの手を引いて、逃げるように家へと向かった。
その夜、二人の家。
子ども部屋のソファの上で、モナはトレンチコートを脱ぎ捨て、膝を抱えて丸くなっていた。その大きな瞳からは、大粒の涙がポロポロと溢れ、静かな部屋にシクシクという切ない泣き声が響いている。
「モナ……本当にごめんな。俺が配慮に欠けてた。ただの進路の相談やったんやけど、モナにちゃんと話さずに会いに行った俺が全部悪い」
翔大が隣に座り、心から申し訳なさそうに謝ると、モナは涙で濡れた顔をゆっくりと上げ、胸の奥に溜め込んでいた本音のヤキモチを吐露した。
「……うちは、すごく怖かったんだっちゃ……。ダーリンが、うちの知らない遠いところに行っちゃう気がしたっちゃ……」
「え……?」
「うちは、この世界のことも、学校の言葉も、みんなが話してる流行りのお話しも、よく分からないっちゃ……。だから、ダーリンが他の女の子と楽しそうにお話ししてると、うちは何も分からなくて……すごく、すごく不安になるっちゃ……。ダーリンに嫌われたら、うちはもうどこにも行けないっちゃ……」
小さな体をさらに縮め、子供のように泣きじゃくるモナ。
その言葉を聞いた瞬間、翔大の胸は激しい愛おしさと、大人の男としての猛烈な反省で締め付けられた。
(そうか……。俺は50年の人生経験があるから、この世界に適応するなんて造作もない。だけど、モナにとっては、この街も、学校も、言葉も、全部が未知の異世界なんや。そんな中で、この子は俺だけを信じて頼ってくれてるのに……俺は何てバカなことをしたんや)
「モナ…」
翔大は50代の深い包容力をその腕に込め、泣きじゃくるモナの華奢な体を優しく、しかし二度と離さないという強い意志を込めて、しっかりと抱きしめた。
「アホやな、俺がモナを嫌いになるわけないやろ。この世界で、宇宙で一番、俺が思ってるのはモナだけや。言葉なんて分からんくていい、流行りの話もどうでもいい。俺がずっと、お前の隣におるから」
翔大の胸に顔を埋めたまま、モナの身体の震えが少しずつ収まっていく。モナは鼻をズビッと鳴らすと、涙で潤んだ瞳で翔大をじっと見つめ、少しはにかむように口元を緩めた。
「……でも、うちは、さっき喫茶店でダーリンに『好き』って言ってもらえて……本当は、すっごく、すっごく嬉しかったっちゃ」
「え……?」
不意を突かれ、翔大は動きを止めた。あの時は空間が歪み、世界が滅びかねない大ピンチだったため、モナを落ち着かせることだけに全神経を注いでいた。無我夢中で叫んだ言葉を今になって突きつけられ、一気に心臓がバクバクと暴れ出す。
「そ、そうだったっけ……? 俺、そんなこと言ったかな……」
中身は50代のオッサンだというのに、17歳の若返った心臓は正直なもので、顔が耳の裏まで一気に熱くなっていく。
そんな翔大の分かりやすい照れ具合を見て、モナは嬉しそうに目を細めた。
「もう、ダーリン照れてるっちゃ! ハッキリ言ったっちゃ! うちのことだけが好き、モナだけだって言ったっちゃ!」
「わ、分かったから! 分かったからもうその話は終わり!」
顔を真っ赤にしてうつむく翔大の姿に、モナの心は完全に満たされたようだった。モナは小さく笑うと、今度は少し甘えるように上目遣いになる。
「ふふ、じゃあ……今度の日曜日は、ダーリンがうちを素敵なところに連れて行って、お買い物もデートもいっぱいしてくれたら許してあげるっちゃ」
その健気なおねだりに、翔大は心の底から愛おしさが込み上げ、今度は自分から柔らかく微笑みかけた。
「よし、分かった。今度の日曜日は一日中、モナの貸し切りや。行きたいところも、欲しいものも、全部俺に案内させてな。この街の楽しいところ、これから二人でたくさん見つけにいこう」
「……ホントっちゃ? ダーリン、約束だっちゃ!」
翌日の放課後。
昨日、喫茶店で急に修羅場に巻き込んでしまった橘さんに謝罪するため、翔大は廊下で彼女を呼び止めた。
「橘さん、昨日は本当にごめん! 急に連れが乗り込んできて、話も途中でうやむやになってしもて……」
頭を下げて恐縮する翔大に対し、橘さんは一瞬驚いたような顔をした後、口元を押さえてクスリと楽しそうに笑った。
「ううん、ううん!大丈夫だよ峰川くん。それより……あの後、ちゃんと仲直りできた?」
「えっ、あ、いや……彼女というか何というか……」
「ふふ、ごまかさなくていいよ。あんなに必死に迎えに来てくれるなんて、すっごく可愛くて一途な子じゃない。私、なんだか邪魔しちゃったみたいで申し訳なかったな」
橘さんはいたずらっぽく微笑むと、進路の資料をギュッと胸に抱えて翔大を見つめた。
「進路の相談ならもう十分話せたから大丈夫だよ。昨日の女の子、すごく大切にしてあげてね!」
「あ、ありがとう橘さん……助かるわ……」
「応援してるからね!」
ポンと翔大の肩を軽く叩き、爽やかに去っていく橘さん。元サラリーマン翔大の誠実さと包容力は、期せずしてクラスの女子からも「一目置かれる魅力」として伝わっていたようだった。
雨降って地固まる。不器用なおじさんの深い包容力と、純粋すぎる宇宙人の女の子の愛が、また一歩、今度はより深い心の奥底でカチリと結ばれるのだった。