ギラギラとした夏の太陽が照りつけるグラウンド。今日の体育は、男女に分かれてのサッカーだった。
乾燥した土埃が舞い上がる中、男子たちの荒い息遣いと、スパイクが地面を削る鈍い音が響き渡っている。
「ふふん、やっとわしの出番が来たピー」
体操着の襟をこれでもかと立てながら、村上が不敵にニャリと笑った。
「俺の能力は底が知れないからな。鹿児島にいた頃は『チェスト村上』と恐れられた男だぜぇ〜」
ボールを足元で不器用に転がしながら、やけに自信満々だ。
一方、翔大はといえば、完全に腰が引けていた。しがないサラリーマンだった元の世界でも、サッカーなんて義務教育以来まともに触れていない。趣味の空手(ほとんど中途半端)以外、スポーツには全く興味がないのだ。目の前をビュンビュンと飛び交う、土汚れで重くなった革製のボールが怖くて仕方がない。
「おい峰川! ボールから目を離すな、じゃん!」
「ディフェンス戻るだがん、峰ピー!」
玉田と荻中の怒号のような指示が飛ぶ。この二人はそこそこサッカーが上手いのがまた憎らしい。相手フォワードの激しいプレッシャーに押され、グラウンドは一気に混沌とした肉弾戦の様相を呈していた。
そんな男子の泥臭い乱戦をよそに、金網フェンスを挟んだ隣のコートの女子の試合では、モナが凄まじい大活躍を見せていた。
「そこだっちゃーーー!」
重力を無視したような軽いステップ。相手ディフェンスが三人がかりで奪いに来るのを、モナは軽やかなターンでひらりと滑らかに抜き去る。そのまま、しなやかな脚から放たれたのは、目の覚めるような弾丸シュート。ドカッと激しい音を立てて、ボールがゴールネットを大きく揺らした。
(……いや、凄すぎるやろ。どんな身体能力しとんねん)
翔大が思わずチラッと見て感心していると、モナは自分がゴールを決めたことなどそっちのけで、フェンス際までトトトッと嬉しそうに駆け寄ってきた。そして、両手をメガホンのように口元に当てて、グラウンド全体に響き渡るような黄色い声をあげる。
「ダーリンーーーっ!見てるっちゃ!? うち、ゴール決めたっちゃ!今度はダーリンの格好いいところ、うちに見せてほしいっちゃーーー! がんばれ、がんばれ、ダーリンっ!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、全身で愛情いっぱいに応援してくれるモナ。
長い髪が夏の光を浴びてキラキラと輝き、そのひまわりのような笑顔は、男たちのむさ苦しいグラウンドの中でそこだけ聖域のように眩しかった。女子のクラスメイトたちからは「ちょっとモナちゃん、試合中だよー!」と苦笑されているが、本人はどこ吹く風だ。
「お、おおう!任せとき!」
モナのあんなに可愛い全力の応援を特等席で浴びて、男としての本能が黙っているわけがない。中身が50代だろうが関係ない。翔大はにわかに漲るアドレナリンを感じながら、意気揚々とルーズボールに向かって猛ダッシュした。
「よっしゃ、俺のストレートを受けてみぃーーーっ!」
空手の下段蹴りを繰り出すような勢いで、翔大は勢いよく右足を振り抜いた。だが、気合いが空回りしたのか、差し出した右足は虚しくボールの上の空気を切り裂く。思いきりすっ転んだ翔大は、勢い余って派手に五体投地する形で、ズザーッと顔面から泥の中に突っ込んでしまった。
「アハハ!峰川、何その無様なスライディングじゃん!」と玉田がゲラゲラと声をあげ、 「モナちゃんの前で格好つけようとして大空振りだかん!芸術的すぎるがん!」と荻中が膝を叩いて爆笑する。
「ううっ、痛たた……口の中に砂が入ったわ……」
泥だらけになり、顔を真っ赤にして起き上がった翔大。格好悪いところを見せてしまったと、ガックリ肩を落として金網の方を恐る恐る振り返った。
しかし、モナは引くどころか、ますます目を輝かせて両手を頬に当て、うっとりとした表情で身を乗り出していた。
「キャーーーッ!ダーリン、今のダイナミックですっごく格好良かったっちゃ!泥まみれになって戦うダーリン、男らしくて野生の獣みたいで素敵だっちゃー!うち、もっと惚れちゃったっちゃーー!」
「えっ、今の格好ええんか……!?審美眼どないなっとんねん!」
どんなに不細工でマヌケな姿を見せても、絶対的な愛情で100%全肯定してくれるモナ。その一途で健気な可愛さに、翔大は心臓を撃ち抜かれ、泥汚れに隠れて分からないのをいいことに、真っ赤な顔をして照れくさそうに頭をかいた。
しかし、男子の戦場は甘くない。のそのそと近づいてきた村上が、これみよがしに鼻で笑った。
「ちみ、行ぎ悪いよ。厳しいよ!峰ピーのサッカーは生まれたての小鹿レベルピー。やはりわしが本物のサッカーを見せてやらんといけないピー」
「うるさいわ! ボールが急にブレたんや!」
文句を言い合う間にも試合は続く。そしてついに、村上に絶好のチャンスが巡ってきた。 中盤でルーズボールを拾った玉田が、相手の激しいプレスを絶妙なボディバランスでいなしながら、右サイドの裏へと抜け出す。
「村上、走れ!」
玉田の鋭い声とともに放たれたのは、美しい放物線を描く最高のセンタリング。キーパーは完全に前へ釣り出され、ゴール前はガラ空きだ。まさに、走ってきた村上の足元にピタリと合わせるだけの、これ以上ないお膳立てだった。
「もらったピーーー! 薩摩の誇りを見せてやるぜぇ〜!」
村上がプライドのすべてを懸けて、無駄に大袈裟なジャンピングボレーの体勢に入る。バタバタと長い手足を振り回すその姿は、ハタから見れば完全に不格好だった。
――そして、放たれた渾身のシュートは、ボールの芯を激しく捉え損ねた。
ペシッ。
スカッと気の抜けた音を立てたボールは、ゴールとは全く違う真横――いや、むしろ後ろの自陣ベンチに向かってコロコロと力なく転がっていった。それどころか、空中で体勢を崩した村上は、自分で自分の足を引っ掛け、まるで古典的なギャグアニメのように頭から地面に突っ込んで大転倒した。
歴史的な大ポカだった。一瞬、グラウンドの全視線が集まり、静まり返る。
「……ぷッ、クククク、うはははは!」
「大口叩いておいて、真横に蹴る奴があるか、だがん! チェスト村上が泣いとるがん!」
玉田と荻中が腹を抱えて草むらに転がり、翔大も思わず「それ、バックパスやんけ!」と吹き出した。
体育の授業終了を告げるチャイムが鳴り響いた。 汗と泥にまみれ、疲れ果てた男子たちがゾロゾロと水道に向かおうとしたその時だった。
「ダーリン!がんばったご褒美だっちゃー!」
「みんなもアイス、食べるっちゃー!」
「ヤッホー!ありがとう、モナちゃーん!」
玉田や荻中たちも嬉しそうにモナのもとに駆け寄ってきた。
金網フェンスの向こう側から、モナが満面の笑みでパタパタと手を振っていた。その手には、女子の体育が少し早く終わったスキに購買で買ってきた、キンキンに冷えたチューブアイス(チューペット)が握られている。ポキッと二つに割られた片方が、フェンスの網目からニュッと差し出された。
「モ、モナ!?お前、わざわざ買ってきてくれたんか?」
「そうだっちゃ!泥まみれのダーリン、すっごく格好よかったから!はい、あーん!」
「あーんって……ここ、みんなおるのに……!」
照れて固まる翔大だったが、フェンス越しに目をうるうるさせて「ダーリン、冷たいうちに食べてほしいっちゃ」とおねだりするモナの可愛さに抗えるはずもない。翔大は観念して、フェンスの隙間から差し出されたアイスにパクリと口を寄せた。
「……ん、冷たくて美味い。ありがとな、モナ」
「えへへ、ダーリンに喜んでもらえてよかったっちゃ!」
嬉しそうに自分側のアイスをシャリシャリと噛じるモナ。そのあまりにも甘甘で青春度1000%な光景に、周囲の男子たちから一斉に嫉妬の嵐が巻き起こった。
「なぁぁぁにが『あーん』じゃー!! 峰ピーずるいがや!!わしにもあーんしてくれがん!!」と荻中が血涙を流しながら咆哮し、「否! 否! 体育の直後にフェンス越しのアイス共有とか、甘酸っぱさのキャパシティを超えてるじゃんか!」と玉田が頭を抱える。
泥だらけの顔をさらに真っ赤にしながら照れる翔大と、男子たちの嫉妬など全く気にせず「ダーリン、もう一口食べるっちゃ?」と幸せそうに微笑むモナ。そのフェンス越しの甘い空気は、むさ苦しいグラウンドの中に最高の清涼剤となって広がるのだった。
放課後。部室の裏の夕日が差し込むベンチで、村上は体操着のまま、魂が抜けたように体育座りをして激しく落ち込んでいた。絵に描いたようなシュートミスと、何より高すぎるプライドを仲間たちの前で粉々に砕かれたショックは相当なものらしい。
「ふぅー、もうわしなんかどうなってもいいんだわ……。今日のわしは、チェストじゃなくてただのゴミだピー……」
と、世界が終わったかのような顔でブツブツと呟きながら、本気でへこんでいる。長い前髪の隙間から見える目が、完全に死んでいる。
さすがに見かねた玉田が、自販機で買ったポカリスエットを片手に、足元の小石を蹴りながら近づいて声をかけた。
「まぁさー、ドンマイじゃん。あんだけ派手に外せば、逆に清々しいからさー」
村上は膝に顔を埋めたまま、消え入りそうな声で、けれど必死に虚勢を張った。
「……うるさいピー。俺が凹むくらいだぜぇ〜……。今日の失態は、日本のサッカー界における大きな損失ピー……わしが本気を出せば、今頃ワールドカップだったんぜぇ……」
まだ強がるか、と玉田は呆れたように笑い、容赦なく一蹴した。
「あんたが凹んだから世界の何が変わるんだっつーの!」
その瞬間、村上はビクッと動きを止め、顔を上げた。次の瞬間には「ケケケケッ!」と嬉しそうに腹を抱えて、いつもの呑気な爆笑に戻っていた。
「そうけ! 確かに何も変わらんピー!ケケケケッ!」
「うわ、気持ち悪いな!近寄るなじゃん!」と本気で嫌がる玉田の服の裾を、村上は指先でつまんで「玉プィー、玉プィー、冷たくしないでピー」と甘えた声を出してにじり寄る。玉田は「離れろって!」と言いながらも、その口元はどこか楽しそうに綻んでいた。
その二人のやり取りを、少し離れた水道で泥を洗い流しながら見つめていた翔大の胸の奥に、懐かしい熱いものが込み上げてきた。
(無条件の全能感、か……)
50代として過ごした大人の現実世界では、とっくに失ってしまった感覚だった。
大人になれば、自分の限界を嫌というほど知り、失敗すれば本気で社会的な責任や評価を落とされる。全能感なんてものは、痛々しい若気の至りとして、誰もが成長の過程で切り捨てて生きていくのが「普通」だ。
だけど、こいつらは違う。
根拠のない無敵の自信を持ち、どれだけ格好悪い失敗をしてプライドを砕かれても、友達のくだらない一言で笑い飛ばして、またすぐに「自分は特別だ」と信じ込むことができる。傷つくことを恐れない、圧倒的な青春のエネルギー。
「何一人で黄昏れとるんだがん、峰ピー。早く着替えてジュース買いに行くがん!」
いつの間にか着替えを終えた荻中が、翔大の背中をパシッと叩いた。
「おう、すぐ行くわ!」
翔大は笑顔で立ち上がった。
50代の冷めた目線なんて、この世界には必要ない。不器用で、格好悪くて、だけど自分が世界の中心だと信じられるこの眩しい季節を、俺は今、この最高のツレたち、そしてあの愛おしいモナともう一度生きているのだ。
西日に照らされたグラウンドの裏に、4人の騒がしい笑い声がいつまでも響き渡っていた。そして、夕日の光に包まれながら、楽しそうにバカ騒ぎをする彼らの姿を、モナもまたフェンスの向こうから、愛おしそうに優しく見守っていた。