「今日の夜は地元で夏祭りがあるだがん。みんなで行くか?」
旅行から戻って数日後。うだるような熱気が満ちる放課後の教室で、荻中がスマートフォンの画面を見せながら興奮気味に声をかけた。どうやら地元の大きな花火大会を兼ねた、地域最大規模の夏祭りがあるらしい。
「行くピー!秒で行くピー!」
村上が真っ先に大はしゃぎで声をあげ、机を両手でバンバンと叩いた。
「夏祭りの屋台の焼きそばと唐揚げは、わしの無限の胃袋がすべてを支配するピー!誰にも一口もやらんピー!」
「ちみは旅行の時も海の家でイカ焼きを目の色変えて奪い合ってたでしょ!」
玉田が呆れ顔で突っ込み、深いため息をつく。教室はいつもの賑やかな笑い声に包まれた。もちろん、翔大とモナも異論はあるはずがなく、二つ返事で参加を決めた。
そして迎えた、夏祭りの夜。
神社の境内へと続く長い参道は、色とりどりの提灯に妖しく照らされ、浴衣姿の見物客の熱気と出店の香ばしい匂いで溢れかえっていた。ソースの焦げる匂い、甘いあんず飴、パチパチとはじける木炭の煙。
人混みの向こう、夜空の奥からドーン、ドーンと地響きのような重低音が響き渡り、大輪の花火が夜空を彩り始める。
「うわぁ、綺麗だっちゃ……!」
隣を歩くモナが夜空を見上げて目をキラキラと輝かせた。
その姿を間近で見た瞬間、翔大は完全に言葉を失い、心臓がバックバクに跳ね上がるのを止められなかった。
いつもはお転婆に動き回るモナが、今夜はしっとりとした深みのある藍色の浴衣に身を包んでいた。浴衣の生地には白い朝顔の柄があしらわれ、モナの神秘的なラム色の髪と、驚くほど白い肌をこれ以上ないほど鮮やかに引き立てている。いつもと違って綺麗にアップにまとめられた髪からは、少し照れたように赤くなった耳たぶと、色っぽいほどにすっきりとしたうなじが覗いていた。
歩くたびに浴衣の裾からチラリと見える白い足首や、慣れない下駄の音をカランコロンと響かせる様子は、お祭りの喧騒さえも一瞬で遠ざけてしまうほど圧倒的に可憐だった。中身が50代の男だろうが関係ない。その破壊的な眩しさに、翔大は直視することすらできなくなっていた。
「本当、すげぇじゃん!やっぱり日本の夏は花火だからさー!」玉田が感心したように声を張り上げる。
「モナちゃん、あっちにりんご飴あるがん!俺が奢ったるで!」荻中が鼻息荒く人混みをかき分けて進もうとし、それに村上も続く。
「わしもチョコバナナが食べたいピー! 玉プィー、早く行くピー!置いてかれるピー!」
村上が玉田のシャツの裾を指先でツンツンと引っ張る。
「うわっ、引っ張るな村上!暑苦しい!」
抵抗する玉田だったが、結局は荻中と村上の勢いに巻き込まれ、3人組は早くも屋台の誘惑に負けて人混みの奥へと猛進していってしまった。
「おい、お前ら待てや! はぐれるぞ!」
翔大が呼びかけるが、時すでに遅し。すれ違う浴衣の波に遮られ、3人の頭はあっという間に見えなくなってしまった。
周辺はさらに混雑を極め、前を歩く人の背中しか見えないほどのすし詰め状態になる。右から左から押し寄せる人々の波。すれ違いざまに知らない男たちの肩がぶつかり、強い波に圧されるようにして、翔大とモナの距離がじわじわと離れそうになった。
(アカン、ここでモナを見失ったら絶対に探せへん……!)
50代の大人としての焦燥感と危機感が、17歳の若い肉体を突き動かした。翔大はごった返す人波に必死であらがい、伸ばした右手で、モナの小さくて柔らかい左手を掴んだ。壊れ物を扱うように繊細に、けれど絶対に離さないという強い意志を込めて、必死でギュッと握りしめた。
「ダーリン……っ」
驚いたように、モナが大きな瞳を丸くして翔大を振り返る。
繋いだ手のひらから、モナの少しひんやりとした、けれど確かな体温がじんわりと翔大の手に伝わってきた。翔大は人混みの中で肩で息をしながら、モナの顔をじっと見つめた。
「悪りぃ、すごい人やから……。絶対に、その手、離したらアカンぞ」
その時、向こうから歩いてきた数人のガラの悪そうな男たちが、浴衣姿のモナを卑しい目つきでジロジロと眺め、距離を詰めてこようとした。
前日譚である砂浜での無力感が、翔大の脳裏をよぎる。あの時は何もできなかった。だが、今は違う。
翔大は繋いだ手を引いて、モナの身体を自分の背後へとグッと引き寄せた。そして、50代の社会人として数々の修羅場を乗り越えてきた大人特有の、腹の据わった鋭い眼光で男たちを無言で睨みつけた。高校生のハッタリではない、年輪の刻まれた内面から漏れ出る本物の「凄み」に気圧されたのか、男たちは「チッ、なんだよ……」と舌打ちをして退散していった。
背後でそれを見ていたモナが、ポッと顔を赤くして翔大を見つめる。
「ダーリン……さっきの、とっても格好よかったっちゃ……!」
嬉しそうに身を寄せてくるモナに、翔大は照れ隠しに近くの露店を指差した。
翔大が露店で買い与えたのは、モナが興味津々に見ていた可愛らしい狐のお面だった。モナはお面を受け取ると、嬉しそうにそれを自分の頭の横へとずらして引っ掛けた。白と赤のお面が、アップに結ったモナの美しい髪型と、艶やかなうなじのラインをいっそう引き立てる。
「ダーリン、似合ってるっちゃ?」
少しはにかみながら首を傾げるモナの破壊力に、翔大はまたしてもドギマギして言葉を詰まらせた。
そんな二人の頭上で、――ドォン!と夜空にひときわ大きな、金色のしだれ柳の花火が咲き誇った。無数の光の尾が夜空を覆い尽くし、周囲をまるで昼間のように明るく照らし出す。
その強烈な光が降り注いだ、まさにその瞬間だった。
モナが肌身離さず持っている『不思議な指輪』が、夜空の花火の光と共鳴するように、一瞬だけ怪しく、けれど美しくピカッと明滅した。
光に浮かび上がったモナの顔を見て、翔大は胸が張り裂けそうなほどドクリとさせられた。
「離しちゃダメだっちゃ、ダーリン」
そう言ったモナの曇りのない、綺麗な瞳の奥。
そこには、いつも通りの嬉しそうな輝きだけではなく――なぜか、胸がキリキリと痛むような、深い哀しみが宿っていたのだ。
モナは、光を放った指輪を愛おしそうに見つめ、混雑の騒音と次の花火の破裂音にかき消されそうなほど小さな声でぽつりと呟いた。
「この指輪が、ダーリンと繋いでるこの手を、ずっと離さないようにしてくれたらいいのに……。うち、ダーリンとずっとずっと、一緒にいたいっちゃ……」
夜空の花火の光は数秒で儚く消え去り、周囲は再びお祭りの濃い影へと戻る。けれど、光の中でモナの瞳が見せたその一瞬の哀しみが、残像のように翔大の脳裏に焼き付いて離れなかった。
(モナ……? なんでそんな、今にも消えてしまいそうな目をしてるんや……?)
以前、激しい頭痛に襲われた時のことが脳裏をよぎる。あの時感じた、「この幸せはいつまで続くのか」という大人の不安。
モナの瞳に宿ったあの切ない哀しみは、まるで翔大の予感が端的に的中しているかのように、二人の間に横たわる「見えないタイムリミット」を静かに物語っているようだった。遠い星から来た少女と、時間を逆行してきた男。この歪んだ奇跡のような日常の終わりを、モナも予感しているのだろうか。
「モナ……」
翔大は何も言えなかった。大人の言葉をいくら尽くしても、未来の約束などできないことを知っているからだ。だから翔大は、ただ繋いだ手のひらに、さらにギュッと強烈に力を込めた。言葉の代わりに、自分の全霊を込めるように。
中身が50代だろうが、この世界がどれほど歪んでいようが、今、この手の中にある温もりだけは間違いなく本物だ。それだけは、誰にも奪わせない。
――と、その時。
「みねピーーーーっ!モナちゃーーーんっ!!どこにいるピーーーッ!!」
お祭りの喧騒を切り裂くように、聞き覚えのある絶叫が響き渡った。 見れば、大量の屋台の食べ物(焼きそばのパック、チョコバナナ、そして巨大なわたあめ)を両手に抱え、完全に両手が塞がれた状態で涙目になりながら突撃してくる荻中と村上の姿があった。その後ろから、やれやれと呆れ顔の玉田がのそりと歩いてくる。
「お前ら……どんだけ買い込んでんねん!」
「いやぁぁー!人混みがすごすぎて、気づいたら屋台の魔力に引きずり込まれて身動きが取れなくなってただがん!!」
「わしもチョコバナナを死守するので精一杯だったピー!」
突然のツレたちの登場に、モナは「ふふっ……!」と声を上げて可笑しそうに笑った。
モナの心の奥にあった切なさが、彼らの相変わらずなドタバタ劇によって嘘のように吹き飛んでいく。
「まったく、相変わらず賑やかな奴らやで……」 翔大が苦笑いを浮かべると、モナはいたずらっぽく笑いながら、「でも、こういうところは地球もうちの星も同じみたいで、なんだか温かいっちゃね」と嬉しそうに頷いた。
やがて、夏祭りの終盤。 さんざん歩き回ったあと、慣れない下駄の鼻緒が擦れたのか、モナがふと足を止めて、痛そうに小さく「うっ……」と息を漏らした。
「モナ? どうした、足痛いんか?」
「うん、もう少しだけ頑張るっちゃ……!」と言い張るモナだったが、一歩踏み出した拍子にバランスを崩してよろめいてしまった。
翔大は迷わずモナの前にしゃがみこみ、自分の背中を差し出した。
「ほれ、乗れや。これ以上歩かせたら、明日足が使い物にならんで」
「えっ……!ど、どうしよう、恥ずかしいっちゃ……!」 顔を真っ赤にしてモナが戸惑うと、遠くでアイスを食べていた荻中たちが「おっ!? 峰川、それずるいぞー!」と野次を飛ばそうとする。 「お前らうるさい、こっち向くな!」と翔大が睨みつけるふりをすると、「ひっ、峰ピー、鬼の形相で怖いピー!」と村上たちは慌てて目を背けた。
「ほら、早よ乗れ。遠慮せんでええから」
「う、うん……じゃあ、ちょっとだけだっちゃ……」
モナは恐る恐る翔大の背中に腕を回し、ふわりとその体を預けた。夜風に乗って、モナの髪から甘いシャンプーと夏の香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
「ダーリンの背中、すごく広くて温かいっちゃ……。ここからずっと、世界の果てまで連れて行ってほしいくらいだっちゃ」
「あぁ、どこへだって連れていったるわ。……やけど、重てーなー」
「あっ、ダーリン、『重い』って言ったぁー!もう、もう!」
モナが恥ずかしそうに翔大の肩をパタパタと両手で叩く。
「アハハ、冗談冗談!」と翔大が大笑いすると、モナは少し頬を膨らませながらも、嬉しそうにふっと柔らかく微笑んだ。
「……ダーリンのいじわる。でも……もう絶対はなさないっちゃ」
そう言いながら、モナは恥ずかしさと愛おしさが入り混じった顔で、翔大の背中にぴたりと顔をくっつけた。背中越しに伝わってくるその温もりは、世界で一番優しくて確かなものだった。
ツレたちの賑やかなやじや、遠くで再び打ち上がる終わりの花火の音を背中に聞きながら、翔大はモナを優しくおぶったまま、夜道をゆっくりと歩き出した。 二度目の青春の熱と、切ない予感を乗せて、夏の夜は静かに、けれど深く更けていくのだった。