『青春の星空』   作:幾星 巡

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第2話:運命はラム色に染まる

「私の、服は……どこ?」

 

何かを思い出したようにハッと我に返った彼女が、たどたどしい日本語で訊ねてきた。

 

「あ、ここにあるけど……。ほら、昨日の嵐で血と水滴がついてびしょびしょやで」

 

翔大が差し出すと、彼女はひったくるような勢いでそれを受け取った。

 

その瞬間、信じられないことが起きた。

 

彼女が手にした途端、衣服の表面がサイバーな淡い光を放ったかと思うと、染み込んでいた水分やピンク色の血痕が、ジュワッと音を立てて霧のように蒸発したのだ。一瞬にして、クリーニングしたてのように完全に乾いている。

 

(……これが宇宙の超技術!? 嫁の洗濯の手間、一瞬で終わるやん!)

 

驚愕する翔大をよそに、彼女はベッドの布団を器用に巻きつけ、モコモコと芋虫のように蠢うごめきながら、素早くその獣の皮のような衣服を身にまとった。

 

服を着終えた彼女は、何かを値踏みするような、じっと強い視線を翔大に投げかけてきた。部屋の中に、ゴクリと唾を飲み込む音が響くほどの、重く張り詰めた沈黙が流れる。

 

ぽつり、と彼女が口を開いた。

 

「……見たの?」

 

「えっ?」

 

「私の、裸……見たの?」

 

真っ直ぐに核心を突かれ、翔大の心臓が跳ね上がった。みるみるうちに額から滝のような冷や汗がにじみ、脇の下を嫌な汗が伝う。

 

「な、何も変な下心は出してへんよ! 信じてや! 仕方がなかったんや、血がいっぱい出てたし、早く手当てせなあかんと思って、こっちは必死のパッチやっただけで……!」

 

翔大が両手をワイパーのように振って必死に弁解すると、彼女はベッドから身を乗り出し、顔が触れそうなほどの至近距離で彼の目をじーっと見つめてきた。トパーズのような大きな瞳に、50代男の必死な顔が映り込む。彼女の瞳が、翔大の嘘偽りのない誠実さを確かめるように、じわじわと潤んでいった。やがて、彼女はふっと張り詰めた表情を和らげ、ぽろぽろと零れ落ちそうな笑みを浮かべて語り始めた。

 

「私の星では……自分の裸を最初に見せた人が、一生涯のパートナー、すなわち『旦那様』になるというしきたりがあります」

 

「ええっ……!?」

 

「だから……あなたは、私の旦那様になるお方になりました」

 

あまりの急展開に、翔大の脳細胞は完全にショートした。

 

「ちょ、ちょっと待って! 見ようと思って見たわけやないし、そもそも俺、結婚しとるし! 歳の差だって親子ほどあるんとちゃうか……!?」

 

焦り狂う翔大の言葉を遮るように、彼女は潤んだ瞳で上目遣いに彼を見つめた。そして、慈しむような優しさを湛え、この世のものとは思えないほど甘く美しい声で、ぽつりと呟いた。

 

「あ・な・た……」

 

「お、おうっ!? あ、あなた!?」

 

「私は、あなたと一生涯、一緒……」

 

「待って、ちょっと待って! 刺激が強すぎて50代の心臓が持たへん!」

 

翔大が両手を突き出して止めようとした、まさにその時だった。彼女がふわりと、まるで重力を忘れたかのように軽やかにベッドから跳ね起き、翔大の胸に思い切り飛び込んできた。

 

「うわあぁっ!」

 

ドサリと床に仰向けに倒れ込む。腕の中にすっぽりと収まったその体のぬくもりは、驚くほど温かかった。それどころか、かすかに甘い、地球のどの香水とも違う魅惑的な花の香りが鼻腔をくすぐり、50代のおっさんの加齢臭漂う狭い寝室が、一瞬にして異世界の甘美な空気で満たされていく。トク、トク、トク――と、彼女の小さな心臓の鼓動が、翔大の胸板を通してダイレクトに、そして愛おしく伝わってきた。

 

しかし、至近距離でその瑞々しい肌やきらめく瞳を見つめているうちに、翔大の脳裏にふと、現実的な疑問が湧き上がってきた。

 

(……待てよ? この子はいったい何歳なんだ?)

 

「あの、さ……ちょっと聞いてもええ?」

 

翔大は腕の中の彼女を少し引き離し、戸惑いながら尋ねた。

 

「君、見た目めちゃくちゃ若いけど……何歳なん?」

 

すると彼女は、不思議そうに首を傾げた。

 

「え? 私はまだ1203歳です。地球の数え方だと、だいたい17歳くらいかな?」

 

「せ、千二百ぉ!?」

 

翔大の裏返った悲鳴が寝室にこだました。17歳の70倍近い。

 

「私の星、『リコールヌ』の人間の平均寿命は、だいたい18〜20万歳ですから。1200歳なんて、まだまだ子供の扱いですよ」

 

「じゅう、はちまん……」

 

絶句する翔大を置き去りにして、彼女は人懐っこい笑顔のまま、屈託なく話を続ける。

 

「宇宙は広いですから、星によって時間の流れは全然違うんです。逆に、お隣の銀河にある別の星の住人の方なんて、平均寿命が10歳くらいしかないんですよ。生まれてから死ぬまでがすっごく早くて、毎日が超お祭り騒ぎなんです!」

 

「10歳! ランドセル背負ってる間に一生が終わるんか……!」

 

宇宙のあまりのスケールの違いに、翔大の常識は音を立てて崩壊していく。18、9万歳から見れば、地球の人間の50年なんて瞬きの一瞬、いや、ほんの微塵のような時間でしかない。いや、それとも時間の感覚や概念が地球のものとはまったく違うのだろうか…

 

と、その時だった。

 

彼女の指にはめられた指輪が、不意に怪しい赤と紫の光を不気味に明滅させた。

 

――ピピピピ……警告。局所的時空軸に深刻な歪みを検知。

 

「ん……? 今なんか不穏なエラー音みたいなのが聴こえへんかったか?」

 

翔大が首をかしげると、彼女は一瞬だけ表情を強張らせ、慌てて指輪を背中に隠すようにして「な、なんでもありません! ちょっとしたノイズです!」と無理な笑顔でごまかした。しかし、指輪から漂うどこか歪な波動は、彼女が単に「宇宙から落ちてきた」だけではない、もっと大きな運命のバグを予感させていた。

 

さらに、追い打ちをかけるように、翔大のスマホが卓上で「ピコン!」と甲高い通知音を鳴らした。

 

何気なくスマホの画面を覗き込んだ翔大は、一瞬で顔面蒼白になった。LINEの画面には、東京に行っているはずの妻の清子から、悪魔のようなメッセージが届いていたのだ。

 

『予定が変わって、明日の夜には帰れそう! パパ、部屋の換気と掃除よろしくね』

 

「う、うわあああああああッ!? 嫁が明日帰ってくるぅぅぅ!?」

 

頭を抱えて発狂する翔大。窓ガラスはバリンバリンに割れ、床には謎のピンクの血痕の拭き残しがあり、何より目の前には獣の皮を着た1200歳の角生えた美少女宇宙人が「あ・な・た♡」と微笑んでいる。修羅場なんてレベルではない。地球滅亡レベルの危機が、50代サラリーマンの自宅に迫っていた。

 

しかし――そんな大混乱と絶望の渦中にありながらも、腕の中の、1200歳の柔らかくて確かな温もりを感じているうちに、翔大の脳裏には強烈な記憶の断片がフラッシュバックしていた。

 

それは、彼がまだ高校生だった頃の思い出。当時、翔大は『うる星やつら』というアニメに、文字通り狂うほどハマっていた。毎週テレビにかじりつき、主人公・諸星あたるのセリフを真似したり、彼の調子の良い生き方に憧れたりしていた。

 

あの頃の翔大は、このアニメを単なるフィクション、液晶の向こう側の作り話だとは思っていなかった。

 

「この広い宇宙のどこかには、きっとラムちゃんみたいな可愛い宇宙人の女の子が本当にいて、いつか俺の前にも降ってくるんじゃないか」

 

大真面目に、本気でそう信じていたのだ。

 

毎晩、寝る前には必ず窓を開けて星空を見上げ、「UFOは飛んでいないか」と暗闇を探してから床に就く――そんな、痛々しくも純粋で、愛おしい青春の日々。

 

それから大学へ進み、社会人になり、日々の忙しさに追われる中で、いつしかそんな青い感情は心の奥底に埋もれていった。結婚し、子どもが生まれ、家族のためにただ満員電車に揺られ、頭頂部を気にしながら働く「冴えない50代のサラリーマン」になった。時折、ふと夜空を見上げてセンチメンタルな感傷に浸ることはあっても、それはとうに忘れたはずの「おっさんの昔話」――誰もが年齢と共に折り合いをつける、ただの現実の妥協のはずだった。

 

それが、まさか、この歳になって現実にこんなことが起きるなんて。

 

しかし考えてみれば、おかしな話だった。俺たちはいつから、「物語」と「現実」に境界線があると錯覚していたのだろう。スマホの画面で小説を読み、アニメを観て、「こんなこと現実にあるわけない」と笑う。だが、その画面から目を上げた瞬間、窓の向こうに広がるリアルな夜空の、その2400光年先にある真実を、俺たちは何一つ知らないのだ。

 

そういえば、と思い出す。高校2年生の夏、今は亡き母が、茶の間で煎餅を食べ、麦茶を飲みながらしみじみとこんな話を切り出したことがあった。

 

『翔大、お母さんな、実はUFO見たことあるんよ。この家の上空にな、黒くて丸い形をした不気味な物体が、くるくる回りながら浮いててな……。何かレーザーでも撃ってこんかと、生きた心地がせんかったわ』

 

あの時、翔大はたまたま外出していてその瞬間を見ていない。「またおかんの妄想が始まったわ」と笑い飛ばしていたが、あれは妄想なんかじゃなかった。母は、世界の境界線がほんの少しバグって、向こう側が剥き出しになった瞬間を、この家で確かに目撃していたのだ。本当にこの空は、あの頃から宇宙と、そして彼女と繋がっていた。

 

数十年の時を超えて、点と点が出会う。高校生の頃の淡い夢。母親の目撃談。指輪が告げた時空の異常。そして、目の前で自分を「あ・な・た」と呼んで腕の中で甘えている、角の生えたとびきりキュートな異星の少女。

 

窓から差し込む鮮やかな朝の光の中で、翔大の心は、かつて星空を見上げていたあの少年の頃の輝きを、激しく、そして熱く取り戻そうとしていた。

 

おっさんの止まっていた青春の歯車が、いま、凄まじい勢いで回り始める。

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