キーンコーンカーンコーン……。
放課後を告げるチャイムが響き、校舎は一気に茜色の夕闇に包まれていく。
「あー、やっぱりうまくいかんなぁ……」
誰もいない放課後の屋上。翔大は手の中のオカリナを見つめ、ガシガシと頭をかいた。当時、日々の癒やしを求めて自己流で始めたオカリナは、今も相変わらずの腕前だ。
「プォ〜〜……」
気の抜けた、どこか音程の外れた音が夕方の空に寂しく響く。けれど、フェンスに寄りかかったモナは、まるで極上の音楽を聴いているかのように、嬉しそうに目を細めていた。
「ダーリンが吹くオカリナの音色を聞くと、なぜかうちは自分の星の『サンティエ』の音を思い出すっちゃ」
「へえー、そうなんや。モナの故郷の星にも、こんな楽器があるん?」
「そうだっちゃ。もっとキラキラしてて、胸がキュッとなる音だっちゃ……。ねえ、ダーリン、この曲吹いて?」
モナがハミングで口ずさんだのは、どこか哀愁を帯びた、地球にはない不思議な音階のメロディだった。
「オッケー、任せとき!」
翔大は息を吸い込み、モナの綺麗なハミングを追いかけるようにオカリナを吹いた。
しかし、自己流の拙い技術では、モナの繊細な旋律をどうしても再現できない。翔大が音を出そうとするたびに、「プピッ」「スィ〜」と妙に気の抜けた音が混ざり、モナの美しい声とどうしても重なり合わない。まさに「届かない旋律」だった。
「あちゃー、やっぱりズレるなぁ……」
「ううん、ズレてないっちゃ! ダーリンの音、うちは大好きだっちゃ!」
モナはトコトコと翔大に歩み寄ると、その制服の袖をきゅっと掴んで、少し恥ずかしそうに上目遣いで見上げてきた。
「も、モナ、ちょっと近いって……!誰か来たらどないすんねん」
「いいっちゃ、誰も来ないっちゃ……。ダーリンと手を繋ぎたいなーって思って……だめ、だっちゃ?」
頬をほんのり赤く染めて、好きという気持ちが溢れそうになりながらも、どこか恥ずかしそうに指先をもじもじさせるモナ。中身が50代の翔大も、17歳のウブな肉体も、同時に心臓がバックバクに跳ね上がる。
「だ、ダメやないけど……あ、ほら、まだ練習の途中やし!手ぇ繋いだらオカリナ吹かれへんやろ? また後でな」
「あ……そうだっちゃね。じゃあ、おあずけだっちゃ」
モナは少し残念そうに、けれど嬉しそうにクスッと笑うと、そのズレた音色の余韻に合わせて、ひらひらと軽やかに舞い始めた。
夕日を浴びながら、重力を感じさせないしなやかな動きでステップを踏むモナ。その美しさはどこかこの世のものとは思えず、翔大はオカリナを吹きながらも、彼女がどこか遠くへ行ってしまいそうな錯覚に囚われる。
(……このまま、消えてまうんやないか?)
ふと、胸を突くような焦燥感が翔大を襲った。元50代のサラリーマンである翔大は、形あるものも、こんなに愛おしい青春の時間も、いつかは終わりが来るということを知っている。
モナをここに留めたい。その一心で、翔大はがむしゃらに息を吹き込んだ。指の形も、技術も忘れて、ただ「モナの傍にいたい」という魂の叫びをオカリナに託した。
その時だった。翔大の必死な思いに応えるようにモナの胸が高鳴り、彼女の指輪がトパーズ色の眩い光をふわっと放ち始めた。
チカチカと明滅する不思議な指輪の波動が、翔大の持つ安物のオカリナに優しく共鳴していく。
――次の瞬間。
かすれていた音が、嘘のように一点の曇りもないオルゴールの如き澄んだ音色へと変わった。
夕闇の空気を震わせる、切なくも温かい奇跡の響き。拙いなりに込められた翔大の「想いの塊」とモナの波動がシンクロし、夕暮れの屋上に美しい旋律が弾けた。モナが驚いたように動きを止め、大きな瞳を見開いて翔大を見つめる。二人の心が、音を通してひとつに重なり合った。
やがて優しく音が消え、静寂が訪れる。
「……ダーリン……っ」
あまりの愛おしさに胸がいっぱいになったモナは、うっとりと瞳を潤ませると、翔大の首にそっと手を回してきた。
「モ、モナ……!?」
「ご褒美だっちゃ……!」
モナは少しだけ背伸びをすると、ぎゅっと目を閉じ、小さく唇を突き出して顔を極限まで近づけてきた。完璧な「キスのおねだり」だ。
(えっ、ちょ、まっ、ここ学校の屋上やぞ!?)
17歳の純情な肉体と50代の理性が大パニックを起こした翔大は、反射的に手に持っていたオカリナを自分の口元とモナの唇の間に滑り込ませた。
チュッ。
「……ふぇ? ……オ、オカリナだっちゃ!?」
「ふぅー……ア、アカンって!さっきも言ったけど学校やし、心の準備が……!」
「むー!オカリナじゃなくて、ダーリンにしたいっちゃー!」
モナが頬をぷくーっと膨らませて翔大に抗議した――まさにその瞬間。
「おーーーい!峰ピー!モナちゃーーん!そこにいるのけ〜!?」
ガララッと屋上の扉が豪快に開いた。現れたのは、サッカーボールを小脇に抱えた村上(かみちゃん)だった。あまりにも絶妙すぎるタイミングで、甘酸っぱい空気は文字通り宇宙の彼方へ吹き飛んだ。
「げぇっ、村上……!」
「なーに二人で良い雰囲気作ってんだよ〜。俺が言うくらいだぜぇ〜。あ、峰ピーの今の音、なんかちょっとジーンときちゃったかも。俺のピュアなハートに響いたピー」
「……何がピーやねん。お前、ほんま空気読まんなぁ!!」
心底ガクッと肩を落とし、魂の底から叫ぶ翔大だったが、悪びれもせず「え〜? サッカーやろうぜって誘いに来ただけなのにさぁ〜」と頭をかく村上の、どこか憎めない笑顔を見て、ついフッと毒気を抜かれてしまう。
だが、モナのほうはそうはいかなかった。さっきまでの甘酸っぱい雰囲気を盛大にぶち壊され、女の子らしく激しい焼きもちの炎が燃え上がる。
「ダーリン、せっかくいいところだったのに……。村上くん、ダーリンにベタベタしすぎだっちゃ。うちはダーリンと二人きりが良かったっちゃ……!」
モナは怒り心頭で翔大の腕をギュッと引っ張る。その拍子に、彼女の指輪がチカッと小さく紫色の光を放った。空気がピリピリと帯電したように震える。
「アカンアカン! 村上、命が惜しかったら今すぐそこから逃げえ!モナがマジギレしとる!」
「ひええ〜! なんか知らんけどモナちゃんがマジで怒ってるピー! 助けてぇ〜!」
村上は情けない声を出しながら、慌てて屋上の入り口へと脱兎のごとく駆け出した。と、その時。
「うわっとっと!危ねえな村上、ぶつかるじゃんか!」
扉の陰からひょっこり姿を現したのは玉田だった。村上を追いかけて屋上まで上がってきていたらしい。
「あ、玉プィー! 助けてぇ〜!」
村上は玉田の姿を見るやいなや、その背中に文字通りしがみつき、服の裾を指でつまんで甘えた。
「気持ち悪いわ、離れろ村上!」
玉田はいつものように冷たくあしらい、ケラケラと笑う。しかし、彼のその鋭い瞳の奥だけは決して笑っていなかった。
玉田は、先ほど反対の扉の向こうから屋上を覗き見していたのだ。そして、翔大の必死な顔、モナのステップ、そしてオカリナが光を纏って奇跡の音色を奏でた瞬間と周囲の空間がわずかに歪んだ光景を、その持ち前の観察眼でハッキリと目撃していた。
(……気のせいじゃない。峰川のあの必死な顔も、あのオカリナの光も。うそ、うそー……って笑い飛ばせるレベルじゃないじゃんか。否!否! 科学じゃ説明できない何かが、確かにあそこにあるべ……)
玉田の胸の中で、これまで散らばっていた違和感が、一つの明確で奇妙な形となって結びつき始めていた。
「じゃあね、俺は見たいテレビがあるからさー。村上、お前も早く来いよ」
「待ってよ玉プィー!」
嵐のような二人組が去り、屋上には再び静寂が戻る。太陽は山の向こうへ沈み、空は燃えるような赤から、冷たい群青色へと移り変わっていく。
翔大は、手のひらの中で少し冷たくなったオカリナを見つめた。
玉田たちの登場で空気は和らいだ。けれど、胸の奥のざわつきは消えそうにない。
「ダーリン、さっきの約束、覚えてるっちゃ?」
モナが少し悪戯っぽい笑みを浮かべ、翔大の前にそっと右手を差し出した。夕闇の中で、彼女の綺麗な指先が少し震えている。
「約束って……あ」
『手ぇ繋いだらオカリナ吹かれへんやろ?』と言ったさっきの言い訳を、モナはちゃんと覚えていたのだ。10代のウブな気恥ずかしさが再び翔大を襲う。
「……しゃあないなぁ。ちょっとだけやで」
翔大が照れ隠しに小さく息を吐きながらその手を握ると、モナの手は驚くほど温かく、そして柔らかかった。モナは嬉しそうにキュッと握り返してくる。
「えへへ、ダーリンの手、あったかいっちゃ。もう離さないっちゃ!」
「アホ、ずっと繋いでたら帰れへんやん。……でも、もう一曲だけ吹く間は、このままでおるか」
「うん! ずっと聴いてるっちゃ!」
繋いだ手から伝わる確かな温もりに救われながら、翔大は空いた片手でオカリナを口元に当てた。
夕闇が迫る放課後の屋上で、二人の噛み合わない、けれどこれ以上ないほど優しく寄り添う愛おしい旋律が、静かに響き続けていた。