「うっ……!」
放課後の賑やかな喧騒が残る教室で、翔大は突然、頭が真っ二つに割れるような激痛に襲われ、机に突っ伏した。
こめかみの奥を、熱く焼けた太い針で何度も何度も無慈悲に突き刺されるような未知の激痛。視界がぐにゃりとセピア色に歪み、目の前が不規則に点滅する白い光に包まれていく。
(なんや、これ……頭が、割れる……っ!)
呼吸の仕方を忘れるほどの苦痛の中、強制的に脳裏へ流れ込んできたのは、普通の高校生であるはずの自分が絶対に知る由もない、泥臭く、ひどく現実的な「未来」の残像だった。
満員電車に揺られ、吊り革に掴まるくたびれたスーツ姿の自分。理不尽な理由で上司に頭を下げ、冷たい雨の中で取引先に謝罪の電話をかけ続ける日々。通帳に刻まれた住宅ローンの生々しい残高。そして、いつの間にか会話も途絶え、どこか冷え切ってしまった家庭の重苦しい空気。
――それは紛れもない、50代の冴えないサラリーマンとして過ごしてきた、自分がかつて確かに背負っていた現実の記憶だった。
それと同時に、強烈な精神的恐怖が、冷たい泥のように翔大の心を支配し始める。
(俺は……本当にここにいてええんか……?)
玉田や荻中、村上と過ごす、箸が転がっても可笑しいような騒がしくも愛おしい毎日。そして何より、モナが隣にいて自分を求めてくれる夢のような世界。
だけど、これは一度失ったはずの、あるいは本来の自分には身に余る過去の幻影ではないのか。俺の本質は、あの薄暗いオフィスでペコペコしていた中年のおっさんだ。こんな輝かしい青春の特等席に、泥を塗ったような大人の自分が居座っていていいわけがない。
「俺はここにいていいのか?」という大人の理性が生み出す罪悪感と不安が、10代の純粋な肉体にじわじわと暗い影を落としていく。モノクロの記憶の底へと引きずり込まれ、自分という存在の輪郭がバラバラに溶けてしまいそうだった。
――まさにその時だった。
「ダーリンっっーーー!!」
暗闇とモノクロに染まりかけた翔大の世界を破って、まっすぐな叫び声が響き渡った。
次の瞬間、モノクロだった50代のオフィスや冷たい雨の街並みが、鮮烈なトパーズ色の光によってガラガラと音を立てて崩れ去っていく。殺風景だった視界のすべてに、パッと眩しい色彩が取り戻されていく。
「ダーリン、しっかりするっちゃ……!うちはここにいるっちゃ!どこにも行かないっちゃ……!」
気がつくと、額にひんやりとした、けれど不思議と心の奥までじんわりと温かくなる心地よい感触が触れていた。モナが自分の小さな両手で、翔大の額をそっと、包み込むように触れていたのだ。
翔大が薄く目を開けると、視界に飛び込んできたモナの顔は、見たこともないほど真っ青に強張っていた。大きな瞳には涙が今にもこぼれ落ちそうなほど溜まり、必死に翔大の瞳を覗き込んでいる。
そして、彼女の左手にある不思議な指輪が、柔らかな淡い緑色の光を激しく放ち、翔大の頭へと吸い込まれていくのが見えた。モナが宇宙のテクノロジー――彼女自身の生命力を使って、翔大の苦痛を自分の体へと引き受けようとしているのだ。
「モナ……アホ、やめろ……。指輪、使うな……お前までしんどくなるやろ……っ」
かすれる声で、必死に彼女の腕を押し戻そうとする。だが、モナは頑なに首を横に振り、さらに力を込めて翔大の額を抑えた。
「嫌だっちゃ! ダーリンがこんなに苦しんでるのを、ただ見てるなんて絶対に嫌だっちゃ! うちが、ダーリンの痛いのも、怖いのも、全部半分こにするっちゃ……!」
「半分こって、お前……これは俺の、俺だけの問題や……」
「俺だけの問題なんかじゃないっちゃ! ダーリンの心の中が、すごく寒くて、すごく遠くに行こうとしてるの、うちには分かるっちゃ! 置いていかないでっちゃ!」
モナは必死に、まるで今にも壊れてしまいそうな大切な宝物を扱うように、翔大の体をぎゅっと抱きしめた。
その温もりと必死な声に触れた瞬間、翔大の脳裏に電撃が走った。
この温もりは、ただ「ダーリンが好き」という表面的な甘えからくるものでは決してない。モナは、翔大という人間の魂そのものが深く傷つき、モノクロの孤独の中で迷子になっていることを本能で察知し、自分の身を削ってでも救おうとしているのだ。
(ああ、そうか……。俺は、何を迷ってたんや……)
50代の記憶を持つ自分は、この世界で誰にも本当の正体を明かせず、一生孤独な秘密を抱えて生きていくのだと思い込んでいた。自分が何者なのか分からなくなり、大人の冷めた理性がいつもどこかでブレーキをかけていた。
けれど、この目の前の少女だけは違った。俺の髪に白髪が混じろうが、中身が何歳だろうが、どんなに薄汚れた過去や未来を持っていようが、そんな理屈は全て飛び越えて、ただ「峰川翔大」という今ここにいる存在を、全身全霊で肯定し、モノクロの世界から連れ出してくれたのだ。
モナの根本にある無条件の愛に触れたとき、翔大の胸の奥から、今までにないほど強く、激しい感情が津波のように湧き上がってきた。
それは、過去に戻って「可愛い宇宙人の女の子に好かれてラッキー」というような浅い感情では断じてなかった。一人の男として、この健気で、愛おしく、自分を救ってくれた少女を生涯懸けて愛し、何があっても守り抜きたいという、魂の底から湧き上がる本物の恋の衝動であり、切実な決意だった。
「……ありがとう、モナ。もう、本当に大丈夫や」
翔大はモナの小さな手を優しく包み込むように握り、指輪の光を静かに止めさせた。あれほど激しかった割れるような頭痛は、嘘のようにすっかり消え去っていた。
――だが、その直後だった。
「ふぅ……よかった、っちゃ……」
翔大の痛みを一気に引き受けた反動で、モナの身体からスッと力が抜け、視界が揺らぐように膝から崩れ落ちかけた。角を覆う軟膏のあたりが、一瞬だけピキッと怪しく明滅する。
「モナっ!?」
翔大は咄嗟に腕を伸ばし、倒れ込むモナの小さな身体をガシッと力強く抱きとめた。さっきまでの迷いなど微塵もない、一人の男としての強い腕だった。
「アホかお前は……!無理しすぎやねん……っ!」
「えへへ……ダーリンが、抱きしめてくれたっちゃ……」
翔大の腕の中で、モナは体力を使い果たして少し息を荒げながらも、心底安心したようにふにゃりと頬を緩めた。
「本当に……大丈夫っちゃ?嘘じゃないっちゃ?」
まだ不安そうに、潤んだ瞳で腕の中から見上げてくるモナ。そのいじらしい姿に、翔大の口元に自然と温かい笑みが浮かんだ。翔大は彼女の頭をぽんぽんと、いたわるように優しく撫でた。
「ああ、お前のおかげで、頭の霧が綺麗に晴れたわ。俺が本当は何者で、どこから来たかなんて、もうどうでもええ。俺は、お前が選んでくれたお前のダーリンや。ここに、お前の目の前に、ちゃんとおるよ」
その言葉を聞いた瞬間、モナは張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れたように、わっと翔大の胸に再び顔を埋めた。そして、大粒の涙をポロポロと流して泣きじゃくった。
「よかったっちゃ……!ダーリンが遠くに行っちゃうかと思ったっちゃ……!本当によかったっちゃ……!」
「泣き虫やな、お前は。宇宙一強い癖に」
「もう!ダーリンのせいだっちゃ!」
翔大は照れ隠しに小さく笑いながら、自分の胸の中で泣いているモナの背中を、今度は迷うことなく、しっかりと優しく抱き返した。
放課後の誰もいない教室。窓の外では、燃えるような夕闇が静かに校庭を包み込もうとしていた。
時空のきしみが見せた大人の不安と孤独は、モナの無償の優しさによって、一度は完全に退けられた。しかし、50代の記憶がここまで鮮明にフラッシュバックしたという厳然たる事実は、この幸福で眩しい時間に「いつか終わりが来るのかもしれない」という、目に見えないタイムリミットを静かに告げているようでもあった。
それでも、今の翔大の胸に、もう迷いはひとかけらもなかった。
腕の中にあるモナの確かなぬくもりと鼓動を抱きしめながら、翔大は、この愛おしい少女と共に、この一瞬の青春を全力で生き抜くことだけを、心の奥底で強く、熱く誓っていた。